2013年11月25日月曜日

この世を去る時も、この世が去る時も、キリスト信仰者はひるまない (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年11月24日聖霊降臨最終主日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書52章1-6節
コリントの信徒への第一の手紙15章54-58節
ルカによる福音書21章5-19節

説教題 「この世を去る時も、この世が去る時も、キリスト信仰者はひるまない」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神の御子が人間となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス・キリストが再び、今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来ること、そして、私たちも使徒信条や二ケア信条に基づいて信仰告白するように、この再臨の主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に、私たちは、主の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスの時から遠ざかっていきますが、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつであるかは、マルコ1332節でイエス様が言われるように、天の父なる神以外には誰にも知らされていないので、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日がいつなのかは誰もわかりません。そのため、イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚まして祈りなさいと教えられるのです(3438節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分は復活の命、永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、各自、自分の信仰生活を振り返る日であり、もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日であります。そういうわけで、本説教でも、そのような自省の心を持って、本日の福音書の箇所の解き明かしを行っていきたいと思います。

2.

 本日の福音書の箇所は、ルカ福音書215節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の一部です。預言の内容は少し複雑です。というのは、イエス様の十字架と復活の後にユダヤの地を中心として起きる出来事と、もっと遠い将来に人類全体に起こる出来事の二つの預言が入り交ざっているからです。

 預言をはじめからみていきますと、まず、イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言がとても気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れ、人々を誤った道に導くことが起きるので、彼らに惑わされてはならない、つき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、人々は戦争をはじめ何か心を不安に陥れるような出来事を多く耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう不安の時代になると偽救世主に従いやすいということです。そういうわけで、偽救世主は、不安の時代になると、8節にあるように、この世の終わりの時が近づいたなどと不安を煽るのですが、イエス様は、こうした不安の時代にどう向き合ったらいいかということを9節で述べます。こうした出来事は終わりの序曲として必ず起こることではあるけれども、これらが起きたからと言って、すぐ終わりの時になるのではない。この世の終わりでない以上は、偽救世主に助けを求める位に不安に陥る必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と私たちに命じるのであります。

その不安の時代に起こることについて、イエス様は具体的に述べます。民族と民族、王国と王国つまり国家と国家がお互いに衝突し合う。つまり戦争です。それから、世界各地に起きる大地震、飢饉、疫病。さらに、天体に現れる恐ろしい現象や大きな徴候、これは彗星や隕石の落下を意味するのでしょうか。こうしたことが起きてくると、人々は不安に陥り、それらの災難や心の不安から逃れられようとして偽救世主に頼ろうとする。しかし、イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、これらに続いてすぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、おびえる必要はない。イエス・キリストに結びついた者であれば、この世の終わりが来ても、それは今の世から次の世の神の国へ移行する時にすぎず、その時まで、そしてその時にも、主が手をしっかり取って守って下さるから心配する必要はない、ということであります。

以上は、この世の終わりが来る前に必ず起こる不安と災難の時代でした。ところが、12節で、順番が逆戻りして、今度は不安と災難の時代の前に起こることについて話されます。キリスト信仰者に対する迫害がそれです。キリスト信仰に反対する権力者によって信仰者が連行されて、権力者に対して申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、これは実は信仰を証する絶好の機会だと捉えること、自分はこう弁明しようと前もってあれこれ考えずに、主が誰も反論できないような言葉と知恵を与えて下さるから、その通りに話せばよいということです。迫害の中で最も痛々しいのは、権力者からくるものならともかく、親兄弟、親族、友人からも裏切られて、それがもとで命を落とすこともあるということです。イエス様の名前のせいで、それほどまでに憎まれてしまうということです。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、お前たちの髪の毛の一本たりとも失われることはない。つまり、全ての人から見捨てられ見放されても、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の目の中にしっかりおさまっている、神はお前たちから一寸たりとも目を離すことはない。お前たちに起こることは全て漏れることなく詳細に記録されている、ということであります。それがわかれば試練の中でも忍耐できるのだ。そのように忍耐できれば、お前たちは試練を生き抜く力を持てるのだ(19εν τη υπομονη υμων κτησασθε τας ψυχας υμων

迫害の次にエルサレムの滅亡が預言されます。これは20節から24節までで、本日の福音書の箇所から外れますが、本日の箇所の初めで人々は、エルサレムの神殿の破壊はいつあるのか、その前兆は何かと聞きました。イエス様の答えは、不安と災難の時代が来るが、その前に迫害の時代があり、その後でエルサレムの破壊が来ると言いました。エルサレムの町が破壊されるということは、その中にある神殿も破壊されるということなので、町の破壊の預言をもって人々の質問に一応答えたことになります。先ほど申しましたように、エルサレムの町と神殿の破壊は西暦70年に起こりました。

しかしながら、イエス様の預言は、エルサレムの破壊のところで終わりませんでした。先ほどの不安と災難の時代の預言のところで、これらのことが最初に起こらなければならないが、それをもってすぐこの世の終わりが来るのではない、と言われました。イエス様の主眼は、この世の終わりにあるのです。イエス様は、不安と災難と迫害の時代がエルサレムの破壊の前にも起こるけれども、その後にも起こって、そこから世の終わりが始まっていくのだと教えているのです。そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海が「どよめき荒れ狂う」異常事態になり、諸国民はなすすべもなく悩み苦しみ、世界に何が起きるのか死ぬほど不安になる。文字通り天体が揺り動かされる。まさにそのような時、主が再臨するのであります。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書1310節や344節(他にヨエル書210節)にある預言を念頭に置いています。天体の大変動というのは、実は、今あるものが新しいものにとってかわるということであります。同じイザヤ書の6517節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、6622節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」122628節に述べられています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

 ルカ2128節で、イエス様は、天変地異、天体の大変動の時に再臨される時こそ、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言っています。それは、先ほども述べましたが、イエス・キリストに結びついた者にとって、この世の終わり時とは、今の世から次の世の神の国へ移行する時にすぎないからです。

3.

さて、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天変地異、天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊からもう1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽救世主は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありましたが、現代においても世界の地域によっては迫害が続いているところはちゃんとあります。歴史上、そういうことが多く起きたり、また重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということがたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。まず、皆さんもご存知のように、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。また、50億年待たなくても、もっと以前に、例えば大きな隕石とか彗星などが現れて地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となりましょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象による大災難に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。近年よく言われる温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、1990年代に東西冷戦が終わって後は以前ほど大きく取り上げられなくなりましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのであります。そして、一度事故を起こすと収拾がつかなくなって人体や環境を深刻に損なう原子力発電所が果たしていつも無事故でいられるかどうか。多くの人たちは福島の悲劇でもう十分だと思い、別の人たちはまだまだやれる大丈夫だと思っている現実があります。

この世の終わりということに関して、私が中学生の頃、「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになりました。それによると、人類は1999年、つまり14年前に滅亡するということでした。ノストラダムスというのは16世紀のフランスの医者で、予言したことが的中するということで注目を集め、宮廷にも出入りしていたという人で、彼の書いた詩の形の予言が、その後の世界史の大事件を見事に言い当てていると言われてきました。もちろん、1999年人類滅亡説は当たらなかったのですが、当時私は本を買って読みました。読んで戦慄を覚えた後、何ともいいようのない無力感に襲われました。ちょうど読んだ時期が高校受験を控えた中学三年だったので折が悪く、どうせ滅亡してしまうのなら、何を一生懸命やっても意味がないのではないか、などと思ったのでした。それでも、結局は一生懸命に戻っていったのですが、それは、やはり世の中のシステムというか歯車は頑丈にできていて、いくらベストセラーが個々人の心に動揺をもたらしても、それはびくともせず、自分も含めて大人も学生も皆、そのシステムや歯車に乗ることで日常の生活を続けることができたのではないかと思います。しかし、そのようなシステムや歯車があらゆる衝撃に耐えうる完璧なものであるという保証はありません。イエス様の預言は、そこを突くものであると言うことができます。

そうなると、キリスト信仰というものは、あらゆるシステムや歯車を粉砕してしまうような、人類や地球の存亡にかかわる危機を視野においているので、信仰者を無力感に陥れるものなのでしょうか?キリスト信仰とは、全くそうならないものである、と私が感じたのは、まだキリスト教徒になる前の大学生の頃、宗教改革のルターが言ったという言葉を聞いた時でした。これはルター本人が言ったかどうか議論があるようですが、仮にルター本人の言葉でなくても、ルターの信仰を見事に言い表していると言われています。ルターはある人に「明日、世界が滅亡するとわかったら、どうしますか?」と聞かれ、次のように答えたということです。「それでも、私は今日リンゴの木を植えて育て始める」と。これを聞いた私は、ひょっとしたら自分の生きている時代にこの世の終わりが来るという可能性から目をそらさずに生きているにもかかわらず、無力感に陥らないで自分の置かれた境遇にしっかりとどまり、そこでの課題に取り組むことができるというのは、なんと素晴らしいことかと感動したのを今でも覚えています。キリスト信仰の何が人をしてそのような心意気にしていくのだろうか、と興味も持ちました。今、一人のキリスト教徒として、そのことについて述べてみたいと思います。

近年、日本では、エンディングノートという言葉がよく聞かれます。高齢者の方が、自分が死亡した場合とか判断能力を失う病気にかかった場合に備えて、家族の人たちにどうしてほしいかと希望を書き留めるものです。実際に書いた方の感想などを新聞で見ますと、書いた後は一日一日を自覚的に生きるようになったというようなものを見受けました。ノートを書き留めること自体、近々自分には人生の終わりが来ると自分で認めることになりますから、自分で認めることができれば、残された時間も同じように自分でかじ取りする時間となり、それが残り少ないとわかれば、もうそれは貴重なものと自覚され、無駄にはできない、大切に使おうということになるのではないかと思います。

キリスト信仰にも、少し似たようなところがあると思います。この世には、はじまりがあったように終わりがある、その終わりは自分の生きている時代かその後かいつかはわからないがいつかは来る、その意味で今生きている時間は貴重な、無駄にはできない大切な時間になるということになります。しかし、キリスト信仰の心意気が、エンディングノートの効果と違う点は、ノートの場合は、残された時間を自覚的に生きるという時に、死んだ後のことは特に視野に入れないのではないかと思います。キリスト信仰では、それが生きている時にもう視野に入っているのであります。なぜそうなるかと言うと、キリスト信仰では、まず自分には造り主がいるということが大前提にあるからです。その造り主との関係は最初の人間の罪と不従順で壊れてしまい、人間は神のもとで永遠に暮らすことができなくなってしまいました。しかし、神はそれを再興しようとして、独り子イエス様をこの世に送られ、彼に十字架の上で人間の罪と不従順の罰を全て受けさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超える永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神との結びつきが回復し、この世の人生において復活の命、永遠の命に至る道を歩み始め、この世から死んだ後は、永遠に造り主のもとに戻れるようになりました。このように、キリスト信仰では、自分が死んだ後で自分はどこに行くかがはっきりしていて、信仰者になることでそれがその人に確定されるのです。そうなると、この世の人生というものは、この世を生きなさいと命と人生を与えて下さった造り主である神の御心を知ろう、そしてそれに沿うように生きていこうというものになっていきます。この世の人生の終わりの時を定められたからと言って、無力感に陥ったり投げやりになったりするなどというのは思いもよらないことです。自分に与えられたこの世の人生の期間がどれくらいの長さかはわからないが、長短は問題ではない。与えられた期間を、神に対して自覚的に生きる、永遠の命に心を向けて自覚的に生きる、ということであります。このことは、先に来るのがこの世の終わりであろうが、自分の人生の終わりであろうが、同じなのであります。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年11月18日月曜日

復活の日に (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年11月17日(聖霊降臨後第26主日)
市ヶ谷教会にて

マラキ書3:19-20、
ユダの手紙17-25、
ルカによる福音書20:27-40

説教題 復活の日に


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについてしっかり理解しなさい、と私たちに注意を促すところです。この箇所の解き明しに入る前に、これに関連したお話をひとついたしたく思います。

去る112日土曜日にスオミ教会は10年振りくらいに修養会を行いまして、立川にある昭和記念公園に行ってきました。大空の下での聖書の学びのテーマは、「人間は死んだらどこに行くのか?聖書はどう教えているのか?」でした。そこで、私は、人間が死んだらどこに行くのかという問題を考える時、キリスト信仰にあっては、復活ということを離れてはありえない、と強調しました。復活と言えば、まず、主イエス様の復活の出来事が私たちの頭に浮かびます。それから、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者たちが与る復活があります。その復活について、使徒パウロは「コリント第一の手紙」の15章の中で詳細に教えています。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する(43節)」という彼の言葉は、キリスト信仰者にとって希望とは死を超えるものを意味することを示しています。

ところで、復活を理解する際に忘れてはならないことの一つとして、復活は将来のある特定の時期に一括して起きるということがあります。つまり、復活とは、キリスト信仰者が一人死ぬたびに起きるのではなく、将来のある時にまとめて一緒に起きるということです。その将来の時とは、今ある天と地が消え去って新しい天と地にとってかわれる日(イザヤ6517節、6622節、黙示録2011節、221節)であり、また、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる日(「ヘブライ人への手紙」122728節)でもあります。そういう天地大変動の日に、死んでいた者が復活させられて、神の王座を裁判官席とする裁判が行われます。黙示録201115節に従えば、そこで下される判決によって、ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます(注意 黙示録20章全体をみれば、これは第二の復活ということになり、第一の復活が起きてから千年後に起きることになっています)。

以上から、復活の日、天地大変動の日、最後の審判の日はみな同じ日を指すことが明らかになりました。そういうわけで、私たちが礼拝の信仰告白の時に、「信じます」と口で公にしている死者の復活とは、将来に一括して起きることであり、人間一人一人死ぬたびに起きることではないのであります。

それでは、既に死んだ人たちは、将来起きる復活の日まではどこで何をしているのか?例えば、復活の日が2073年に来ると仮定した場合、1873年に亡くなった人は、今年までの140年間をどこで過ごしていたのか?これからの60年間をどう過ごすのか?この疑問に対する申し分ない答えが、ルターの教えの中にあります。マタイ924節でイエス様が会堂長の娘を生き返らせる時に述べた言葉「娘は死んでいない。眠っているだけだ」について、ルターが次のように解き明しています。

「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

 以上から明らかなことは、キリスト信仰者にあっては、死んだ時から復活の日までは神のみが知る場所にいて眠っているということであります。1873年に亡くなった人は、今年に至るまで140年間、神のみが知る場所で眠っていたのであり、2073年に復活の日が起きると仮定した場合、あと60年間そこで眠っているのであります。そうすると200年も眠っていて大丈夫か、途中で起きたらどうするんだ、というような余計な心配が起きるかもしれません。ルターによれば、地上に残った人たちにとっては長い年月でも、眠っている本人にとっては、目をつぶって次に開けるまではほんの一瞬の出来事にしかすぎないのであります。理解を超える話のようでありますが、このようなことは実は、皆様の中で全身麻酔の手術をお受けになったことのある人がいらっしゃいましたら、ありうることだと思われるのではないでしょうか?

以上のようなことを、スオミ教会の修養会でお話しした次第です。参加者の人たちとの間で興味深い話が始まりました。日本では一般的に、人間は死んだらすぐ、天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今、そこから私たちを見守ってくれている、という考え方をする人が多いのではないかと思います。キリスト信仰者の中にもそういう言い方をする人がみられます。しかし、キリスト信仰においては、そんなことはありえないのであります。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っているのであります。高いところに行くのは、将来のことで、その日、その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後で、今ある地上はもう存在しないのであります。

死んだ人がただ眠ってしまうだけなら、誰があの世から見守ってくれるのかと心配する向きもあるかもしれません。おそらく仏教の方はそれが心配事になるのではないでしょうか。死んだ人が眠ってしまい、食べもせず飲みも歩きもしないのなら、お供えものをする必要がなくなってしまうからです。キリスト信仰では、見守って下さる方は、亡くなった者ではなく、それはもう、天と地と人間を造られた創造の神しかいないのであります。この私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手なのです。

修養会では他にもいろいろなことを話しあったのですが、終わりに一つ興味深い質問が出されました。死んだ人たちは今、神のみぞ知るところで眠っているとすると、天国はまだ空っぽなのか?もちろん、神自身はおられるだろう。そして、イエス様も神の右に座しておられるだろう。では、本日の福音書の箇所で、神がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれ、神は生きている者の神である、と言われているのは、この三人に関しては、将来の復活の日を待たずして一足先に復活させられて既に天国にいる、ということなのか?その時、私は、そう考えるのが妥当なのではないかとお答えしたのですが、自分でも100%確かな気持ちではありませんでした。その質問の再考も視野にいれて、本日の福音書の箇所の解き明しに入っていこうと思います。

2.

まず、サドカイ派というユダヤ教社会のグループの人たちがイエス様を陥れようと議論を吹っかけてきます。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のうちモーセ五書を重要視していました。イザヤ書とかダニエル書のような預言書をないがしろにしていれば、当然、そこに言われている復活ということにも目がいかなくなります。サドカイ派にとっては、神殿で犠牲の生け贄を捧げる礼拝を守っていれば、神と人間の関係はちゃんと保たれている、ということになります。彼らにとって、神と人間の関係はこの世限りのものですので、死を超えて関係が永遠に続くために復活があるということは考える必要も可能性もなかったのです。

そのサドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに持ち出しました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記255節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという掟があります。7人兄弟はこの掟に従って順々に同じ女性を娶ったが、7人に続いてこの女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんながよみがえった時、女性は一体誰の妻なのだろうか?7人の男が同時に一人の女性と関係を結ぶとすれば、これは娼婦も同然であり、十戒の第六の掟に反することになります。このように、サドカイ派の人たちは自分たちが得意とするモーセ律法を用いて、復活は律法違反をもたらす思想だ、これでも復活はあると言うのか、とイエス様に迫ったのであります。実に巧妙な論法です。

これに対するイエス様の答えは、サドカイ派の論点も論法も見事に粉砕するものでした。イエス様の答えは、二つの部分からなっています。最初の部分をみてみます。人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、それで、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない存在になる。つまり、サドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えているが、そこが根本的に間違っているということを指摘します。それでは、復活した者はどんな有り様になるのかと言うと、まず、いることになる場所が、今ある天と地が過ぎ去った後に来る新しい天と地の下にある次の世であるということ。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になるということ。一言で言い表せば、復活に与る者は「神の子」(36節)そのものなのである。そういうわけで、復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういう人間同士の事柄に心と身体と神経を費やす存在ではなくなって、神に対して、神のために生きる「神の子」なのであります。この、復活した者が「神に対して、神のために生きる」ということは、あとでとても大事なことになってきます。

以上が、イエス様の答えの第一のポイントでした。サドカイ派は復活と言うものを正しく理解していない。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などというとんちんかんな質問をするのだ。復活を正しく理解していれば、そんな質問は考えつかないものなのに、的を外しているのもはなはだしい、ということであります。

イエス様の答えの第二のポイントは、死者の復活があることは、サドカイ派の皆さんが大変よく知っているモーセ五書にも書いてありますよ、知らなかったんですか、と相手の盲点を突くものです。イエス様は、出エジプト記36節で、神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出るところを指摘します。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は、彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神である、と言うのです。イエス様はここでたたみ掛けます。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。つまり、アブラハムたちは生きているのであり、それはこの世の有り様とは異なる存在をしているのだということであります。そういうわけで、「神は生きている者の神である」というのは、「神は死んだ後で永遠に生きる者の神」なのであります。

ここで、アブラハム、イサク、ヤコブがもう一足先に復活して天の御国にいるのかどうかという問題について。これは大変難しいです。そうともとれるし、また、彼らも今、神のみぞ知る場所で眠っているが、復活した後は神の御国に迎え入れられて永遠に生きることが保証されている。つまり、今はまだ永遠に生きてはいないが、永遠に生きることが確実視されている、そう考えることも可能でしょう。私は、個人的には、もう復活しているのではないかとの印象が拭えないのですが、ここでは無理に結論は出さず、いつか私たちが復活して神の御国に迎え入れられたら、直接アブラハムに聞いてみましょう。

イエス様の答えの最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」、これはまずい訳です。「神によって」と訳されている元の言葉は、ギリシャ語の文法で人称代名詞・三人称・男性・単数・与格のαυτωがありますが、これは「~によって」と訳さずに、素直に「~に対して」とか「~のために」と訳すべきです。そうすると、先ほど、イエス様の答えの第一のポイントのところで申し上げた、「復活した者は神に対して、神のために生きる」というイエス様の論点がここでも繰り返されて結論になるのです。「すべての人」というのは、もちろん復活した人、復活に与る人を指します。

これが、私の勝手な個人訳でないことは、例えば、英語訳のNIVを見てみますと、to him「彼に対して」と言っており、「神によって」とは言っていません。ドイツ語のルター訳ではihmと与格をとっており、Einheitsübersetzungではfür ihn「彼のために」です。皆様にはなじみが薄いかもしれませんが、スウェーデンのルター派教会で使っている聖書では「彼のために」(för honom)、フィンランドの国教会で使っている聖書は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。

 「すべての人は、神によって生きている」というのは、全ての人間は神によって造られ、神から食べ物や着る物や住む場所を与えられているという真理から見れば、それ自体は正しいことを言っています。しかし、それは、復活について教えている本日の箇所とかみ合いません。そういうわけで、このイエス様の結論は、「復活に与る者は全て、神に対して、神のために生きるのだ。だから、嫁を迎えたり、嫁いだりということが大事な今の世の有り様とは全く異なる有り様をもって、永遠に生きる者となるのだ」ということになります。

 サドカイ派の人たちは、自分が得意とするモーセ律法を用いて、イエス様を論破しようとしましたが、逆に論破されてしまい、自分たちこそモーセ律法をちゃんと理解していなかったことを露呈してしまいました。イエス様とサドカイ派の論争を聞いていた律法学者が、「先生、立派なお応えです」と言ったのも無理はありません。

3.

 神に対して、神のために生きるということは、復活した人つまり永遠の命を生きる段階に入った人だけがすることなのでしょうか?まだ復活に至っていない私たちは、神に対して、神のために生きるということはないのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。私たちは、いかに神の愛と恵みを受けているかがわかれば、私たちも神に対して、神のために生きる者であることがわかります。

キリスト信仰では、人間は誰もが神に造られ、神から命と人生を与えられたということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間との結びつきを回復させようと、また、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順の汚れを除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。マルコ7章の初めにイエス様とファリサイ派の有名な論争がありますが、それは、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、人間は自分の造り主との結びつきを失ったままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対して神がとった解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いを全てこのイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、イエス様を犠牲に用いた神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのイエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪が残ったままイエス様の神聖さを頭から被せられます。人間はこのようにして、造り主である神との結びつきを回復し、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得てこの世の人生を歩めるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。

 これほどのことを、私たち人間のために成し遂げて下さった神に対して、私たちは賛美と感謝以外、捧げようがありません。兄弟姉妹の皆さん、このような計り知れない神の恵みと愛を忘れずに、この世の人生の道を歩んでまいりましょう。神への感謝と賛美を絶やさずに歩む時、私たちは既に、神に対して、神のために生きることを始めているのですから。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン