2026年6月1日月曜日

キリスト信仰の神の愛とは三位一体からくる愛である(吉村博明)

 説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)

 

主日礼拝説教 2026年5月31日 三位一体主日 スオミ教会

 

創世記1章1-2章4a

第二コリント13章11-13節

マタイ28章16-20節

 

 

説教題 「キリスト信仰の神の愛とは三位一体からくる愛である」


 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

  今日は教会のカレンダーでは「三位一体主日」です。先週は聖霊降臨祭でした。聖霊がイエス様の弟子たちの上に降って、いろんな国の言葉で神の偉大な業について群衆の前で証し始めました。弟子の一人ペトロが群衆の前で大説教をし、その結果3,000人の人が洗礼を受けてキリスト教会が形成され始めました。先週はそれを記念する日でした。それで、父、御子、聖霊の三者がそろったので今日は三位一体を覚える主日です。

 

 皆さんご存じのように、キリスト信仰では神は父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、三位一体の神として崇拝します。日本語では聖霊のことを「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と人格を持つ者として言い表しています。他の言語は確認していないですが、大体皆そうではないかと思います。三つの人格はそれぞれ果たすべき役割を持っていて、父は無から万物を造り上げる創造の役割、子は人間を罪の支配下から救い出す贖いの役割、聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する役割を果たします。この世から聖別するとは、人間を神聖な神の御前に立たせても恥ずかしくない、神の目に相応しい者にしていくということです。

 

 これら三つの人格と役割は別々であっても、全部一緒になっているのがキリスト信仰の神です。一つでも欠けたら神という全体が成り立たないのです。それなので、キリスト信仰で普通、神の愛と言っている愛は三位一体から出てくるものです。三位一体から出てくる愛とはどんな愛なのか?今日はこのことについて見ていきます。

 

 本日の福音書の日課はイエス様の大宣教令と呼ばれる個所です。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる。」

 

 三位一体から出てくる愛がわかるために、まず、洗礼が父と子と聖霊の御名によって授けられるというのはどういうことかを見てみます。次にイエス様が世の終わりまでいつも共にいて下さると言っていることについて。彼は聖霊降臨の10日前に天に上げられました。今天の父なるみ神の右におられる方がどうやって地上にいる私たちと共にいられるのか、それについて見ていきます。これらのことを見ていけば、三位一体から来る愛がわかってくると思います。

 

2.洗礼は三位一体の神に結びつける

 

 父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるとはどんなことか?先ほど述べたように、キリスト信仰の神は、創造の業を行う父、人間を罪の支配下から贖う御子、そしてキリスト信仰者をこの世から聖別する聖霊が一緒の神です。父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられるというのは、洗礼を通してこの三位一体の神に結びつけられるということです。そして、結びつけられた後は、神に創造された者として、罪の支配から贖われた者として、そして絶えずこの世から聖別される者としてこの世を生きていくことになります。そして、今のこの世が終わって次の世が始まる時に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられる者になります。

 

 神を三位一体の神と信じるキリスト信仰に入れるかどうかのカギは、実に自分のことを「神に創造された者」という自覚が持てるかどうかにあります。どうして自分が神に造られた者であるという自覚が三位一体のキリスト信仰に入れるか否かのカギになるのでしょうか?

 

 それは、自分が神に造られた者との自覚を持つと、では、造られた自分は造り主と今どんな関係にあるかということを考えるようになるからです。何も問題ない、全てうまく行っている関係か、それとも何か問題があってうまく行っていないか?聖書は、関係はうまく行っていない、だから問題を解決しないといけないという立場です。何がどううまく行っていないのかと言うと、造られた人間と造り主の神との結びつきが失われてしまうようなことが起きてしまったからです。そのことが創世記3章に記されています。人間は神に造られたという立場を謙虚に受け入れていればよかったのに、神と張り合おうという気持ちを悪魔にたきつけられてしまって、その言うとおりにしてしまった。そのために人間の内に神の意思に反しようとする性向、罪が備わるようになってしまった。このいわゆる堕罪の出来事の結果、人間は死ぬ存在となってしまい、この世では神との結びつきもないまま人生を送り、この世を去った後は復活の体も永遠の命もなく神のもとに戻れることもなくなってしまったのです。パウロが教えるように、死とは罪の報酬です。人間が代々死んできたというのは代々罪を受け継いできたことの現れです。

 

 しかし神は、人間がこの世では神との結びつきを持って生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげたいと、罪の問題を人間のために解決することにしたのです。それが、ひとり子のイエス様をこの世に贈ったことでした。この神のひとり子が人間の罪を全て背負ってゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて人間の罪を神に対して償って下さったのでした。さらに父なるみ神は、一度死なれたイエス様を最大級の力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、復活の体と永遠の命が待っている天の御国への道を私たち人間に切り開いて下さったのでした。

 

 そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになって、天の御国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。

 

 ところが、この世には人間がその道に入れるのを阻止する力、入れても踏み外させてやろうという力が働いています。そのような力に襲われた時は、洗礼の時に注がれた聖霊の出番となります。聖霊は人間が洗礼によって神との結びつきが出来ていることを思い出させてくれます。私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてイエス様の犠牲の上に築かれた神との結びつきは揺るがずにあることを示してくれるのです。聖霊はまさに信仰者を弁護し、真理を示してくれるのです。その時、私たちは再び神の大いなる恵みの業にひれ伏して、神の意思に沿うように生きようという心を新たにするのです。イエス様が命じたことを守ることができるようになるのは、実にこうした聖霊の働きがあってのことなのです。

 

 このように、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるというのは、神に造られた人間が神と人間を引き離そうとする力から贖われることです。加えて、造られて贖われた人間が天の御国に向かう道を進む力と支えを得られるようになることです。私たちを三位一体の神に結びつける洗礼は、復活の体と永遠の命が待つ天の御国に迎え入れるという神の約束の当事者にするものなのです。

 

3.神の創造は今日でも意味がある

 

 ここで少し脇道に入ります。先ほど、三位一体の神を信じる信仰に入れるかどうかは「神に創造された者」という自覚があるかどうかがカギになっていると申し上げました。その自覚がないと、造り主と自分の関係はどうなっているかという問いは起きず、問いが起きなければ、神のひとり子がこの世に贈られて十字架の死を遂げ死から復活されたことが何の意味があるのかわからない。意味が分からなければ、聖霊が聖別の役割を果たそうとしても空振りに終わります。それ位、人間が神に造られたということを認めるか認めないかは信仰に入るか入らないかの決め手になるのです。

 

 ところが、今日では神の創造を信じることが難しくなっています。それは、進化論が生命について説得力ある説明をしていると考えられるからです。生物は長い時間をかけて単純なものが複雑なものに進化していく、そのプロセスで環境の変化についていけないものは消え、変化に適応できる力をつけたものが進化して続いていく、そのように説明すると、生き物は神が一つ一つ造ったなどとは言えなくなります。人格を持った神なんか持ち出さずにいろんなことが説明できるようになります。そうなれば、もう人間は造り主がどう思っているなんて気にしないで自分の好きなようにやればいい、自分こそ自分の主であり、神なんかにとやかく言われる筋はない、ということになります。自分と神との関係はどうなっているか、うまく行っているのかいないのか、などと考える必要はなくなります。イエス様の十字架と復活の業も必要なくなります。さて、天地創造を出発点にする聖書とその聖書を信じて生きる人たちにとって大変な時代になりました。

 

 このことについて私は3年前の三位一体主日の説教で旧約の日課創世記1章から2章の初めまでの個所をもとに説き明かしをしました(202364日の説教)。そこで、神の創造は、時代遅れの考え方ではない、今日において重要な意味があるということを述べました。どのように述べたかはここでは繰り返しませんが、2点だけ触れておきます。一つは天と地とその他のものを創造されたのが6日間だったことについてでした。それは、創造には6段階あって、それぞれの段階を1日と呼んでいると見れば、天地創造の時間的流れは別に問題はないのではないかということでした(神は時間数にして144時間で全てを創造したかについては、神には不可能なことはないから、その可能性も残しておきますが、1日が今のように24時間の長さになるのは、4段階目に太陽と月が今の配置になる位から始まるのではないか、それ以前は長さは違っているのではないかという見方も可能です。5段階目の創造は明らかに両生類と爬虫類で、「怪物」とは恐竜のことを言っているのではと思われます。6段階目は哺乳類と人類の段階です。)

 

 もう一つは、天地創造のところだけでなく聖書の他のところも見ると、神の祝福は人間だけではなく動物にも及んでいるということです。例えば、イザヤ書11章を見ると動物も人間と共に神の国にいることが言われています。ところが、聖書はもっと踏み込んで動物の救いについて述べません。それはやはり、人間が神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまったために救いが人間の問題になったことがあります。人間がどれだけ神の意思に反するものかを示すものとして十戒が与えられました。人間が罪から贖われて神との結びつきを回復できるためにイエス様の十字架と復活の業が行われました。人間が贖いと結びつきを自分のものに出来るために洗礼と聖餐が必要になりました。これらは動物には関係のないことです。しかし、恵みの手段は人間だけに関係するものだとしても、だからと言って動物が神から祝福を受けられないということにもならない。いずれにしても、聖書は本当に人間の問題が中心なので、動物のことは書いてある以上のことは何も言えないのです。人間としては、書いていないことについては神に任せて、神の創造と祝福が動物に及んでいることを覚えつつ、自分たちの救いに専念するしかないのです。そういうわけで、天地創造は救いを人間を超えて生態系にも及ぼしているのだと予感することで十分と思います。それなので、天地創造は時代遅れなんかではないのです。しかも、天地創造はこの世をどう生きるかという倫理的な視点を与えます。自分は神に創造されたと自覚したら、神との関係はどうなのか考えることになります。その時、神が贈ってくれた贖い主がおられる、彼のおかげで神との関係は大丈夫、心配ないとわかれば、神の意思に沿うように生きようとするのは自然なことになります。とやかく言われてするということではなくなります。進化論からはどんな倫理的な視点が出てくるでしょうか?弱肉強食のような視点にならないでしょうか?

 

4.イエス様は世の終わりまでいつも共におられる

 

 話が脇道に逸れましたが、次に、天に上げられたイエス様はどうやっていつも世の終わりまで私たちと共にいることができるのかを見てみましょう。

 

 まず、イエス様が天に上げられたのに呼応するように聖霊が降ったことを思い出しましょう。洗礼を通して私たちに与えられる聖霊が、イエス様が私たちと共におられることを真実にするのです。イエス様は十字架の業を果たすことで私たちに罪の赦しという恵みを与えてくださいました。先ほど述べたように、聖霊は私たちがその恵みの中に留まって生きられるようにしてくれるのです。罪の赦しの恵みに留まって生きるというのは、イエス様が共におられるということです。

 

 さらに、私たちには聖餐式があります。イエス様が天に上げられることを預言した詩篇110篇の中で、神の右に座す者つまりイエス様はメルキセデク級の大祭司であると言われています。ヘブライ人への手紙の中で言われるように、イエス様は自分自身を犠牲の生贄に捧げて全ての人間の罪を償い、人間を罪の呪いから未来永劫に贖って下さった「大祭司中の大祭司」です。聖餐式は、この完全な償いと贖いを実現した大祭司イエス様と交わる場なのです。

 

 さらに、イエス様が私たちと共におられるというのは、私たちがイエス様を頭とする体の部分であるということがあります。詩篇1101節で神が御子に次のように述べているところがあります。「わたしの右に座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」パウロはエフェソ12023節の中でこの個所を引用して、イエス様が再臨するまでの期間はキリスト信仰者にとってどんな期間であるかを教えています。イエス様を死から復活させて御自分の右の座に着かせた神は彼を「全ての支配、権威、勢力、主権の上に」置かれました。支配、権威、勢力、主権とは、現実の権力だけでなく、目に見えない霊的な力も全部含まれます。この世のどんな大国がどんな権力や軍事力をもってしても、神の右に座すイエス様には敵わないということです。また目に見えない霊的な力もイエス様には太刀打ちできません。

 

 ここでパウロは、そのイエス様を頭として教会が体としてあると述べます。教会はイエス・キリストの体で、その頭がイエス様である、と。ここで言う「教会」は教派的、組織的な教会ではなく目に見えない世界大の教会で、キリストの体と化しているものです。どんな体かと言うと、まず、聖書の御言葉、全体として罪の赦しの恵みを目指す御言葉が響き渡る体です。次に、洗礼を通してその部分になれる体です。そして、体の部分である信仰者は聖餐式を通して罪の赦しの恵みを全身全霊に満たして神との結びつきを、イエス様との繋がりを強めていく体です。そういうわけで、キリスト信仰者はイエス様を頭とする体の部分としてイエス様と結びついているのです。

 

5.勧めと励まし

 

 そうなると、天地創造の神と救い主イエス様とこれだけ密接に結びついているのだから、教会やそこに属する信仰者たちは支配、権威、勢力、主権に対してイエス様のように勝っているかと言うと、そうとも言えない現実があります。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実です。イエス様が人間を罪の支配から解放して下さったことは真理なのに、罪の誘惑はやまないという現実です。全てに勝るイエス様に繋がっている筈の信仰者はどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 

 それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世に属していることによります。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部この世に属しています。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろう、天の御国なんか入れないようにしてやろうという力が働いているところです。さらに、人間が造り主の神に心を向けられないようにしてやろう、神と結びつきを持てないようにしてやろうという力が働いているところです。これらがイエス様の足台にされた霊的な力です。アダムとエヴァの堕罪の時からずっとこの世で作用し続ける力です。ただし、イエス様の再臨の日に完全に滅ぼされます。その時、キリストの体は全身が天の御国の中に置かれます。私たちキリスト信仰者は、このことを見通すことできればイエス様が今のこの世の終わりまでいつも共におられることはその通りであるとわかって、この世で何も恐れるものはなくなるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン