2020年9月28日月曜日

過去の呪縛から解き放たれて生きる (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年9月27日(聖霊降臨後第17主日)スオミ教会

 

エゼキエル書18章1-4、25-32節

フィリピの信徒への手紙1章1-13節

マタイによる福音書21章23-32節

 

説教題 「過去の呪縛から解き放たれて生きる」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイ福音書の個所は全く異なる出来事が記されていますが、双方をよく見ると共通するものが見えてきます。何かと言うと、過去の呪縛から解き放たれて新しい生き方に入るということです。

 

 エゼキエル書の個所は、紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国はその後、神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。そして、最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。

 

 ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても駄目、いくら自分たちが神の意思に沿うように生きようとしても無駄ということになってしまいます。自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったからです。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。

 

マタイ福音書の個所の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は首都の中で人々の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。

 

これに対して民族の指導者たちは反感を抱き、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、それに答えたら教えようと尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神に由来すると言えばよかったのになどと思ったりします。

 

その後に二人の息子のたとえの教えが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが本当は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えてきません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解き放たれて新しい生き方に入ることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。

 

2.エゼキエル18142532

 

 エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている521節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、真実に基づかないで裁きを行うこと、その他の掟や神の意思に従わないこと等々です。なんだか現代の私たちの社会のことを言っているみたいです。神は、こうした自分の意思に反することをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。

 

 この、死なないで生きるというのは少し意味を考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史を表面的なモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。

 

 先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味ではありません。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、すでに神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めていたのであれば、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。

 

 さて、罪の責任は先祖とか他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖と神の関係がどうだったかは全く関係なくなりました。すると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の転換点には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。

 

3.マタイ212332

 

エルサレムの神殿の祭司や長老といったユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただしました。もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ましたが、そうすると指導者は、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。

 

二人の息子のたとえに出てくる父親は神を意味します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。これと同じなのが洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちであると言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。

 

ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる時について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした聖書の預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。

 

娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪人と見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。そんな言い逃れで神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。

 

話がすこし逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨルダン川のヨハネのもとに行き洗礼を受けました。人々の中に、徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼」とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まらず人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。

 

さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにして、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ、それをしてから死者の復活と最後の審判を迎えさせるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。いずれにしても、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。

 

ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分がしてきたこと自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行為で罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。

 

そこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うということなのか?いや、ひょっとしたら印の洗礼では不安な人たちを口先だけで引き寄せようとしているのではないか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った多くの人たちには罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立って、罪の赦しが少し脇に追いやられていた者も多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。

 

イエス様が持っていた罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に父なるみ神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人に効力を持ち始めます。罪が償われたのだから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにしたのだ、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。

 

イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。というのは、言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。

 

4.勧めと励まし

 

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることがあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることを知ることが出来ます。

 

そして、いつの日か神のみ前に立つことになった時には、父なるみ神よ、私はあなたが私に成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことがあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです、そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


 

2020年9月21日月曜日

神の国への入門講座 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年9月20日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会

 

ヨナ書3章10-4章11節

フィリピの信徒への手紙1章21-30節

マタイによる福音書20章1-16節

 

 

説教題 「神の国への入門講座」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の個所は、イエス様のブドウ畑の所有者と日雇い労働者のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中を働いた人たちが夕暮れ近くの最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だっので、それに対して所有者に不平を言う。所有者は、朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。1デナリオンというのは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか。もっとな話です。それに対して所有者は、「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることに対してお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしているのを正しくないと言って覆すつもりなのか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。

 

これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金ということで、先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が1,000円ちょっと、それで12時間働いたら12,000円です。12時間働いた人がその額をもらった時に、おい、聞いたか、1時間の奴らも同じだってよ、なんて聞かされたら心穏やかではなくなるでしょう。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて一番苦労した者は一番短く働いて一番楽した者と同じ扱いを受けても当然と思わなければならないということなのか?でも、このたとえに何の自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が12,000円もらえたのは一番長く働いた人のおかげということはありません。専ら所有者が自分はそうすると決めてそうしただけです。一番長く働いた人は最初に同意した額は減らされたりしていません。

 

ここでのイエス様の趣旨は、所有者の給与の払い方を私たちの現実の生活にあてはめよ、ということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国」はブドウ園の所有者にたとえられると言います。「天の国」とは天地創造の神、万物の造り主がおられるところです。「神の国」とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。

 

「神の国」がブドウ畑の所有者に、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の意思、考え方が貫かれている国だということです。つまり、ブドウ畑の所有者のような考え方をするお方が「神の国」を体現しているということで、この所有者は神を意味します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、ということを教えているのです。そういうわけで、本説教ではそのことについて以下の3つの点に注目して見ていこうと思います。まず、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか期間の長短は問題ではないということ。次に、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。最後に、神の国に迎え入れられる者になったら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。そういうわけで本説教は神の国に迎え入れられることについての基本をお教えします。、まさに神の国への入門講座です。

 

2.イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたのが早い遅いは関係ない

 

神の国に迎え入れられるとはどういうことでしょうか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観に結びついています。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。死生観は、人間はそういう罪を持つがゆえに神聖な神から切り離された状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神から離れた状態でこの世を生きなければならなず、この世を去った後も最後の審判の時に神聖な神の前に立たされた時に申し開きが出来ないということです。そこで神が、これではいけない、人間が自分と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということでひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。

 

それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして人間の罪の問題を解決したのでしょうか?それはまさに、彼に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は計り知れない力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることを天地に示し、その命に至る扉を人間に開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。

 

 そしてこの後は、人間がこれらの出来事は自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その時、その人は罪を償われた者と神から見られ、まさに神から罪を赦してもらった状態に置かれます。それで神聖な神の目に適うものとなって神との結びつきを持ってその道を歩むことになります。最後の審判の時も、イエス様を救い主と信じる信仰を持って生きていたことが決め手となって神の国に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。それを人間に命を賭してまで整えて下さったイエス様は真に救い主です。

 

ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。ある人は、親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。別の人は、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受ける場合があります。子供の時からずっとキリスト信仰者である場合、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合があります。どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者として生きた期間が長かったから迎え入れられやすいとかそういうことはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。

 

そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取らないということがわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっているので、誰も信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆に、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあなたも私と全く同じ値で与ることが出来て本当に良かった、そう言ってくれます。

 

ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、何らかの事情でイエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があるということです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れられはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れようと思います。

 

3.人間の能力や業績によるのではなく神のお恵みで迎え入れられる

 

次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは、実は前の章、19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て、「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞いたところです。イエス様は十戒のうち隣人愛に関する掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。

 

このイエス様と青年の対話の中で、若者が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。ここでは話が善い「こと」から善い「方」へ、事柄から人格へ変わるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問したのに対して、イエス様は「善い」は神だけが持つ、「善い」を体現しているのは神しかいないと言い換えるのです。つまり、そもそも「善い」を体現していない人間が神の国に迎え入れられるような「善い」ことが出来ると考えるのは外れているというのです。「善い」ということについて考えたり口にする場合、神が出発点にならないといけないのに、青年は人間を出発点にしているのです。

 

このように、神のもとだけに「善い」がある、神が「善い」を体現しているということを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。でもそれはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければいけないのです。

 

イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。この神が「善い」方ということが本日のたとえの中にまた出てくるのです。本説教の最初でも申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方とも元のギリシャ語では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまうのですが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられることは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈られて彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解き放って永遠の命に向かってしっかり歩めるように全てを整えて下さったということです。

 

4.罪と戦うという仕事

 

神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくと言ったら、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?そのように言われるかもしれません。それなら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れの時にみんなを集めてお金を渡してもいいのではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがあるということではないのか?そのしなければならないこととは何か?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって教会の礼拝に通い、ちゃんと献金をして人助けや慈善活動をすることか?それが、若い時からずっとしてきた人と晩年になってからするようになった人を神は同等に扱って下さるということなのか?

 

もちろん、そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあって出てくるものです。それがないと、教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、根本的なこととは何かと言うと、それは、キリスト信仰者には罪と戦うという仕事があるということです。

 

パウロが「ローマの信徒への手紙」で教えているように、人間は洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられます。古い自分が死んで新しい自分が始まるのです。この新しい自分とはまさに罪との戦いに身を投じる自分です。ローマ813節でパウロは「もしあなたがたが聖霊の力によって体の行いを日々、死なせていくならば、あなたがたは永遠の命に与る者として生きる」と教えています。新共同訳では「体の行いを絶つならば、生きる」と訳されて、「絶つ」などと言うと一気に断ち切ってしまうみたいですが、ギリシャ語の時制は日々そうするということです。動詞も「絶つ」ではなく、文字通り「死なせる」です。「生きる」という動詞も未来形なので永遠の命に向かう生き方を意味します。それで、「体の行いを日々、死なせていくならば、永遠の命に与る者として生きる」というのが正確な意味になります。これが罪と戦うということです。

 

「体の行いを死なせる」というのはどういうことか?ルターがそれを的確に説き明かしていますのでそれを皆様にお聞かせします。

 

「この聖句でパウロは、キリスト信仰者にはまだ死なせなければならない罪の汚れが体に宿っていることを認めている。自然のあるがままの状態では、そのような「体の行い」はいつも生じてきてしまうのだ。それは神の意思に反しようとするあらゆる欲望や誘惑である。例えば、神の意思や御言葉に意を介さない傲慢さ、心の冷たさ、辛い時に神を恨み背を向けること、神に対する反抗心、隣人に対する復讐心、妬み、憎しみ、利己的な心、ふしだらな生活などである。こうしたものはキリスト信仰者の肉と血にも宿っていて、信仰者といえどもたきつけられたり苦しめられたりする。そればかりでなく、人間的な弱さのために、また油断してしまったために不意をつかれることもある。もし、これらに対して立ち向かおうとせず、パウロが言うような「体の行いを死なせる」ことをしないでいると、これらの罪は一線を越えて人間を占拠してしまうことになる。

 

聖霊の力を借りて罪を死なせていくというのは、次のようにすることである。まず、罪は罪であり神の意思に反することであると自分自身はっきりさせて、自分にはそれがあるという弱さを認める。自分に罪が芽生えてその欲に火が灯ったと気づいたら、すぐ罪ではなく神の御言葉をもって信仰者としての自分に立ち返る。神の御言葉とは、罪を神罰に値するものであると言い、同時にイエス・キリストの十字架のところでそれは償われていると言う御言葉である。キリスト信仰者はこのようにして罪の赦しを信じる信仰で強められて罪と戦うことができるのであり、罪の言いなりにならず、欲望が行為に現れることを圧しとどめることが出来るのである。」

 

以上がルターの教えです。「体の行いを死なせる」とは、内に宿る罪が行為や言葉となって現れてくるのを圧しとどめることと考えられています。このような生き方はパウロがローマ122節で言っている、この世に倣わない生き方です(μη συσχηματιζεσθε τω αιωνι τουτω)。理解・意志が一新された者として神によって変えられていく生き方です(μεταμορφουσθε τη ανακαινωσει του νοος.....)。その結果、何が起きてくるかと言うと、パウロはガラテア5章で聖霊の結ぶ実を結ぶようになると言います。どんな実かと言うと、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と言われています。どれも素晴らしく聞こえますが、これらは日本語の漢字に置き換えられているのでギリシャ語のもとの意味が正確に伝わっているか怪しいところもあります。それなら、聖霊の結ぶ実は具体的に何であるかを見てみるといいです。いろいろありますが、ローマ12章にその例が列挙されています。悪を憎み善から離れない、兄弟愛を持って互いに愛し尊敬をもって互いを優れた者と思う、希望を持って喜び苦難を耐え忍びたゆまず祈る、迫害する者を呪わずその者の祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、身分の低い人と交わり自分を賢い者と自惚れない、誰に対しても悪に対して悪を返せず全ての人の前で善を行う、他者と平和に暮らすことが自分次第であるという時は必ずそうする、復讐は神の怒りに任せて敵が飢えていたら食べさせ渇いていたら飲ませる等々です。こうしたことが、神の御言葉の上に立って罪を死なせる戦いをしていくうちに実のように出てくるというのです。

 

パウロはまた洗礼を受けるとイエス・キリストを衣のように着せられると言いますが(ローマ1314節、ガラテア327節)、そのような神聖な衣を着せられたら、内側に宿る罪は圧し潰されていきます。罪は私たちの肉を足掛かりにして抵抗しようします。それで罪との戦いが生じてしまうのです。罪と戦うというのは、神聖な衣が罪を圧し潰していくのに自分を委ねることです。つまり、イエス様という衣を手放さないで、しっかり纏い続けるということです。そうすれば、苦しい戦いかもしれないが、勝利が約束されている戦いです。最後の審判の時に神聖な神の前に立たされる時、至らないところは沢山ありましたが、頂いた衣はしっかり纏ってきました、と言うことが出来ます。それは、纏った期間が長くても短くても関係ありません。

 

4.洗礼を受けても罪と戦っていない人たちはどうするのか?

 

最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまった場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題で、キリスト教会が分かれてしまう一つの原因にもなります。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親が皆が皆、イエス様が救い主と教えたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。

 

その場合はどうしたらよいのか?これはもう、わかっていない人にあなたが受けた洗礼というのはイエス様の衣を着せられたということで、それがわかって罪と戦わないと神聖を冒涜してしまう危険なことだ、しかし、わかって戦えば大きな祝福があるということを教えていかなければなりません。

 

まさにそのための活動があるのです。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけの団体ではありません。その組織は海外伝道部と国内伝道部の二本立てです。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道は、まだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに気づかない人に気づかせることです。両方行っているのです。最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、30年前にはルター派の国教会に属する人は90%以上いたのが今では70%を下回る勢いです。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきているというのが現状です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年9月14日月曜日

罪という神に対する負債を帳消しにされて (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2020年9月13日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会

 

創世記50章15-21節

ローマの信徒への手紙14章1-12節

マタイによる福音書18章21-35節

 

 

説教題 「罪という神に対する負債を帳消しにされて」


 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

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本日の福音書の個所はそんなに難しくない感じを持たれるのではないでしょうか?王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらう。しかし、自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては、泣きつかれても耳をかさず非情な態度で厳しく取り立てる。それを知った王様はこの情けのない家来を牢屋に入れて完済するまで出さないことにした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら自分も他の人に同じようにしてあげなければならない、そう教えているのだなと思うでしょう。でもそれはなんだか当たり前の話で、別にキリスト教でなくても、聖書を持ち出さなくても、道徳教育で教えることができると思うかもしれません。さらには、情けをかけられたらお返しに他の人にもかけられるだけでなく、むしろ自分が最初に情けをかける人になって周りの人がそれに倣うことができるような模範になることも大事だと教える人もいるかもしれません。つまり、たとえの中の王様になることです。聖書はそこまでは言っていないので、そのように教える人は聖書なんか大したことないなどと思うかもしれません。

 

しかし、イエス様がここで教えていることはそういう道徳論ではありません。では、何を教えようとしているのか?これから、それを見ていくわけですが、結論を先に申し上げます。道徳論だと先に申し上げたように人間と人間の間の関係はこうあるべきだという話になりますが、ここでは、もっと根底的なこと、天地創造の神、万物の造り主の神と人間の関係はこうあるべきだという話です。そこから派生して人間と人間の間の関係はこうあるべきということも出てきます。まず、神と人間の間のあるべき関係があって、それに続いて人間と人間の間のあるべき関係が来ます。

 

そういうわけで、このたとえの中で教えられる神と人間のあるべき関係とはどんなものか、そしてそこから導かれる人間と人間の間のあるべき関係とはどういうものかについて見ていきましょう。

 

2.

 

このたとえはペトロの質問に対するイエス様の答えとして話されました。ペトロがした質問は、もし兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげていいのか?7回までか?というものでした。つまり、赦しには制限があってそれを超えたらもう赦してあげなくてもいいのか、という質問です。それに対するイエス様の答えは7回までではない、770回繰り返すまでだ、でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。それは、創世記424節に数字の777の対比があるからですが、ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしてもイエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。イエス様は教える時、よく相手の度肝を抜くような誇張を用います。数ミリしかない小さなからし種から大木が育って天の鳥たちが来て巣を作るとか、麦の種が30倍、60倍、100倍の実を結ぶとか、ここも7回なんてみみっちいことを言うな、77回だ、770倍だ、と少しぶっきらぼうに相手があっけに取られるような言い方をしているのです。制限のない赦しとはどんなものか教えるためにたとえが話されます。

 

たとえの説き明かしに入る前に、先週のイエス様の教えを少し振り返ってみます。というのは、ペトロの質問は先週の教えの続きとしてあるからです。「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者に罪を犯すという問題です。先週の教えもそのことについてでした。

 

まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」ということはどういうことか。これは何か法律的な犯罪を犯すことよりももっと広い意味で、要は十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。イエス様は、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えました(マルコ1231節等)。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺す、姦淫する、盗む等々の掟を破る、こうしたことを行為のみならず考えや言葉でも行ってしまうことが「罪を犯す」ことです。

 

 ここで「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手です。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただ、今見ているマタイ18章では問題が絞られていて、隣人の中でもキリスト信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたらどうするかということです(後で見るように、問題が信仰者以外の隣人の場合にはどうするかということにも応用がききます)。

 

イエス様の教えは、罪を犯された信仰者は犯した信仰者が罪を認めて赦しを願うように導かなければならない、ただし、大っぴらにならないように出来るだけ内輪でしなければならないというものでした。もし罪を犯した信仰者が心をかたくなにして赦しを願わず、最後に教会の代表者の言うことも聞かなければ、その時はその人は教会の外側の人間のようになってしまうのだ、ただし、それは罪を犯された人についてそうなのだ、と教えます。少し微妙な言い方ですが要は、罪を犯した者は教会員全員にとって外側の人間になってしまうのではなく、罪を犯された者に関してのみそうなるのである、しかも外側の人間そのものになってしまうというより、そのような者になると言っていて、そこには断罪の視点がありません。断罪の視点がないというのは、裁きは神がすることとして神に委ねられているということです。人間がすることと言えば、犯された罪は罪であると明確にはするが、罪の赦しを受け取れるように導くことです。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みに再び戻れるようにすることです。信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことです。

 

以上のことを教えた後で、今日のペトロの質問が出てきます。信仰の兄弟が罪を犯した、話し合いの結果、赦しを願ったのでめでたしになったが、残念なことにまた犯してしまった。それで話し合ったら、また赦しを願った。そんな繰り返しは何回まで許されるのか?あるいは、話し合いをしたが、心がかたくなで赦しを願わなかった。その状態でまた罪を犯した。それで話し合って、今度こそ赦しを願うかと思ったらまた願わなかった。こんな状態で罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことをずっと続けるのか?イエス様の答えは明快でした。ずっと続けるのだ、赦しを願ってまた犯しても赦しを願ったら何度でも赦すべし、赦しを願わなくてまた犯しても罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けるべし。裁きはしないと言う以上は、そうにしかならないのです。裁きというのは、罪の赦しの恵みに戻れるようにしない、入れるようにしない、とシャットアウトしてしまうことです。それは人間がすることではありません。そもそも人間には出来ないことです。

 

他人を裁くことは人間がすることでなく、そもそも出来ないということは、本日の使徒書の日課ローマ141012節でも言われています。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです(10節)。わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです(12節)。」この「自分について神に申し述べる」と言うのは、ギリシャ語原文ではなにか収支報告をするような意味の言葉です。自分ではどんなに正確に報告しているつもりでも、神の御手にはその人のことの全てを記した「命の書」があるので、見落としていることは全て指摘されてしまいます。ましては誤魔化しなどは一切通用しません。この人生の収支報告はまさに自分自身についてであって、他人がどうだったということは全く関係ないのです。全知全能の神の前ではあなた自身、私自身のことだけが問われるのです。

 

3.

 

さて、赦しを願う心になってもまた罪を犯してしまった、それでも赦しを願ったら何度でも赦さなければならない。または、赦しを願わないまままた罪を犯してしまった、それでも、その人が罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けなければならない。そういう無制限の赦しをイエス様はたとえで教えるわけですが、その教えで無制限の赦しが納得できるでしょうか?以下、見ていきましょう。

 

まず、言われている金額について見てみます。これは以前にもお話したことがありますが、まだ聞いていない人もいらっしゃるので今一度お話しします。1万タラントンというのは誰でも何か大きな額だろう、100デナリオンは小さな額だろうと推測できると思います。具体的にどれくらいの額かと言うと、まず100デナリオンですが、1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それなので100日分の賃金となります。少し身近な金額で考えてみますと、今東京都の最低賃金は時給1,013円ということで、仮に8時間働いて8,000円ちょっと、その100日分で80万円強。これが、王様から情けをかけてもらった家来が仲間の家来には情けを示さなかった借金の額です。仲間の家来は情けを乞いましたが、問題の家来は返済が済むまで彼を牢屋に入れてしまいました。

 

次に1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので1万タラントンは6,000万デナリオンになります。1デナリオンを8,000円とすると、6,000万デナリオンは4,800億円。問題の家来は4,800億円の借金を返すことが出来ず王様に泣きついて情けを乞い、王様は憐れんで帳消しにしてくれました。なのに、仲間の家来が抱える80万円の借金は情けを乞われても聞いてあげませんでした。

 

普通に考えると、4,800億円の借金を帳消しにしてもらったら、80万円の借金など帳消しにしても痛くも痒くもないだろうに、なんと心の狭い家来だということになるでしょう。しかし、ここは心の狭い広いという問題を超えた大きなことがあります。問題の家来は王様の怒りを買って、牢屋に入れられてしまいます。返済が済むまで出られないということですが、借金を返す余裕がない人がどうやって返済できるでしょうか?これはもう永遠に牢屋に入っていることになります。1万タラントンという金額はイエス様流の度肝を抜く言い方ですが、要は返済は一生かかっても無理、永遠にかかるという意味です。

 

そこで詩篇49篇にある御言葉を思い出します。

 

「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」(89節)

 

「贖う」というのは難しい言葉ですが、捕らわれた状態にある人を代償と引き換えに解放するという意味です。「買い戻す」と言い換えてもいいです。さて、問題の家来は「とこしえに払い終えること」のない状態に陥ってしまいました。彼は本当ならば初めの段階で永遠の捕らわれの状態に陥っていたはずなのですが、王様から常識では考えられないような憐れみをかけられて陥らないで済んだのでした。詩篇の御言葉、魂を買い戻す値は高く、永遠に払い終えることはないというのは、人間は誰かに買い戻してもらわないと天国に入れないということです。人間は何かに捕らわれた状態になっている、そこから解放されないと天国に入れないということです。それでは人間は何に捕らわれているのでしょうか?

 

そこでマルコ1045節にあるイエス様の言葉を思い出します。

 

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」

 

イエス様が人間のために身代金になったというのはどういうことでしょうか?この言葉はイエス様が十字架にかけられる前に話されました。これを聞いた弟子たちは何のことか理解できませんでした。しかし、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きた後で全てのことがはっきりとわかるようになりました。イエス様が神の想像を超える力で死から復活された時、彼は本当に死の力を超える永遠の命を持つ方、まぎれもなく旧約聖書に預言されていた神のひとり子であることがはっきりしました。それではなぜ、神のひとり子が十字架にかかって死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子イエス様のおかげで神から罪を赦された者として扱ってもらえる、そういう状況が生み出されたのです。

 

そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れます。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられます。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に移行できるようになったのです。そこにはイエス様の犠牲の死があります。彼が人間を神のもとに買い戻す身代金になったのです。十字架と復活の出来事の後、やっとこのことがわかった使徒たちは次のように記しました。

 

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ17節)

 

ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ11819節)

 

神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者はその道に入ったのです。

 

4.

 

イエス様を救い主と信じる信仰で神から罪を赦された者であると見てもらえるようになったとは言っても、最後の審判の時に神の御前に立たされて人生の収支報告をしなければなりません。神は細かいところまで全てお見通しだと言うのなら、その時自分は罪は全然ありませんでした、あなたの意思に完全に一致するように生きてきましたなどとは言えないのではないか。そういう不安が起きます。その時はパウロの次の言葉を思い出します。

 

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテア327節)

 

実に洗礼を受けるというのは、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられることなのです。その衣を被せられたら、神は内側に残る罪よりもその衣に目を向けられます。自分が編み出したのではなく、着せてもらった神聖な衣に神は目を向けられて内側の汚れを覆い隠して下さるのです。

 

そう言うと、罪を隠し持っていてもいいのか、それなら神の意思に反することを行ったり考えたりしても大丈夫ではないか、と思われるかもしれません。しかし、そういうことでは全然ないのです。着せられたものは神の神聖さそのものです。覆われたものは神の意思に反する罪です。神聖と罪は全く相いれません。死の力を超える神聖は、一度覆いかぶさると内に残る罪を圧し潰そうとします。嫌でもそういうことになるのです。イエス様を衣のように纏ったら、あとはその神聖さが罪を圧し潰していくことに身も心も任せるしかありません。もちろん罪は抵抗しようとします。無駄な抵抗ですが、罪は肉を通して人間が抵抗に加担するように仕向けるので、時として物凄い戦いが起きます。イエス様を衣のように纏う者がどのような内的な戦いに身を投じることになるかということをパウロの次の言葉はよく表しています。

 

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ1314節)

 

神の御前で人生の収支報告をしなければならない時、神は信仰者がイエス様という衣を最後までしっかり身に纏っていたかどうかに目を留められます。衣を手放さずに纏っていたということ自体が、自分は罪を罪としてはっきりさせてそれに加担しない生き方をしたという証しだからです。衣を手放せという暴風雨のような力にも屈せず、手放さなかったからです。この時、イエス様をしっかり纏っていた人は、あの暴風雨の時、神はもう自分から離れてしまったと思ってしまったが、全然そうではなかった、あの時もずっと一緒だったとわかるのです。

 

5.

 

このように天地創造の神、万物の造り主である神はイエス様を通してまことに人間の贖い主でもあります。人間を罪と死の支配のもとから御自分の御許に買い戻すために、ひとり子の血を流すことまでされました。それは、人間がこの世を御自分としっかり結びついて歩むことができ、この世を去った後は永遠に御許に迎え入れられるようにするためでした。真に永遠ということがかかっているので、それこそ死を超える価値がないと買い戻すことができません。金や銀をいくら積み上げてもその価値は生まれません。人間には払えないので神が代わりに支払って下さったのでした。このことがわかれば、隣人が罪の赦しを受け取れるように導くことが神の御心であることがわかります。罪という神に対する莫大な負債を帳消しにしてもらったら、隣人にも帳消しが起きるように導かなければなりません。あの家来が仲間の家来にしたことは導くどころかシャットアウトしてしまったことを意味します。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みの中に再び戻れるようにすること、信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことが何よりも大事です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン