2019年7月15日月曜日

神の愛と人間の悔い改め (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年7月14日(聖霊降臨後第5主日)スオミ教会

ヨナ書4章1-11節
ガラテアの信徒への手紙5章2-26節
ルカによる福音書9章51-62節

説教題 「神の愛と人間の悔い改め」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の愛について

聖書の神は愛に満ちた方、恵み深い方と言われます。本日の説教では、その神の愛について本日の旧約と使徒書の日課に基づいて明らかにしようと思います。

愛は神だけでなく、人間にもあります。それでは、神と人間の愛は同じなのか、違いがあるのか、あれば何が違うのか?これはとても大きな問いです。本日の説教だけで全部を答えることはできませんが、答えの取っ掛かりは得られるのではないかと思います。

まず、使徒書の日課のガラテア5章を見てみましょう。そもそも、ガラテア書という書物でパウロは何の問題を論じていたでしょうか?人間の救いの根幹にかかわることです。罪のある人間は何によって神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫でいられるのか?この世の人生を終えて復活の日までのひと眠りの後、復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられるのは何によるのか?そのような問いの答えに関係することです。ユダヤ教の伝統ですと、「律法の掟を守ることが大事」という答えが真っ先に出てくるでしょう。神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫になれるためには、律法の遵守につきるということです。

律法の中に割礼の規定がありました。割礼は神の民の一員の印でした。最初のキリスト信仰者は皆ユダヤ人でしたから、割礼を受けるのは当然でした。しかし、パウロは、神の目に義とされるのは律法の掟を守ることによってではない、神のひとり子イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされると説きました。そういうわけで、割礼は義とされることに関しては意味がなくなってしまいました。既に割礼を受けた人はそのままでいるしかありませんが、まだ受けていない人たち、つまりユダヤ民族以外の異邦人の場合は、イエス様を救い主と信じる信仰と、洗礼で罪の赦しと聖霊が一緒に注がれること、これらがあれば十分ということになりました。こうしたことがガラテア書の論点です。

それでは、イエス様を救い主と信じて罪の赦しを受け取るだけで、人間は本当に神の前に立たされても義と見なされて大丈夫になれるのか?それが本当になれるのです。というのは、神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運んで、そこで神から神罰を受けて死なれたからです。そのようにして、罪の償いを人間に代わって全部神に支払って下さったのです。だから、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを聖霊と一緒に注いでもらえば、罪の赦しがその人に効力を発揮します。あとは、神から頂いた罪の赦しの恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていけばよいわけです。そういうわけで、十戒の掟も、ちゃんと守らないと神から義と見なされない、だから頑張って守らなければならない、というものではなくなりました。そうではなくて、イエス様のおかげで先に義な人にされてしまった、だからあとはそれに相応しい生き方をしよう、神の意思に沿うように生きよう、そういう十戒の守り方は軽やかな自由なものになります。しかし、罪の赦しを自分の力で勝ち取るために守ろうとすると、重々しく引きずる感じになります。

 以上のことは、毎週礼拝の説教で繰り返し教えていることなので、皆さん、もう聞き飽きたという気持ちでしょう。そこで、そういう気持ちでガラテア56節を見ると、おやっと思わせることがあります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて結ばれていれば割礼の有無は問題ではない、これはわかります。ただ、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」というのはどういうことか?信仰は、愛の実践が伴わなったら意味がない、ということなのか?そうなると、イエス様を救い主と信じていても、愛の実践がなかったら意味がないということになる。神の前に立たされた時、義とされず大丈夫でいられなくなる。ということは、本質的なことは、イエス様を救い主と信じることではなく、愛の実践ということなのか?

愛の実践とは何でしょうか?真っ先に頭に浮かぶのは隣人愛です。困っている人を助けることです。でも、それなら、別にイエス様を信じていなくても出来るではありませんか?別の宗教を持っている人でも無神論の人でも人助けが大事なことはわかります。キリスト教では、イエス様を救い主と信じる信仰と人助けがセットになっていないと、信仰者として失格と言われてしまうのか?それなら、別にイエスなんか信じないで人助けに集中した方が話は簡単ですっきりするじゃないかなどと思われてしまうかもしれません。

ここで、イエス様を救い主と信じる信仰と隣人愛の関係について見てみます。キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛と違うことがあります。それがわかるために問題のガラテア56節をよく見てみます。ギリシャ語原文をそのまま訳すと次のような意味です。少し解説的に訳します。洗礼を通してイエス・キリストに結びついているならば、割礼を受けている受けていないということには意味はない。意味があるのは、「愛を通して作用している信仰/作動している信仰」である。愛を通して作用する/作動する信仰とはどんな信仰か?逆に言えば、愛がなくては作用しない/作動しない信仰です。愛があるから作用している/作動している信仰です。もしこれが愛を実践することで信仰が作用する/作動するという意味なら、結局、愛の実践が本質的なことということになってしまいます。

「愛の実践」と言いますと、人間が行うものになります。ところが、ギリシャ語原文では「愛の実践」とは言っていません。「愛を通して」作用する/作動すると言っています。ここで言う「愛」は人間が実践するものも含めたもっと広い大きな意味での愛です。どういうことかと言うと、キリスト信仰では、愛はまず神が人間に示すもので、示された人間がそれをわかって、味わって素晴らしいものとわかって、それを神に感謝し、神がしなさいと言うからそうする、そういうものです。神が示される愛の素晴らしさが分かればわかるほど、損得細かいことは気にならなくなる、こだわらなくなるというようになって愛を行えるということです。そのような愛が行えるのは、まず神の愛が人間の愛に先だってあるからです。このことは第一ヨハネ4911節でも言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

神の愛が先立ってあって我々人間がそれを受けて愛する、そういう循環があります。ガラテアの「愛を通して作用する信仰」というのはまさにそのことです。それなのに「愛の実践を伴う信仰」と言ってしまったら、神からの先立つ愛がなくなって、人間の能力・実力としての愛だけになってしまいます(後注1)。

キリスト信仰者の隣人愛とその他の人たちの隣人愛は、確かに同じようなことをするので、わざわざキリスト信仰者にならなくても人助けは出来ると思われるかもしれません。しかし、今見てきたように隣人愛の出発点が異なります。キリスト信仰の場合、まず、神がひとり子を犠牲にするくらいにこの私を愛された。だから私は神の御心に沿うように生きていこう、そういう心から出てくるものです。それで、キリスト信仰の場合、何が神の御心に沿うかということが行う愛の内容を決定します。それなので、場合によっては、キリスト信仰者でない方たちと異なる方向に向かう可能性もあるということを覚えておくことは大事と思います。どう異なるかというと、次に述べるように、人々を神に向かって「悔い改める」ことに導くことが射程に入ってくるということです。人を悔い改めさせる隣人愛なんて、そんなのあるか、と思われるかもしれませんが、キリスト信仰の隣人愛はそういうものなのです。

2.悔い改めについて

次に旧約の日課ヨナ書を見てみましょう。本日の日課の個所の出来事は先ほど読んでいただいた通りですが、少し出来事の背景をお話ししますと、預言者ヨナは神からアッシリア帝国の首都ニネベに行けと命じられます。そこで何をするかと言うと、町は悪と不法に満ちているから神が滅ぼすつもりでいると告げることでした。ヨナは一回目は言うとおりにせず、大魚に飲み込まれたりしますが、二回目は行って、ニネベの住民に神の言葉を告げました。アッシリア帝国というのは、紀元前8世紀にユダヤ民族の北王国を滅ぼし、残る南王国も首都エルサレムを包囲し陥落寸前にまで追い込んだ民族の大敵です。そのような国の首都に乗り込んで神の裁きの言葉を告げたのです。するとどうでしょう、国王から住民に至るまで皆が罪を悔い神に赦しを乞い始めます。それを見た神は町を滅ぼすことを思いとどまりました。ただ、収まらないのはヨナの方でした。町を滅ぼさなかった神に大いに不満で怒りに燃えたのです。

そこで神は、ヨナに神の御心がどういうものかをわからせるために、とうごまの木の出来事を起こしました。砂漠の炎天下にとうごまの木を一夜にして茂らせます。ヨナは葉陰の下でホッとしました。ところが神は一夜にして木を枯らせてしまいます。ヨナはまた神を恨みました。そこで神は言われます。お前は、自分で植えて育てたわけではないとうごまの木がなくなったことをとても残念がっている。罪を悔い改めたニネベの町を滅ぼしてしまったら、私だって同じ残念な気持ちを抱いてしまうのだ(後注2)。

これを読みますと、神というのは、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをしても裁かないで赦して下さる、そういう慈愛に満ちた方という理解が生まれると思います。それに対してヨナの方は、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをするのは裁かれて当然という、憐れみのない人間の典型に見えます。しかし、ここで忘れてならないことは、ニネベの住民は罪を悔い改めたということです。それで神は裁きを思いとどまったのです。ヨナの問題は悔い改めてもそれを受け入れなかったことですが、それでも、神の意思に反することは裁きに値するということ自体は間違っていませんでした。神も悔い改めがあったから赦しました。もしニネベの住民がヨナの告げ知らせを聞いても悔い改めなかったら、この話は全然違う結末を迎えたでしょう。

 ここで神が赦すということ、裁きや滅びを思いとどまるということにおいて、悔い改めが決定的な意味を持つことを確認したいと思います。悔い改めとは何か?それは、神の意思に反すること聖書にいけないと言っていることに自分は加担してしまったと認めて、神に赦しを願うことです。神から赦してもらうために、人によっては神のご機嫌を宥めなければと儀式を行ったり、掟を守ったりします。ところが、キリスト信仰の場合は、神のひとり子のイエス様が既に償いをしてくれたので、イエス様の償いが本当になされたと信じます、だからイエス様を救い主と信じます、と告白すれば、神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さり、これからは罪を犯さないようにしなさい、と言って不問にして下さるのです。

 ここでひとつ厄介なことがあります。それは、人間の心の中には神の意思に反すること聖書でいけないと言われていることが常態としてあるということです。行為や言葉になって表に出なくても、心の中では加担しているということです。イエス様もこのことを指摘されていました。人間は十戒の掟を外面的に守れても、例えば人を殺さなくても、心の中で憎んだり罵ったりしたら同罪である、神の掟は内面の状態まで問うものである、と。そういうことなら人間誰もそのままの状態では神の前に出されてとても大丈夫ではいられません。義なる者と認めてもらえません。だから、イエス様が必要なのです。神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることを行為や言葉に出さなくても、心の中で持ってしまっている。それで私もあなたも全ての人みんな、神の意思に反し、聖書の中でいけないと言われていることに加担している。だから、私もあなたも全ての人もみんなが本当は神の御前では罪びとなのだ。しかし、イエス様を救い主と信じたからには、神は彼の犠牲に免じて義なる者と見て下さり、御前に出されても大丈夫と扱って下さっている。そのようにして、イエス様を救い主と信じる者は「罪人にして同時に義人」ということ不思議なことが起こってくるのです。

そこで、もし神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることが心の中に留めておくことに失敗して、行為や言葉に出てしまったら、どうなるか?その時も神は赦してくれるだろうか?答えは、心の中の時と同じようにすれば赦して下さいます。つまり、神さま、私が行ってしまったこと、口に出してしまったことは、あなたの意思に反するものでした、聖書の中でいけないと言われていることでした。イエス様は私の救い主ですので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。私から義を取り去らないでください。これからはこの行為、言葉を出さないようにする知恵と力と勇気を与えて下さい。そのように祈れば、神は赦し、罪を犯さないために必要なものを与えて下さいます。

罪が行為や言葉に出てしまうことで、相手を傷つけたりすることがあれば、国や社会の法律や規則に従って謝罪や補償をしなければならないということが出てくるでしょう。罰則が度を過ぎた厳しいものがあるかもしれません。そういうのを修正するのは政治の役割ということになります。また、世間が厳しい目を向けたり、「神は赦しても私は赦さない」などと言う人もいるかもしれません。そのような時は罰を受ける人はとても孤独になります。しかし、キリスト信仰では孤独になりません。なぜなら、世間は赦さなくても、赦してくれる神がそばにおられるからです。イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神との関係は何の変更もないので、そこが慰めと励ましの最後の砦になります。それは難攻不落の砦なので、そこにとどまれば孤独に陥らずに世間の厳しい荒波の中でもなすべきことをできるはずです。

 神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることが表に出ない時、心の中に留まっている時は世間からとやかく言われませんが、神は知っておられます。それは、後ろめたく落ち着かないことかもしれません。でも、大事なことは、私たちはイエス様のおかげで、罪びとであるが同時に義人にもなっているという事実です。全てを知っておられる神がそのようにしてくれるのですから、心配せず、安心していけばいいのです。

 ここで罪を持つ者が神から祝福を受けられるかということも考えてみたく思います。先ほども申したように、自分は神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心の中で加担してしまっていると認め、神さま、イエス様を救い主と信じますから、私を赦して、あなたの御前に出されても大丈夫でいられるようにして下さい、と願えば、この時、罪びとは同時に義人ですので、神から祝福を受けられます。神は人間がそのままの状態では神の意思に沿えないで罪に留まってしまう、そのままの状態では義人にはなれないと知っています。だから、イエス様を介して、罪びとにして同時に義人にして祝福を受けられるようにしたのです。罪が行為と言葉で現れてしまった場合でも、同じように悔い改めをすれば、神から祝福を受ける立場は大丈夫です。そういうわけで、神から祝福を受ける時には、罪びとにして同時に義人ということが確認される必要があります。

 ところが、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心が加担していても、それは別に神の意思に反していないとか、反していると言うのは間違っているとか、聖書に書いてあることは大昔の人間の未発達な考えに基づくから現代にはそぐわないと言ってしまったら、罪びとであることを否定することになります。罪人であり同時に義人という神的なバランスが失われます。それは、神から祝福を受けるのに相応しい状態ではありません。この場合は、心の中で罪に加担して、それを罪と認めて神に赦しを願うという場合と大きく異なります。確かに、罪と認める人も認めない人も皆、心の中で加担していることは同じです。しかし、認める人は神に赦しを願い、イエス様のおかげで赦しを得られます。罪が行為と言葉で現れてしまっても、同じようにすれば赦しを得られます。その時、もう行為と言葉で現れないように注意しようとします。ところが、罪と認めない人にとっては罪ではありませんから、行為と言葉で現れても何も問題はなく、問題なのは神の意思とか聖書で言われていることの方が問題になります。

 以上、ニネベの出来事から、神の赦しには悔い改めが決定的な意味を持つことを述べました。そう言うと、あれっ、イエス様は本日の福音書の個所で自分を受け入れなかったサマリアの村を悔い改めなく赦しているではないか、と思われるでしょう。弟子たちは、イエス様に天から炎を送って滅ぼしてしまいましょうと提案しました。あたかもソドムとゴモラのようにです。ニネベの郊外で様子を窺ったヨナもその時を待ったでしょう。ところがイエス様は、サマリアの町がニネベのように悔い改めをしたわけでもないのに滅ぼさなかったのです。なんだ、やっぱりイエス様は悔い改めをしなくても赦しを与えて下さる慈愛があるんだ、旧約の神は厳しいが、さすが新約のイエス様は人間が出来ている、そういうことでしょうか?

先ほども申しましたように、イエス様は、十戒の掟が実現しているかどうかについて心の有り様まで問うた方です。本当は厳しい方です。それじゃ、どうしてサマリアの村に罰を下さなかったのか?イエス様が優しい心の持ち主で憐みに満ちた方だから、という答えではまだ核心を捉えられていません。では何かと言うと、イエス様は、サマリアの村に悔い改める時間を与えたのです。

 どういうことかと言うと、イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して永遠の命を持って生きられるようにしたい、そのようにして神の国の一員に迎え入れたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるように十字架にかかってまでお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書545節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる無責任極まりない気前の良さを持つということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか悔い改めて神の国の一員になれるよう、猶予期間を与えているということなのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、悔い改めの可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いつまでもいい気になって悔い改めをしないで済ませていいはずがない、と気づかなければいけないのです。もし、この世の人生の段階で悔い改めがなければ、それはもう手遅れで、あとは最後の審判の日に神から、お前はこうだったと監査済みの収支報告を言い渡されるだけです。もし、悔い改めて、イエス様を救い主と信じる信仰に入っていたならば、何も問題ありませんでしたという報告を受けられたのに。

 それでは、このサマリアの村はどうだったでしょうか?猶予期間を与えられて悔い改めたでしょうか?それが悔い改めたのです。使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムでキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムを脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。イエス様を救い主と信じることは悔い改めがあって起こるものだからです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことをしなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が神の国の一員として迎えられるということが全てに優先される、ということがありました。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されました。この時のイエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、神の国の一員に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

3.勧めと励まし

以上、神の愛についてガラテア書とヨナ書の日課をもとに述べてまいりました。神の愛が私たちの内に満ち満ちてそこから溢れ出ていく位になるためには、私たち人間の側での悔い改めが大事であることを見ました。悔い改めという言葉は、何か人を反省することに追い詰めて苦しい思いをさせるイメージが持たれるかもしれませんが、イエス様を介すると、全然勝手が違い、倒れて伏してしまった人を起こして立たせて最初よりももっと高く上げてくれるものになります。

 兄弟姉妹の皆さん、もし打ちのめされた状態になったら、起き上がる力は全部自分で調達しなければならないなどと思わないで、イエス様を救い主と信じて、父なるみ神に起こしてもらいましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


(後注1)参考までに、πιστιςδι’ αγαπηςενεργουμενηの各国語訳を見てみると、英語NIV”faith expressing itself through love”、ドイツ語(ルター)は”der Glauben, der durch die Liebe tätig ist”、(Einheitsübersetzung”den Glauben (zu haben), der in den Liebe wirksam ist”、スウェーデン語は”tron, som får sitt uttryck i kärlek”、フィンランド語は”(Ainoana tärkeänä on) rakkautena vaikuttava usko”です。英語とスウェーデン語は似ていて、「愛で表現される信仰」ということで新共同訳の「愛の実践」路線になると思います。フィンランド語訳は様格(rakkautena)使うので意味的には英語とスウェーデン語と同じでしょう。ドイツ語訳はギリシャ語原文をそのまま映しだしています。

(後注2 ヘブライ語が分かる人にです)
ヨナ411節は、新共同訳では「右も左もわきまえぬ人間」と言って、「わきまえない」が現在の状態になっています。そうすると、わきまえないニネベの住民はわきまえないまま赦されて今に至ってしまいます。しかし、ヘブライ語原文ではלא-ידעとなっていてperfectumです。それで「わきまえない」のが過去の状態であると捉えると、今はそうでないことになり、そうすると、悔い改めがあって赦されたことがはっきりします。このperfektumを過去の意味で捉えていいとする根拠は、すぐ前のところで神がとうごまの木について「お前が労苦せず育てもしなかったלא-עמלת בו ולא גדלתו」を同じperfektumで言っていることによります。ここの意味は明らかに過去です。ヨナととうごまの木の関係と、神とニネベの住民の関係はパラレルになっています。それで、住民の状態も過去の意味と考えられるのです。大体次のような意味になります。「お前は、自分ではなんにもしなかったとうごまの木がなくなってしまったことを残念に思っている。ましてや、以前はわきまえなかったが今は悔い改めたニネベの住民を滅ぼしてしまったら、それは私にとって残念なことにならないだろうか?」 
それから、ヨナ書の最後の神の言葉は否定の修辞疑問文で訳されるのが各国共通のようですが、疑問辞הがつかなくてもそう訳せることについては、北欧で一番権威あるH.S.Nybergのヘブライ語参考書で確認できました(§95b)。実は、私は以前ここは素直に普通の否定文で訳しても問題ないのではないか、例えば「お前はとうごまの木に関して平静を失っているが、私はニネベに関して平静を失わない。ニネベが罰を受けないで済んだことは私にとって何でもないことだ。だって悔い改めたのだから。お前には受け入れがたいことかもしれないが、私は平気だ。」そんなノリを考えたこともあるのですが、権威が「疑問辞なくても疑問文になる」と言ったら、私には権威を無視できる位の所見も勇気もないのでそれに倣います。


2019年7月8日月曜日

罪の負い目も、疑う人目も、吹き飛ばせ! (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年6月30日聖霊降臨後第三主日 スオミ教会

サムエル記下11章26節-12章13節
ガラテアの信徒への手紙2章11-21節
ルカによる福音書7章36-50節

説教題 罪の負い目も、疑う人目も、吹き飛ばせ!

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約聖書の日課サムエル記下11章から12章の個所は、ダビデ王が犯した罪について語られています。この個所は私たちに罪というものがどんなに重大なものであるかを教えています。大抵は、罪という言葉を聞いたら、犯罪のように他人を傷つけたり損害を与えたりすることを思い浮かべるのではないでしょうか?そういうことが起きたら、処罰や謝罪や補償ということが出て、それが罪の償いということになります。この理解でいくと罪は人と人との間の問題ということになります。キリスト信仰では、罪は神と人との間の問題になります。人間を造られた神と神に造られた人間の間の問題です。もし誰かを傷つけたり損害を与えてしまったら、それは十戒の「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、「姦淫するな」、「偽証するな」、「隣人を妬んだり、そのものを狙おうとするな」等々、神が定めた掟に反することになります。人間に対して害を及ぼしたということに加えて、神の意思に背いたということになります。人間に対する害については法律に基づく処罰や償いがあるでしょう。神に対する害については、どんな処罰や償いがあるでしょうか?罰として神が災いや不幸を起こすということが頭に浮かぶかもしれません。

もちろん、聖書の神は、人間が神の意思に背けば、もちろん罰することを厭わない方ではありますが、もっと大事なことは罰と同時に人間が神の意思に従って生きられるようにしようとする方でもあります。お前はこの罪を犯した、だからこの不幸を与えてやる、地獄に落としてやる、思い知れ、と言って完結してしまうのではありません。そうではなくて、お前がもう罪を犯さないようにしてあげよう、犯した罪のためにお前が前に進めなくなってしまうことがないようにしてあげよう、というのが聖書の神です。そのことは、本日の旧約の日課のダビデ王の出来事からも福音書の日課の罪を犯した女性の出来事からもわかります。私たちが前に進めなくなるようにする重荷として、旧約の日課は罪の負い目、福音書の日課は人の非難する目について言っています。私たちの父なるみ神はそれらの重荷から私たちをどう解き放って下さるのかを見ていきましょう。

2.罪の負い目を吹き飛ばせ!

まず、ダビデ王の罪の出来事をみていきましょう。何が起きたか出来事の全容を知るためには本日の個所の前の11章のはじめから見なければなりません。サウル王に続いてユダヤ民族の王となったダビデは、国の安全を脅かす周辺諸国との戦争は連戦連勝という破竹の勢いでした。それは、本日の個所の1278節の中で言われるように天地創造の神の大いなる祝福があったからでした。神自身が言われるように、ダビデが国王の地位につけたのも、サウル王のものや王国の領域も受け継げたのもみんな神のおかげである、何か不足があれば神はかき集めるようにして与えるつもりだ、と言うくらいダビデを祝福したのです。

ところがある日、一人の軍人ウリヤの妻ベト・シェバに一目惚れして、夫が前線にいる間に関係を持ってしまいます。今の日本でよく耳にする不倫です。そしてベト・シェバは妊娠してしまいます。神から必要なもの欲しいものを欲しいだけもらえるような立場にいながら、それでもまだ足りないと言わんばかりに、ダビデは神の意思、「姦淫するな」に背いてしまったのです。宗教改革のルターも言っていますが、人間というのは神から与えられる物を享受していくうちに、心が贈ってくれた方から離れて贈られたもの自体に密着してしまう、そういう恩知らずになってしまう。まさにそのことがダビデにも起きてしまったのでしょう。神から与えられることに慣れてしまって、いつしか贈り主である神のことは忘れて贈られた物はあたかも自分の能力や偉大さのおかげで自分の懐に当然の如く流れ込むようになったのだ、そういう心境だったでしょう。そうなると、欲しいものは何でも手に入れて当然という気持ちになります。ダビデに限らず、名声を博した人、高い地位に昇りつめた人の多くはそうなる危険が高いです。贈り主なんてもう眼中にありませんから、贈り主の意思なんて関係ありません。遠慮なしにどんな手段を使っても手に入れればいいだけです。

ダビデはまさにそのようにして人妻を手に入れました。ウリヤをわざと戦闘の激しい前線に送り込んで戦死させて、ベト・シェバを自分の妻にしました。前線から知らせを告げに来た使者とのやり取りを見ても、ウリヤの戦死に何か不自然なことがあると気づかれないようにする話しぶりです。しらじらしいと言ったらありません。

ところが、神は自分の意思が踏みにじられたことをそのまま見過ごすことはしませんでした。踏みにじったのは、自分が民の指導者に選んで祝福を与え続けた男です。神は早速、ダビデの目を覚まさせるために預言者ナタンを送りました。ナタンは王に一つのたとえを聞かせます。ある町に羊・牛の大きな群れを所有する金持ちの男と、雌羊一匹しか持たずそれを大事に育てた貧しい男の二人がいた。金持ちは客に食事を振る舞わなければならなくなった時、自分の所有する群れを惜しく思って、貧しい男から雌羊を取り上げて、それを食事に提供してしまいました。この話を聞いたダビデは自分のことを言われているとも気づかず激怒し、その金持ちは神の意思に背くもので死に値するとさえ言います。これは奇妙なことです。自分は人妻を強奪するようなことを仕出かしても、他人の卑怯なやり方に関しては神の意思に背くなどと言って憤慨するくらいの倫理観は持ち合わせていたのです。これが救いになりました。「王よ、その金持ちはほかでもない、あなたです」と言われ、ダビデは目の前に鏡を突き付けられたのも同然でした。そこには自分がそう叫んだ、「死に値する」男が映っていました。自分の激怒は神の思いなのだということがわかりました。

ダビデは自分がしたことは自分の造り主である神を失望させ怒らせることであると真剣に分かりました。「私は神に対して罪を犯しました」と告白します。神はダビデが罪を悔いていることを受け入れ、これから彼に何をするかをナタンを通して告げます。「神自らがあなたの罪を不問にされる。あなたは死ぬことはない。」(新共同訳では「罪を取り除く」ですが、ヘブライ語の単語עברは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味があります。辞書(W.L.HolladayConciseですが)もここのところは「見過ごす」、「なかったことにする」の意味と言っています。)神はダビデが罪を悔いていることを偽りがない、真実と認めて彼の罪を不問にすることにしました。神がダビデの罪を不問にしたことがどこでわかるかと言うと、本当ならダビデの犯した罪は神に対する罪として命を落とさなければならない性質のものであったが、それは免れるというのです。つまり、神はダビデの罪を赦すことにしたのです。

これで一件落着のように見えますが、実はそうではありませんでした。本日の日課の個所は13節で終わって、ダビデは罪を赦されて死を免れてめでたしめでたしですが、実は次の14節でダビデの罪の赦しは限定的だったことを思い知らせることが起こります。ナタンの口を通して語られる神の言葉は14節まで続きますので、そこまで見ていきます。せっかくのハッピーエンドを興ざめにしてしまい恐縮なのですが、より深い真実に到達できるために敢えてそうする者です。

ナタンは、ダビデが死を免れることに加えて、ベト・シェバが産んだ赤子は死ぬと告げます。実際、赤子は誕生七日目に死んでしまいます。ダビデは神が考えを変えることを期待して祈り断食をしますが、無駄に終わりました。これは一体どういうことでしょうか?罪を犯した本人は死を免れるのに、まるで子供が親の罪の犠牲になったようです。確かに神にとって罪というのは償いのためには本人に犠牲になってもらわなければならないほどのものです。それにしても子供を犠牲にするというのは、神は少し無慈悲で残酷にすぎませんか?赤子の死の事実はダビデに罪の赦しは限定的だったと思い知らせたでしょう。確かに生きることは許されたが、自分の罪の償いのために誰かが犠牲にならなければならないことは動かなかったのです。そして、それを赤子が引き受けなければならなかったのです。赤子の死はダビデに罪の負い目を痕跡のように残したでしょう。神がこのように罪を罰せずにはおられない方であるならば、私たちが神の意思に背いた後で何か不幸が起きたら、それは私たちの心に罪の負い目を残すでしょう。また、特に背いたことに思い当たりがなくても何か不幸が起きたら、これは何の罰だろうか?自分の何の罪が原因でこのようなことが起きてしまったのか?と悩み、影のような罪悪感を抱え込むことになります。

兄弟姉妹の皆さん、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、まさにこの無慈悲で残酷に見える神がひとり子のイエス様を私たちに贈って、私たちが罪悪感や負い目から解放されるようにして下さったということです。確かに神は罪に対して完全な償いを求める非常に厳しい方です。しかし、その神がイエス様を私たちに贈って、彼に全ての人間の罪を背負わせて十字架の上まで運ばせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。これは、私たちが罪の罰を受けないで済むようにするためでした。無慈悲で残酷に見える神は実はひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに私たち人間のことを大切に思って下さるのです。これが私たち人間に対する神の愛です。無慈悲で残酷に見えるのは罪に対して罰を下そうとするからですが、私たちを愛して罰を免れさせたいから、ひとり子を犠牲にしたのでした。そうすることで、私たちが罪に染まらない、かつ罪を引きずらない者に生まれ変わる道を開いて下さったのでした。

イエス様の十字架と復活の出来事が起きた後は、罪を不問にして赦すことは限定的ではなく、全面的なものになりました。イエス様の償いの業はそれくらい徹底したものだったからです。そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、たとえ不幸に遭遇しても、イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は罪の罰ではないというスタンスになります。そうなると、自分の責任を詮索して前に進めないということがなくなります。これは神の業が現わされる起点なのだというスタンスになり、苦難困難の中に乗り出していき、そこに神の業を一つ一つ見出していきます。ここにはもう罪悪感も負い目もありません。また、キリスト信仰者が罪を犯してしまい、それが不幸の発生に結びついてしまった場合でも変りはありません。イエス様の償いに基づく罪の赦しの中にいる限り、不幸は神の罰ではなくなって、神の業が現わされる起点になります。

以上から無慈悲で残酷に見える神が、実はひとり子を犠牲にしてもいいと思う位に私たちのことを愛しているということわかったのではないかと思います。この愛を注がれた者が今度は感謝に満たされて人目を気にせずに前に進もうとすることが、本日の福音書の日課の出来事によく示されています。次にそれを見てまいりましょう。

3.疑う人目を吹き飛ばせ!

イエス様が、ユダヤ教ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中ではイエス様に敵対するグループとして描かれています。これは一体どういうことでしょうか?イエス様と激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中にはイエス様に一目おく人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜人目を避けてイエス様に教えを受けに行きます。本日の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、イエス様を家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスを呼んで、本当に尊敬と畏敬に値する者かみてみようと考えたと思われます。

出来事の流れを一つ一つ注意して見ていきましょう。45節で、イエス様が、女性は彼が家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性はイエス様が来るのを家の前で待っていて、彼が来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐ汚くなる部分です。接吻というのは、日本ではなじみがないので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えて下さい。体の汚い部分に接吻するというのは、自分をとてつもなく低い者とし相手をとてつもなく高い者として敬意を表しています。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為としてみたほうがいいのかもしれません。水気を含んだ汚れを髪の毛で拭えば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。女性は、そんなことは意に介さず、イエス様のために今出来ることを精一杯するだけです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。女性がしていることを一部始終見たシモンは内心呟きます。39節の仮定法過去で書かれたギリシャ語文の趣旨は以下のようになります。もしこの男が本当に預言者ならば、今何やらちょっかいをだしている女が罪を犯した者だとわかって、汚れた者はあっちに行けとでも言って、追い出すだろうに。ところが、女にさせるままにしているというのは、わかっていない証拠だ、だから預言者でもなんでもなかったんだ、期待外れだ、という具合です。

シモンの心の呟きを見て取ったイエス様は、この女性の行為が何を意味するのかを教えようと、一つのたとえを話します。多額の借金を抱えた人と少額の借金を抱えた人が返済に困ってしまった時、貸主から借金を帳消しにしてもらった。さて、どちらの負債者がより多く貸主を愛することになるだろうか。言葉を換えて言うと、沢山の恩恵を受けたという念をもち、より多く感謝の念に満ちて、貸主のために尽くしてもいいと強く思うのはどちらだろうか、ということです。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。

そこで、イエス様は、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、と明らかにします。この女性は、「過去に罪を犯していた女性(ην αμαρτωλος)」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したのかは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したのではと十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。その可能性が高いと思われつつも、具体的に述べられていないので断定できません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公けに明るみに出てしまった、ということです。

イエス様は、この女性の献身的な行為は、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じである、と教えます。つまり、イエス様に沢山の罪を赦されたので、イエス様に一層敬愛の念を抱き、それが献身的な行為に現れた、というのです。

ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初めに赦されて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということです。47節でイエス様は、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」という動詞のギリシャ語は現在完了形(αφεωνται)で、ギリシャ語の現在完了形の意味に従えば、「この人は、ある過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前にイエス様が女性に罪の赦しの宣言を行っていた、ということです。「罪を赦す」というのはどういうことか?先にも述べましたが、繰り返しますと、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまう。その時、その人が神の怒りを買うことをしてしまったと認めて悔いる。これを神が受け入れると、神はその罪を不問にする。事実としては残るが、あたかもなかったかのように忘れることにする、だから、あなたはもうしない新しい生き方をすぐ始めなさい、私はそれを支援するから。そう神に言われること、これが罪の赦しです。

ところが、赦す神とは逆に、女性の悔い改めを認めず、彼女の犯した罪をいつまでもねちねち問い続けて、新しい生き方に踏み出すのを妨げようとするのが、周囲の人たちの赦しのない情けのない態度です。37節で、「この町に一人の罪深い女がいた」というのは、ギリシャ語の原文では過去形(ην αμαρτωλος)なので、「この女は、以前この町で罪を犯していた者であった」という意味です。それなのに、ファリサイ派のシモンは心の中で、この預言者と騒がれているイエスは気が付かないのか、「この女は罪深い女なのに」(39節)、と呟きます。これは、ギリシャ語の原文では現在形(αμαρτωλος εστιν)なので、「この女は現在も罪びとでいるのに」という意味です。このように周囲の人たちは、女性が悔い改め、罪の赦しを得て、新しい生き方を始めようとしていることを認めず、赦されてなどいない、まだ同じ罪びとだ、と後ろ指をさして、顔と背を背け続けます。

しかしながら、イエス様は、女性の悔い改めを受け入れ、罪の赦しを宣言して、もう同じ罪を犯さないで生きようという新しい生き方を応援する方に回ります。イエス様は女性に言います。「あなたの罪は赦された」(48節)。これもギリシャ語では現在完了形なので、「あの時赦されたあなたの罪は今も赦され続けていて何ら変更はない」という意味で、周囲がなんと言おうが、神のみ子イエス様と父なるみ神の目から見れば、事実は確定しているから何も心配するな、ということです。さらに、会食の席に同席していた人たちが、イエス様が神しかできない罪の赦しを公然と行うことに驚き始めた時に、イエス様はさらに太鼓判となる言葉を女性に述べます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。ここの「救った」というのも、現在完了形なので、正確には次のような意味になります。「あなたはわたしこそ罪の赦しを与えることができる者であると信じて赦しを得た。そうして、神との関係が回復して救われた者となった。それ以来、あなたは現在に至るまでずっと救われた状態にいる。」

以上、かつて罪を犯していた女性がイエス様を救い主と信じる信仰に入って、罪の赦しを得て、神との関係が回復して、救われた者となったことをみました。女性は、周囲の赦しのない、辛い荒波の中ではあるが、父なるみ神と御子の支援と応援を受けて新しい人生を始めることができるようになりました。そのために心も体も魂も恩恵と感謝の念に満ち溢れて、それが献身的な行為に現れました。

4. おわりに

兄弟姉妹の皆さん、ダビデの罪の赦しは限定的になってしまい罪の負い目を残してしまいました。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しは全体的で完全なものになり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は罪の負い目を持たないで済むようになりました。

イエス様に罪の赦しを宣言された女性は、感謝と献身の気持ちに満たされ、疑う周囲の目を意に介しない勇気を持つようになりました。十字架と復活の出来事が起きる前でもこのような勇気を得たのです。その後でイエス様を救い主と信じ洗礼を受けた私たちに同じ勇気が与えられないことがありうるでしょうか?

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン