2014年9月29日月曜日

罪を犯した兄弟にどう向き合うか? (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年9月2日 聖霊降臨後第16主日

エゼキエル書33章7-9節
ローマの信徒への手紙12章19-13章10節
マタイによる福音書18章15-20節

説教題 「罪を犯した兄弟にどう向き合うか?」



私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節で、問題が当事者同士で解決できなければ、教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者であることは明らかです。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、教会に属する者が別の者に罪を犯したとき、キリスト信仰者は、どう対処すればよいのでしょうか?

 その前に少し断線しますが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に対して罪を犯すということがありうるのでしょうか?イエス様の問題提起はちょっとびっくりさせます。しかし、使徒書簡をみるまでもなく、キリスト教会は誕生期からいろいろな問題を抱えていたようです。「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立が生じた時、その解決を当時キリスト教と全く無縁であったローマ帝国の法廷に委ねることが行われていたことがうかがえます。それについて使徒パウロは、問題の解決を信仰を持つ者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(678節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。当時はまた、貸した金に利子をつけることも行われていたようなので(マタイ2527節)、きっと、ちゃんと既定の額を返してくれなかったとか、逆に法外な額を要求されたとか、そういう問題があったのでしょう。この問題は、十戒の第6の掟「汝、盗むなかれ」に関わります。どっちが盗人か白黒つけられれば、どっちが罪を犯したかが明らかになります。しかしパウロは、すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということを見抜いていました。

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教会の性のモラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ1069節)にあります。つまり、徹底して男女の間の一夫一婦制に基づく性モラルです。当時の地中海世界の性モラルはこれとは異なっていて、今風に言えば「多様な」性モラルでしたから、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。余計なことですが、現代世界は、キリスト教会の内外を問わず、イエス様の教えた性モラルと相いれないモラルが蔓延していると思います。真のキリスト教徒にとっては試練の時代です。いずれにしても、この問題は、十戒の第7の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。

 第6や第7の掟に関わる罪だけでなく、この他にもいろいろな罪が信仰者の相互関係を損なっていたと考えられます。例えば、金銭上のトラブルや性関係の乱れには、ほとんど必ずといってよいほど、悪口や中傷や事実を捻じ曲げた噂がつきものです。これなど、第8の掟「汝、偽証するなかれ」に関わります。

2.

 こうした信仰者同士の罪の問題はどのように解決すべきでしょうか?本日の福音書の箇所はどう教えているでしょうか?15節から17節をみると、イエス様は次のように教えています。罪の被害を被った信仰者はそれを犯した者に対して、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは罪である。我々の神の意思に反することである」とはっきり教え戒めるべきである、と。もし罪を犯した者が、「おっしゃる通りです」と聞き入れて、罪を悔いて赦しを願えばこれを赦してあげる。そうすることで、被害を被った信仰者は、信仰の兄弟を得ることになる。つまり、赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。こうして信仰の兄弟姉妹の関係が築かれるのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記1917節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪の被害を被った信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で「こんちくしょう、あの野郎」と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って、「君が行ったことは罪なのだ。我々の神の意思に反することなのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは、罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと見なされる、と言うのです。教え戒めて、相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたということになります。しかし、教え戒めても聞き従わない場合は、罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じ神の意思が、先ほど朗読された旧約聖書の箇所エゼキエル書3379節の中にも表されています。

以上から、「二人だけのところで教え戒める」の意味がわかりました。それは、単に信仰の兄弟が仲直りしてめでたしめでたしになるための手続きではない。そうではなくて、罪を犯した者にそれが罪であると認識させて、その上でそれを悔いて赦しを求めるように導くということであり、被害を被った者はその導きをする重要な役割を持つということです。罪を犯した者が悔いて赦しを願う時、被害を被った者は赦しを与えなければならない。赦した後は、犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にする。そうして、真の信仰の兄弟姉妹関係が築かれる。神の民から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのようなことを言います。罪を罪として包み隠さず、当事者に対して明白にし、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていく、ということであります。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

次に進みましょう。残念なことに、「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?つまり、自分は何も罪を犯していないとか、あるいは自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり罪に値することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記1915節にある神の命令に基づいています。天地創造の神は、十戒の第八の掟「汝、偽証するなかれ」で端的に表しているように、真実を愛し偽りを憎む神です。「君が行ったことは第三者がみても罪に値するものだから、それはもう真実として受け入れなければならない」ということになれば、罪を犯した者は次の二つの選択肢の前に立たされます。つまり、罪を認めて悔い、赦しを願って、赦しを得る道に入るか、それともあくまで耳を貸さない態度を取り続けるか。前者を選べば、真の信仰の兄弟姉妹関係を築く道に入ります。しかし、後者を選べば、話は次の段階に進みます。

ここで一つ注意することがあります。証人を立てるというのは、罪を確認するという場合もありますが、逆に罪を犯していないと証言する場合もあります。被害を被ったと主張する者が、相手を陥れるためか自分を有利に仕立てるためか目論んで、話を誇張したり捻じ曲げたり、でっちあげたりする可能性もあるからです。その場合は、そちらの方が罪を犯した兄弟になります。いかなる場合であっても、神は真実を愛し偽りを憎む方であることには変更はありません。

さて、いよいよ証人を立てても、罪を犯した信仰者が耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は、教会、教会全体の集まりないしはその代表者の集まりのいずれかになると思うのですが、それに委ねられることになる、とイエス様は教えられます。ここで、罪を犯した信仰者が罪を認めて悔いそして赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とイエス様は教えます。異邦人とは、天と地と人間を造られて御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人たち、神の民に属さない人たちを指します。徴税人とは、ユダヤ民族に属しながら、当時占領者であるローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後まで非を認めない信仰者は、こうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

ところで、日本語訳の「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」を注意してみます。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ」という意味です。つまり、あなたは教会に留まる者であることは変わりないが、それに対して罪を犯した者は形式上は教会に属しているが実質上は教会の外部の者となってしまった。何度も赦しの機会が与えられたにもかかわらず、自分で自分を外部の者に追いやってしまっている。これはもう神の目から見てももうお手上げな存在だ、勝手にするがいい、ということです。日本語訳のように「異教徒か徴税人と同様に見なしなさい」と言うと、罪の被害を被った者に対する「見なしなさい」という命令になります。しかし、ギリシャ語原文では、被害を被った者に対する命令文ではありません二人称単数ではなく三人称単数の命令形です。罪を犯した者が差し出された手を振り切って自分でそうしている以上は、「異邦人か徴税人のようになってしまえ」と、神に突き離されているのです。それでは、罪の被害を被った者はどうすればよいのか?罪を犯した兄弟を異邦人か徴税人と同様に見なすことでしょうか?

そうではありません。本日の福音書の箇所に続く2122節を見ると、これは次主日の箇所になりますが、ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか、7回までか、と尋ねます。それに対してイエス様は、7回どころか770倍までも赦しなさい、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。罪を犯した兄弟がまだ罪を悔いることも赦しを願うこともしない段階で、その者を赦すとはどういうことなのでしょうか?後でそのことについて見てまいりますが、その前に、これまで述べてきた兄弟を教え戒める手続きの教えと、ペトロとイエス様の赦しの回数についてのやり取りの間にある1820節をしっかり見てみましょう。

3.

18節をみると、使徒たちが地上で禁じたり罰したりすることは、天の国でもお墨付きを得ている、逆に地上で認めたり赦したりすることも、天の国でお墨付きを得ているということで、使徒たちに教会生活、信仰生活の規律設定の権限を委ねる内容です。人が罪を犯したかどうか、もし犯したならば、赦しを得られるかどうかということについて、使徒たちに決める権限が与えられている。つまり、イエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になった使徒たちは、神の意志がなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。そうであるからこそ、罪を犯した者に対して、罪は罪であるとはっきり言わなければならないのです。

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はそうではなく、これも18節の使徒たちの権限の教えの続きです。これをギリシャ語原文に忠実に訳すと、「お前たちが追い求めている事柄に関して、お前たちのうち二人がこの地上で合意すれば、その合意された事柄は天の父なるみ神の力で実現されたものとなる」ということです。18節で、使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言ったことに加えて、そのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だ、と言うのが1920節の意味であります。願い事が何でもかなうという意味ではなく、教会内のいろいろな問題について、何が神の意志に沿っているか反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、地上でもその通りになるという意味であります。

4.

以上から、1820節は、教会内のいろいろな問題を神の意志に沿うように解決する際、使徒たちに大きな決定権が与えられており、それをしっかり行使しなければならない、と教えていることが明らかになりました。つまり、神の意志を明確にし、それに反していることは反しているとはっきり言わねばならない、ということです。そこで、自分で自分を教会外部の立場に追い込んでしまった信徒にどう向き合うかという問いの答えが来ます。21節でペトロがイエス様に質問します。「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。」「そのとき」というのは、まさに、イエス様が神の意志を地上で明らかにする使徒の権限について教えた「そのとき」なのです。ペトロの質問に対するイエス様の答えは、繰り返し罪を犯す兄弟に対して、赦しの回数に制限を設けるなというものでした。イエス様は、この無制限の赦しというものをわからせるために、続く23節から「仲間を赦さない家来のたとえ」を話すのであります。

これらの教えは次主日のテーマですので、ここでは立ち入りませんが、本説教のテーマとの関連で申し上げれば、イエス様の教えの中で次のことが重要な点です。キリスト信仰者とは、天文学的とも言える莫大な借金を帳消しされた人と同じような憐れみを受けている存在であるということです。罪の赦しが莫大な借金の帳消しにたとえられるのであります。最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと決めました。そこで、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化すべく、ひとり子イエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにした。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなった。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血であった。詩篇4989節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして支払って下さったのです。しかし、それだけで終わらず、神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さった。人は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになる。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

これが、キリスト信仰者が莫大な帳消しの憐れみを受けているということです。まさにそのために、同じ信仰を持つ兄弟姉妹が罪を犯した時、それは自分が受けた莫大な借金の帳消しを思えば、兄弟姉妹の負債など比べものにならないはした金にしかすぎないことがわかり、こだわるのも馬鹿馬鹿しくなる、というのであります。ルターも、信仰の兄弟姉妹から何か被害を被ったとしても、そんなものは小さな火花のようなもので、唾を吐きかければすぐ消えてしまうものだ、と言っています。神が自分に対して大きな赦しを与えた以上は、自分は兄弟姉妹に対して赦しを与えないということはあってはならないのであります。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すというのは、罪を承認することではないということです。1520節で明らかになったように、罪は罪として神の意志に反するものとして、罪を犯した者に対して明確にしなければならない。しかし、もし犯した者が罪を悔いもせず赦しを願うこともしない場合、どうすればそうすることができるようになるかを考え、神に祈り、その実現のために何かをしなければならない。そんな人は神から大きな罰を受ければいい、などと思ってはいけない。そうではなくて、どうすれば神の罰を受けないですむようになるかを考えなければならない。なぜなら、その人もイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた人だったのだから。きっと弱さや何かの迷いで道を誤ったのだろうと思わなければならない。先主日の福音書の箇所にあった「99匹と1匹の羊のたとえ」でイエス様が教えたことは、たとえ自らの誤りで神から離れてしまう道に迷い込んだとしても、神としてはその人が神のもとに戻るのを望んでいるということでした。そうである以上は、罪の被害を被った者は、罪を犯した者が神のもとに立ち返れるように神に願い祈り、可能な限り、また機会を捉えてそうなるように助けてあげる、これが、罪を犯した信仰の兄弟姉妹を赦すことです。

以上が、罪を犯した兄弟姉妹にどう向き合うかという問題の答えになります。要約すると、まず、神の意志に反することは、そうであるとはっきりさせなければならない。それと同時に、罪を犯した者がまだ罪を悔い赦しを願うことをしない段階でも、その者を赦さなければならない。ただし、赦すというのは、罪を承認するということでなく、その人が神のもとに立ち返れるよう心から祈り願い、それを支援するということです。

4.

以上は、教会内、キリスト信仰者同士の間での罪の問題でした。それでは、罪を犯す者が教会外の者、キリスト信仰者でない場合は、信仰者はどう向き合ったらよいのでしょうか?

この問題は本日の説教のテーマには直接関係はないのですが、一言だけ申しますと、神が御子イエス様を用いて実現した人間の救いは、実は全人類に対して、どうぞ受け取って下さい、と提供されているものです。それを受け取った者がキリスト信仰者です。世界には、いろいろな事情でそれを受け取っていない人が大勢います。神が御子イエス様をこの世に送ったのは全ての人が救いを受け取るためでした。だから、それを既に受け取った信仰者はまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るようになるために各々働きをしていかなければなりません。その意味で、先ほど申し上げた「赦す」ということは、相手が信仰者でない場合にもあてはまるのであります。罪を犯した相手に対して、あいつなど神の罰を受ければいいのだ、などと思ってはならない。そうではなくて、どうすれば罰を受けないですむようになるかを考えてあげなければならない。罪を犯した信仰の兄弟姉妹の場合は、神のもとへの立ち返りを願い祈り、そうなるよう働きかけをしなければならないと申しました。相手が信仰者でない場合は、働きかけは一層困難とは思いますが、少なくとも願い祈ることは誰にでもできます。先主日の使徒書の箇所であった「ローマの信徒への手紙」1214節で、使徒パウロは「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と教えていますが、その通りです。

しかしながら、相手の人が神の罰を受けないようにと願い祈っても、その人がこちらの祈り願いを無にするような挙動を取り、それについて悔いることも赦しの願いもあり得ないという態度を取り続ける場合はどうするか?これは、本日の使徒書の箇所「ローマの信徒への手紙」12章の終わりでパウロが教えていることが重要になると思います。まず、神は、最後の審判の時に最終的に、悔いも赦しの願いもしなかった者に対して、その者がもたらした悪について全責任を負わせる。それゆえ、信仰者は復讐や報復に心を奪われてはならない。全ては神の怒りに任せる。そのかわり、信仰者は、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませなければならない。そうすることで、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。つまり、敵に対してただ善を行う。もし敵がそれでも悪を続ければ続けるほど、最後の審判の日にその者が負う責任は一層重くなるだけで、自分に下される罰を自ら重くするだけである。このように、最後の審判の日に最終的に悪は滅びる。他方で、もし敵になされた善がその者の心を動かして、罪の悔いと赦しの願いをもたらせば、その時一つの悪が滅びる。つまり、善をもって悪に報いる限りは、悪はいずれにしても必ず滅びる運命にあるということであります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年9月22日月曜日

神が子供の信仰を価値あるものとみなす理由 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年9月21日 聖霊降臨後第15主日

エレミア書15章15-21節
ローマの信徒への手紙12章9-18節
マタイによる福音書18章1-14節

説教題 「神が子供の信仰を価値あるものとみなす理由」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、親たちがイエス様から祝福をいただこうと子供たちを連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、主は弟子たちを戒めて、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言って、祝福を授けます。旧約の伝統では、神が何か任務を与える時に選ぶのはたいてい大人でした(エリのもとに引き渡されたサムエルは例外でしょうか?)。イエス様が神と子供の関係を何か特別なことのように見ていたのは当時としてはとても革新的なことだったでしょう。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を神は断じて許してはおけないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、子供の信仰と大人の信仰の問題について見てまいりたいと思います。

2.

 まず弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問します。「天の国」は、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、そのかわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨しました。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国を統治・君臨することになる王イエス様の側近になれるのは、果たして誰か?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。神の国で誰が一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えます。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできない、と言われたのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。それとあわせて、神の国に入れるための条件「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのか、これもみていきたいと思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた神がおられるところです。それは天の国とか天国とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われることもありますが、本当はそれは、人間が五感や理性を用いて認識や把握ができるこの現実世界とは全く別の世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後で、自分の世界に引き籠ってしまうことはなく、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。神の現実世界に対する介入・働きかけの中で最も重要なものは、御子イエス・キリストを御許からこの世界に送って、彼を十字架の上で死なせて、そして三日後に死から復活させたことです。
 
神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でありました。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまったのです。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されている通りです。
 
そうした悲劇が起きた後で神は人間に対して、身から出た錆だ、勝手にするがよい、と見捨てるようなことはせず、なんとか人間を助けてあげよう、人間がまた神との結びつきを持ててこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、この世から死ぬことになっても、その時は自分の許に戻れるようにしてあげよう、と決意し、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様を用いて行ったことは、まず、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪の問題を最終的に解決することでした。すなわち、人間の罪を全部イエス様が張本人であるかのようにして彼に全部負わせて、その罰を十字架の上で受けさせたということです。その結果、イエス様はとてつもない苦しみの中で死を遂げました。しかし、話はそれで終わらず神は今度は、イエス様を死から蘇らせて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれたのです。
 
このように神は、御自分と人間との結びつきの回復という大事業を、イエス様を用いて実現してしまったのです。あと人間の側ですることと言えば、これらのことがまさに自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受ければ、神が実現してくれた救いを自分のものにすることができるのです。救いの所有者となって、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。神との結びつきを持って生きられるので、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時神は御手をもって御許に引き上げて下さり、こうして人間は永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのです。ただし、キリスト信仰者になったと言っても、もちろんまだ肉を纏って生きていますから、罪をまだ持っています。しかし、「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい、罪を犯さない生き方が出来るよう助けて下さい」と神に祈り求めれば、神は「我が子イエスを救い主と信じる以上は、彼の犠牲の死に免じてお前を赦してあげよう」と言って赦し、私たちが新しいスタートを切れるようにして下さるのです。このような慈愛に満ちた父なるみ神は、永遠にほめたたえられますように。

キリスト信仰者は、このような神に絶えず心の目を向けて自己吟味をし、神との結びつきを大切にしながら日々の人生を歩む者です。向かうところは死を超えた永遠の命が待っている神の国ですが、このように歩む者はこの世の人生の段階にて既に神の国の一員として迎え入れられているのです。ところで、神の国は、今はまだ目に見える形にはありません。しかし、それが目に見えるようになる日が来ます。それが、復活の日と呼ばれる日です。その日はまた、今の現実世界が終わりを告げる日でもあり、最後の審判の日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、神が今ある天と地にかわって新しい天と地を造る天地大変動の日が来る。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今の現実世界にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、主イエス様が再臨され、信仰を守り抜いた者たち全て、その時点で生きていた者と死から復活させられた者とをあわせて、神の国に集めて王として君臨します。

その時の神の国はまず、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録214節(717節)で預言されているように、神はそこに集められた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり等々。こうした奇跡は、この限界だらけの現実世界を超える力を持つ神の国を人々に味わさせるものだったと言えるでしょう。少し話が脇道にそれますが、ある教会の全国総会で、「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この現実世界の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に入れるようにすることだと思います。

3.

 神の国が以上述べたようなものであることは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、まだはっきり理解されていませんでした。そのことは、当時のユダヤ教社会において、メシアと言う言葉の意味がいろいろな仕方で理解されていたということにもあらわれています。先週の説教でも触れましたが、メシアとは、一方ではかつてのダビデ王の末裔でイスラエルを外国の支配下から解放し栄光ある王国を再興してくれる待望の王を意味していました。他方では、この世はやがて滅び、それにかわって森羅万象が新しくされた世が到来する、その時、信仰を守り抜いた者たちと復活させられた者たちを一緒に集めて君臨する、そういうこの世と新しい世の橋渡し的役割をする王がメシアであるという考え方もありました。マルコ8章やマタイ16章に、イエス様が自分の死と復活を預言すると、それを打ち消そうとしたペトロはイエス様に強く叱責されてしまいます。ペトロがメシアの意味を現世的な民族的英雄と考えていたことがうかがえます。それで、メシアが受難の末に死んでしまうなんて受け入れがたいことだったのでしょう。先にも触れたヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の預言を聞いた後で、神の国が到来したら息子を側近にして下さいと懇願します。母親は、神の国が現世的なものでなくて、復活を伴う新しい世の王国と理解したようです。しかしながら、身分の序列があると考えていたので、これも現世的な王国をイメージしていたことがうかがえます。

 以上のように、イエス様の死と復活の出来事が起きる前、人々は、神の国とそこに君臨するメシアについて正確な考えを持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問しました。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない。」「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では、「立ち返る」という意味の動詞στρεφωで、それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申し上げたように、神がイエス様を用いて実現して下さった救いをそのままいただくということです。神があげるよと言って下さるのを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。逆に、これだけのものをいただけるのだから、何かこちらからもしないといけないとか、そんなお返しの必要もなく、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに無力な子供のようになって受け取るだけです。こうして、人間は神の国の一員に迎え入れられるのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後に、洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として、神の実現された救いを受け取る、こうして人は神の国に入ることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は、その神の国の中で一番偉い者は誰かということについて答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べました神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて業を鍛えても、人間は死を超えた永遠の命は持てない、神の方で整えてくれなければならない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のようになる人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。「低くする」ことがどんなことか一目瞭然であるように、この子はおそらく身なりのみすぼらしい子供だったのではないかと思われます。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。この文のギリシャ語の原文は少し厄介です。新共同訳のようなδεξηταιεπι τω ονοματι μουという結びつきで考えないで、τοιουτο επι τω ονοματι μουという結びつきでみると、訳としては、「このような私の名に拠り立つ子供を一人でも受け入れる者は、私を受け入れるのである」という意味になります。つまり、イエス様を救い主と信じる子供を受け入れて、その子の信仰をしっかり守り支える者は、イエス様をしっかり受け入れて信じているのである、という意味です。次に来る6節とのつながりで考えると、こちらの方がいいのではないかと思われます。この「受け入れる」ということですが、よくある理解の仕方ですが、孤児とか困窮した子供を引き取るという弱者救援の福祉的な意味ではありません。どんな意味かと言うと、次の6節でイエス様は「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っています。つまり、ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持っている子供です。何歳くらいかは予測がつきませんが、信仰を持っている子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは、弱者救援ということではなく、信仰を持った子供を信仰の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様は、「神の御前にいる守りの天使は、大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えているのです。子供だからと言って、その信仰を軽く見てはならないのであります。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語スキャンダルのもとの言葉です。

「つまずかせるもの」は、私たちをどうつまずかせるのか?先ほど申し上げましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が実現された救いの所有者となって、この世にありながら既に神の国の一員に迎え入れられて、約束された永遠の命に向かって歩むようになりました。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく存在です。「つまずかせるもの」とは、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとするものです。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑というものもあります。例えば、「これをすれば君は素敵な人生を送れるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合に、です。キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が流した尊い血が身代金になって自分を罪と死の支配から解放してくれたということが最大の自由であって、この世が誘惑する「素敵さ」こそが束縛に他なりません。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。
 
しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」が次々と打ち出してくる新しい人間像、先端をゆく人間像に目移りしてしまう危険があります。その意味で、本日の箇所でイエス様が「つまずかせるもの」への警告を大人よりも子供に向けているのは理由のあることなのです。イエス様は、「つまづかせるもの」について教える前と後では、「お前たちは」と言って弟子に向かって教えていますが、「つまづかせるもの」のところでは、「お前は」と言って一人の相手に言っています。

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰を外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なる神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられることを拒否しない限り、神は必ず見つけて下さり、信仰の道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか、神によって見つけられますように。

4.

 それでは、本日の福音書の箇所を理解したところで今度は、大人の信仰と子供の信仰の問題について考えてみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した人間の救いは、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取ってくださいと、全人類に差し出して下さっている。救いはまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのであります。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。さらに、信仰が人間の自由な意思決定の産物となって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しないと、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の意志などというものは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。ただ、正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、再洗礼を受ける必要は全くありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は全人口の圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、その人の人生の歩みの途上で受けるということが多い。そうなると、信仰を自己の自由な意思決定の産物にする危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力を持ってこの救いを勝ち得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地で起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その点で、子供が有利な地位にあることは否めないでしょう。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなり、全てを客観的に眺める立場でい続けようということになるのではないでしょうか。しかし、もし子供を、キリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波に乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。信教の自由とは、自分の好きな宗教を自由に選べるという意味もありますが、他方では自分の信仰を妨げなく実践できる自由という意味もあります。子供にキリスト信仰を受け継がせることは、こちらの自由を実現することになるのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン