2013年7月24日水曜日

神由来の愛 人間由来の愛 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2013年6月30日聖霊降臨後第五主日 
スオミ教会にて

サムエル記下11:26-12:13
ガラテアの信徒への手紙2:11-21
ルカによる福音書7:36-50


説教題 神由来の愛 人間由来の愛


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

 愛とは何か、という問いは、答えるのが簡単なようで適当な言葉を探そうとすると実は難しかったり、また逆に難しそうでいて実は簡単に言葉が見つかったりして、何かつかみどころのないもののようです。身近に感じられそうで、気が付くと遠いものだったりし、また逆に遠いもののように思っていたが実は身近にあることに気づいたりします。

今の世の中では、愛という言葉を聞くと、はやり歌やテレビ番組・映画や雑誌・小説その他諸々のマスメディアが与えるイメージからくるのでしょう、「愛」と聞くと多くの人たちは男女の恋愛に関係するものと考えるのではないかと思います。以前日本に宣教師として来ていたあるフィンランド人の牧師先生が言っていたのですが、日曜学校の中学生クラスで教えていた時、その日の出席者はみな女の子だけだったそうですが、先生が聖書の御言葉に基づいて「みなさん、お互いに愛し合いましょう!」と力をこめて言ったところ、生徒たちはお互い顔を見合わせて、クスクス笑うのをこらえる様子がみてとれたということです。「愛」と聞いて、生徒たちが抱くイメージと牧師先生のイメージにギャップがあったのは明らかです。

それでは、牧師先生が「愛し合いましょう」と言って教えようとした「愛」とは何だったのでしょう?その日の日曜学校で先生が愛のどんな内容について教えたのかはわからないのですが、キリスト教で愛について次のことが公式のように言われます。それは、天と地と人間を造り、かつひとり子をこの世に送られた父なる御神を全身全霊で愛する、そして隣人を自分を愛するが如く愛するということです。父なる御神に対する愛と隣人に対する愛ということですが、これだけでは、まだ抽象的すぎるように思う人もいるでしょう。確かに愛する対象が異性に限られず、父なる御神や隣人になるので、愛が恋愛よりももっと広い意味を持ちます。しかしながら、これだけでは、まだわからないことも多く残ります。例えば、父なる御神を全身全霊で愛する時の愛とは、また隣人を自分を愛するが如く愛する時の愛とは、具体的に何をすることなのか、どんな考えや感情を持つことなのか、言葉だけではまだわかりません。

別にキリスト信仰を持ち出さなくても、人間だったら自然な親子関係を通して愛がわかると言う人もいるでしょう。また、同じ目的を持つ人が連帯して協力し合い、時には共通の目的のため、また同志のために自分を犠牲にすることを厭わないという同志愛もあるでしょう。(ただし、同志愛において、共通の目的がどんなものか、それを共有しない人たちにどんな態度をとるか、しっかり見極める必要があります。グループ内で通用する愛が、グループの外との関係で愛の名に値するとは限らないからです。)

恋愛、親子愛、同志愛、これらは人間の自然な本性に由来する愛と言うならば、キリスト信仰では、人間の外部に由来する愛が中心になってくると言うことができます。外部と言っても、私たちの周囲に見えたり触れることができる具体的な事象ではありません。そうではなくて、全ての見えるものと見えないものを造られた父なる御神に由来する愛です。

この神由来の愛について、「ヨハネの第一の手紙」の4章は次のように教えています。おそらく、先ほど述べたフィンランド人の牧師先生が日曜学校で教えようとした箇所ではないかと思われます。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(711節)。

ここでは、神が私たち人間を愛したことが出発点にあって、それを受けて私たちも愛することができるようになる、という神由来の愛が強く示されています。そう言うと、キリスト教は恋愛や親子愛や同士愛のような人間由来の愛は愛ではないと言うのか、と疑う向きも出てくるかもしれません。そうではありません。そうではなくて、恋愛も親子愛も同士愛もその土台に神由来の愛を敷いて、それらを神由来の愛で方向付けていくということであります。キリスト信仰者には、キリスト信仰者の恋愛があり親子愛があり同士愛がある、ということなのであります。

ここまでくると、いよいよ、それではその神由来の愛とは何か、ということになります。今引用したヨハネ第一の中では、罪の償いということが神由来の愛と深く結びついていることが言われています。罪の償いが神由来の愛の中心にあって、それを受け取った私たちが愛することができるようになる、というヨハネの教えは、実は本日の福音書の箇所に具体例として現れています。少し前置きが長くなりましたが、以下にそれを見ていきましょう。


2.

イエス様が、ユダヤ教ファリサイ派のシモンという人の家に食事に招かれました。ファリサイ派と言えば、福音書の中ではイエス様に敵対するグループとして描かれていますが、これは一体どういうことでしょうか?ファリサイ派とは、当時のユダヤ教社会の中の一つの大きな信仰運動で、聖職者がリーダーシップをとるというよりは、信徒が中心の運動でした。旧約聖書モーセ五書の中に書かれた律法の他に、「父祖からの伝統」(マルコ75節)と呼ばれる口承伝承の教えをとても大切にしました。それは、主に汚れからの清めに関する規定から成るものですが、要は神聖な神に対して我々人間は罪に汚れた存在だから、それで清めということにこだわったということであります。これに対して、イエス様が、いくら清めの儀式的行為を積んでも人間から罪の汚れをなくすことはできないと批判する論争が、マルコ福音書7章にあります。

イエス様と激しく対立するファリサイ派でしたが、同派の中にはイエス様に一目おく人たちもいました。例えば、ヨハネ福音書に出てくるニコデモというユダヤ教社会の最高法院議員などは、ある夜人目を避けてイエス様に教えを受けに行きます。罪の汚れからの清めということを真剣に考えれば考えるほど、清めの儀式だけでいいのだろうかと疑問を持つ向きがでても不思議はなかったでしょう。ひとつ付け加えれば、使徒パウロは、キリスト信仰に入る前は筋金入りのファリサイ派でした。本日の箇所のファリサイ派シモンもおそらく、イエス様を家に招いていろいろ質問してみよう、ファリサイ派には口うるさいことばかり言っているが、今や奇跡と権威ある教えで一世を風靡しているイエスとやらを呼んで、本当に尊敬と畏敬に値する者かみてみようと考えたのでしょう。

そういうわけで、この会食はイエス様を主賓とするものではなく、大勢を招待した一人の客としてイエス様も招待されたようです。4446節で、イエス様は、到着時にシモンは歓迎の接吻もせず、イエス様に足を洗う水も用意しなかった、と指摘していますが、そのようにイエス様に特別な敬意を表することはなかったようです。また39節で、シモンは内心呟きますが、この仮定法過去で書かれたギリシャ語文の趣旨は以下のようになります。もしこの男が本当に預言者ならば、今何やらちょっかいをだしている女が罪を犯した者だとわかって、汚れた者はあっちに行けとでも言って、追い出すだろうに。ところが、女にさせるままにしているというのは、わかっていない証拠だ、だから預言者でもなんでもなかったんだ、期待外れだ、という具合です。


3.

以上のような背景の中で、本日の箇所の出来事が起こりました。神由来の愛をわかるために、出来事の流れを一つ一つ注意して見ていく必要があります。45節で、イエス様が、女性は彼が家の中に入った時点から足に接吻をし続けていた、と言っていますが、女性はイエス様が来るのを家の前で待っていて、彼が来るやしがみつくようにして一緒に入ったのでしょう。舗装道路がない昔は、足はすぐ汚くなる部分です。接吻というのは、日本ではなじみがないので多少違和感があるかもしれませんが、敬意や愛情を示す行為として捉えて下さい。体の汚い部分に接吻するというのは、自分をとてつもなく低い者とし相手をとてつもなく高い者として敬意を表しています。とめどなくあふれ出る涙でどの程度足がきれいになるかは疑問ですが、これはむしろ象徴的な行為としてみたほうがいいのかもしれません。水気を含んだ汚れを髪の毛で拭えば、髪の毛はたちまち汚れるでしょう。女性は、そんなことは意に介さず、イエス様のために今出来ることを精一杯するだけです。そして、仕上げに高価な香油を塗りました。これで、家の主人が多少あしらっていたイエス様を自分なりに精一杯主賓の地位にしてあげました。

イエス様は、シモンの心の呟きを見て取りました。預言者でなかったとイエス様をあしらったシモンは、見抜かれたことに気づきません。おめでたい人というのはこのことでしょう。そこで、イエス様は、この女性の行為が何を意味するのかをシモンに教えるために、一つのたとえを話します。500デナリオンの借金を抱えた人と50デナリオンの借金を抱えた人が、二人とも返済に困ってしまった。しかし、貸主は、二人とも帳消しにしてやった。さて、どちらの負債者がより多く貸主を愛することになるだろうか。言葉を換えて言うと、どちらが、沢山の恩恵を受けたという念をもち、より多く感謝の念に満ちて、貸主のために尽くしてもいいとより強く思うのはどちらだろうか、ということです。1デナリオンは、当時の肉体労働者の一日の賃金です。シモンは、大きな借金を帳消しにされた人の方が、小さい借金を見逃してもらった人よりも、より多く貸主を愛することになる、と答えます。

そこで、イエス様は、同じことがこの目の前の女性にも起こったのだ、と明らかにします。この女性は、「過去に罪を犯していた女性(ην αμαρτωλος)」と言われていますが、具体的にどんな罪を犯したのかは述べられていません。これについてよく言われるのは、夫婦関係を壊す不倫を犯したとか、または娼婦そのものであっただろうとか、いずれにしても十戒の第六の掟に関わる罪が考えられています。その可能性が高いと思われつつも、具体的に述べられていないので断定できません。しかし、いずれにしても、神の意思に反することを公然と行っていたか、また隠れてやっていたのが公けに明るみに出てしまった、ということであります。

イエス様は、この女性の献身的な行為というものは、たとえの中に出てきた、沢山の負債を帳消しにされて貸主に一層敬愛の念を抱く人と同じである、と教えるのであります。つまり、イエス様に沢山の罪を赦されたので、イエス様に一層敬愛の念を抱き、それが献身的な行為に現れた、というのであります。

ここで、注意しなければならない大事なことがあります。それは、女性が献身的な行為をしたので、それが受け入れられて赦された、ということではないということです。そうではなくて、女性は初めに赦さて、それで感謝と敬愛の念に満ちて献身的な行為に及んだ、ということであります。47節でイエス様は、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言っていますが、この「赦された」という動詞のギリシャ語は現在完了形(αφεωνται)で、ギリシャ語の現在完了形の意味に従えば、「この人は、ある過去の時点で罪を赦されて、現在に至るまでずっと罪を赦された状態にある」という意味です。過去のある時点で罪を赦されたというのは、以前にイエス様が女性に罪の赦しの宣言を既に行っていた、ということです。「罪を赦す」というのは、人が神聖な神の意思に反する行いをしたり、言葉を発したり、考えを持ったりして、神の怒りを買ってしまったにもかかわらず、その人がそれが神の怒りを買うものであることを認めて、これからはしません、だから怒りを取り下げて下さい、と悔い改めることを、神が受け入れるということであります。そして、悔い改めを神が受け入れるというのは、神がその罪を不問にする、事実としては残るが、あたかもなかったかのように忘れることにする、そして、もうそうしないと言った新しい生き方をあなたはすぐ始めなさい、私はそれを支援するから、ということであります。

これとは逆に、女性の悔い改めを信ぜず、彼女の犯した罪をいつまでも問い続けて、新しい生き方に踏み出すのを妨げようとするのが、周囲の人たちの赦しのないかたくなな態度です。37節で、「この町に一人の罪深い女がいた」というのは、ギリシャ語の原文では過去形(ην αμαρτωλος)なので、「この女は、以前この町で罪を犯していた者であった」という意味です。それなのに、ファリサイ派のシモンは心の中で、この預言者と騒がれているイエスは気が付かないのか、「この女は罪深い女なのに」(39節)、と呟きます。これは、ギリシャ語の原文では現在形(αμαρτωλος εστιν)なので、「この女は現在も罪びとでいるのに」という意味です。このように周囲の人たちは、女性が悔い改め、罪の赦しを得て、新しい生き方を始めようとしていることを信ぜず、赦されてなどいない、まだ同じ罪びとだ、と後ろ指をさして、顔と背を背け続けます。しかし、イエス様は、女性の悔い改めを受け入れ、罪の赦しを宣言して、もう同じ罪を犯さないで生きようという新しい生き方を応援する方に回ります。なぜ、女性が献身的な行為をするのかをシモンに説明した後で、イエス様は女性に言います。「あなたの罪は赦された」(48節)。これもギリシャ語では現在完了形なので、「あの時赦されたあなたの罪は今も赦され続けていて何ら変更はない」という意味で、周囲がなんと言おうが、神の御子イエス様と父なる御神の目から見れば、事実は確定しているから何も心配するな、ということです。さらに、会食の席に同席していた人たちが、イエス様が神にしかできない罪の赦しを公然と行うことに驚き始めた時に、イエス様はさらに太鼓判とも言える言葉を女性に述べます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。ここの「救った」というのも、現在完了形なので、正確には次のような意味になります。「あなたはわたしこそ罪の赦しを与えることができる者であると信じて赦しを得た。そうして、神との関係が回復して救われた者となった。それ以来、あなたは現在に至るまでずっと救われた状態にいる。」


4.

以上、かつて罪を犯していた女性がイエス様を救い主と信じる信仰に入って、罪の赦しを得て、神との関係が回復して、救われた者となったこと。そして、新しい人生を、周囲の赦しのない辛い荒波の中ではあるが、父なる御神と御子の支援と応援を受けて始めることができるようになったこと。そのために心も体も魂も恩恵と感謝の念に満ち溢れて、それが献身的な行為に現れたことを見てきました。実は、この女性に起きたことと同じことが私たちにも起きたのです。どういうことかと言うと、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまい、この世の人生では神との関係が途切れたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに永遠に戻れず滅びるしかなくなってしまいました。それを父なる御神はなんとかしようと独り子をこの世に送り、神と人間を分け隔てていた原因である罪を全て彼に負わせて、罪から来る罰を全てイエス様に受けさせて、十字架の上で死なせました。人は、この神の独り子の身代わりの死が自分のためになされたとわかってイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いを自分のものとして受け取ることができます。こうして人は自分の造り主である神との関係が回復します。

さらに、父なる御神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死の絶対的な力を無力にして、永遠の命、復活の命の扉を人間に開かれました。こうして、イエス様を救い主と信じる者は、造り主である神との関係が回復した者として、永遠の命に至る道に置かれてこの世の人生の歩みを歩み始めることとなります。神との結びつきが回復したのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、たとえこの世から死ぬことがあっても、神はすぐ手を取ってみもとに引き上げて下さり、永遠に造り主のもとに戻れるようにして下さいます。私たち一人一人を造り、命と人生を与えて下さった方が、このような計り知れない恵みの業を私たちのために成し遂げて下さったのです。私たちの心も体も魂も、本日の福音書の箇所の女性のように、深い恩恵と感謝の念に満たされないでいられましょうか?どうか、神由来の愛がこんこんと尽きることのない泉の水となって、私たちが思う思い、発する言葉、行う行いの全ての隅々にしみわたっていきますように。もちろん、肉を纏って生きる私たちにはまだ罪が宿っているので、いつでも恩恵と感謝の念が弱まり、神の思いよりも自分の思いを先に立てようとすることが起きます。それでも、悔い改めと罪の赦しと再出発の可能性は絶えず開かれています。本日の箇所でイエス様は、一度宣言された罪の赦しは、その後も変更はなくそれは現在も効力を有している、と宣せられました。これは、イエス様を救い主と信じる私たちにもそのままあてはまります。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに勇気を持って歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年7月22日月曜日

神は人を憐れみ救い給う (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年6月23日聖霊降臨後第五主日 
スオミ教会にて

列王記上17:17-24
ガラテアの信徒への手紙1:11-24
ルカによる福音書7:11-17


説教題 神は人を憐れみ救い給う


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.

 本日の福音書の箇所は、イエス様がナインという名の町で一度死んだ若者を生き返らせたという出来事についてです。ナインの町はガリラヤ地方にありますが、ユダヤ地方との境界線に近い所にありますので、そこでそのような奇跡を行えば、結果として17節に記されているように、イエス様のうわさはユダヤ地方全域にも広がることになります。イエス様が死者を生き返らせる奇跡は、他には、ガリラヤ地方のカペルナウムという町で、ユダヤ教会堂の会堂長ヤイロの娘を生き返らせたこと(ルカ84056節、マタイ91826節、マルコ52143節)があります。さらに、エルサレムの近くにあるベタニアという町で、マルタ、マリア二姉妹の兄弟ラザロを、息を引き取ってから4日後に生き返らせました(ヨハネ11144節)。

 ナインでの奇跡の出来事の事の次第を追っていきますと、まず、イエス様が弟子たちや他に付き従う大勢の人たちと一緒に町の門の近くまで来ます。門があるということは、町は城壁かそこまではいかなくても壁で囲まれたれっきとした町、都市だったのでしょう(ギリシャ語原文でもポリスπολιςと言っています)。ちょうどその時、町の中から門を通って外の墓地に向かう葬列が出てきました。亡くなったのは若者で、それは母親にとっては一人息子、さらに、その母親は未亡人であったと記されています。町の人たちが大勢葬列に加わって歩いて行きます。未亡人の一人息子が死んだということであれば、婦人は最愛の肉親を失ったと同時に自分を養ってくれる人も失ったということになります。この婦人の受けた打撃は相当なものだったでしょう。かなりの悲嘆にくれていたでしょう。この光景を目にしたイエス様は、次のような反応をして、葬列の婦人に向かって声をかけます。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)。きっと婦人は、歩きながら本当にひどく泣いていたのでしょう。イエス様は葬列に近寄っていき、棺に手を触れます。棺を担ぐ人も、葬列自体も立ち止まりました。そこで誰も思いもよらないことが起こります。「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(1415節)。母親は、一度死んで失った息子を生きて取り戻すことができたのでした。

この出来事が示すように、イエス様は「起きなさい」という言葉をかけるだけで、死んだ若者を生き返らせました。先週の主日の福音書の箇所(ルカ7110節)に登場したローマ帝国軍の百人歩兵部隊の隊長は、イエス様のかける言葉には死の力を上回る力があると信じていました。イエス様の言葉の力をそのように信じるというのは、イエス様のことを、言葉をかけるだけで万物を創造していった神と同等に置くということでした。さらに、イエス様の言葉には死の力を上回る力があるというのは、その言葉に人間を罪の支配力から解放する力がある、ということでもあります。どういうことかと言うと、先週の説教でも述べましたように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪に陥ったために、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロがローマの信徒への手紙」623節で、死とは罪の報酬である、と言っている通りです。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできたのであります。死ぬということが、人間が罪の支配力に服しているということの現れなのであります。百人隊長が示した信仰、つまり、イエス様の言葉には死の力を上回る力があると信じるのは、死をもたらす罪の力を上回るということであり、イエス様こそ人間を罪の支配力の下から解放する方だと信じる信仰であります。神の民であるユダヤ民族に属さない者がそのような信仰を示したため、イエス様が驚かれたのも無理はない、というのが前回の箇所でした。

本日の箇所では、イエス様は文字通り、言葉をかけることで死人を生き返らせます。そうすることで、自分の言葉には人間を死と罪の呪縛から解放する力があることを如実に示しました。ただし、この奇跡を目撃した人々の反応はどうだったかと言うと、16節に記されているように、イエス様を神の子ではなく、預言者の再来と考えたようです。そのような理解がされたのには背景がありました。例えば、先ほど読んでいただいた列王記上171724節には預言者エリヤが死人を生き返らせた奇跡が語られていました。また、列王記下43237節では、預言者エリシャによる同様な奇跡が語られています。それゆえ、イエス様の奇跡の業を目撃したナインの人たちが、この方は旧約の預言者の再来だと思ったのは無理もありません。死者を生き返らせる奇跡を見ても、イエス様が神の子で全世界の全人類を罪と死の支配力から解放する救い主である、ということはまだわからなかったのであります。それがわかるようになるのは、十字架と復活の出来事を待たなければならなかったのであります。

 百人隊長の時は、隊長が家来を死に至る病から救ってほしいとお願いし、イエス様はそれを聞き入れる形で奇跡を行いました。ナインの町の出来事では、誰もイエス様にお願いをしていません。イエス様は、お願いされる前にさっさと奇跡を行ったと言えます。お願いされなくてもイエス様が奇跡を行うに至るきっかけが、本日の箇所の中で言われています。それは、「母親を見て、憐れに思った」ということです。目の前に悲劇の現実があることを御自分の目で確認され、それに対して憐れに思われた。憐れに思う、というのは、ギリシャ語のσπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイという動詞ですが、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、他人の不幸や悲しみに心を傾ける、同情する、という意味です。イエス様が嘆き悲しむ母親を見て、本当に可哀そうに思った、それがイエス様をして奇跡の業を行わせしめたということであります。私たちも、苦難や困難に陥った人を助ける時は、そうした人たちの苦しみや悲しみに自分たちの心を傾けることから始まります。可哀そうに思う、気の毒に思う、憐れむ、こうした心の有り様が他者を助ける出発点になります。その点については、イエス様も全く同じでした。私たちが救い主と信じる神のひとり子は、私たちが苦難や困難に陥った時に、御自分の心を本当に私たちの苦しみや悲しみに傾けて下さる方なのであります。私たちが苦難や困難に陥るというのは、イエス様に見放されたということではありません。実はその時、イエス様の心は騒ぎ、ナインの町の未亡人を可哀そうに思ったと同じように、私たちをも可哀そうに思っているのです。

私たちが遭遇する苦難や困難というものは、もし天の父なる御神から助けと良い導きが得られるとひたすら信じて取り組んでいけば、本当に神から助けと良い導きが与えられて乗り越えていくことができるものと、私は信じます。もちろん、苦難や困難の真っただ中にいる時とか、またそれが長引いて出口の明かりがなかなか見えない時などは、神の御子イエス様も父なる御神自身も私たちのことなど全然気に留めていないのではないか、と疑うことが起きてきます。さらに、もしイエス様や神が心を傾けてくれていると言うのなら、なぜ苦難や困難がなくならないのだ、きっと神やイエス様には助ける力がないのだ、ただ可哀そうに思うだけで手をこまねいているだけだ、という非難も出てきたりします。しかし、それは誤った見解です。イエス様は、間違いなく苦難困難にある者を心に留め、かつその人を助ける力がある方です。以下そのことをみていきながら、私たちの信仰を今一度確認してまいりましょう。


2.

イエス様が「他者の苦しみや悲しみに心を傾ける」、憐れむ、可哀そうに思う、気の毒に思う、同情する、ということを意味する先ほど申しましたギリシャ語の言葉σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは、奇跡を行う場面でよく使われます。例えば、マタイ14章で、イエス様を追ってきた大勢の群衆を「見て深く憐れみ」(14節)、彼らの中にいた病人たちを癒されました。15章では、三日三晩飲まず食わずにいた4000人の群衆のことを、イエス様が「かわいそうだ」と言って(32節)、手元にあった7つのパンと少量の魚で全員を満腹にする奇跡を行いました。20章では、イエス様はエリコの町で二人の盲人から、目が見えるようにして下さい、と執拗に嘆願されます。その時、「深く憐れ」んだ(34節)イエス様は二人の目を見えるようにします。さらに、同じギリシャ語の言葉は使ってはいないのですが、イエス様がとても深く憐れんだ、可哀そうに思った、ということが、ヨハネ11章で死んだラザロを生き返らせる奇跡の前に起こります。ラザロの姉妹マリアと彼女と一緒にいた者たちがさめざめと泣くのを目のあたりにして、イエス様は、気が動転し、本当に動転してしまいました(33節、ενεβριμησατο τω πνευματι και εταραξεν εαυτον)。(新共同訳では「心に憤りを覚えて、興奮した」とありますが、何に憤ったのかわからないし、すぐ後でイエス様も一緒に泣いてしまうので(35節)、ここはやはりイエス様が本当に可哀そうに思ったのだと考えた方がいいと思います。)

他の奇跡の場面では、苦難困難に陥っている人たちを前にしたイエス様の心の動きは詳しくは記されていませんが、以上の例からだけでも、イエス様はそうした人たちに対して、いつも深い憐れみの心、可哀そうに思う心を持って、それに突き動かされて奇跡の業を行っていたことは否定できないと思います。私たちの主は、まことに私たちのことを心に留められる方で、私たちの苦しみや悲しみをさも自分自身の苦しみ・悲しみのように受け止めて下さる方なのです。


3.

それでは、なぜイエス様は、私たちが苦難や困難に遭遇することを回避できるようにしてくれないのか。遭遇してしまった時は、どうして少しでも早くそれから抜け出られるようにして下さらないのか。イエス様には助ける力はないのか。このことを考える時に、ひとつ注意しなければならないことがあります。それは、もし、イエス様の任務が、苦難や困難に陥った人たちを深く憐れんで奇跡を用いて助けてあげることだとすれば、なぜ彼はそれを途中でやめてしまったのか、ということです。イエス様はガリラヤ地方とユダヤ地方とそれらの周辺地域で実に多くの人々を奇跡の業をもって助けました。不治の病を治し、飢えを満たし、無数の悪霊を追い出しました。ところが突然、彼はこうした巡回救援活動を止めて、行けば死が待っていると自分でもわかっているエルサレムを目指して歩み始めるのです。イエス様が十字架に架けられたのが大体西暦30年頃とすると、年齢的に30少しいった位です。まだまだ働き盛りです。もっともっとあちこちを回って、救援活動を続けられた筈です。それこそ、弟子たちと地中海地域のあちこちを訪れて、各地で病人を癒し、飢えを満たし、悪霊を追い払っていた方が、はやばやとエルサレムで死刑になってしまうよりは、人類のためになったのではないでしょうか?ところがそうではないのです。ゴルガタの十字架に架けられることの方が、人類のためになったのです。そっちを実行するために、イエス様はエルサレムに向かう道を歩み出したのです。それは、病気や飢えや他のあらゆる苦しみが癒したり助けたりするのに値しない、ということではありません。そうではなくて、そうした苦しみ全ての根底にある苦しみから人間を救い出すということが、イエス様の任務としてあったのです。イエス様のおかげでその根底的な苦しみから癒された人は、今度はイエス様を救い主と信じる信仰を持って生きることとなり、それからはたとえ苦難や困難に遭遇することになっても、自分にはイエス様がたえず目を注がれて心を傾けられているのだとわかっているので、心配と不安はほどほどにとどめることができる。そして、今歩んでいる道は必ず出口に通じていると確信を持って暗闇の中を進んでいける。期待に反して暗闇が深ければ深いほど、また長ければ長いほど、逆にそれだけ一層イエス様からの目の注がれと心の傾けられも強まって長期にわたっていく、とますますわかる。それなので、心配と不安はたえずほどほどにとどまる。そのような生き方を全ての人が持てるようにと神は望んでおられるのです。

根底的な苦しみからの癒しとはどういうことかと言うと、人間が長く失っていた造り主である神との結びつきをイエス様が回復して下さったということです。人間は、堕罪以来、自分の造り主である神との関係が断ちきれた状態にありました。従って、この世の人生の段階では、神との結びつきをもって生きることができず、この世から死んだ後も、神との関係は断ち切れたままで、造り主である神のもとに戻ることができず、永遠に滅びの状態に陥ってしまうのであります。しかし、神の方では、人間をそういう状態に陥らせないようにしようと思われました。つまり、人間が神との関係を回復できて、この世の人生の段階では、神との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう。たえず神から守りと導きを得られるようにしてあげよう。仮にこの世から死ぬことになっても、その時はすぐ人間の手を取って自分のもとに引き上げて、人間の造り主である自分のもとに永遠に戻ることができるようにしてあげよう。しかしながら、神聖な神と罪を受け継ぐ人間の断ち切れた関係を回復させるためには、神から人間を切り離す原因となった罪の支配力から人間を解放しなければなりません。しかし、人間の肉から罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで、神がやったことは、神のひとり子をこの世に送り、彼に人間の罪からくる罰を全て負わせて身代わりとして死なせ、その身代わりに免じて人間を赦すことにする、ということでした。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死の力を無力にして、人間に永遠の命、復活の命への扉を開きました。そうして、人間は、イエス様が自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、この神の整えた「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができるのであります。神がイエス様を用いて用意された救い、「罪の赦しの救い」が信仰者に対して効力を持ち始めるのであります。

 このように、エルサレムに向かう道を歩み出したイエス様は、人間を助けることを途中でやめたのではなかったのでした。そうではなくて、本当に人間を助けるために十字架の道を選んだのでした。もちろん、病気や飢えや悪霊から人間を助けることも大事です。しかし、イエス様は、そうした直に出会う一人一人の人に対する助けを超えて、御自分が直接出会う可能性のない遠くの国々の人々それに遠い未来の人々を全部一まとめにして助けることを考えました。病気や飢えや悪霊という個々の人間の苦しみの根底にある人類全体に共通の苦しみ、つまり造り主である神との関係が断ちきれたという状態から助けることを、イエス様は目指した。


4.

 ナインの町での出来事をはじめ、イエス様が奇跡を行う直前にいつも起きた「憐れむ、可哀そうに思う等々」を意味するギリシャ語の単語σπλαγχνιζομαιスプランクニゾマイは、マタイ93638節で少し違った使われ方をします。そこを読んでみますと、イエス様は、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい』。」ここでは、イエス様は、「深く憐れまれた」後で奇跡は行わず、弟子たちに、神の収穫と働き手について話をします。
イエス様が深く憐れまれた群衆は、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いました。飼い主のいない羊とは、救い主を持たず神との関係が断ちきれたままでこの世の人生を歩まなければならない者で、神から守りも導きも得られない人のことを意味します。それが「弱り果て、打ちひしがれていた」というのは、まさに造り主である神との関係が断ちきれたままでこの世の人生を歩む者の状態を表しています(ギリシャ語原文を忠実に訳すと、「打ちひしがれて、打ち捨てられていた」の方がいいでしょう)。イエス様がこのように深く憐れまれた群衆はただ病人だけからなる集団ではなく、健康な人も多く含まれていたでしょう。つまり、健康な人もそうでない人も、神との関係が断ちきれた同じ状態にあり、それで皆「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」というのであります。まさにそうした者たちを、イエス様は「深く憐れまれた」のであります。

ここで、イエス様が神の収穫と働き手のことを話すのは、十字架と復活の後に「罪の赦しの救い」が実現したあかつきには、全ての人がこの救いを与えられる対象となる、それが収穫ということであります。全ての人が対象ですから、収穫は多すぎるほど多いということになります。しかし、働き手があまりにも少ない。働き手とは、この実現した救いをまだ受け取っていない人が受け取ることが出来るように働く人、つまり福音を宣べ伝える人を意味します。牧師や宣教師の仕事のように考えられますが、基本的には既に救いを受け取った人たち皆に関わる仕事です。そういうわけで、キリスト信仰者が苦難・困難にある人を助ける時は、もちろん苦難・困難がもたらす苦しみに心を傾けることは大事です。イエス様もそうなさいました。しかし、それと同時に、イエス様は、人が神との関係が断ち切れた状態にあることからくる苦しみにも心を傾けました。イエス・キリストを救い主と信じる兄弟姉妹の皆さん、そのことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン