説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十四主日)スオミ教会
エゼキエル書33章7-11節
ローマの信徒への手紙13章8-14節
マタイによる福音書18章15-20節
説教題 「罪は罪であると言うが、我のすべきは神への立ち返らせであり裁きにあらず」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節を見ると、問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者です。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したとき、どう対処すればよいのでしょうか?
それを見る前に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」ということはどういうことか考えてみます。「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えます(9節)。これと同じ教えはパウロよりも前にイエス様も教えていました(マルコ12章31節等)。パウロはイエス様の教えを受け継いでいるのです。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。
「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。本日の福音書の個所のイエス様の教えでは問題が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたら、その者に対してどうするかということです。
少し脇道に逸れますが、「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立があって、その解決を当時まだキリスト教と何のかかわりもなかったローマ帝国の法廷に委ねられていたことがうかがえます。それについてパウロは、問題解決を信仰者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7-8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということをパウロは見抜いていました。
金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教の性モラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6-9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の永続する一夫一婦制です。当時の地中海世界の性モラルは、この第一コリント5章の他にローマ1章などからも伺えるようにイエス様やキリスト教会が教えるものとは異なっていました。それで、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。
2.
本題に戻りましょう。罪を犯された信仰者は犯した信仰者にどう対応したらよいか?
ここで一つ細かいことで恐縮ですが、私たちの新共同訳では「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。ここには写本の問題があります。写本の問題というのは、私たちが手にする聖書の中にある書物はみなオリジナル版の写本に基づいているということです。というのは、書物のオリジナル版は現存せず、それを手書きで写した写本、写本の写本、そのまた写本を手掛かりにするしかないからです。無数の写本の中からどれがオリジナル版に近いかということが研究され、それが聖書の翻訳に反映されるのです。このマタイ18章15節について、古い写本によっては「あなたに対して」がないものもあります。その場合、兄弟の罪は具体的に誰に対して犯されたということがないので、それを目撃したあなたはどうするかという意味になります。新共同訳では罪を犯されたあなたはどうするかという意味です。ギリシャ語”原文”の新約聖書(Nestle-AlandのNovumu Testamentum Graecaeです)の解説部分を見ると、第25版では「あなたに対して」がある写本に基づいていたが26版からはないものに基づくと言っています。それでフィンランド語の聖書も1938年の訳は「あなたに対して」がありましたが、1992年の現行訳では外されました。このように写本やその他学会の研究が進むと聖書の文言も変わるということが起きるのです。日本では最近「聖書協会訳」が出ましたが、そこでは「あなたに対して」はどうなったでしょうか?
さらにギリシャ語聖書の解説部分を見ると、このマタイ18章15節のところはどの写本に基づくべきか最も困難な個所の一つである、各自しっかり調べて判断しなさいというようなことが述べられています。まさに説教者の力量が問われるところです。私もどっちにするか随分悩みましたが、マタイ18章全体の流れからみて「あなたに対して」があった方がよいという結論に至り、新共同訳の通りにいこうと決めた次第です。
話をもとに戻します。罪を犯された信仰者は犯した信仰者に対してどうすべきか?イエス様が教えることは、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは我々の神の意思に反することである。罪である」とはっきり教え戒めるべきである、ということです。もし罪を犯した者が「おっしゃる通りです」と認めて、罪を悔いて赦しを願えば赦してあげる。そうすることで、罪を犯された信仰者は信仰の兄弟を取り戻したことになる。なぜなら、神の意思に沿うように生きようと、お互いの心がまた同じ方向を向くようになったからです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君がしたことは我々の神の意思に反することなのだ。罪なのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまう、と言うのです。教え戒めて相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7-9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」
以上から、「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手続きではないことがわかります。それは、罪を犯した者にそれは神の意思に反することであると認識させて、その上で赦しを願うように導くということです。罪を犯された者はその導きをする大事な役割を持つということです。
そこで、罪を犯した者が悔いて赦しを願う時は、犯された者は赦さなければなりません。それも神の意思です。なぜそうかと言うと、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。失われた結びつきを神は人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も永遠に自分のもとに戻れるようになれる。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子のイエス様に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにしました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は神罰を引き受けて死なれましたが、神はそのイエス様を三日後に復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その命に至る扉を人間に開きました。
そこで人間が、自分の罪は真にイエス様に償なってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられて、古い自分は死に新しい自分が生き始めます。そして、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、その結びつきは自分から手放さない限り何があっても失われません。この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて、神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。
イエス様の償いによる罪の赦しを受け取って、このような神の恵みの中で生きられるようになった者は、罪の赦しを願う者に対しては自分も神からしてもらった以上、赦しを与えなければならない。また、罪が何かわからず赦しを願うこともしない者に対してはまさに罪の赦しの恵みを受け取ることが出来るように導いていかなければなりません。
罪の赦しを願う者に赦しを与えるというのは、何かその者に対して優位に立つということではありません。自分こそが神から赦しを与えられた者であることに思い至らなければなりません。そして、赦しを与えるというのは、赦した後は犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのことです。まず、罪を包み隠さずに罪は罪であるとはっきり言い、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。
イエス様の教えの次に進みましょう。残念なことに「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?自分は罪を犯していないとか、自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それは神の意思に反することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。
さて、証人の証言が出ました。これで罪を犯した信仰者が赦しを願えば、信仰の兄弟を取り戻したことになりますが、耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員みんなの前でつるし上げにあうような感じがしますが、そうではありません。最初は二人だけで、それがだめなら二人か三人の証言で、と言っているように、罪を大っぴらにしない方向性がはっきりあります。罪を犯した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話し合うということになるのでしょう。
そこで罪を犯した信仰者がそれを認めて赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神、御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配しているローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後までそれを認めない、心がかたくなな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。
ところで、日本語訳の「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文をしっかり見ると、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえばいい、そうなってしまうのはやむを得ない」というような意味です。ここは三人称単数の命令形なのでちょっと難しいのですが、少なくとも日本語訳の「見なしなさい」みたいに、罪を犯された者に向けた命令文ではありません。
それではどういうことかと言うと、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえ」と言っているので、「あなたに関して言えば」と限定的に考えています。全ての人に関してそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。そうなると問題の兄弟の神との結びつきを回復することを考えることができます。このことについて神自身、本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で次のように言われています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」(その前の10節ではイスラエルの民が罪の告白をしています。罪は罪であるとはっきり認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!)
それなので、罪を犯された者は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に神罰を受けてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。このことは、本日の福音書の箇所に続く21-22節を見るとよくわかります。ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか7回までか、と尋ねるところがあります。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦せ、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。このことについては次主日の説教でお話しします。ここでは、兄弟を教え戒めることに続くイエス様の教えを見ていきましょう。
3.
18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」は、18章の最初を見ればわかるようにイエス様の弟子を指します。「つなぐ」というのは禁止することを意味します。「解く」というのは、許可することを意味します。イエス様は以前16章で同じこと「地上でつなぐこと、解くこと」は将来教会の代表格になるペトロがすると言っています。今日の18章では弟子たちがすることとして言っています。ペトロを中心にした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上で禁止したり許可したりすることは、神がおられる天の国でもお墨付きを得るということです。使徒たちは、かつてイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になって、その後は迫害にも屈せずイエス様が神から送られた人間の救い主であると宣べ伝えました。彼らが神の意思はなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。
続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はこれはもっと広い意味です。これは先ほどの18節の使徒たちの権限の教えの続きです。しかも、先の16節でイエス様が基づいた旧約の伝統「二人か三人の証人の証言」を一段高い次元に引き上げるものです。どういうことかと言うと、まず、19節の意味ですが、これをギリシャ語原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする全ての事柄について合意して祈り求めれば、その事柄は天の父なるみ神のお墨付きを得て実現される」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でもかなうということもあるかもしれませんが、ここの全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。
ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる者たち祈る者たちがみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認・告白します。
こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には、神との結びつきを持たねばならないと思っても、手掛かりがなかったことになります。イエス様の名前が付くと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としすぎています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったことで、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン