2015年11月30日月曜日

あなたの王がやってくる (吉村博明)

説教者 吉村博明

主日礼拝説教2015年11月22日 待降節第1主日
スオミ教会

エレミア書33章14-16節
テサロニケの信徒への第二の手紙3章6-13節
ルカによる福音書19章28-40節

説教題 「あなたの王がやってくる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現主日、イースター、聖霊降臨主日などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神がスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて下さり、皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みの上に神が豊かな祝福を与えて下さいますように。

 本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗って、エルサレムに「入城」する場面です。昨年もお話ししたのですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書の箇所が読まれる際に群衆の歓呼のところまでくると、そこで朗読はいったん止まります。するとパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆みんな一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌います。先ほどこの礼拝の初めに歌った歌です。フィンランドやスウェーデンでは実に讃美歌集の一番の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい一年を元気よく始める雰囲気で満ち溢れます。

2.ルカの観点

 ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、本日読まれたルカ福音書の中には「ホサナ」の言葉がありませんでした。マルコ11章、マタイ21章、ヨハネ12章に同じ出来事の記述がありますが、それらには群衆の歓呼には「ホサナ」があります。「ホサナ」というのは、アラム語の言葉で、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語と言うのは旧約聖書の言葉で、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になったわけです。この言葉は今見たように、もともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味がありました。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。さて、ルカ以外の福音書では、群衆はこの歓呼の言葉を叫んでいますが、ルカにはありません。どうしてでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?

 この問題は4つの福音書がどのようにして出来上がったかというとても大きな問題に関わるので、ここではそれには立ち入らないで、「ホサナ」がルカ福音書にないことをどう考えたらよいかについて述べておくだけにします。ルカ福音書の1章を見ますと、この福音書がどのようにして出来たかが言われています。福音書記者の手元に資料が山ほどある。まずイエス様の出来事の直接の目撃者の証言。次にその証言を聞いてイエス様を救い主と信じた人たちが聞いたことを口伝えに伝えた事柄。さらに、そうした人たちが記録として書き留めた事柄等々です。ルカ福音書は、それらの資料を編集して出来たというのであります。福音書の記者自身もイエス様を救い主と信じる人です。だから、受け取った資料は慎重に扱わなければならない。しかしながら、資料には重複があったり、同じ出来事を扱っても詳細が一致しないものもある。そういう時、優れた編集者は手元の資料を単に無修正でつなぎ合わせることはしません。自分の観点から取捨選択をして一つスムーズにまとまった全体をつくりだそうとします。ルカの観点は言うまでもなく、イエス様は神の子で旧約聖書に約束された全人類の救い主であるという信仰です。これが彼の観点です。その観点から見て、瑣末と思われることは背景に追いやられたり省略されたりしたでしょう。逆に重要と思われることは、表面に出されたり強調されたりしたでしょう。このようなことがあるので、4つの福音書の中で同じ出来事を扱っていても細かい点で違いは出てくるのは当然なことなのです。

ここで忘れてはならないとても大事なことがあります。それは、同じ出来事を扱って細かい点が違っているというのは、実は大元にある出来事の信ぴょう性を高めるということです。十字架の出来事にしろ、復活の出来事にしろ、大元にある出来事がまず直接の目撃者によって目撃される。これが動かせない事実としてある。それが口伝えに伝えられ、書き留められ、まとめられていく。その過程で、大元は核としてそのまま残り続けるが、周りの細かい点で違いが生じてくるというだけにすぎないのです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、福音書に記された事柄、イエス様の教え、業、彼に起きた出来事の全てを、昔の人の空想か作り話などと言って軽々しく扱わないように注意しましょう。イエス様の出来事の直接の目撃者である使徒たちは、権力者側からイエスの名を広めたら命はないぞと脅され警告されたにもかかわらず、広めて行ったのです。自分たちの目で見て耳で聞いた驚くべきことを黙っているわけにはいかなかったのです。それくらい見聞きしたことは驚くべきことだったのです。そういうわけで、福音書の土台にあるものは実は、使徒たちの命を賭した証言集なのです。

大元にあるものは動かせない事実としてあるが、それを4つの福音書が4つの観点から記述している。それゆえ、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるためには4つの福音書全てをしっかりみないといけないのです。ある福音書を読んだら、あとは適当でいいということでは不十分なのです。(注)

ここで、ルカ福音書に「ホサナ」の歓呼の声がないことについてどう考えたらよいかということについてみてみましょう。ルカという福音書と使徒言行録の記者は、イエス様についてイスラエルの民の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それがあるので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界にとっての「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、先ほど申しましたようにイスラエルの民が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉です。それで、ルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する時、イエス様が神から祝福を受けて神の名において到来する王ということが読者に伝われば、それで十分、あえてイスラエルの民族性を出さなくても良いとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったと思いますが、彼らは伝えられた史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。

3.未完の預言

 いずれにしても、エルサレムに入城したイエス様は、群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に入城する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちで凱旋したでしょう。ところが、この王は群衆には取り囲まれていますが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。本当にこの光景、出来事は一体何なのでしょうか?

加えて、イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるようにと命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、ひとり子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

実は、これはパロディーでもなんでもないのです。まことに真面目で神聖なことそのものなのです。昨年の説教の時にも申し上げたのですが、このことについて少し振り返ってみます。

 このイエス様の行為は、旧約聖書の預言書のひとつ、ゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9910節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した10節から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者であります。「へりくだった者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と登場するのではなく、子ロバに乗ってやってくるというのであります。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が「へりくだった者」であるにもかかわらず、最終的には全世界を神の意志に従わせる、そういう世界をもたらすという預言は、イザヤ書11110節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが全く存在せず、あらゆることにおいて神の守りが行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。今のこの世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造された時の世です。その新しい世に相応しい完全な正義を実現する「エッサイの根」。それは何者か?エッサイはダビデの父親の名前なので、ダビデ王の家系に属する者です。つまり、イエス様を指します。やがては今ある天と地とこの世とにかわって、神の神聖な意志に完全に従う新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完全な正義を実現するのがイエス様ということなのです。

そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の目からみた正義や公平について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。これらの預言は確かに成就されたとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、新しい天と地の世界はまだ起きなかったではないか?預言は完全には実現しなかったではないか?実はこれらの預言は、イエス様の再臨の時に実現するものなのです。まだ預言は未完なのです。イエス様が最初に来られた時、一部は実現しましたが、それは預言全体の実現が始ったということで、イエス様の再臨をもって全て完結するというものであります。最初に来られた時、イエス様は無数の奇跡の業を行いましたが、実はこれは害悪も危害もない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味があったのです。

4.イエス様は「王」

 ところでイエス様を歓呼で迎えた弟子たちや民衆は、実は神の大事業が全人類の救いに関わるとまでは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様はあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる王でしかありませんでした。旧約聖書の本当の意図することと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでしたが、それはいたしかたのないことでした。というのも、一方でバビロン捕囚後のユダヤ民族が辿った歴史があり、他方で旧約聖書にメシアについての預言があり、そうなると民族解放の願望がメシアに結びつけられてしまうのは容易なことでありました。メシアというのは実は、全人類を罪と死の支配から解放してくれる王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。

イエス様が全人類を罪と死の支配から解放してくれる王という時、それはどのようにして実現したのでしょうか?イエス様は、自分自身神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架にかけられて自分の命を捧げて、人間の罪を人間にかわって償いました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲の生け贄は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死んでくださったイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦される。神から罪の赦しを受けることで人間は、それまで罪のゆえに断ち切れていた神との結びつきを回復する。まさにこれで罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は無力化されたのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、永遠の命に至る扉を人間に開かれたのです。こうして神から罪の赦しを受けて神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになりました。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に戻ることができるようになったのです。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた圧倒的な力を完膚なきまで無力化しました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。

そのような計り知れない権威と支配力を持つイエス様が王と呼ばれるのですが、現代ではこの呼び名は大丈夫でしょうか?民主主義が確立する前の歴史の段階では、王は国の実際の支配者でした。王冠をかぶって支配権を象徴する杖をもって王座に座っていました。そして、国の重要事項の決定は取り巻き連中に諮りながらも自分の責任で行い、戦争があれば軍隊の先頭に立って出陣しました。そういう時代であれば、イエス様は王と呼ぶのは、イエス様の権威を理解する上でよかったと思います。

しかしながら、民主主義が確立すると、君主制は廃止されるか、残っても実際の支配権は持たないというのがほとんどです。権力は、国民が選挙で選ぶ大統領に委ねられたり、または選挙で選ばれた国会や国会が選ぶ政府や首相に委ねられたりします。そういうところでは、王は国会の開会を宣言したり、国会が可決した法案に署名して法律の体裁を整えたりするなど、極めて形式的儀礼的な役割しか持っていません。それなら、イエス様を王と呼ばずに首相とか大統領と呼んだ方が実態に即しているでしょうか?

実は即していないのです。イエス様はやはり王と呼ぶのが相応しいのです。どうしてかというと、首相とか大統領は国民が選挙で選ぶものです。国民の多数の支持がなければ、選出されません。イエス様がメシア救世主というのは、彼が神のひとり子だからそうなのであり、選挙で選ばれたからではありません。イエス様がメシアでいられるために国民の多数の支持など必要ないのです。国民の多数が嫌いになろうが背を向けようが、イエス様が神のひとり子でメシアであるということには何の影響もないのです。

民主主義が確立する前の時代では民衆は王に「お仕えする」ということがありました。私たちが国会や政府や首相に「仕える」ということはありません。私たちがそれらの決めたことに従うのは、それらにお仕えするからではなく、それらは国民のためにいろいろなことを決めなさいと国民から選ばれたという建前があるからです。もちろん、そうした権力機関の決めたことが、果たして国民のためになっているのかどうか怪しいと多くの人が疑問視するようになると、この建前は機能が難しくなります。いずれにしても、この民主主義の時代に国民が「お仕えする」ような権威を設けることは難しいのではないかと思われます。それなのに、イエス様をいつまでも「王」と呼ぶのはどうしてなのでしょうか?

よく考えてみると、「お仕え」したのは私たちではなく、イエス様の方であったことに気づかされます。私たちを罪と死の支配から贖い出すために御自分の命を犠牲にされたのです。人間が受ける「お仕え」でこれ以上のものはあるでしょうか?大統領や首相や人間の王様のだれも、人間を罪と死の支配から贖い出すことなど出来ません。また、国民の福利厚生のために自分の命を犠牲にするということもまずありえないでしょう。とにかく私たちは、それくらいの「お仕え」をイエス様にしていただいたことがわかれば、私たちが王であるイエス様に対して行う「お仕え」というのも、怠けるのも恥ずかしいくらい取るに足らないものであることがわかるでしょう。私たちの「お仕え」は何かと言うと、イエス様によって罪と死の支配から贖い出された者としてしっかり生きることです。具体的にどういうことかと言うと、もし罪の考えを抱くようなことがあれば、それが行為や口に出てしまって罪の支配下に戻らないようにしなければなりません。その時はすぐ神に罪の赦しを乞います。すると神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さいます。その赦しが本当であることを確信させるために、神は私たちの心の目をいつもゴルゴタの十字架の上で死なれたイエス様に向けさせます。

そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様によって罪と死の支配から贖われた者ですので、そのような者としてしっかり歩んでまいりましょう。私たちのイエス様に対する「お仕え」は、以上のような自分自身の生き方に関することだけではありません。それと併せて、出来るだけ多くの人が罪と死の支配からの贖いを持てるように祈ったり働きかけたりすることもあります。そのことも忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


(注)そうすると、トマス福音書とかユダ福音書とか、聖書には収められていない福音書はどうするのか、という疑問が起きてきます。福音の全体像がわかるためにこれらの書物には意味はないのか?答えは、意味なしです。というのは、こういう「福音書」の名がつく書物は、使徒たちの教えや伝えたことと相いれない、つまり使徒的な伝統から外れているのです。それで聖書には載せられなかったのです。それでは、何の書物を聖書に載せることができて何を載せないとする基準にある使徒的な伝統とは何か?それは、簡単に言えば、新約聖書の使徒書の部分が使徒的な伝統を表しています。何の書物を聖書に載せることができて何を載せないというのは、別の言い方をすれば、聖霊のコントロールが働いていたということですが、使徒書を書いた人たちは本当に聖霊の力を受けて書いたとしか言いようがないのです。


そういうわけで私は、イエス・キリストによる救いの福音の全体像がわかるために聖書は次のような順序で読むのがいいのではないかと、最近強く考えるようになってきました。まず使徒書を通して使徒的伝統の基本を学ぶ。次に旧約聖書に行って、なぜ人間は神からの救いが必要なのか、そのために神は何を計画されたかを学ぶ。その次に4つの福音書と使徒言行録が来て、神の計画が実際どのように実現されたかを学ぶ。そんな順序です。最後はもちろん、黙示録です。ただし、これは、旧約新約両方の書物で、終末の出来事やイエス様の再臨について述べているものを復習しながら読むのがいいと思います。

2015年11月23日月曜日

神の裁きにも耐えうる潔白な良心 (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年11月22日 聖霊降臨後最終主日
スオミ教会

ダニエル書7章9-10節
ヘブライの信徒への手紙13章20-21節
マルコによる福音書13章24-31節

説教題 「神の裁きにも耐えうる潔白な良心」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人となってこの世に来たクリスマスの出来事に向けられます。2000年以上前の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様に思いを馳せます。

さて、待降節は次主日にゆずるとして、教会の一年の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わりを告げる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来る時に起きることです。私たちが礼拝の中で唱える信仰告白の使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判です。その時はまた、今ある天と地さえもが崩れ去って全く新しい天と地が創造されるという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、創造主である神の御心に適うとされた者が復活の体を着せられて、永遠の神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時生きている人と一緒に審判を受けるのであります。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」ということであります。

その裁きの日がいつであるかは、本日の福音書の箇所のすぐ後でイエス様が言われるように、これは天の父なるみ神以外には誰にも知らされていません(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(3337節)。

このように教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会ではこの日、最後の審判に今一度心を向けて、いま自分は永遠の命に至る道をしっかり歩んでいるかどうか、自分の信仰生活を振り返る意味があります。もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日です。この課題は、ことの性質上とても重々しく恐ろしいことですらあります。そのため、自省することを避けてさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人の方が多いのかもしれません。しかし、忘れてはならないことは、最後の審判は恐ろしいことではありますが、イエス・キリストの福音というものは、裁きの恐れを乗り越える勇気と力を与えてくれるということです。そのような勇気と力が与えられた時の喜びと安心はひとしおです。まさに福音の力がわかるためにこそ、最後の審判に目を向けるべきだと思います。そういうわけで本説教では、最後の審判の恐れを乗り越えられる福音の力を明らかにすることを目標にしたく思います。

その前にひとつ脇道になるかもしれませんが、今次パリで起きた痛ましいテロ事件の中で「裁き」とか「復活の希望」について少し考えさせることがあったので先にそれについて触れておきたく思います。それは、この事件で愛する妻を失った夫がテロリストに対してフェイスブックに書き送った文章です。アントワーヌ・レリスという方の「君たちが私の憎悪を得ることはない」という題の文章で、投稿されてすぐ20万人もの人に読まれて感動を与えたということです。新聞にも報道されたのでご存知のかたもいらっしゃると思います。

文章の要旨は大体以下のことです。テロリストの目的は、テロを被った人たちが絶望に陥って生きる希望を失うか、または深い憎悪に陥って復讐を生きる目的にしてしまうことにある。しかし、自分はそのような憎悪に陥るつもりはないし、残された息子とこれまでと同じようにこれからも生きて行くので希望も失っていない。そういうわけで、テロリストの目的は失敗したのだ。もちろん、深い悲しみに突き落とされたという点ではテロリストの勝利は認めるが、それも実はちっぽけな勝利で長続きしないのだ。

このように悲しみのどん底にあっても絶望に終わらず憎悪の連鎖にも陥らない。もし、そうなったらテロリストの思うつぼですが、そうならないで憎悪から全く自由な愛と希望を持ち続けられるというのは、一体どうして可能なのでしょうか?私の推測ですが、この悲劇がきっかけとなってレリス氏の心に「復活の再会の希望」というキリスト信仰で最も大事なことが輝き出したからではないかと思います。氏がどのような信仰の持ち主かは知りようがありませんが、文章の中に次のような「復活の再会の希望」をうかがわせる下りがあります。「妻はいつも私たちとともにあり、私たちは自由な魂たちのパラダイスで再びあいまみえるのだ。君たちが入れることのないパラダイスで」というところです。人生を今あるこの世の人生と次の新しい世の人生の二つを合わせたものと見なすことができれば、テロリストの勝利は実に「ちっぽけで」「長続き」しないものになるのです。

ここで、テロリストがパラダイス楽園すなわち天国に入れないと言われていることについて、ここには言うまでもなく、神の裁きがあります。そうすると、憎悪から自由な愛などと言っても、やっぱり復讐心があるのではないか、と思われるかもしれません。しかし、ここで使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」12章で教えていることを思い起こせば、なんの矛盾もありません。

パウロはそこで、復讐は神のすることである、全ては神の裁きに任せよ、と教えます(19節)。さらに、キリスト信仰者は全ての人に対して少なくとも自分の方からは平和な関係を結びなさい(18節)、つまり、自分の方からは悪や憎悪を振りかざしてはいけないということです。ただ悪を成す者に遭遇した場合は、もしその者が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませよ、そのような態度で臨みなさい、そうすることで敵の頭に燃える炭火を積み重ねることになる、と教えました(20節)。ここに憎悪と絶望の連鎖から自由になれる知恵があります。それは、神が最後の審判を司る方であるとわかっているから受け入れられるのであり、また復活の再会が待っているという希望があるから受け入れられる知恵なのです。もちろん、犯された犯罪は法律に従って処罰されなければならないということは、パウロもうち立てられた権威には従うべきと言っている以上(ローマ13章)、しなければなりません。しかし、犯罪者の処罰刑罰は憎悪と復讐心とは別物でなければならないということなのです。

 少し脇道によりましたが、ここで本筋に戻ります。神の裁きは恐ろしいものではあるが、イエス・キリストの福音にはその恐れを乗り越えられる力があることを、本日の福音書の箇所をもとに見ていきます。

2.

 本日の福音書の箇所は、マルコ福音書13章全部にわたるイエス様の預言の一部です。マルコ13章はキリストの黙示録とも呼ばれます。預言の内容はとても複雑です。というのは、イエス様の十字架と復活の後にイスラエルの地で起きる出来事の預言と、もっと遠い将来に全人類にかかわる出来事の預言の二つが複雑に入り交ざっているからです。それらを解きほぐすように読まなければなりません。13章のはじめでイエス様が、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来る、と預言されます(12節)。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった4人の弟子が、いつそれが起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と聞きます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。ところが預言は語られるうちに、神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。

マルコ13章のイエス様の黙示録についての詳しい分析は別の機会に譲り、ここでは概要だけにします。エルサレムの神殿の破壊の前兆として、偽キリスト、戦争、地震、迫害が起きると預言されます。西暦70年に起きた神殿破壊の前にはこれらのことは起こりました。14節で「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」と言われます。「憎むべき破壊者」とはダニエル書の11章や12章の預言に出てくるものですが、ここでは詳しいことは抜きにして、そんなことが
西暦70年の前に起こったかどうか。一つの可能性はイエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラが神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちの必死の努力で撤回されたという事件がありました。これがもとでローマ帝国とユダヤ人の間の対立が深まって、ついには西暦70年のエルサレム破壊に至ってしまう導火線になったことがあります。

 ところが、マルコ319節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こると述べられるあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていません。明らかなことは、主がその災いの期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定した、と言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、イエス様を救い主と信じる信仰に固く立って救われる者を指します。このあたりの預言は、もう過去に実現したことではなく、私たちから見てまだ将来起こることです。そうすると、「憎むべき破壊者が立ってはいけない所に立つ」というのも、エルサレム神殿の破壊の前兆だけではなく、我々から見て将来そのように描写できる何かが起きることも意味します。今はそれが何かは具体的にはわかりません。そうなると、「憎むべき破壊者」の前にある偽キリスト、戦争、地震、迫害というのも、過去に起きたものだけでなく、将来起きるものも入ってきます。

さて、天地創造以来一度もなかったと言えるくらいの大災難がきた後で今度は、天と地が文字通りひっくりかえるようなことが起きます。そのことについての預言が本日の福音書の箇所になります。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる(2425節)」。まさにその時にイエス様の再臨が起こり、最後の審判が行われ、選ばれた者たちは集められて神の国に迎え入れられるのであります。

太陽をはじめとする天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書1310節や344節(他にヨエル書210節)にある預言と軌を一にしています。イザヤ書6517節や6622節では、神が今の天と地にかわって新しい天と地を創造されることが預言されています。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」122628節に述べられています。

以上を要約しますと、エルサレムの神殿の破壊は歴史上実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える大災難や天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊から1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽りの救世主・預言者は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありました。もちろん現代においても世界の地域によっては迫害は起こっています。そのようなことが多く起きたり重なって起きたりする時はいつも、いよいよこの世の終わりか、イエス様の再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということも歴史上たびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様の預言の終わりの部分が起きるのは、まだ先のことなのです。こうしたことは本当に起こるのでしょうか?1900年以上たったので、もう時効と言えるでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつか起こるというのは否定できません。以前にも申し上げたことですが、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして燃え尽きると言われています。膨張などしたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。もちろん太陽がちょっとでも異変を始めた段階で地球は重大な影響を被るでしょうから、それは50億年よりもっと前に起こるでしょう。いずれにしても、旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということはありうるのです。さらに太陽の異変を待たなくても、大きな隕石とか彗星などが地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となるでしょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、冷戦が終わって20年以上たちましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのです。

 以上、イエス様の預言の前半部分にある戦争とか地震とか迫害は既に起きたものもあるし、残念ながら今も起きています。こうした災難がこれからも起き続けるかどうかについて、地震のような天災は仕方ないにしても、人為的なものはこれまでの歴史や人間性を考えると、なかなかなくならないのではないかと思われてしまいます。何が理想の状態か、とか、それを目指す力と妨げる力がこれからもせめぎ合っていくのでしょう。しかしながら、起こる災難がこうしたものだけではまだこの世の終わりとは言えないのです。イエス様の預言の後半部分にある大災難と天地の大変動が起きるようになって、イエス様がいよいよ再臨するというのであります。そして、その時生きている人も、その時既に死んでいたがその時起こされる人たちと一緒に裁きを受けることになる。その時裁きを司るのが、再臨の主イエス様なのです。

3.

 人間は皆神の裁きを受けるのであれば、それに対してキリスト信仰者はどんな心構えでいなければならないかについてルターが教えていますので、それをここでみてみます。この教えは、ルカ福音書21章にあるイエス様の言葉の解き明しです。まずイエス様の言葉は次のものです。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい(ルカ213436節)。」

 これについてのルターの教えは以下の通りです。

「これは、全くもって我々が常に心に留めなければならない警告である。我々はこれを忘れることがあってはならない。もちろん主は、我々が食べたり飲んだりすることを禁じてはいない。主はこう言われるであろう。『食べるがよい。飲むがよい。神はきっとあなたたちがそうすることをお認めになるであろう。生活に必要な収入を得ることにも努めなさい。ただし、そうしたことがあなた方の心を支配してしまって、私が再び来ることを忘れてしまうことがあってはならないのだ。』

 我々キリスト信仰者にとって、人生の目的をこの世的なものだけに結びつけてしまうのは相応しくないことである。我々は人生の片方、つまり左手ではこの世の人生を生きるべきである。反対に右手では全身全霊で主の再臨の日を待つべきである。その日主は、あまりにも素晴らしくて誰にも表現できないくらいの栄光と荘厳さをもってやって来る。人間は、この世の最後の日が来るまでは家を建てたり結婚式を挙げたり、屈託なく日々を過ごすであろう。ただただこの世的なことだけに心を砕いて、他には何もすべきことがないかのように思っていることだろう。キリスト信仰者たちよ、あなたたちがもしキリスト信仰者たろうとするならば、こうしたこの世だけの生き方はせず、この世の最後の日のことに心を向けよ。その日がいつかは必ず来ると絶えず心に留めて、神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保っていなさい。そうすれば、何も慌てる必要はないのだ。その日がいつどこで我々の目の前に現れようとも、それは我々にしてみれば永遠の幸いを得る瞬間なのである。なぜなら、その日全ての人間の本当の姿が照らし出される時、あなたたちが神を畏れ、神の守りの中にしっかり留まる者であることが真実なものとして明るみに出されるからだ。」

 「神を畏れる心をもって生き、潔白な良心を保って」いれば、イエス様の再臨の日はなにも怖いことはなく、慌てふためく必要もない、ということです。ここで皆さんにお尋ねします。神を畏れる心は持てるにしても、「潔白な良心を保つ」ことは果たして可能でしょうか?最後の審判の日、裁きの主は、一人一人が十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうかを見られます。殺人や姦淫を犯していたりすれば、ちゃんと神の前で赦しを乞うて悔い改めていたかどうかが問われます。しかしながら、行為に出さなくても心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけでも、神の目に適う者になれないとイエス様は教えられました。そういうふうに行為だけでなく心の中までも問われたら、一体誰が神の前で、自分は清いです、などと言えるでしょうか?

 神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことを知っていました。堕罪の時から全ての人間は内に罪をもつようになったので、そうはなれないのです。そこで神は人間が神の目に適う者にしてあげよう、そうすることで人間が神との結びつきを回復できてこの世を生きられるようにしてあげよう、万が一この世から死んでもその時は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして、そのイエス様が十字架にかけられることで、全ての人間にかわって人間の罪の償いをして、人間を罪と死の支配から贖い出したのです。「贖う」というのは、イエス様の流した血を代価として人間を罪と死の奴隷状態から買い戻したということです。それくらい私たちの命は価値あるものとみて下さったのです。

このあとは人間が、イエス様の十字架と復活というものは、まさに罪を持つ自分がその呪いから解放されるためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神からの罪の赦しがその通りに起きるのです。神から罪の赦しを受けるというのはどういうことかと言うと、神があなたのことをさも罪はないかのように、もう神の目に適う清い者として扱って下さるということです。これで裁きは大丈夫なのです!自分にどんなにいまわしい罪の過去があったとしても、その罪のゆえに私たちが地獄に落ちないようにとイエス様は自らの命を投げ捨ててまで私たちの罪を請け負って下さった。それで私たちが「天の父なるみ神よ、イエス様こそ私の救い主です。だから私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、私のひとり子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。これからは赦された者として相応しい生き方をしなさい」と言って下さるのです。

私たちは神の目に適う者になれるために自分では何もしていないのに、神の方で全部してくれて、私たちはそれをただ受け入れるだけで神の目に適う者にされたのです!それで裁きの前に立っても「イエス様が私に代わって全部罪を償って下さいました。私は罪の支配下から贖われた者です。イエス様以外に主はいません」と告白すれば大丈夫なのです。実に私たちがイエス様を救い主であるとしている限りは私たちの良心は神の前で潔癖でいられるのです。何も恐れる必要はないのです。イエス様が代わりに全部償ってくれたので彼は私の救い主である、それでこの恵みに相応しい生き方をしなければと思って生きてきた、ということは何者も否定できない真実なので、やましいところは何もありません。まさに潔癖な良心です。

そこで問題になるのは、神の手によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、実際には神の目に相応しくないことがどうしても出てきてしまう。罪が内に留まる以上は、行為に出さなくても心の中に現れてきてしまう。その場合はどうしたらよいのか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを乞います。これが神への立ち返りです。神は約束されたようにイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうしてまた神の示される道を踏み外すことなく歩み続けることが出来ます。こうしたことは死ぬまで何度何度も繰り返されます。なんだかめんどうくさくなって疲れてしまいそうですが、神への立ち返りが一人で行うことが大変に感じられれば、礼拝で信仰を同じくする兄弟姉妹たちと共に行うことができます。聖餐式では、パンとぶどう酒の形ですが、罪の赦しの恵みを霊的な栄養として摂取することができます。だから教会に繋がっている限りは疲れることなどありません。こうすることでキリスト信仰者の良心はあらゆるゆさぶりに耐えて潔白さを保ち、何の恐れも不安もなく最後の審判に臨むことができるのです。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちをこの滅びゆく天と地を超えて運んで行ってくれるものは、イエス・キリストの福音以外にはありえません。それですので、私たちの命はこの福音にしっかり守られていることをかた時も忘れないようにしましょう。そして、福音を聞いて潔白な良心を持てる人が一人でも増えるように祈り働いてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン