2018年2月19日月曜日

死者のための祈り (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2018年2月18日 四旬節第一主日

創世記9章8節-17節
ペテロの第一の手紙3章18-22節
マルコによる福音書1章12-13節

説教題 死者のための祈り


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

今日の福音書の日課はマルコ11213節、イエス様が荒野で悪魔から試練を受けてそれに打ち勝った出来事についてです。マルコ福音書ではたったの2節の記述ですが、マタイ福音書とルカ福音書では詳細に記されています。この出来事については、3年前の四旬節第一主日の礼拝説教で詳しく解き明しました。今回読み返してみて、特に変更することもないので、今日は使徒書の日課をもとに説教をしていこうと思います。(イエス様の荒野の試練について興味ある方は当教会ホームページの過去の説教をご覧ください。2015222日付です。)

 本日の使徒書の日課に定められているのは第一ペトロの318節から22節までですが、実は46節までひとまとまりになっています。それで先ほど併せて読んで頂きました。どのようにひとまとまりかと言うと、318節と19節はキリスト信仰者の間で唱えられていた決まり文句を引用したものと考えられています。20節以下でペトロは、引用した文句をもとに教えを述べています。それでは、18節と19節が決まり文句だとどうしてわかるのか、と言うと、聖書の研究者たちがギリシャ語の原文を再構成した時にそう見なしたからです。ギリシャ語のテキストでは、この2節は段落を下げて書かれています。

第一ペトロ318節から46節には、聖書を読む者を驚かせることが書いてあります。イエス様が十字架で死なれてから復活するまでの二晩三日の間、死者のいるところに行って、そこで福音を宣べ伝えたということです。319節「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。46節ではもっとはっきりと、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」

 死んだ者たちが「神との関係で霊において生きるようになるため」に彼らにも福音が告げ知らされた、と言う。それは、生前イエス様の十字架と復活のことを聞かなかった人でも死んだ後で告げ知らされるので神と関係を持って生きられるようになる、ということなのか?それでは、この世でクリスチャンでなくてもみんなあの世でクリスチャンになれて天国に行けるということなのか?ペトロはもちろん、そんなことは言っていないのですが、それではどうしてそう聞こえるような書き方をするのか?一体ここはどんな意味なのか?これから、それを見ていこうと思います。

 第一ペトロは語学的にも内容的にも難しい文書です。大学の神学部で勉強していた時、使徒書簡の原文講読を受講したのですが、パウロ以外の書簡の担当は歴史言語学の専門家でした。そのような方でも、ペトロとヤコブは大変だぞ、覚悟して受けなさい、と言っていたのを思い出します。(個人的には第二コリントが使徒書簡で一番大変だったと記憶しています。もちろん、ペトロとヤコブも難しかったですが。)そういうわけで、今回の説教で十分な解き明しが出来ないかもしれません。疑問や課題が残るかもしれませんが、とにかく最善を尽くしてまいりたいと思います。

2.死と罪に対する勝利が陰府にも響き渡り、真理として打ち立てられた

まず、ペトロが引用した、キリスト信仰者の間で流布していた決まり文句です。318節と19節です。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」

 ペトロはどうしてこの文句を引用したのかと言うと、直前の317節まで、キリスト信仰者の倫理的な課題について述べていました。その課題が現実の壁にぶつかった時の励ましの言葉として引用したのです。倫理的な課題とは何か、と言うと、キリスト信仰者たる者は常に善を追い求めよ、悪が襲ってきても、それと同じ手口を使うな、あくまで善に留まるべし、とペトロは勧めます。キリスト信仰者は損することを覚悟で善に留まる、変な奴らだと思われるかもしれない。それで、お前たちは一体何に希望を置いているのだ、と聞かれるかもしれない。その時は、穏やかに敬意を持って、やましさのない良心を持って説明しなさい。そうすれば、キリスト信仰者の生き方を罵った者たちは恥じ入ることになるだろう。いずれにしても、善を行って苦しむことが神の御心なら、その方が悪を行って苦しむより良いことなのだ。苦しみが伴うからといって、善をすることを恐れてはならない。ここでペトロは「なぜなら、イエス様がまさにそうだったのだから」とたたみかけて、決まり文句を引用するのです。新共同訳では「なぜなら」はありませんが、ギリシャ語原文にはあります。

 決まり文句の最初の18節では、イエス様が受けた苦しみが何のための苦しみであったかが述べられます。神から見て罪びとにしかすぎない人間、罪のゆえに神の義を持てない人間、こんな人間が罪を赦されて神の義を得ることが出来るために、イエス様は途轍もないことをして下さった。神聖な神のひとり子でありながら、人間の罪を全て自分に覆い被せて、それを十字架の上にまで運んで、そこで神の罰を人間の代わりに受けて死なれた。このイエス様の身代わりの犠牲のおかげで、神から罪の赦しを受けられる道が人間に開かれた。イエス様を救い主と信じて受け入れれば、罪の赦しを受けられるようになった。罪の赦しを受けた人間は神聖な神の前に出されても、イエス様のおかげで、私にはやましいところはありません、と言えるようになった。この「イエス様のおかげで」ということがある限り、人間は、これからは生き方を改めよう、罪を忌み嫌い、神の意思に沿うように生きよう、という心が芽生える。それは、たとえ善を行うことに苦しみが伴おうとも、神の御心ならば、そうしよう、という心である。このように、イエス様を救い主と信じて受け入れると、結果として心の入れ替わりが伴う。イエス様の十字架の死の重みを知れば知るほど、心の入れ替わりも一層揺るがないものとなり、古い生き方はもうあきらめて追いかけて来なくなります。

 18節の「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」というのは、イエス様は肉体の面では死なれたが、霊の面では生きる者にされた、ということです。具体的に言うと、十字架にかけられて死なれたが、三日後に天地創造の神の力で復活させられて、もう普通の肉体の体ではなく復活の体を持つ、霊的な存在として生きる者になった、ということです。イエス様の死と復活が何をもたらしたかと言うと、イエス様が人間の罪を全部引き受けて罰を受けたので、罪にはもう人間を罰に定める力はなくなりました。罪は、人間を永遠の死に陥れる力を失ったのです。もちろん、罪は人間に残るのですが、イエス様を救い主と信じて受け入れていれば、干からびた虫けらのようになっていて、人間を永遠の死に追いやる力はない。しかも、イエス様が死から復活されたおかげで、永遠の命への扉が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じて受け入れた人間は、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むようになります。死から復活されたイエス様と繋がっていれば、神聖な神の前に出されても大丈夫でいられます。18節の「神のもとへ導く」と言うのは、「神の前に出されても大丈夫な者に変えて神のもとへ連れて行く」ということです。

 決まり文句の後半である19節を見てみます。「霊において、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」これは、イエス様が十字架の死の後、三日後に復活するまでの間、陰府に下った、ということです。このことは、伝統的なキリスト教会の礼拝で唱えられる使徒信条の中でも言われています。(「霊において」は訳が違うと思います。英語訳NIVとドイツ語ルター訳はこの訳でいっていますが、ドイツ語共同訳とスウェーデン語訳とフィンランド語訳はそう訳していません。ギリシャ語原文のこの箇所εν ωは接続詞句と見るべきです。「霊において」という訳ならば、ここはωでよかったと思います。)

陰府というのは、死者が眠りにつく場所です。よく誤解されますが、炎の地獄とは異なります。キリスト信仰は聖書に基づけば、死者の復活と最後の審判というものがあります。それで、亡くなった方は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて眠りにつきます。「陰府」と言うと、暗い陰気な感じがしますが、これは人間が墓に葬られるのでどうしても地下のイメージで描かれるからでしょう。しかし、地面をいくら掘っても、死者が眠っている世界など出て来ませんから、これは天の御国と同じように、私たちの五感や科学的な数値では解明できない次元・空間です。ルターは、痛みや苦しみから解放された、復活の日までの心地よい眠りの時と言っています。いずれにしても、神のみぞ知る場所としてしか言いようがありません。復活の日が来ると復活させられて、神の審判を受けて、天の御国に迎え入れられるか、炎の地獄に投げ込まれるか、決定が下されます。他方で聖書には、復活の日を待たずして神の御国に迎え入れられたと理解できる人物もいます(エノク、エリア、モーセも?)。しかし、基本はあくまで復活の日までは眠りにつくということです。

イエス様は、十字架の死の後、復活までの間、陰府に下り、そこで「宣教しました」。「宣教した」と言いますが、イエス様は陰府で何を教えたのでしょうか?それは、神のひとり子の犠牲の死と死からの復活が起こった、ということ。そして、そのおかげで人間を永遠の死に陥れようとする罪は力を失い、人間に対して永遠の命の扉が開かれた、ということです。つまり、亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられた、ということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。

 ペトロは、決まり文句の引用を終えると、陰府の中にいる、「捕らわれていた霊たち」が何者かを解き明かします。それは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です。どうして急にノアの箱舟のことが出て来るのでしょうか?それは、イエス様の時代のユダヤ教社会の人たちの関心事の一つとして、ノアの箱舟の時代に洪水に流されて滅んでしまった者たちは今どうしているか、ということがあったのです。どうしてそんなことが関心事としてあったとわかるのか、と言うと、当時ユダヤ教社会に出回っていた書物の中にそのことが書かれていたのです。(エノク書という書物にあったと思います。大学の神学部時代に「黙示主義思想」の講座があって、そこでエノク書をはじめ、死海文書などを読みました。ただ10年以上も前の話なので、もうはっきり覚えていません。本も手元にないので、記憶に頼るだけですが、ここでは詳しく立ち入る必要はないと思います。)

創世記6章にあるように、ノアの時代、この世の状態は非常に悪く、悪が蔓延していた。「神の子」らが人間の娘たちと交わって子供を産み、そのような人間がどんどん増えていくことが言われています。この「神の子」というのは実は、天使の中でも悪い方の天使、つまり悪魔の側につく天使と理解されていきます。とにかく、この世は一気に悪が蔓延してしまった。それで神は全てのものを一掃してしまおうと大洪水を起こすことを決めた。どんな悪が蔓延したかは創世記6章には具体的には述べられていません。ただ、後のアブラハムの時代にソドムとゴモラの二つの町が悪のゆえに天から火を浴びせられて滅んだのを思えば、少なくとも同じような悪がもっと広範囲に行われていたのでしょう。その大洪水で滅ぼされた者たちの霊が「捕らわれた霊」です。そのような、既にこの世にいない悪のところにまでイエス様は行って、死と罪に対する勝利を告げ知らせたのです。こうして、死んだ者が復活の日を待っている陰府にも、勝利が響き渡り打ち立てられました。悪はもう、陰府でさえも力を持てなくなりました。22節に「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服している」と言われている通りです。「権威」「勢力」というのは、霊的なものを意味します。

 陰府にもイエス様の勝利が響き渡って打ち立てられ、悪が力を発揮できなくなったとすれば、それでは、大洪水で滅んだ者たち以外の霊、つまり普通の死者たちはどうなるのか、そのことが4章の6節で出て来ます。それについては後で見て行きます。

 「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。洗礼は、肉に汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」この世に悪が蔓延した時にあっても、それに追従せずに神の意思に沿うように生きたノアとその身内の者が生き残りました。「水の中を通って救われた」と言うのは、悪に巻き込まれることから救われた、しっかり神の意思に留まった、ということです。ノアたちを巻き込もうとした悪は大洪水で滅ぼされた。それで水がノアたちを救った、ということになります。

これと同じようなことが、洗礼でも起きます。洗礼を受けることで、人間は死と罪の力を無力にした復活の主イエス様に結びつけられます。このように洗礼の水は、人間を永遠の滅びに陥れる悪から救い出します。21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めること」と言われますが、その通り、洗礼を受けても人間には罪は残ります。もちろん、それは力のない、干からびたものですが、それでも汚れは残ります。そこで大事になってくるのは、毎日、罪の赦しの中に留まって、心の入れ替わりが揺るがないようにすることです。そうしないと干からびたものが命を吹き返してしまうからです。罪の赦しの中に留まって心の入れ替わりをしっかり保つことが出来たら、いつの日か神の前に出されても、イエス様のおかげでやましいことはありません、と言うことが出来ます。「神に正しい良心を願い求めること」というのは、正確に言うと、洗礼というものは、そういう潔白な良心を全身全霊で希求するように人間を変えるものということです。

3.全ての空間、次元に福音が告げ知らされた以上、死者にも知らされている

以上、洗礼を受けることで人間はイエス様に結びつけられて、悪から守られ、神の前で潔白な良心を持った者になれる、ということがわかった段階で、ペトロは41節で悪に怯んではならない、苦しみをもたらしても善をすべき、という倫理的課題に戻ります。イエス様も苦しみを受けたのだから、我々も同じ心構えでなければならない、と言います。ただし、イエス様と同じようにしなければならないと言っても、それは、憧れの人とか尊敬する人が辿った道を自分も辿ることでその人に近づける、自分もその人のようになれる、ということとは違います。既にみたように、イエス様はこの地上にも、また陰府にも死と罪に対する勝利を響き渡らせ打ち立てられた。しかも、悪い力は全てイエス様に服従するだけで、彼に対しては何の力も及ぼせない。キリスト信仰者はこれだけ完璧に守られている環境の中にいる。そうなると、善をすることが苦しみをもたらすとしても、その苦しみはどこかでイエス様の力で牛耳られていて本当に自分を支配する力はないとわかります。それがわかれば、その苦しみを受けて立つことはさほど大変なことでなくなります。そういうことだと思います。逆に、もし苦しみを受けて立たないのなら、せっかくイエス様が犠牲を払ってもたらしてくれた完璧な環境を放棄してしまうことになります。とにかく、中傷や迫害に対しては、そういう心構えで臨みなさいということが44節まで言われます。

5節に入って今度は、それでは中傷や迫害をする者たちはどうなるのか、ということが言われます。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」その者たちは最後の審判の日に、神に対して、自分たちの行ったことや生き方について会計報告をしなければならない。ここはプラスでした、ここはマイナスでした、と。しかし、人間の髪の毛一本まで数えておられる神は全てをご存知です。虚偽の報告はすぐばれてしまいます。神の前で何も隠し事はできません。

 次の6節が要注意箇所です。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」なんだかわかりそうでわからない文章です。こうなるともう、ギリシャ語の原文を見た方が分かりやすいです。

出だしにあるギリシャ語のある語句(εις το)をどう訳すかによって違いが出て来ます。英語訳NIVとスウェーデン語訳とフィンランド語訳は、「そのために/それゆえに、死んだ者にも福音が告げ知らされた」となっています。それでは、なんのために/なにゆえに、死んだ者にも福音が告げ知らされたのか?それは、前の5節に言われていた、神は生きている者だけでなく死んだ者をも審判にかける、それゆえ死んだ者にも福音が告げ知らされたのです。イエス様のことや福音を告げ知らされなかった人がこの世を去って最後の審判の日を向迎える時、神から「お前はわが子イエスが命と引き換えにもたらした罪の赦しを受け取らなかった。だから天の御国には入れない」などと判決を受けるのは理不尽です。聞いてもいないのに、そんなこと言われても困ります、としか言いようがありません。それで、審判にかける以上は、みんな同じ立場、福音が告げ知らされたという立場に置かれなければならないのです。

 6節を続けて見ていきます。新共同訳は、「彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」と言っています。この訳はどうでしょうか?死んだ者に福音が告げ知らされたのは、永遠の命に与って生きられるためであったと、告げ知らせたら、それでもう救われると受け取られかねない書き方です。しかし、原文は、死んだ者に福音が告げ知らされたのは、二つの目的のためだとはっきり言っています。一つは、この世で肉体を持つ人間と同じように審判を受けるためという目的、もう一つは、神と同じように霊的な者として生きるためという目的の二つです。このように、審判を受けるという目的と永遠に生きるという目的の二つがはっきりあります。新共同訳は、永遠に生きるという目的だけです。審判を受けるという目的はメルトダウンしてしまっています。そんな訳では、死んだ者は皆救われるような理解がされてしまうでしょう。それを狙ったのでしょうか?

このように、死んだ者への福音の告げ知らせには、審判を受けることと永遠に生きることの二つの目的があった。実はこれは、生きている者に福音を告げ知らせる場合と全く同じことです。告げ知らせる仕方は異なっていても、生きている者にも死んだ者にも同じ福音が告げ知らされ、それぞれの世界で勝利が響き渡り打ち立てられました。それは、生きている者も死んだ者も同じように審判を受けるためであり、審判の結果次第で永遠の命に与れるためだったのです。永遠の命に与るということに関して、死んだ者が生きている者に比べて優遇を受けるということではありません。福音の告げ知らせについても、審判についても、判決についても全て、死んだ者は生きている者と同じ立場にあるということです。

 ここで問題になるのは、眠っている人がどうやって、イエス様を救い主として受け入れる、受け入れない、の態度決定ができるかということです。福音を告げ知らせたということは、告げ知らせる側が相手に態度決定を期待するからそうするわけです。態度決定は生じないとわかっていれば、告げ知らせなどしないでしょう。しかし、眠っている者は、どうやって態度決定が出来るのでしょうか?ここはもう、神の判断に任せるしかありません。生きている者がする態度決定に相当する何かを神は見抜かれるのでしょう。しかし、それは人間の理解を超えることなので私たちは何も言えません。神に任せるしかありません。神は最後の審判の日に全ての人の全てについて記された書物を開き、福音と一人一人の関係がどのようなものであったかを判断します。私たちはその書物を見ることは出来ません。

4.キリスト信仰者の死者のためにする祈り

 以上、ペトロが教えていることは、死者にも福音が告げ知らされたのは、死者も生きている者と同じ立場に置かれて審判を受け、判決次第で永遠の命に与れるようにするためである、ということが明らかになりました。死者に福音を告げ知らせたので、もう全ての人が永遠の命に与れるのだ、と教えているのではありません。ここで最後に、ペトロの教えから、キリスト信仰者が死者のためにどんな祈りをするかを見てみたいと思います。

あるキリスト信仰者が最愛の人に先立たれたとします。その愛する人はキリスト信仰者ではありませんでした。もし、ペトロの教えが、死者にも福音が告げ知らされてキリスト信仰者でなかった人も皆救われる、というものであれば、この人は慰められるでしょう。しかし、ペトロの教えはそうではありませんでした。死者にも福音は告げ知らされるが、その先は判決次第ということです。それでは落ち着きません。しかし、たとえ愛する人がキリスト信仰者でなくとも、その人と復活の日の再会を神に願い祈ることは許されると思います。先に申し上げたように、信仰者でなかった死者は、福音が響き渡って打ち立てられたところに行くのであり、神はそこで何かを見抜かれるからです。それがなければ福音の告げ知らせなどしなかった筈です。信仰者は、復活の日の再会の希望に生きたいと思うのなら、それこそイエス様としっかり繋がり、罪の赦しの中に留まって生きていかなければなりません。イエス様から離れれば、再会の希望は廃れていくでしょう。

愛する人が別の宗教に属していて、葬儀もその宗教のもので執り行われたのに、果たして、その人との復活の日の再会をキリスト教式に天地創造の神に願い祈ることなど許されるだろうか、などと思われるかもしれません。それぞれの宗教は、この世の人生を終えたらどういう経路を辿って永遠の至福に到達し、愛する人たちとどのように再会できるか、ということについてそれぞれのシステムがあります。キリスト教では、復活があり、最後の審判があり、天の御国の永遠の命があります。復活の前には眠りの時があります。キリスト信仰者だったら、このシステムでいくしかありません。他の宗教はきっと、こら、こっちで見送った者を勝手に横取りするな、と怒るかもしれません。しかし、キリスト教では、福音を告げ知らされずにこの世を去っても、取りあえずは告げ知らせがあるところに行って眠る、と言っているので、他宗教の人もそこに行くのです。勝手に横取りしたのではありません。亡くなった方がそこにやって来るのです。キリスト教はこういうシステムですので、キリスト信仰者が死者のためにする祈りは、復活の日の再会の希望が中心になると言えます。亡くなった方が身近な方、愛してやまない方であればあるほど、その希望は強く具体的なものになります。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも復活の日の再会の希望に生きるために、イエス様にしっかり繋がり、罪の赦しの恵みの中に留まってまいりましょう。既に先立たれてしまった方は、もう神にお任せするしかありませんが、この人と復活の日に再会したいと思う方がいらっしゃれば、その人のために祈り、可能な限り福音を伝えてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


2018年2月5日月曜日

福音がもたらす喜びと倫理的課題 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2018年2月4日 顕現節第五主日 スオミ教会

ヨブ記7章1-7節
コリントの信徒への第一の手紙9章16-23節
マルコによる福音書1章29-39節

説教題 福音がもたらす喜びと倫理的課題

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の説教は、先ほど読んで頂いた第一コリント916節か23節までの解き明しに努めてまいりたいと思います。この箇所は、「福音を告げ知らせる」、「福音を伝える」、「福音のために」、「福音と共に」と福音という言葉が何度も出て来る福音尽くしの箇所です。本説教ではまず、福音がそれを聞いて受け入れる人に深い大きな喜びを与えることを見ていきます。次に、そのような福音が私たちに周りの人とどう接すべきかについて指針を示していることを、本日のパウロの教えから見ていきたいと思います。周りの人との関係で福音が示す指針を倫理的な課題と言っておきます。周りの人との関係で自由と責任ということが関わってくるからです。しかも、責任の果たし方として「仕える」ということが出て来ます。ただし、自由とか責任とか「仕える」と言っても、広い意味のものでなく、あくまでキリスト信仰の観点で見たものということをご了承下さい。

2.福音がもたらすもの - 福音の喜び

この第一コリント9章でパウロは、福音を宣べ伝えるというのは自分にとって何なのか、について述べています。彼にとって福音を宣べ伝えるというのは、したいからする、というような自分の意思で行っていることではなくて、まるでロボットが命令されて行っているようなものであることが読み取れます。実は、そのように宣べ伝えることで福音の本質に迫ることができるのです。それについては後ほど見ていきます。

ここで、パウロが宣べ伝えなければならない福音とは一体何か、ということを見ておきましょう。これは以前の説教でお教えしたことですが、今ここで復習しておきます。「福音」という言葉は、原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言い、もともとは「良い知らせ」という意味です。「福音」というのは、「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせのものを言います。それで、特段の良い知らせである「福音」とはどんな良い知らせなのかと言うと、大体以下のようなものになります。

天地創造の神のひとり子であるイエス様が私たち人間のために十字架の上で犠牲の死を遂げられ、そのおかげで人間は神から罪の罰を受けないで済むようになった。そのイエス様を救い主と受け入れることで人間は神に受け入れてもらえるようになった。神に受け入れてもらえた者として人間は神から守りと導きを得てこの世を生きられるようになった。たとえこの世から死ぬことになっても、イエス様が復活されたように自分も復活して神の御許に引き上げてもらえるようになった。大ざっぱですが、以上が「福音」の内容です。

 福音というものは、深く知れば知るほど、また自分の人生、境遇、課題をよく見つめながら知れば知るほど、福音は大きい深い喜びを与えてくれることがわかってきます。これが福音のもたらす喜びです。実は、この喜びがあることをちゃんとわかっていないと、パウロが強制されたかのように福音の宣べ伝えを行っていることがどんなことか見えなくなります。この喜びを抜きにして、パウロが自分の意思でなくて命令されたロボットのように宣べ伝えをしているなどと言うと、なんだか宗教団体の勧誘じみてきます。何人勧誘しないと、教祖とか何とかの霊かに認められない、序列が上がらない、ひどい場合は罰せられてしまう、だから一生懸命勧誘しなければならない。そこに喜びがあるとすれば、それは目標を達成して教祖や霊に認められたり序列が上がったりした時です。パウロがしなければならないと言って宣べ伝える福音がもたらす喜びは、これは福音自体がもたらす喜びです。何か権威ある者に目をかけられた時に味わえる喜びなど全然意味を持たなくなるくらいの深い大きい真の喜びです。

 福音の喜びを、具体的にこういう喜びです、と言って示すことは難しいです。先にも言ったように、自分の人生、境遇、課題を見つめながら、福音を知れば知るほど、福音の喜びを持てるようになるので、人それぞれという面があります。みんなに共通してこういう喜びだというのは難しいですが、ここでひとつ例を挙げてみようと思います。うまく福音の喜びを言い表せるかどうか自信ありませんが、やってみます。マタイ18章でイエス様は、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の命の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命に与る方がよい」(8節)と教えています。この聖句をもとに二人の説教者AとBがそれぞれ次のような説教をしたとします。

 説教者A「ある所に有名なピアニストがいて、交通事故で片手を失ってしまった。一時は失意のどん底に落ちて、死ぬことさえ考えたが、周りの人たちの励ましや心遣いに支えられて元気を取り戻し、片手でも弾けるだろうかと試したところ、両手の時と異なるニュアンスや曲の解釈が表わせる、そんな弾き方が出来ることを発見した。懸命な練習の結果、以前より観客の賞賛を勝ち得るピアニストとして復活した。まさに片手でも命に与るということが起こったのである。」これは、聞く人に感動と希望を与える説教でしょう。

 説教者Bは次のような説教をしました。「イエス様はここで、人間の本質は天地創造の神の前ではどんなものであるかをはっきり述べられる。神聖な神の前では誰も「私は潔癖です」とは言えない。言える者は、自分自身を神と同じくらい神聖であると言うのに等しいからだ。神の前に出されて大丈夫と言えるためには、自分の罪に染まった部分を切り取るしかない。しかし、そんなことは不可能である。ところが、この教えを述べた本人が、自分を十字架の上で犠牲にして、人間がどこも切り取らないでそのままの姿で神の前に出られるようにして下さったのだ。手に罪の汚れがあっても、イエス様はその上に自分の神聖さをあてがって下さり、汚れが持っている力、人間に神の罰が降りかかるようにする罪の力を消して下さった。人間はイエス様を衣のように纏っている限り、神から何の罰も責めも受けないですむようになり、両腕で抱えられるように神に受け入れてもらえるようになった。」

 さて、どっちが福音の喜びをもたらす説教でしょうか?答えはBです。Aは確かに、聞く人を励まし力づけるものですが、別にキリスト教の説教でなくても話せます。ピアニストがクリスチャンの場合、神様の導きがあったとか、神様にお祈りをしてこうなったと言えば、話はキリスト教的になります。しかし、別の宗教であれば、導きを与えた者やお祈りの対象に聖書の神以外のものを当てはめればいいのだし、無神論者ならば、霊的なことは何も持ち出さずに、ピアニストの不屈の魂や周囲の人たちの支えだけを強調すればよいわけです。

 説教Bは、現実の困難の中にあって、それに関係した具体的な励ましや力づけを必要としている人が見たら、ちょっとかけ離れているものに聞こえるかもしれません。しかし、キリスト信仰者は、具体的な励まし、力づけはこのかけ離れているものと一緒じゃないと、物足りなさを感じるのです。パウロは、あちこちのキリスト信仰者に書き送った手紙の中で「喜んでいなさい!」とよく命じました。信仰者だって、悲しいことがあれば、もちろん悲しみますが、悲しみに全身全霊が覆い尽くされて身動きできなくなるような時、息が出来なくなるような時、そんな時でも、福音を受け取った者の内には、覆い尽くされない難攻不落の砦がしっかりとある。そこで深く深呼吸でき、両手両足を思いきり延ばすことが出来る。この失われることのない砦が福音の喜びです。

3.純粋、無償の福音

以上、パウロが宣べ伝える福音は、深くて大きい、そして失われることのない喜び、福音の喜びをもたらすことがわかりました。そうすると、第一コリント9章でパウロが、自分は福音の宣べ伝えを自分の意思ではなく強いられて行っていると言っているのを聞くと、喜びを分け与えるような宣べ伝えは感じられません。福音のもたらす喜びの素晴らしさをわかっているパウロが、どうしてここではそんな風に感じられないかというと、それはパウロがここで取り上げている問題のためです。その問題とは、福音の宣べ伝えに対して自分は報酬を求めない、と言っているところです。

 第一コリント9章の中で、福音を宣べ伝える使徒たちには権利と呼ばれるものがあることが言われています。それは宣べ伝えた人が宣べ伝えられた人たちから衣食住の提供を受けることでした。この権利は、かつてイエス様が12人の弟子たちや72人の弟子たちを伝道に送った時に認めたことに由来します(例としてマタイ1010節、ルカ107節)。パウロは、他の使徒がこの権利を用いることはよしとしても、自分は用いないことにしている、と言います。なぜでしょうか?

17節で「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」と言っています。少しわかりにくいので、ギリシャ語原文を注意しながらみていきます。「ゆだねられている務め」とは「管理を委ねられている」、「福音の管理を神に委ねられている」ということです。福音の管理とは、福音が神の望む形でしっかり保たれて、かつそのような形の福音が多くの人に受け取られるように宣べ伝えることです。神の望む形の福音とは、人間が神の前に出された時に大丈夫でいられるのは罪の赦しを受けているからですが、罪の赦しがイエス様の十字架の上での犠牲のおかげで与えられている、それ以外のものでは与えられない、これが神の望む形の福音です。もし罪の赦しが、人間が業を行って神に認められようとしたら、それはイエス様の十字架の犠牲を無にすることになってしまいます。父なるみ神としては、せっかくひとり子を送ってやったのに、台無しにするのか、ということになるのです。

このような人間の業や力が入り込む余地のない、まさに純粋な福音の管理を、パウロは委ねられてしまったのです。罪の赦しの救いというものは、全部神がひとり子イエス様を用いて実現してしまったので、人間としてはただただ受け取ることに徹しないと罪の赦しはその人に起こらないのです。受け取る以外には何もする必要はないので、人間にとってはタダの救いということになります。パウロは18節で次のように言います。「では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。」「福音を宣べ伝える私の報酬は何か?」と聞いて、答えが「無報酬で伝えることです」というのは、かみ合っていません。この部分を説明っぽく直訳すると、こうなります。「福音を告げ知らせる時、それを聞く人にとって費用のかからないものとして提供する(αδαπανον θησω το ευαγγελιον)、これが自分にとっての報酬である。その結果、福音に関しては自分は衣食住の提供を受ける権利を用いないのである。」

福音を聞く人にとって費用がかからない、無償のものとして福音を宣べ伝えるということなので、聞く人はパウロに衣食住の提供はしなくてもよいということなのです。これは、罪の赦しの救いは人間にとってタダであるという純粋な福音と見事に重なります。パウロにとって、福音が純粋な形で提供されること以上の報酬はないのです。

パウロは、衣食住の提供を受ける他の使徒たちが間違っているとか、彼らの宣べ伝える福音が純粋でないとかは言っていません。あくまで自分が神から受けた召命はそういうものである、福音が純粋な形で人々に提供されることに心を砕かなければならない、他の使徒は他のやり方があろう、という態度です。パウロの視点も大事ですが、教会の成長ということも考えなければなりません。伝道者がみんなパウロのように教会の人たちから何も支援を受けずに全部自腹を切って活動したら、教会の人たちはずっとお客さんのままで教会は育たない危険があると思います。もちろん、純粋な福音が宣べ伝えられて、教会員に福音の喜びが生まれば、伝道者を支えるのが当たり前という気持ちになります。また、こんなに素晴らしい福音をどうして独り占めしていいのだろうか、周りの人にも伝えなければ、そういう機運になります。そういう機運にない教会は、それは伝道者が純粋な福音を伝えきれず、福音の喜びを生み出せていないのか、または集まる人たちの耳と心が塞がれていて、純粋でない福音で良しとしていたり、福音以外のところから喜びを求めているかのどちらかです。両方あるかもしれません。いずれにしても、悪いのはどちらだ、という視点ではなくて、今一度福音とは何か、福音がもたらす喜びとは何か、自分はそれを持てているか、伝えているか、伝道者と教会員がお互いに自問する必要があると思います。

4.福音がもたらす倫理的課題

パウロが福音を純粋な形、救いは完全に神の業という形で提供しようとして、福音はタダ、それで管理者の自分は誰からも何も受け取らない、という態度を貫きました。ここで、誰からも何も受けないという時、誰とも受ける与えるの関係を持たず、利害関係のない、全く自由な立場を得ます。19節に言われている通りです。ところが、自由だから、自分は何でも好き勝手にやっていくということにならず、「自由な者ですが」と言ったすぐ後で「すべての人の奴隷になりました」と言います。ギリシャ語の動詞は「奴隷」でも「仕える者」でもいいのですが、自分は自由で誰からも拘束を受けないぞ、と言った途端に、自分は全ての人にお仕えする者です、と言うのです。一体どういうことでしょうか?

これは、純粋な福音を人々に伝え、人が福音の喜びを持てるようにする、そのために自分を捧げる、ということです。天の父なるみ神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現して、それを全ての人に受け取ってほしいと望んでおられる。そこで、福音の管理を委ねられたパウロとしては、神の意思を実行するために自分を捧げなければならなくなったということです。このようにパウロにあっては、福音を純粋な形で提供しようとすることが自分を誰にも束縛されない自由なものにしました。それと同時に、純粋な福音が求めていること、多くの人に受け取ってもらいたいという神の意思があるために、受け取ってもらう活動をすることになりました。自由に責任が伴ったのです。しかも、その受け取ってもらうための活動は、強引な頭から押し付けるようなものではありませんでした。「仕える」と言っていますが、その中身は、宣べ伝える相手のもとに行き、その人の状況や立場をよく理解して、福音の受け取りの障害になっているものを取り除いてあげる、というものでした。宣べ伝える相手にとことん寄り添う姿勢です。その具体例として20節からユダヤ人云々が出て来るのです。それを少し見てみましょう。

20節「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」「得るため」というのは、ギリシャ語で「勝ち取る」という意味の動詞ですが、福音を受け取って福音の喜びを持てる者にするという意味です。同じ節ですが、ユダヤ人の次に「律法に支配されている人」が来ます。直訳すれば「律法の下に服している人」つまりユダヤ人です。最初の「ユダヤ人」と次の「律法の下に服している人」は同じグループの繰り返しなので、一緒に合わせて見ることにします。

「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」人間の救いに関するパウロの立場は、人間が神の前に出されて大丈夫とされるのは、守りきれない律法の掟を守ろうとすることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって大丈夫とされるのだ、というものです。それで、律法の下に服していない、と言うのです。ところがユダヤ人は、守りきれない律法の掟を守ろうとして神の前に大丈夫となろうとしている。それで律法の下に服してしまっている。そこでパウロは、ユダヤ人に対しては、神の前で大丈夫とされるのはイエス様を救い主と信じる信仰で十分なのだ、と呼びかけることに専念するのです。

21節「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」「律法を持たない人」というのは、ユダヤ人以外の人全部を指します。いわゆる異邦人です。日本人もアメリカ人もヨーロッパ人もアフリカ人もみんなこのカテゴリーです(もちろんユダヤ教に改宗していない人です)。パウロは「律法を持たない人のようになる」と言う時、但し書きとして「私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と言っています。これはわかりにくいですが、こういうことです。自分は律法を持っているが、それはユダヤ人が持っている持ち方ではない。イエス様を救い主と信じる信仰によって神の前に出されても大丈夫とされ、神に対してただただ感謝するだけである。感謝の気持ちから神の意思に沿うように生きるのが当たり前という心になった。神の意思は十戒の掟の中にあるが、それは救われるために守らなければならないものではない。イエス様のおかげで既に救われたので、神への感謝の気持ちが神の意思に沿うように生きようと心を持って行くのである。このようにしてパウロは、異邦人に対しては、イエス様を救い主と信じることで律法を持つことが出来るのだ、ただし、律法の持ち方はユダヤ人の場合と逆転するが、と言っているのです。ユダヤ人と違う律法の持ち方を「キリストの律法」と呼んでいるのです(ギリシャ語のεννομος Χριστουは「キリストのおかげで律法が内在化したこと」ということか?)。

22節「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」「弱い人」というのは、先週の説教で取り上げましたが、異なる宗教の神殿に供えられた肉を食べることや神殿の宴で一緒に食事することを良しとしないキリスト信仰者を指します。コリントの教会にはそれとは反対に、そんなもの食べても痛くもかゆくもないという自信満々な信徒がいて、それに倣えない信徒をパウロは「弱い」と呼び、今後は彼らが躓かないために、自分もそのような肉は食べないことにすると宣言したことは先週見た通りです。彼らには間違いはなく、知識を持った信仰者たちの自信満々な振る舞いで良心が傷つけられるのを見過ごせなかったのです。

以上の具体例の後にパウロはまとめて言います。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」相手がどんな立場の人であれ、その人のもとに行き、寄り添い、その人の内にある、福音の受け取りを妨げている要因、つまり神の前に出されて大丈夫になれるのにそれを妨げている要因を把握し、それを取り除いたり、乗り越えて行けるように手助けする、それがパウロの伝道だったのです。私たちもキリスト信仰者として、福音がもたらす喜びの中で、自由、責任、仕えるということをもっと意識していくべきではないかと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン