説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2014年8月31日 聖霊降臨後第12主日
列王記上19章1-21節
ローマの信徒への手紙11章13-24節
マタイによる福音書14章22-33節
説教題 「イエス様の励まし言葉と強い信仰」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
イエス様が水の上を歩いてきたという本日の福音書の箇所は、5千人以上の人たちをわずかな食糧で満腹させた奇跡のすぐ後に続く、奇跡の出来事です。本日の説教では、この出来事の際、イエス様が言われた二つの言葉に焦点をあてて、私たちのキリスト教信仰とはいかなるものか、またいかにあるべきものかということについて考えてみたいと思います。
二つの言葉の最初のものは、水の上を歩いてやってきたイエス様を幽霊だと勘違いしてパニックに陥った弟子たちにイエス様が言われた言葉「安心しなさい」です。これは、ギリシャ語原文で、θαρσειτεという動詞ですが、「気を強く持ちなさい」とか「しっかりしなさい」とか「元気を出しなさい」という励ましの言葉、元気づけの言葉です。イエス様は、この同じ言葉を他の箇所でも使っています。ひとつはマタイ9章2節で、身体が麻痺して寝たきり状態の人を人々がイエス様のもとに運んできたとき、イエス様は寝たきりの人に(日本語では)「元気をだしなさい」と言いますが、これが同じ動詞θαρσειなのです。つまり「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」と言われたのです。もうひとつは、マタイ9章22節で、12年間出血状態が続く女性がこうすれば治ると信じて、イエス様の服に触れた時、イエス様は彼女に(日本語では)「元気になりなさい」と言いますが、これも同じ動詞θαρσει「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気をだしなさい」です。不治の病で苦しむ人や恐怖におびえる人に「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気をだしなさい」というのはどういうことか。励ましの言葉、元気づけの言葉としてちゃんと働いているのか。実は、これが驚くべき仕方で働いているのです。このことを後ほどみてみましょう。
二つ目の重要な言葉は、ペトロがいったんは水の上を歩けたのに、大風に気づくやいなや溺れ始め、イエス様が彼を引き上げた時に言った言葉「信仰の薄い者よ」です。これはギリシャ語で、ολιγοπιστοςといいますが、文字通り「信仰の弱い者」「信仰の薄い者」です。同じ言葉は、イエス様の山上の垂訓で野の花や空の鳥を指して「思い煩うな」と教えられるところで使われます。「何を着ようか、何を食べようか」ということに心が向いてしまう人たちに、「信仰の薄い者」と言って叱咤し、まず神の国と神の義を求めよと教えます(マタイ6章30節)。それでは、何が薄い信仰で、何が薄くない、強い信仰でしょうか。ペトロは結局は溺れてしまったが、それでもある距離は水の上を歩くことができた。しかし主に言わせれば「信仰の薄い者」であります。私たちだったら、ある距離はおろか最初の一歩でもう沈んでしまうでしょう。そうしたら信仰の薄さはどうしようもないほどになってしまいます。キリスト信仰者の目標は、水の上を歩き通せるくらいの強い信仰を目指すことでしょうか。それができないと、信仰が薄いのだと言って恥じていなければならないのでしょうか。実は、全くそんなことではないのです。それなら強い信仰とは本当は何か?どうしたら、それを持つことができるのか?
そういうわけで、イエス様の「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という励ましの言葉と、「信仰の薄い者」という言葉の意味について、今日はみていこうと思います。
2.
まず、その前に少し脇道にそれますが、本日の箇所の出来事の情景を詳しく見てみます。情景をできるだけ正確に把握することは、イエス様の言葉の意味を的確に理解する上で重要です。
5千人以上の人たちの空腹を満たした後、イエス様は弟子たちに、舟に乗って先にガリラヤ湖の対岸に行っていなさい、と命じます。弟子たちは出発し、イエス様は群衆を解散させた後、山に登って一人で祈りを捧げます。時刻はすっかりもう夜だったでしょう。そうしているうちに、いつしか強い風が湖地方に吹き始めます。弟子たちが乗った舟は、向かい風のもたらす波に進行を妨げられて悪戦苦闘している。新共同訳によると舟は陸から「何スタディオン」離れていたとありますが、ギリシャ語原文では「たくさんのスタディオン」です。2,3スタディオン程度ではない。1スタディオンは約192メートルということですので、仮に10スタディオンであったとすれば大体2キロ程離れているということになります。
その時、山を下りられたイエス様が、湖の上を歩いて舟に接近します。何者かが水の上を歩いて近づいてくるのを弟子たちが確認したのが、「夜が明けるころ」(25節)。これもギリシャ語原文では「第4夜警時」、つまり、ローマ帝国の軍隊の夜の時間の数え方で、日の入りから日の出までを4つの時間帯にわけた最後の時間帯です。日の出を仮に6時とすると第4夜警時は、午前3時から6時の間ということになります。案外、丑三つ時に近かったのかもしれません。
弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえたとありますが、おびえたと言うよりは、ギリシャ語では「驚愕した」という意味の動詞εταραχθησανで、強いパニック状態に陥ったことを指しています。
さて、水の上を歩いて来た者が幽霊でなくイエス様とわかって、ホッとした時、ペトロがイエス様に命じさせて水の上に乗り出します。「イエスの方に進んだ」(29節)とありますが、これもギリシャ語原文に即せば、イエス様のところにほぼ到達したと解することができます。実際、ペトロが溺れ始めた時にイエス様は手を差し出して引き上げたのだから、それくらい近くまで行ったことは明らかです。それでは、ペトロが水の上を歩いた距離がどれくらいだったか推測できるでしょうか?水の上に立っているイエス様と舟の間の距離はどれくらいだったかというと、少なくとも夜の暗さの中でも人間が近づいてくるのが確認でき、かつ声も聴き分けられる位の距離ということになります。風と波があったことを考えれば、そんなに長い距離ではなかったでしょう。それでも、仮に50メートル位としても、ペトロはその大半を歩いたことになります。しかも、大風と波はまだ止んでいなかったので、ペトロはその中を歩いたことになります。溺れかけたペトロをイエス様は支えるようにしてか、または抱きかかえるようにしてかして舟に乗り込むと、風は止みました(32節)。以上が、本日の箇所の出来事の情景把握です。
3.
それでは、本日の箇所の重要な言葉をみてみましょう。まず、「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」を意味する言葉θαρσειです。
初めに申しましたように、この言葉は、元気づけ、励ましの言葉です。日本語では、元気づけ、励ましの言葉は、「がんばれ」が一般的です。東日本大震災後、「がんばれ」をはじめ数多くの励まし言葉が使われてきました。電車やバスやタクシーなど公共の交通機関にも「がんばろう、日本!」のステッカーが貼られていました。ところで、当時話題になったことの一つに、この「がんばれ」という言葉は、被災者の人たちにはかえって重荷となって逆効果になる危険があるということでした。それを聞いて私は、ありえることだと思いました。というのも、「がんばれ」は、スポーツや受験勉強のように、優勝するとか合格するとか目標や達成の手段がはっきりしているとき、有効な言葉だと思うからです。目標の達成のために練習時間や勉強時間を増やすとか、練習や勉強の内容を高度にしていくとか、自分に負荷を課して、時間と力を投入して取り組み、ひとつひとつ乗り越えていく、そのことが「がんばる」ことでしょう。ところが、被災された人々にとって「がんばる」は何を意味するでしょうか。もちろん家や職場や財産を失った人にとっては、それらを再興することが目標となりましょう。しかし、長い時間と多くの労力をかけて築き上げたものを再興するというのは並大抵のことではありません。中には何十年かかってもやり遂げるという決意をもって取り組む不屈の精神の人もいます。頭が下がる思いです。しかし、皆が皆そういう人ではありません。特に、肉親を失った人たちには、肉親を取り戻すことは目標にはなりえないので、がんばりようがなく、心に空いた穴というものは相当なものだったろうと思います。本当に、励まし、元気づけの言葉はかけてあげなければならないが、どんな言葉をかけてよいのか。元気になってもらいたい以上、空虚な言葉は出したくないし、ましてや重荷に感じるような掛け声は避けなければならないし、その意味で、大震災は、励まし、元気づけの言葉を日本全体で真剣に考えさせた機会だったと言えます。
さて、イエス様がかけた励まし、元気づけの言葉をみてみましょう。初めに申しましたように、イエス様は、「気を強く持ちなさい」「しっかりしなさい」「元気を出しなさい」という意味の言葉を三回使っており、二回は不治の病を患っている人に対して、三回目は本日の箇所で、パニック状態に陥った弟子たちに対して、使われました。ここで、イエス様の励まし、元気づけの言葉にはいつも元気づけの根拠が一緒に述べられていることに注目する必要があります。
まず、マタイ9章の初めでイエス様が全身麻痺の寝たきり状態の人に励ましの言葉をかけた時をみてみます。イエス様はその人とその人を運んできた人たちの信仰、イエス様以外に助けられる方はいないという信仰を見ました。その後でこの励ましの言葉をかけるのですが、それと同時に「お前の罪は赦される」とも述べます(9章2節)。これを聞いた律法学者は、罪を赦せるのは神以外にないのに、この男は自分を神と同等扱いしている、神を冒涜する者だと非難する。これに対してイエス様は、自分が下す罪の赦しの宣言は口先だけの言葉ではない、実際その通りになる力をもった言葉である、そのことを示すために、寝たきりの人に「起き上がれ」と命じます。そして、その人はその通り動き出し普通の身体になります。まさに、イエス様の言葉は口先だけのものではなく、力を持ったものであることが示されたのです。
ここで注意しなければならないのは、イエス様が励まし、元気づけの言葉をかけた時、「病気が治るから元気を出しなさい」と言ったのではないということです。イエス様が言われたことは、「お前の罪は赦されるから元気を出しなさい」ということだったのです。その人の病気が治ったのは、罪の赦しの宣言の後に続くイエス様と律法学者のやりとりの成り行き上のことだったのです。
罪が赦されることが、どうして励まし、元気づけの根拠になるのでしょうか?私たち人間は、最初の人間アダムとエヴァ以来、私たちに命と人生を与えて下さった造り主の神に対する不従順と罪を代々受け継いできました。最初の人間の不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまいました。死ぬということが、人間が罪と不従順を受け継いでいるということのあらわれなのです。人間は、自分の力で死の支配下から脱することができないように、自分の力で罪と不従順を自分から消すことはできません。神はそのような人間を憐れんで、人間がこの世の人生を神との結びつきを持って生きられようにし、この世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのです。神がイエス様を用いて行ったことは、人間の罪と不従順から生じる罰を人間にではなく、全部身代わりにイエス様に負わせて十字架の上で死なせたのです。さらに、一度死んだイエス様を、今度は復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれたのです。
神がなされたこれらのことを、それはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、その人は神との結びつきを回復して、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。この世の人生の順境の時にも逆境の時にもたえず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手を差し出して御許に引き上げて下さるのです。まさに、本日の福音書の箇所で、イエス様が水中に沈みだしたペトロに手を差し出して引き上げたようにです。
これらのことは全て、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人なら、どんな境遇におかれてもそうなるのです。たとえ不治の病に侵されても、です。イエス様が寝たきりの人に「お前の罪は赦される」と言ったのは、病気を治した後ではありません。まだ病気の状態の時に言われたのです。どんな境遇、状況におかれても、イエスを救い主と信じる信仰に生きるお前は永遠の命に至る道にしっかり置かれていると宣される。これが、励まし、元気づけの根拠になっているのです。
同じマタイ9章で、イエス様は12年間出血状態で苦しんでいる女性にも、同じ励まし、元気づけの言葉を同じ仕方でかけます。その時、イエス様は(日本語訳では)「あなたの信仰があなたを救った」(9章22節)と言いますが、ギリシャ語の原文では「あなたの信仰があなたをもう既に救っているのだ」という意味です。この言葉の後で女性は健康になります。つまり、イエス様を救い主と信じた日に遡って女性はもう救われていた、まだ出血状態が続いていた時にもう救われていた、ということなのであります。イエス様を信じて永遠の命に与る者になったことを思い出させることが、励まし、元気づけの根拠になっています。そこまで言われれば、今すぐ病が治るかどうかは、さしあたって焦眉の問題ではなくなり、癒されたとしても何か付け足しのようなものになります。天のみ神が永遠の命に与らせてやると約束した以上、それは揺るがないことだから、その時がいつ来るかは神にお任せしてとりあえず今を生きよう、というような心になっていきます。
イエス様の励まし、元気づけの言葉は本日の福音書の箇所でパニック状態の弟子たちに述べられますが、その時、イエス様は、「ここにいるのは私だ」と言われます。ここでは、イエス様がそばにおられること自体が励まし、元気づけの根拠になっています。私たち人間が神との結びつきをもって永遠の命に与れるために、神が計画されたことを、自分を犠牲にしてまで実現される主がそばにおられる、死の力を無力にして永遠の命に至る道を切り開いて下さった主がそばにおられる、これ以上の励まし、元気づけの根拠はあるでしょうか?
もちろん現代を生きる私たちには、弟子たちのように目に見える形ではイエス様はそばにおられません。しかし、見えない形でイエス様は信じる者のそばにおられます。彼の語った教えと成し遂げた業は聖書に収録されています。彼の到来と神の計画の実現についての預言も聖書に収められています。実に、聖書の御言葉を読み聞きすることを通して、私たちは弟子たちと同じくらいイエス様の近くにいることになるのです。聖書の重要性を侮ってはいけません。またイエス様は、聖餐式の時に私たちを覆うようにいらっしゃり、御自分の血と肉をパンとぶどう酒の形で私たちに与えて下さいます。私たちはそれを摂取するたびに、洗礼の時に始まった主と共に歩む人生の歩みがしっかりしたものになっていきます。さらにイエス様は、私たちの祈りをひとつ残らず、いつも聞きとげ、父なるみ神に執り成して下さいます。まさに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28章20節)」と約束された通りです。
以上みてきたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は、いかなる境遇や状況にあっても、励ましや元気づけの根拠をしっかり持っているのです。日本の人たちも、同じ根拠が持てるよう祈って止みません。
4.
最後に、もう一つの重要な言葉「信仰の薄い者」について。何が薄い信仰、弱い信仰で、何が強い信仰か、考えてみましょう。
イエス様の「来なさい」という言葉を聞くや、ペトロは水の上に足を乗せました。情景把握のところで触れましたように、まだ湖は風と波で荒れている最中です。そして、ペトロはイエス様の手の届くところまで到達しました。ところが、「強い風に気づいて怖くなり」(30節)ます。ギリシャ語原文では「強い風を見て怖くなり」です。つまり、その時点までは、「来なさい」と言われたイエス様が前方に見えただけで、周囲を轟轟とどろかせている風や波はペトロの眼中になかったのです。その時ペトロは、足下の水は自分を支えきれないという自然法則の圏外に置かれたのです。ところが、最後になって、それまで見えなかった風と波が目に入った途端、自然法則の圏内に戻ってしまいました。水の上に立っているイエス様ではなくて、風とか波とか人間の五感や理性で把握できるものに目が行ってしまい、そうなると今度は、自分の能力や努力によって水の上に立たなければならなくなります。これは、人間の理性のなせる業です。しかし、自然法則の圏内に置かれていれば、どんなに踏ん張っても力を込めても、沈むものは沈んでしまいます。(もちろん、自然法則の圏内にいながら、別にイエス様を見なくても、人間の努力や能力で達成できることも沢山あります。ただ、それらが神の祝福を受けるものかどうかは別問題ですが。)
ところが、人間が永遠の命に至る道に置かれるというのは、水面歩行の時と同じくらいに人間の能力、努力、理性が成しえないことなのです。加えて、その道をちゃんと歩けているか心配になった時、大丈夫歩けていると安心させてくれることも、また、この世の人生が終わる時に本当に永遠の命に入れてもらえることも全て、人間の能力、努力、理性では成し遂げられないことなのです。まさに、ただひたすらイエス様の方を向いて行くことで、これらのことは成し遂げられるのです。周囲がどんなに荒れ狂った状況で、自分の力は無でしかないと観念するような時、イエス様の方を向いて行くことで、成し遂げられるのです。これが強い信仰です。逆に、どんなに能力や努力や理性が優れた人でも、イエス様を見ていなければ、これらのことは不可能なのであります。これが弱い信仰です。人間が永遠の命に至る道を歩けるかどうかという点からみて、ペテロの水面歩行の成功と失敗は、真に示唆に富んだ出来事です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン