2017年3月28日火曜日

解放なら安息日に (吉村博明)

説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年3月30日 四旬節第四主日

イザヤ書42章14-21節
エフェソの信徒への手紙5章8-14節
ヨハネによる福音書9章13-25節

説教題 「解放なら安息日に」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにする奇跡の業を行った後で何が起きたか、ということについて述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問しました。なぜかと言うと、この癒しがなされた日が安息日だったからでした。つまり、癒しを行ったイエスは、安息日に仕事をしてはならないという掟を破ったのではないか、つまり神の意思に反する人物ではないか、ということが問題になったのです。

 安息日を守るというのは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20811節)。

なぜ、イエス様が安息日の掟を破ったと騒がれたかと言うと、彼がまず唾と土で何か粘土状のものを作って、それから、それを使って目を治してあげたことの二つが仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の前で、イエス様がどのようにして癒しを行ったかについて述べられています。イエス様は一言声をかけて癒すのではなく、わざわざ作業をするように何か粘土状のものを作って目に塗って、目を治してあげました。この作業が安息日に起きたために、群衆はこれが宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うイエスは、本当は神から来た者ではないだろうか?それとも十戒の掟を破る、神に反する者ではないだろうか?一体どちらだろうか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?

ファリサイ派の間でも見解が割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、単なる罪びとだ、と主張します。別の者は、そうならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるだろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読むと、将来神の霊を注がれた神の僕が現れて目の見えない人たちの目を見えるようにする時が来ると預言されています(427節、加えてマタイ1146節、ルカ72223章も参照)。イエス様を罪びとと考えない人たちは、きっとイザヤ書の預言が頭をよぎったのでしょう。しかし、見解の一致は得られません。そこで、ファリサイ派の人たちは、目が見えるようになった人の見解を求めました。「お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?」男の人は答えました。「預言者だと思います。」メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られる人と考えられていたので、イエス様は神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、と告白したことになります。

本日の福音書の箇所には、二つ考えなければならない大きなことがあります。一つは、目を見えるようにするイエス様の奇跡の業とイザヤ書の預言の関係です。もう一つは、イエス様はなぜ癒しの業を安息日に行ったのかということです。奇跡の業とイザヤ書の関係は、実はとても深くて大きい問題をはらんでいて、一回や二回の説教でお話しすることはできないと思います。そのため本説教では、安息日の問題を中心にお話ししようと思いますが、ほんの少しだけ、先にイザヤ書の預言について触れておきます。

2.目を見えるようにする奇跡の業とイザヤ書の預言の関係について

本日の旧約の日課であるイザヤ書42章の中で、目が見えない者、耳が聞こえない者について述べられていました。これは肉体的に目が見えない、耳が聞こえない、ということではなく、霊的に見えない、聞こえない、ということです。霊的に見えない、聞こえないというのは、天地創造の神のみ心がわからず、それに沿う生き方ができない状態を意味します。旧約新約聖書を通じて、そういう状態は「心が頑なになる」とも言われます。神はかつて、御自分の意思に反するだけになってしまったイスラエルの民に対して、その霊的な目と耳を塞いでしまうという罰を下しました。そのことはイザヤ書6章に記されています。時はユダ南王国のウジヤ王が死去した頃、イエス様の時代から700年くらい前の頃でした。そのためイスラエルの民は神のみ心が一層わからない状態となり、国内は混乱状態が一進一退で深まり、対外的には大国バビロン帝国の侵略を受けて滅亡してしまいます。紀元前600年近くの出来事です。イスラエルの民の主だった人たちは異国の地に連行されていきました。

それから5060年経った後、今度はペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となると、イスラエルの民は祖国帰還が認められます。本日のイザヤ書42章の預言はその時期が近づいた頃に向けられています。神は、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を背負ったことで、その罪を赦すと宣言します(4325節、4422節)。本日の日課のイザヤ書4216節で神が霊的に見えない、聞こえない民を導いて知らない道を歩ませる、とあります。それは、民がもはや神の差し出す手をしっかり掴まらないと前に進めない、それくらいに神によりすがっている、信頼しきっている状態にあることを意味します。バビロン捕囚の苦難が驕り高ぶっていた民をこのようにへり下って神のみに信頼する民に変えたのです。つまり、霊的に見えなくなる、聞こえなくなるというのは、結局、天地創造の神しか信頼するものがなくなってその御手をしっかり掴まって前に進めるようになる、そういう状態をもたらす機能を果たすと言えます。そのような状態は、神のみ心を知って、それに沿う生き方をすることですので、霊的に見える、聞こえる状態になっているわけです。

ところで、イザヤ書4219節に、「神の僕」が盲目であると言われていることに違和感を抱く方もいらっしゃると思います。というのは、イザヤ書53章をみると、「神の僕」とは将来到来する救世主メシアのイエス様を指しているので、そのイエス様が盲目というのはどういうことか理解できないからです。実はこれは、イザヤ書で言われる「神の僕」というのは二つの意味がだぶっていることによります。一方で「神の僕」は、バビロン捕囚の罰を受けたイスラエルの民全体を意味し、他方では将来到来する救世主メシアを意味し、イザヤ書ではこの二つの意味がたぶっているのです。42章では明らかにイスラエルの民を指しています。

19節の「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか」という訳ですが、そういう質問ですと、「いいえ、他にはいません」という答えが返ってきてしまいます。ヘブライ語の原文はそういう修辞疑問文ではないと思います。素直に訳すと「わたしの僕以外には誰が目の見えない者か?」です。この神の問いを聞いた私たちは、「はい、私たちもそうです」と告白し、神に全面的な信頼を寄せて、その御手をしっかり掴まって暗闇の中を進みます。その時、神は、16節に言われるように、「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐに」して下さいます。

19節ではまた、「わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者があろうか」とありますが、「信任を与えた者」というのは辞書(HolladayConcise Hebrew and Aramaic Lexicon of the OTですが)に出ている意味を素直に使えば「報いを受けた者」となり(שלמpual分詞形)、罪のゆえにバビロン捕囚の苦難を受けることになったイスラエルの民を指します。そうするとここは、「罪の報いを受けたイスラエルの民と同じように目の見えない者は誰か?」という意味になります。この質問に対して、「はい、私です」と答える者は、神の御手をしっかり掴まって進むことになります。(19節は各国語訳も苦労しているようです。)

3.安息日の目的

 イエス様が目の見えない人の目を見えるようにした奇跡の業は、霊的というより肉体的な視力の回復でした。イザヤ書の預言は、字句通りに読めば、肉体的な視力回復としても霊的な視力回復としても理解できます。それで、イエス様が肉体的な視力回復の業を行えば、目撃した人たちは彼がイザヤ書の預言の実現と関係のある方だとわかったのです。イエス様が人間の霊的な目を見えるようにする奇跡の業は、十字架と復活の出来事を通して行いました。このことは後でまた述べます。

ところで、肉体的な視力回復の奇跡を目の当たりにしても、それがイザヤ書の預言の実現と関係があることを見えなくしてしまうことが起きてしまいました。それは、イエス様がこの奇跡の業を行ったのは安息日だったということでした。もし別の日に行っていれば、この方はイザヤ書の預言を実現する方だ!と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の注意は病気が治ったという奇跡には向けられなくなって、安息日を破ったということに向けられてしまいました。一体、イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?

実は、安息日を選んで奇跡の業を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるということです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。「聖別する」というのは、神聖なものにするという意味です。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福して神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、当時のユダヤ教社会の考え方では、仕事をしないことが安息日を神聖なものにすることの中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするか、ということについて教えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。イエス様の教えを理解することは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神のみ心を知ることにもなります。

 ここで、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。

 マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだことが仕事をしたと見なされて、イエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(2728節)。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。

 マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちは自分を訴える口実を得られる瞬間を待っているのだな、とわかったイエス様は次のように尋ねます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができません。イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということです。

 ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは誇張が過ぎて、読んでいて思わず吹き出しそうになりますが、イエス様にしてみれば、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいという様子がうかがえます。

 ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。「働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだ」と。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(1517節)。「安息日であっても」という言い方ですと、本当はいけないのだが、そこは目をつぶって認めなさい、というニュアンスになります。ギリシャ語原文を素直に読むとニュアンスは異なり、単純に「安息日に束縛から解いてやるべきではなかったのか」となります。つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのです。(英語NIV訳、ドイツ語ルター訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳も、素直な訳です。)

 まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。むしろ、しなければならないことになる。それ以外の活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。

イエス様は安息日であるかないかに関係なく、多くの人々に癒しの奇跡の業を行いました。病気だけではなく、悪霊、飢えなどからも人間を解放しました。しかしながら、イエス様が行った解放の業の中で最大かつ最重要のものは、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放することでした。それはどのようにして行われたでしょうか?

人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが、堕罪の出来事のゆえに全てが変わり果ててしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ623節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教はいつも、人間は罪びとだと強調するので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。

以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪というものを、「遺伝的に継承する罪」(arvsynd[スウェーデン語]perisynti[フィンランド語])と「行為に現れる罪」(gärningssynd[ス語]tekosynti[フィ語]の二つに考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と言うのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になります。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると、この子が罪びとだとは誰も考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。

罪が入り込んでしまったために死すべき存在となってしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在です。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまいました。しかし神は、人間を見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命に至る扉を開きました。人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのです。

以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様は、人間に死をもたらす罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対して完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、このイエス様の勝利に与っているので、何も恐れる必要はありません。天と地と人間を造られた神は今日も、この救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。

4.解放なら安息日に

キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することです。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場です。皆様もお馴染みのように、礼拝は、会衆が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉を解き明かす説教を聞いて、既に受け取った救いと解放を深く心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さった神を何よりも信頼して祈りを捧げ、思いを打ち明けます。そして、聖餐式では神との結びつきを強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目から見て強化されたものになります。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところです。そして、一週間後また帰って来るところです。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。

以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神が用意した罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導かれる場だからです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝をこれからも大切にしていきましょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2017年3月20日月曜日

こんこんと湧き出る泉の水のように (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2017年3月19日 四旬節第三主日

出エジプト記17章1-7節
ローマの信徒への手紙4章17b-25節
ヨハネによる福音書4章5-42節

説教題 「こんこんと湧き出る泉の水のように」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.      はじめに

 本日の福音書の日課はヨハネ4章にある有名な「サマリアの女」の話です。イエス様とこの女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、それを飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、その水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われています。永遠に喉が渇くことはない、とか、心の中に泉が出来てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何がたとえられているのでしょうか?たとえの意味ははっきりわからなくとも、聞く人にとって何か心を奪うような美しい描写ではないかと思います。

本日の福音書の日課の後半にもたとえがあります。刈り入れ人と種まき人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて、麦畑が黄金色なのを見なさい、と言われます。刈り入れ人である弟子たちは、別の者が労苦した結果を刈り入れするのであるが、別の者の労苦を分かち合うことにもなる、と言っています。もし、このたとえを家の中とかではなく、外の、まさに黄金色の麦畑の前で聞かされたら、別の者の労苦が具体的に何を意味するかわからなくても、なるほど、その通りだと言う気持ちになるのではないでしょうか?

これらのたとえは具体的に何かを指していています。それを「生きた水」とか「他の者の苦労」というものにたとえて言っているのですが、それではその具体的なものとは一体何なのでしょうか?美しい表現にうっとりして、それではそれは何を意味しているのですか、などと聞かれると、はた、と困ってしまいます。聞いた時は、わかったような気がするのですが、いざ自分の言葉で説明しようとすると、わかったようなことがどこかにいってしまう。真にもどかしいです。たとえというものにはそういうことがよくあります。たとえは、物事を直観的に分からせる効果的な手法だからです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」を具体的な言葉にしてみましょう。せっかく、うっとりしたのに何だか興ざめだと思われるかもしれませんが、具体的な言葉にして後で、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなるのではないかと思います。

2.

まず、本日の福音書の箇所の中で起きた出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行は、ユダヤ地方からガリラヤ地方に引き返します。マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後はガリラヤ地方に行き、そこを中心にして活動し、最後にエルサレムに向かう、という展開になっています。ヨハネ福音書ではイエス様は最後のエルサレム行きの前にも何度か往復されていて、三福音書には取り上げられないユダヤ地方訪問の記録が収録されています。

さて、イエス様一行は途中で、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる部分でした。それが、イエス様の時代から700年以上前の昔、東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連れて行かれ、逆にサマリア地方には東から異民族が強制移住させられて来ました。それで、同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいます。旧約聖書の一部は用いていましたが、本日の福音書の箇所の中でも言われているように、エルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族が自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負して、サマリア人を見下して、交流を避けてきたことは良くわかります。本日の箇所のサマリア人の女性の発言からも、そのことがよく伺えます。

イエス様一行は、サマリア地方にあるシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統に基づき(創世記4822節、ヨシュア記2432節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と考えていました。

さて、イエス様の弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、「旅に疲れた」イエス様は井戸のそばで座っていました。「疲れた」などと、イエス様が神と同質な方に似つかわしくない状態にあったのは、これは神のひとり子がこの世に送られた時、乙女マリアという人間の母から人間として生まれたことによります。神と同質ですから、罪を持つことも犯すこともない神聖な方です。しかし、人間として生まれたことで、疲れた時は疲れ、空腹な時は食べ、悲しい時は泣き、喉が渇けば渇き、痛み苦しい時は痛み苦しんだのです。こうしたことは全て福音書の中で言われています。まさに人間として生まれたことで、神が人間の痛みや苦しみを自分のものとして受けられたのです。「ヘブライ人への手紙」4章の中にイエス様について、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と述べられていますが、これは真理です。

さて、イエス様が一人で休んでいると、サマリア人の女性が井戸に水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろ。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのように、女性がやってきました。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は、なぜサマリア人と交流を避けるユダヤ人が自分に水を求めるのか、と驚きます。そこから二人の対話が始まります。そのやりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来る者であると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水のように考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、かつて5人夫がいたお前が今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解である、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

そこで、女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。全てのことに驚いた女性は、シカルの町の人々にイエス様のことを知らせに走り去っていきました。もう人目を避ける境遇にあることなど眼中にありませんでした。それほど驚き、人々に知らせないではいられなかったのです。ただし、女性がメシアという言葉を、本当にイエス様が自分で理解していた意味と同じ意味で理解していたかは定かでありません。というのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きる前は、ユダヤ人の間でさえメシアという言葉は使う人によっていろいろな意味を持っていたからでした。その辺の事情は本説教では深入りしません。ただ、本日の箇所の最後のところで、町の人々が二日間イエス様の教えを集中的に聞いた後、彼のことを「この世の救い主」(42節)と信じたと言うのは、注目に値します。

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに、食べ物を買ってきた弟子たちが戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の御心を行い、その業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに話を続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」ということについて述べていることを注釈しておきます。イエス様は、「お前たちは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているが、畑を見よ、もう色づいているではないか」と言われます。これは少し変ですね。というのは、刈り入れまで4カ月あるのに、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?これは、ギリシャ語の原文をどう理解するかによります。一つの訳仕方としては、新共同訳と異なり、「麦は種を蒔いてから刈り入れまで4カ月かかるものである」という意味にとることが可能です(フィンランド語訳の聖書はそうです。ただし、英語NIV、スウェーデン語、ドイツ語ルター版は新共同訳と同じ)。地中海地域でしたら春小麦はそれ位でできますので、イエス様は当たり前のことを述べていることになります。種は蒔いた後、一定期間したら刈り入れの時が来るものだ、ということです。

ところが、新共同訳ですと、刈り入れまでまだ4カ月あると言っているのに、なんとシカルの麦畑はもう実っている、ということになります。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?実は、イエス様が目を上げて見よ、と言っているのは、まだ茎も伸びていない畑ではないのです。イエス様は何かを現実にはない黄金色の畑にたとえていることになります。それは何でしょうか?イエス様は、目を上げて見なさい、と言います。井戸があるところよりも高い所にあるシカルの町の方を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るのが目に入ります。サマリア人の女性が、預言者かメシアかわからないが、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たということで、将来起こるべきことを先取りしていることがある。つまり使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出る、ということの先取りがここにあるのです。目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる、後には聖書の御言葉を通して信じるようになる、このようにしてイエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ豊かな実にたとえられているのです。

イエス様を救い主と信じる人を豊かな実と考えれば、実は最初の訳仕方でも問題ありません。というのは、目を上げて見なさい、と言われる時、視野に入ってくるのは、目の前の色づいた麦畑と町の方からやってくる大勢の人たちの両方になるからです。この方が、たとえで言われる直接的な描写と隠された意味の両方が一緒に揃うので、一層効果的と言えます。

いずれにしても、町の人たちは請うてイエス様に滞在してもらい、2日間に渡って教えを聞いて、彼のことを「この世の救い主」と信じるようになります。長くなりましたが、以上が本日の福音書の箇所の出来事の流れです。

3.

さて、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと言うと、水が動植物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので「生きている」という意味になり、文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語スウェーデン語のものですが、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」という言葉を使う時はたいてい特別な意味が込められています。何かと言うと、「生きる」とか「命」は今の世にあるものの他に、今の次に来る世のものもあって、それらを全部ひっくるめた「生きる」、「命」になります。それで、「生きている水」とは飲む人を永遠の命に至らせる水ということで、まさに「永遠の命を与える水」ということになります。

 この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉となって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。泉とは、地下水が地表に沁み出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まって池のようになったりしますが、それは泉とは言えないでしょう。掘らないで自然のままで地下水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、水は溢れ出るしかなく小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を頂くと、そのような水が絶えず湧き出る泉が心の中に出来て、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。命の根源にかかわるようなことを予感させます。でも、これは一体どういうことでしょうか? イエス様が与える水が死を超えた永遠の命に導いていく、つまり、私たちの命をこの世で生きるものだけに留めず、この世での命と次の世での命を合わせた両方にまたがるものにして、その間ずっと私たちの内にこんこんと湧き出て流れ続ける水。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

 ここで一つ注意したいことは、この水はイエス様が与えるもので、一度心に泉が出来たら、あとは水が勝手に溢れ出て行くということです。人間はただ、与えられたものを受け取るだけ、後は溢れ出て流れ出ていくにまかせるだけという受け身な存在です。永遠の命に与れるために人間はただ受け取るだけでいいというのは、キリスト信仰そのものを言い表しています。信仰というものが、与えられるものを受け取るだけでいいというのは、違和感が持たれるかもしれません。一般には宗教というのは、何か定められた掟や規定をしっかり守ることをしたり、何か奇跡を行ったりしたら強い信仰、出来なければ弱い信仰ということになると思いますが、その場合、信仰とは人間の方で頑張らないと理想の状態に到達できないということでしょう。それなのに、キリスト信仰では、まず受け取ることに専念せよ、というのはなんだか物足りない感じがするかも知れません。

キリスト信仰の場合は、人間が永遠の命に与れるために何かをしなければならないのは人間の方ではなく、イエス様が既にして下さったのです。そこが全ての出発点になります。イエス様が人間をこの出発点に立たせてくれたのは、それは人間には不可能だったからです。それでは、どのようにして出発点に立たせて下さったかと言うと、それは、人間が永遠の命に与れない障害となっていた罪の問題を解決してくれたことでした。人間は、自分の造り主である神に対して不従順になって罪を宿すようになってしまった堕罪の時に神との結びつきを失い、永遠の命から切り離されて、死ぬ存在となってしまいました。天地と人間の造り主である神は、この状態を直そうと、ひとり子のイエス様をこの世に送られ、人間の罪を全てイエス様に背負わせ、罪の罰を全て彼に請け負わせて十字架の上で死なせました。つまり、イエス様の犠牲の死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神の目に適う者とされ、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになりました。万が一この世から死んでも、その時は神が御手を差し出して御許に引き戻してくれて、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。

このように、神がひとり子イエス様を用いて成し遂げたことが自分に対して行われたとわかってそう信じ、イエス様こそ救い主とわかってそう信じれば、永遠の命に与れるのです。まさに、信じることが永遠の命に至らせることになるのです。それで、イエス様が与える「永遠の命を与える水」というのは、こうしたことを信じる信仰ということになります。キリスト信仰にとって信仰とは何かと問われたら、それは、父なるみ神がひとり子イエス様と一緒に人間の救いを成し遂げたということだ、というのが答えになります。父とみ子は、全てのことは整えたので、どうぞ受け取りなさい、と言って差し出してくれている。それを、はい、ありがとうございます、と言って受け取れば、それが私たちの信仰になって、私たちの内に永遠の命に向かって溢れ流れ出る水の源が生まれるのです。

イエス様は、自分にとって食べ物とは神の御心を行い、神の御業を成し遂げることだと言っていますが、これも「水」の場合と同じように、「食べ物」が何か永遠の命に導くものを意味しています。神の御心を行い、神の御業を成し遂げるというのは、神のひとり子が十字架の死をもって人間に代わって罪を償い、復活させられることで死と死をもたらす罪を滅ぼして、人間を罪の支配下から贖いだすことです。まさに、人間を永遠の命に与らせる御業です。

 刈り入れ人と種まき人のところで、「別の者たちの労苦」と言われます。「別の者たち」と複数形になっていますが、これは、み子イエス様と父なるみ神が人間の罪の償いと罪の支配からの贖いの業を成し遂げたことを指しています。弟子たちは、自分たちが見聞きしたことを命をかけて証言し、記録に残し伝えることをし、その結果、多くの人たちが、神がイエス様を用いて成し遂げた救いを受け取ることが出来るようになりました。受け取った人は豊かに実る実となりました。

4.

 兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの救いを受け取った私たちの内にはこんこんと水が湧き出る泉があることを忘れないようにしましょう。日々聖書の御言葉を繙き、自問し、神に祈り全てを打ち明けることは大事です。そうしないと、泉は見失われ、小川のせせらぎは聞こえなくなります。この世には、泉のあることを忘れさせたり、そんなものはないと思わせるものに満ちています。特に試練や苦難や誘惑に遭う時などはそうです。しかし、そんなのは単なる思わせにしかすぎません。本当のことではありません。せせらぎの音は雑音にかき消されることはあっても、せせらぎの音自体は消えたことにはなりません。いつもゴルゴタの十字架の主に思いを馳せ、心の目をそこに向けましょう。そうすれば、泉は相変わらず水を湧き出させていることに気づくでしょう。心の耳にせせらぎの音が響いて来るでしょう。


 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン