2024年4月29日月曜日

神の意思 ― 他人事か、自分事か? (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

 

主日礼拝説教 2024年4月28日 復活後第五主日 スオミ教会

 

使徒言行録8章26-40節

ヨハネの第一の手紙4章7-21節

ヨハネによる福音書15章1-8節

 

 

説教題 「神の意思 ― 他人事か、自分事か?」

 

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.聖書がわかるとは?

 

 先ほど朗読された使徒言行録の個所で、フィリポが旧約聖書を読んでいるエチオピアの高官に聞きます。「読んでいることがお分かりになりますか?」高官は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」皆さんは聖書を自分で読んですぐお分かりになりますか?そもそも聖書をわかるというのはどういうことでしょうか?難しい言葉の意味がわかって、文章がクリアーになることでしょうか?

 

 難しい言葉の意味がわかって文章がクリアーになっても聖書をわかったことにはなりません。どうしてかと言うと、聖書という書物は天地創造の神が人間に伝えたいこと、わかってほしいこと、人間にこうあってほしいと思っていること、つまり私たち人間に対する神の意思が詰まった書物だからです。それで、読む人が神の意思を自分事として受け取って読むことが聖書をわかるようになる読み方です。もちろん、神の意思を自分事として読まない読み方もあります。遠い昔の遠い世界の人たちはこういうことを考えたんだ、と距離を置いて他人事として読む読み方です。中には少し距離を近づけて、聖書には現代を生きる自分にとって有益な話もあるとか、現代を生きる自分には受け入れられない教えもあるが、受け入れられる教えもある、それは参考にしようとか、知識と教養の読み方です。自分に磨きをかけようという人格形成の読み方です。聖書以外にもその材料は沢山あります。しかし、神の意思を自分事として読むというのは、自分に磨きをかける読み方とは違います。それでは、どういう読み方でしょうか?

 

 本日の使徒言行録の個所に出てくるエチオピアの高官は、神の意思が自分事になった例です。神の意思が自分事になったので洗礼を受けるに至りました。本日の別の日課、第一ヨハネとヨハネ福音書の個所は、神の意思が自分事になって洗礼を受けた人が今度は神の意思を日々、自分事にして生きて行く生き方について教えています。そこで言われているのは、神の愛を内に持って生きる生き方と、ぶどうの木の枝が豊かに実を結ぶような生き方です。これらが神の意思を自分事にして生きる生き方です。今日はこれらのことついて見ていきましょう。

 

2.神の意思を自分事にする ― エチオピアの高官の洗礼の場合

 

 エチオピアの高官が神の意思を自分事にする聖書の読み方をしたことについて。本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来ます。特にガザは今パレスチナとイスラエルの戦争の舞台になってしまい、戦火の悲惨な状況が毎日ニュースで報じられています。見るのが辛くなる光景を毎日目にしなければなりません。一日も早い戦争の終結を後で一緒にお祈りしましょう。ガザは紀元前1500年位からあると言われる歴史の古い町で、使徒たちが活躍した時代は平穏な町だったのです。エチオピアの方は、現在のエチオピアの国とは関係はなく、当時エジプト南部の地域はそう呼ばれていました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至る地中海東岸の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えるようになりました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。

 

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。エチオピアの高官が読んでいたイザヤ書も実はヘブライ語ではなくギリシャ語のものでした。どうしてわかるかと言うと、私たちが手にする旧約聖書はヘブライ語のものを元にしていますが、その文章と高官が読んでいた文章が少し違っているからです。ヘブライ語のイザヤ書とギリシャ語のイザヤ書を確認したら、案の定、使徒言行録にある引用はギリシャ語と同じでした(後注)。翻訳文がもとの文と違っているということはよくあります。このやっかいな問題は後で解決します。エチオピアの高官は、きっとギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官なので割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、救世主メシアの到来を待ち望む信仰を持つには至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったのでした。

 

 少し脱線しますが、地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人の移住だけではなく、現地の人たちの改宗もありました。当時多神教が支配的だった地中海世界の人々にとって一神教のユダヤ教には惹きつけるものがあったのです。例えば、当時のギリシャ・ローマ世界の性のモラルは奔放というかルーズなところがありました(現代も同じかもしれません)。そういうところでユダヤ教は、創造主の神は人間を男と女に造った、神は男女の結びつきにおいて姦淫や不倫を許さないという生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。余分な赤子は父親の権限で処分するという嬰児殺しが当たり前のように行われていたのです。理想的に描かれる古代文明にはこういう影の部分があったのです。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内にいる時から神から目を注がれているという生命観を示して間引きに反対したのです。

 

 このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じように正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍が大勢いたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、彼らのことです。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。さあ、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は急速に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めません。彼らはローマ帝国の官憲を巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。まさにこのような時代状況を使徒言行録は詳細に記しているのです。

 

 エチオピアの高官の話に戻りましょう。彼はイザヤ書5378節のところで悩んでいました。屠り場に引かれる羊、毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは一体誰のことだろうか?彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所はヘブライ語の原文よりやっかいでした。ヘブライ語では、「羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまい、彼の同時代の者は誰もそのことを気に留めない」という書き方です。ところがギリシャ語の方は「主の僕はへりくだったことによって裁きが取り除かれた」などと言います。それに続いて「誰が彼の子孫について語ることができるだろうか?彼の命は地上から取り去られてしまうのに」などと言います。ヘブライ語とかなり違っています。一体どういう意味でしょうか?

 

 ここで一つ注釈します。私たちの新共同訳では「卑しめられて、その裁きも行われなかった」と言っていますが、ギリシャ語原文では「へりくだったことによって裁きが取り除かれた」です。参考までに各国語ではどう訳されているかを見ると、フィンランド語訳とスウェーデン語訳はこの訳です。ところが、ルター版のドイツ語訳は「彼の裁判は廃止される」で、新共同訳の「裁きが行われなかった」に近いです。でも、イエス様は裁判を受けたのです。それで十字架にかけられたのです。英語のNIVは「彼の正義が奪われる」で、正しい者が不当な判決を受けたという意味です。フィンランド語とスウェーデン語は裁き=有罪判決が取り除かれたという訳です。私はこちらだと思います。

 

 どうしてかと言うと、フィリピ2章にそのことが言われているからです。89節を見ると、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順だった、それで、神は彼を高く上げられたと言われています(89節)。神に高く上げられたというのは、神の力で死から復活させられ、さらに天に上げられて神の右に座すに至ったということです。まさに、へりくだったことによって裁きを取り除かれたのです。

 

 それと、イエス様の子孫について誰が語ることが出来るのか?彼はこの地上から取り去られてしまうのに、と言うところです。子孫というのは必ずしも血筋の子孫のことではなく、イエス様に結びつく者が後から出てくるということです。言うまでもなく、キリスト信仰者のことです。イエス様自身がこの地上から取り去られてしまったら、一体だれが彼に続くキリスト信仰者について語ることが出来るのか?そこにフィリポが高官の前に現れて、この私が語ることが出来ますと名乗り出たのでした。

 

 フィリポはイザヤ書53章の主の僕の預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、イエス様の福音と言うからには以下の内容だったことは間違いありません。天地創造の神が贈られたひとり子のイエス様が十字架の上で人間の罪の罰を全て受けて死なれた。そのようにして人間に代わって罪の償いを神に対して果たして下さった。それで彼を救い主と信じて洗礼を受ければ彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができる。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者と見なされる。罪を赦されたので神との結びつきを持って生きられるようになる。さらに神はイエス様を死から復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開いて下さった。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はその道に置かれてその道を歩むことになる。神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを受けられてその道を進み、たとえこの世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようになった。以上の福音が伝えられたのです。これは時代を超えて現代の私たちにも伝えられている福音です。

 

 エチオピアの高官は、主の僕はイエス様だとわかりました。イエス様こそ神が旧約聖書で約束していた救い主メシアであり、彼こそ自分の救い主だと信じたのです。まさに、神の意思を自分事にする聖書の読み方をしたのでした。エチオピアの高官は洗礼を志願して、フィリポは施しました。これでエチオピアの高官は割礼なくして神の子となり神と結びつきを持ってこの世とこの世の次に到来する世の双方にまたがる命を生きることとなりました。

 

3.神の意思を自分事にする ― キリスト信仰者の場合

 

 次に、神の意思が自分事になって洗礼を受けたら、今度は神の意思を日々、自分事にして生きる生き方はどういう生き方になるかについて見ていきます。本日の第一ヨハネの個所とヨハネ福音書の個所がそのことを教えています。

 

 ヨハネ福音書15章でイエス様は、キリスト信仰者はぶどうの木の枝である、ぶどうの木はイエス様のことである、イエス様に繋がっているキリスト信仰者はぶどうの木の枝のように実を結ぶと教えます。キリスト信仰者が実を結ぶというのは、具体的に何を意味するのでしょうか?キリスト信仰者が実を結ぶと聞いてまず思い浮かぶのは、ガラティア5章でパウロが聖霊の結ぶ実について述べているところです。そこで喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制があげられています。私は、もっと具体的に述べているところとして、ローマ12章のパウロの教えを取り上げたいと思います。まず9節で「愛には偽りがあってはならない」と言います。もし何か自分の利益とか名声のためとか下心があれば、偽りの愛になってしまうということです。その続きをざっと列挙すると以下のようになります。悪を憎み、善から離れるな/兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思え/迫害する者を呪うな、祝福を祈れ/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け/思いをひとつにし、高ぶらず身分の低い人々と交われ/自分を賢い者とうぬぼれるな/誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ/隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第という時は迷わずそうせよ、少なくとも自分から平和を壊すな/自分で復讐するな、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ/善をもって悪に勝て。以上です。

 

ここで注意すべきことは、パウロは~しなさいと命令形で述べていますが、キリスト信仰にあっては、倫理的な実践というのは救いを受けたことの結果として出てくるものであるということです。救いを得るために行うものではないということです。神から罰を受けないためとか、神に自分を認めてもらうためとか、天国に入れるために、~しなさいと言われることをするのではないということです。なぜなら、既にイエス様の十字架と復活の業のおかげで、そしてそれを信じて受け入れる信仰によって既に救いを得てしまったからです。私たちが救いを得るためにすべきことは、神がイエス様を用いてとっくに整えて下さったのです。私たちはそれをただ受け取るだけで神に認められて天の御国に向かう道に置かれたのです。だから、キリスト信仰者にとって、良い業とか倫理的な実践は、救われたこと、神に認められたことの結果として出てくるものなのです。まさにイエス様というぶどうの木の枝の実のように実ってくるものなのです。その意味で、パウロが~しなさいと命じていることは、しないと天国に行けないぞ、と脅しを秘めた命令ではなく、君たちはもう救われたのだから、神に認められたのだから、それにふさわしく生きなきゃだめだぞ、というリマインドのようなものです。それは、パウロに限りません。パウロ以外の使徒もそうです。今日の第一ヨハネでヨハネが互いに愛し合いなさいと命じていることも同じです。

 

 第一ヨハネ410節でヨハネは、愛とは人間が神を愛したことにあるのではない、神が人間を愛してひとり子イエス様を人間の罪を償う生贄として贈って下さったことにあるのだと言います。11節でヨハネは続けて、「兄弟たち、神はこのように私たちを愛して下さったのだから、私たちもお互いに愛さなければなりません」と言います。19節でも言います。「私たちは愛そうではありませんか。なぜなら、神が最初に私たちを愛して下さったのですから。」このように愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにした神の意思、しかもそれを実現するためにひとり子を犠牲にすることも厭わないという意思、この神の愛が全ての愛の出発点だというのです。人間はこの愛で愛されて愛することができると言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということです。

 

 そうすると、イエス様や父なるみ神が聖書の中で、~しなさい、~しなさいと沢山命じていることも全部同じです。救われた結果、神に認められた結果、そうするのが当然という心意気になるのです。神やイエス様が命じていることを十字架と復活の出来事の前に聞いた人たちは、守らないと神に認められない、天国に行けないという脅かしを伴う命令に聞いたでしょう。しかし、十字架と復活の後は全てが逆転したのです。救われたのでもう命じられていることは当然という心意気になるのです。ただし、キリスト信仰者になったとは言ってもこの世では肉を纏っていますから、命じられることに反してしまうことをしてしまったり、考えてしまったり、言葉に出してしまったりすることもあります。しかし、罪の赦しの恵みに留まる者はすぐ、ああ、救われた者なのに、神に認められた者なのに、相応しくないことをしてしまった、と悔いて、十字架の方を向いて襟を正して新しくやり直すのです。

 

 そうすると、ヨハネの個所で、イエス様のぶどうの木に繋がっていながら実を結ばず切り取られてしまう枝というのはどういう状態かわかります。それは、せっかく救いを受け取って救われた者になったのに、いつしか、~をしないと救われないという昔の思い、律法的な思いに囚われるようになってしまった人たちです。救われるためにとか、救いを確実なものにするために命じられたことをするようになってしまった人たちです。そういうふうになったら、救いのためにはイエス様の十字架の犠牲では足りない、自分の業が必要なのだということになってしまいます。それは神の威信を傷つけることになります。イエス様の償いと贖いでは物足りないなどと言ったら、神から、それじゃ、どうぞ、とぶどうの木から追い出されてしまいます。

 

 それと、イエス様は実を結ぶ枝に対しては、農夫の神が手入れをしてもっと豊かに結ぶようにすると言います。それは何を意味するのでしょうか?それは、イエス様の償いと贖いが私の救いの全てですと言って受け取ることに徹する信仰に力を与えることです。その力は御言葉と聖餐を通して与えられます。礼拝の説教で御言葉を説き明かしする目的は、まさに償いと贖いの受け取りを強くすることにあります。受け取りが強まれば、実も一層豊かに結びます。

 

 最後にイエス様が「お前たちが私に留まり、私の言葉がお前たちに留まるならば、望むものを願えば叶えられる」と言っていることについて。望むものを願えば叶えられる、なんて言うのは御利益宗教じみていると思う人もいるかもしれません。しかし、そういうことではありません。まず、願いは叶えられると言う時の願いですが、これは何でもかんでもの願いではありません。私たちがイエス様というぶどうの木の枝として願うものです。なので、ぶどうの木の枝として相応しい願いです。じゃ、何が相応しい願いかと言うと、これはもう先ほど申しました、真のぶどうの実を結ぶことです。つまり、神の愛に立って愛することが出来るようになることです。それを願えば叶えられるとイエス様は言うのです。どうして叶えられるかと言うと、ぶどうの木の枝である私たちはイエス様というぶどうの木に繋がっています。その木から栄養を、つまり御言葉と聖餐という栄養を注いでもらっているからです。しかも、農夫の神が栄養を注がれる私たちを手入れして豊かに実を結ぶようにしてくれるのです。だから、ぶどうの木の枝の願いは必ず叶えられるのです。これが本日の個所のイエス様の教えの全容です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)ギリシャ語の旧約聖書は私の手元にないので、ネットの聖書サイトBible Hubのものを見ました。それは、Swete’s Septuagintで、権威あるOxford版やGöttingen版と同じかどうかはわかりません。

2024年4月15日月曜日

教会の条件(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年4月7日 復活節第二主日

 

使徒言行録4章32-35節

第一ヨハネ1章1節-2章2節

ヨハネ20章19-31節

 

説教題 「教会の条件」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所は、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて、いろいろ大切なことを教えるところです。大切なことは三つあります。まず、イエス様が弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったこと。イエス様の言う平和。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えたこと。罪の赦しの権限。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりましたが、その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」です。この三つのこと、罪の赦しの権限、イエス様の言う平和、目で見なくても信じるということは、よく考えるとキリスト教会が成り立つ条件であると言えます。イエス様は復活後40日したら天の父なるみ神のもとに上げられますが、その後でこの世に誕生する教会の設立条件をここで定めたとも言えます。今日は、この三つの条件について学んで、それがスオミ教会に備わっているか各自で考えてみる一助になればと思います。

 

2.罪の赦しの権限

 

 まず、罪の赦しの権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがないままで去らねばなりません。この悲惨な状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈って、人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。しかし、神は想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

 

 そこで人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものとすることができます。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪が赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。この新しい自分は神のひとり子の犠牲の上にあるとわかれば、罪に反対して生きていこうという心になります。

 

 このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たち人間に備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えますが、それは、神が備えて下さった罪の赦しを人間に及ぼす権限を授けたということです。人間が罪の赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちは、イエス様が聖霊を授けることをして権限が与えられました。イエス様が天に上げられると今度は、使徒たちが次に権限を与えられる者に手をかざす按手という儀式を行って、罪の赦しを取り次ぐ権限を伝授していきました。伝授された者たちも次に権限が与えられる者に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。これが使徒的な伝統ということです。

 

 2年前の復活節第二主日の礼拝の説教で、私は当時スオミ教会が用いていた日本福音ルーテル教会の式文に注文をつけたことがあります。皆さんはおぼえていらっしゃるでしょうか?それは、式の最初の部分で、会衆が一緒に行う「罪の告白」に続いて「罪の赦しの祈願祝福」というものがありました。その文句は「イエス・キリストを死に渡し、全ての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に赦しと慰めを与えて下さるように」という具合に、牧師は「赦しがありますように」と赦しを祈り願う言い方でした。それに対して、フィンランドのルター派教会ではそのような祈願ではなく、ずばり罪の赦しを宣言します。言い方は、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します。」ここで注意すべきことは、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言しますということです。誰がそんな権限を委ねられているのか?先ほども申しましたように、最初の使徒たちがイエス様から委ねられました。本日のヨハネ福音書の通りです。その後は、使徒的な伝統に立って教会の牧会者に任命された者たちです。私は2年前の説教で、いつの日かスオミ教会でフィンランドと同じような罪の赦しの宣言がなされることを希望しますと申したのですが、それは本当にその通りになり感謝です。罪の赦しの権限を委ねられた牧会者がいるというのは教会の条件です。

 

3.目で見なくても信じられる

 

 次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るという奇跡、そういうことを行う者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれてくるでしょう。

 

 ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるというのが本当の信じることだと言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

 

 このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じられるということを強調します。使徒パウロは第二コリント418節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、57節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ824節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」111節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

 

 さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられますが、それ以後は復活の主を目撃できません。それなので、目撃者の証言を信じるかどうかということがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

 

 それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められているということ、これがわかってそれを自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは目撃者の弟子たちが最初に自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象を超えた大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

 

4.イエス様が言われる平和

 

 イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומです。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もありますが、その他に、繁栄とか成功とか健康というように人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

 

 それがどういう意味だったかわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ1427節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

 

 イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。ローマ51節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということはコロサイ12122節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれた、それでイエス様を救い主として受け入れたら、神のみ前に立たされても大丈夫でいられということです。

 

 こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は何の変更もなく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪の支配から贖われていることを強化していけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を揺るがないものにしていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さることを確信して神に全てを委ねることが出来ます。

 

5.目撃者と証言を聞いた人たちの一体性

 

 以上、キリスト教会の三つの条件、罪の赦しの権限を委ねられた牧会者が教会にいること、信仰と洗礼を通して信徒一人一人が神と揺るがない平和な関係にあること、そして一人ひとりは目で見なくともイエス様が復活されたことを信じられることについて見てきました。もし教会がこれらの条件を満たしていなかったら、教会とは言えないと言ってもいいかもしれません。

 

 先ほど、目撃者たちは復活に秘められた大切なことをわかって自分のものにした、そして目撃者の証言を聞いた人たちもそれがわかって自分のものにした、だから目で見なくても信じられるようになったと申しました。その大切なこととは神との平和であるとも申しました。そのことについては本日の聖書日課の別の個所、使徒言行録の個所と第一ヨハネの個所でも述べられているので、最後にそれを見ておこうと思います。

 

 そこでは、最初の目撃者と彼らの証言を受け入れて信じた人たちの間に一体性があるということが言われています。ヨハネは、目撃者の使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは、ずばり、伝える者と伝えられた者が一体性を持つためであると言います(第一ヨハネ13節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っていて、なんだか礼拝の後のコーヒータイムみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteysgemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です(ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です)。使徒言行録の日課の個所で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここではコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。このように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は目では復活されたイエス様を見ていなくても、目撃者と同じように神との平和な関係を築けており、それで両者は一体で共同体を形成しているのです。

 

 そこで一つ気になることは、その一体性、共同体性は自分の財産を放棄して共有にしなければならないのかということです。そこまでやらないと一体性、共同体性は本物にならないのか?これも教会の条件なのか?聖書に書いてあるから、自分の財産を捨てなさいなどと言ったら、それこそいかがわしい宗教団体になってしまうではないか?

 

 ここで考慮にいれるべきことは、この財産の放棄はどうもイエス様が天に上げられた直後のエルサレムのキリスト信仰者の間で起こった特殊な出来事だったということです。パウロがコリントやガラティアやコロサイやフィリピやエフェソの教会に送った手紙を見ても、そこで財産の所有が禁じられて共有されていたことを示唆するものは見当たらないと思います。エルサレムのキリスト信仰者の集まりが共同体を形成するやり方として起こったことではないかと思います。どうしてエルサレムの集まりでそういうことが起こったのか?使徒言行録の記述からわかることは、まず彼らの心と魂は自分の所有物はないという位に一つになっていた状況があった、それからそのような状況が生まれた背景には使徒たちがイエス様の復活を大きな業をもって証ししていたことがあったということしかわかりません。それがどんな業だったかも具体的にはわかりません。それなので、イエス様が天に上げられた直後のエルサレムの信仰者たちは全財産を共有にするのが神の目に相応しいという状況だったということだと思います。

 

 私たちの場合は、心と魂が一つになることの現れ方としては今のところは別の現れ方をするのが相応しいということだと思います。「今のところ」と言うのは、当時のエルサレムと同じような状況になれば共有するのが相応しいということも起こりえるということです。そういう日が来るかもしれないと心のどこかで準備をするのです。そのために宗教改革のルターが財産と信仰者の関係について教えたことは大事だと思います。ルターは、財産は別に持ってもいいと言います。ただし財産の奴隷になるな、財産の主人になれと言います。どういうことかと言うと、財産を困っている隣人のために役立てることに躊躇しないで用いられるのが財産の主人なのです。もちろん、財産を共有していない時にも信仰者の心と魂が一つになっていることがあります。それは聖餐式です。信仰者は聖卓の前に並んで一人ひとりパンとぶどう酒を受けますが、全員が天の父なるみ神と平和な関係を持ち神と結びついているからです。今日これから聖餐式があります。その時、私たちは神と平和な関係を持ち神と結びついている者として心と魂は一つになっていることを忘れないようにしましょう。

  

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年4月5日金曜日

永遠に散り終わらない桜の木の下で ― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して(吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2024年3月31日 復活祭

 

イザヤ書25章6~9節

コリントの信徒への第一の手紙15章1~11節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

説教題 「永遠に散り終わらない桜の木の下で

― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が父なるみ神の想像を絶する力で復活されたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた翌週最初の日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。先ほど朗読された第一コリント15章に記されている通りです。まさに世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 

 本日の説教では、最初にヨハネ20章の出来事を見て、復活とはいかなる現象かということと、イエス様の復活は私たちが将来復活できるために起こったということを見ていきます。これらは以前にもお教えしたことですが復習します。その次に、私たちの復活とはどんなものか、将来復活する者として私たちはこの世をどう生きるかということを考えてみようと思います。

 

2.ヨハネ20章の出来事

 

 復活とはいかなる現象か?よく混同されますが、復活は死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で言う復活は、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を纏わされて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 

 復活の体について、使徒パウロが第一コリント15章の本日の日課の後のところで詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(4243節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(5254節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ1225節)。

 

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それはまた、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物の体です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前もお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのも、イエス様は天にいるのが相応しい神聖な体を持っている、そのイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様と地上の体を持つマリア。以前にもお教えしたことですが、イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われますが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です実際、ドイツ語のルター訳の聖書も、スウェーデン語訳の聖書も、フィンランド語訳の聖書も、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」です(後注1)。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 

 イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えれば、マリアが仮にイエス様にすがりついていたとしても、ここは原文通りに「触れてはならない」と言った方がよいと思います。それはイエス様の次の言葉を見ればわかります。「私はまだ父のもとへ上っていないのだ」(17節)。触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだと言うのです。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。このほうが、すがりつくなと訳すよりも前後の繋がりがはっきりします(後注2)。

 

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 

 本当なら危険極まりないことなのに、なぜイエス様はすがりつくのを許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちたお方だからでしょうか?そんな常套文句で満足したら、肝心なことが見えなくなってしまいます。イエス様は、マリアが今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上、彼女も復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていました。それが理由です。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」このことをパウロは第一コリント1520節で述べています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

3.イエス様の復活に続く復活

 

 イエス様の復活が私たちの復活の先駆けで、私たちが将来復活できるために復活された。じゃ、私たちはこの世を去ったらみんな復活するのか?ここのところは注意が必要です。私たちはイエス様が復活したことを信じなければならないのです。復活を否定する者には復活は関係なくなってしまうのです。そう言うと、じゃ、イエスは復活したということにすればいいんだな、世界には不思議な現象が沢山あるんだから、そういうものの一つだと考えればいいんだ、と言う人も出てくるかもしれません。しかし、それではダメなんです。どうしてか?イエス様は復活に先立って十字架にかけられて死なれました。それで、なぜ神のひとり子ともあろう方があのような惨めな死に方をしなければならなかったのか?これがわかった上で復活が起こったことを信じないといけないのです。復活の本当の意味をわかって信じないと信じたことにならないのです。

 

 では、なぜイエス様は十字架で死ななければならなかったのか?それは、私たち人間が持ってしまっている神の意思に反しようとするもの、それを聖書は罪と呼びます、その償いを神のひとり子が私たち人間のために神に対して償うためだったのです。人間と神との結びつきを失くさせていた原因である罪をイエス様が自分を犠牲にして償って下さった、人間が神から罰を受けないで済むように守って下さったということなのです。それだけではありません。父なるみ神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、私たち人間にその扉を開かれたのです。

 

 私たち人間は、この方こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを回復でき、この世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになります。この世から離れる時も神との結びつきを持ったまま離れられ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて、肉の体に代わる復活の体を纏わされて、「神の国」と呼ばれる御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様が十字架の死を遂げて備えて下さった罪の償いと罪の赦しを私たち人間はそれを信じることと洗礼を受けることで自分のものにすることができます。そして、イエス様が切り開いて下さった復活に至る道を神との結びつきの中で進んでいきます。これが私たちの復活になります。

 

 私たちの復活についてもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、聖書によれば復活は将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる時に起こるということです。聖書には終末と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地に創造し直すという観点です。今は目に見えない手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として見えるものとして現れ、復活を遂げた者たちが迎え入れられるというのです。それなので、聖書で言う死者の復活は、かの日に一斉に起こることなのです。他の宗教だったら、一人ひとりこの世を去って各々ある年数を経たらこの地上とは別の安楽なところに行くという見方かもしれませんが、キリスト信仰ではそうではないのです。かの日には天と地は一新され、今の天と地はないのです。ここのところがキリスト信仰の死生観と他の宗教のが大きく違っている点ではないかと思います。パウロもイエス様も言うように、一人ひとりがこの世を去っても復活の日まではみんな眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。

 

4.今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいこと

 

 このような復活の信仰に立って自分が向かおうとしているところがわかると、今度は今のこの世をどう生きるかということもはっきりしてきます。復活の信仰に生きる者が向かっている「神の国」について、聖書にはいろいろな描き方がされています。黙示録19章では結婚式の祝宴にたとえられています。花婿は今の世が終わる時に再臨するキリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた者たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた者たちがこの世での労苦を全て労われる至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」は嘆きや苦しみや労苦がないばかりか死もないと言われます。そこで神は迎え入れられた人たちの涙を全て拭われると言います。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的かつ完全に決着がつけられるということです。最後の審判があるのはそのためです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章でも、神が死を永久に滅ぼすところが言われています。そこは祝宴があるところであり、神はその席につく人たちの涙を拭われます。7節で「布が滅ぼされる」と言うのは、肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味します。

 

 ところで私は最近、こうした復活の信仰を否定する方と話をしました。その方は、人間は死んだら、もう何もかも消えてなくなってしまうと。私は礼拝の説教で、消えはしない、人間は復活を遂げると体の有り様は変わっても同じ名前を持つ自分は続くと言ったことがありますが、その方はそれに反対して言いました。人間一人ひとりは川と同じである、川にはそれぞれ多摩川、荒川と名前があるように人それぞれに名前がある、しかし、川が海に流れ込んだら、もう川はなくなって大海の中に消散してしまう、それと同じように人間も死んだら名前も何もなくなって果てしなく大きなもののなかに消散してしまうのだと。

 

 そのような考え方は、人間は肉の塊が全てという考え方です。もちろん人間には考えたり感じたりする部分もあるので単なる塊にすぎないと言えないかもしれないが、でも死ねばそれも肉と一緒に消滅するのでやはり肉の塊の部分にすぎなくなります。ただし、その方はこの世を生きる時、正しいこと倫理的なことを考えることは重要であるともおっしゃっていました。つまり、人間はどうせ消滅するのだから、この世でどう生きようが関係ない、好き勝手に生きればいいという考えはとらないと。しかしながら、正しいこと倫理的なこともこの世限りのことなので、死んだらそれも何も関係ないものになってしまいます。

 

 キリスト信仰では、正しいこと倫理的なことは復活や神の国が前提にあります。この世では、例えば他の人に何か危害を加えてしまって償いをしなければならなくなった時、一方ではこんな程度の償いでは納得いかないという思いが出ます。他方ではこんなに償わなければならないのはあんまりだという思いが出ます。そのように完全な正義の実現は困難です。この世での正義はある時点での最適なものを目指すということにならざるを得ないと思います。でもそれも実現できるかどうかわかりません。しかし、復活の信仰は、最後の審判の時に全知全能の神が誰も文句が言えないような裁定をして完全な正義を実現するという見方をします。その内容はこの世の私たち人間にはわかりません。それは今は隠されているのです。しかし、それはかの日に明らかになるという見方を復活の信仰はするのです。なので、もし人間が、俺は完全な正義がわかった、今からそれを実現するなどと言ったら、神でない人間が神を気取ることになり大変なことになります。

 

 このように復活の信仰に生きる者は、完全な正義など自分は神ではないからわからない、神がそれを知っていて、それをかの日に実現して下さる、だから、今この世で私がすべきことはその神の意思に沿うように立ち振る舞うだけだ、人を傷つけない、欺かない、噓をつかない、妬まない、見下さない、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざさないようにしよう。神の意思に反することが周りにあれば、それに反対し、それに与しないようにしよう。神の意思に反することが自分に中に出てきてしまったらあれば神に赦しを祈り、イエス様の十字架の償いの力を与えてもらって襟を正そう。それなので、復活の信仰に生きる者は、何かを成し遂げようとして、たとえ上手く行かなかったり道半ばで終わってしまっても、神の意思に沿うように行っていたのであれば無意味だったとか無駄だったということは何もないのです。この世は負け犬の言い分だと言うかもしれませんが、そうではないというのがキリスト信仰なのです。逆に、何かを成し遂げたとしても神の意思に反してしたのであれば、かの日には全部ひっくり返されてしまうのです。それなので、人間は肉の塊で死んだら消滅するという考えは、神の意思に反して何かを成し遂げようとする人たちにとって都合のいい隠れ蓑になる危険があります。

 

 ここまでは復活を正義の視点から見てきました。最後に感性の視点で見てみましょう。フィンランドでは6月になると急にいろんな種類の花と木々の葉っぱの緑が一斉に咲き乱れ、この世とは思えないとても色彩豊かな季節になります。5月までは花も緑もなかったのでその変化の急なことと言ったらありません。日本では2月に梅、3月、4月に桜、5月にツツジ、6月にアジサイという具合に季節の花が順々に交替に咲くのとは大きな違いです。昔ある初夏の日、パイヴィと家の近くの森を歩いていた時、日本人にキリスト信仰の天の御国の素晴らしさを説明するのにこのフィンランドの初夏を紹介するのはいいのではないかと言ったことがあります。もちろん、天の御国、神の国は今ある天と地が終わった後のことなので、同じ自然形態があるという保証はありません。それが感性的にみてどれくらい素晴らしいかは、今の世の私たちには隠されていてわからないのです。それでも、そこがどれだけ素晴らしいところかを前もって、今持っている感性で予見するように感じ取ることは出来るのではないかと思いました。黙示録の終わりに書いてあることだけでは少し無味乾燥に感じられるならば、神の国はどれだけ素晴らしいところかを知るために、今この世で素晴らしいこと美しいことに触れることは将来の神の国の素晴らしさ美しさの氷山の一角のそのまた一角に過ぎない、それ位に神の国の素晴らしさはすごいのだ、ということがわかるだけでも意味があると思いました。

 

 そこでフィンランド人にとって、6月の自然の開花が神の国のとっかかりになるのであれば、日本人にとって感性に訴えるとっかかりはなんだろうかと考えました。それは、やはり桜の花ではないでしょうか?何週間か前にパイヴィと近くの神田川の桜並木に行った時のことです。もちろん並木はまだ立ち枯れの様態でした。そこに一本だけ河津桜が満開に咲いていました。それを見て、あと何週間かしたら周囲のソメイヨシノは満開になるのだと目に浮かびました。それで、河津桜は第一コリント15章で言われる、イエス様は復活の初穂で、彼に続いて私たちも復活するということを思い出しました。桜並木が満開になれば、その下にはシートが拡げられてあちこちでピクニックをする人たちで賑わうでしょう。詩篇235節で神が羊飼いに導かれた者たちに食卓を整えられると言われます。ヘブライ語の原文では敷物を拡げて食事を供するという意味です。復活の日の祝宴はまるで桜の季節の野外の宴のようです。

 

 日本人にとって天の御国の素晴らしさを予見するのに、桜の木の下の宴会を持ち出すのはその感性に訴えるものでしょう。しかし、中には、その桜は永遠に咲きっぱなしなのか、桜は散ることが日本人の感性に訴えるのだと言う人もいるかもしれません。そのような人には次のように言ったらどうでしょうか?その桜は確かに散る、しかしそれは永遠に散り終わらないのだ、と。

 

 主にあって兄弟姉妹でおられるみなさん、このように創造主の神は、完全な正義を予見する理性と完全な素晴らしいものを予見する感性が備わるように私たち人間を造られたのです。今は隠されて見えないが、かの日には明らかになる完全な正義と素晴らしいものを満喫できる神の国を私たちキリスト信仰者は心に抱いて、聖書の御言葉を道しるべにしてそこに向かって歩んでいるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

後注1

ドイツ語のルター訳の聖書はRühre mich nicht an!、スウェーデン語訳の聖書はRör inte vid mig、フィンランド語訳の聖書はÄlä koske minuun、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。 

 

後注2

このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ2027節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ2039節の「触りなさい」とヨハネ2027節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατεβαλε)であることに注意します。ヨハネ2017節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。