2014年2月26日水曜日

まず神の国と神の義を求めよ (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2014年2月23日(顕現節第八主日)

スオミ・キリスト教会

イザヤ書49章13-18節
コリントの信徒への第一の手紙4章1-13節
マタイによる福音書6章24-34節

説教題 「まず神の国と神の義を求めよ」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先々週、先週に引き続き、本日の福音書の箇所もイエス様の「山上の説教」のところです。「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章にかけて続く長い説教です。この説教が終わった時、聞いていた群衆は驚嘆したと書いてあります(28節)。なぜなら、天地創造の神の意思についてイエス様が教えた時、それは律法学者のように教えたのではなく、まさに神から権威を授かった者として教えたことが誰の目にも明らかだったからであります(29節)。本日も、そのような天の父なるみ神の権威に満ちたイエス様の教えに耳を傾けてまいりましょう。

 本日の福音書の箇所は、山上の説教のほぼ真ん中にある6章の終わりの部分です。この6章というのは、人間が自分中心の考え方や生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持てるようになるための教えが沢山あります。本日の副申書の箇所はその教えのそうまとめのようなところです。本日の箇所をよりよくわかるために、6章全体を足早にみてみましょう。

はじめに、1節から6節にかけて、慈善をするときとお祈りするときは、他人に見られないようにしなさいと教えます。少し飛んで1618節では、断食するときにも他人に見られないようにしなさいと教えます。これらは、神の御心に適う行いであるが、もしそれらを他人に褒められたり、感心されたり、評価されるために行うのならば、それらはもはや神に栄光を帰するものではなくなって、人間が自分に栄光を帰する手段になってしまう。そういう人は他人に見てもらった段階で行いの報いを既に得ているわけであります。天にいます父なるみ神だけに見てもらえれば後は誰にも知られなくてもいいという人は、善い行いの報いを神からいただけるのです。

慈善とお祈りについて教えたところでイエス様は、お祈りの仕方についても教えます(713節)。これも人間が自分を中心にして行うお祈りでなく、神を中心にして行うものです。「神様、あれをして下さい、かなえて下さい、与えて下さい、そのためにあれをしますから、これをしますから」と長々とおねだりしたり、いろんな条件をつけたりするお祈りは、神を信じる者にふさわしくないと言う。そういうお祈りは、神に拠り頼んでいるように見えても、実は自分を中心にしている。そもそも天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた造り主である神は、祈る人が真に必要としているものを既にご存じである。だから、祈るのなら神を中心に据える祈りをしなさい、ということでイエス様は「主の祈り」を教えるのです。本日の礼拝でも後ほど、この祈りを一緒にいたしましょう。

祈りについて教えた後で、今度は、赦すことについての教えがあります(1415節)。これは「主の祈り」の中にある一つの課題を少し詳しく教えるものです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じる人は、まさに信じることで罪と不従順を神から赦されて、神との結びつきを回復した者となれた。そうして、この世の人生では神から守りと良い導きを絶えず順境の時も逆境の時も得られるようになる。万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げられて、永遠に造り主である神のもとにいることができるようになる。あなたが、このようなとてつもない大きな恩恵を神から受けているとわかったならば、他人があなたにした過失をも赦してあげることができなければならない、という教えです。これも、自分中心の考え方から離れて神中心の考え方を持って生きなさいという教えです。

これらの教えの後で、19節から21節までの「地上に積む富、天に積む富」の教えがきます。人間が自分を中心にして積み重ねたものは、名声にせよ、金銭的なものにせよ、永遠に保たれることはない、遅かれ早かれ朽ち果ててしまうものだ。しかし、神を中心に据えて考えたり行ったりして積み重ねたものは、たとえ名声を博さなくても、金銭的にたいしたものでなくても、朽ちることなく、永遠の輝きを持つものである、と教えます。

それ続く2223節に、「目は体のともし火」というたとえの教えが来ます。これはちょっとわかりにくいたとえかもしれません。「目が澄んでいる、濁っている」と言うと、何か視力の良し悪しを言っているように聞こえます。ギリシャ語のハプルースαπλουςという語が下地にありますが、「単純な、素直な」という意味があります。この意味をあてはめるとたとえがわかりにくくなるので、通常は目が「澄んでいる」とか目が「健康である」と訳されます。しかし、6章のはじめから続いている教え、「人間の自己中心の考え方、生き方から離れて神中心の考え方、生き方を持ちなさい」という教えからみると、「単純、素直」の意味でも問題ありません。つまり、「目が素直」というのは、目が単純かつ素直に神に向いているということで、神を中心に据えた考えがあり、生き方をしているということであります。それに反して、「目が濁っている、目が悪い」というのは、自己中心の考え、生き方をしているということであります。このたとえで大事なことは、目が単純かつ素直に神に向いているとき、その人の体全体が輝くということです。つまり、たとえ、病気を患っていても、貧しい境遇にあっても、神を中心に据えて考え生きる人は、その存在そのものが輝くということであります。これとは逆に、目が神に向いていず、自分にしか向いていなければ、どんなに健康でも、裕福な境遇にいても、その人の存在は暗闇同然ということなのであります。

以上、マタイ福音書の61節から23節まで、神を中心に据えた考え方や生き方についての教えが沢山つまっていることを見てきました。これらの後で、本日の箇所である24節から34節までが来るのです。先ほども申しましたように、それは、神中心の考え方や生き方の教えの総仕上げです。まず、24節に神と富の双方に仕えることはできないという教えがきます。その次の25節から32節までのところで、生活の必要物に心を奪われるなという教えが続きます。そして3334節で、「まず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば、天の父なるみ神は生活に必要なものも与えて下さる。明日や将来どうなるかは、その時になって神がどんな道を示して下さるのかがわかるから、今の時点では明日将来のことを思い悩む必要はない。今の時点では、この今の時点にある務めを一生懸命果たしなさい」という教えで終わりとなります。「神の国と神の義を求めれば、必要なものは全て与えられる」というのは、ちょっと信じがたいことです。誰もが必要なものを手に入れるためにあくせくしているのに、それが、神の国と神の義を求めれば、神から与えられるというのです。一体どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?以下、そのことを見てみましょう。

2.

 まず、24節で、イエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えられます。「仕える」というのは、ギリシャ語では「奴隷として仕える」という意味の単語です(δουλευειν)。奴隷というのは主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけであります。イエス様は、人間の神ないし富に対する関係も同じだと教えるわけであります。つまり、どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になるのであります。

 もちろん、人間が富の奴隷にではなく、主人になることもできます。そのことについて、ルターは次のように教えます。「もし人が財産の主人ならば、財産が人に仕えるのであり、人が財産に仕えることはない。どのようにして財産が人に仕えるかと言うと、例えば君が衣服の無い人を見つけたとする。すると君はお金にこう命ずる。『親愛なる金貨君、出発しなさい。あそこに衣服の無い貧しい裸の男がいる。行って彼に仕えなさい。』また次のようにも命ずる。『お前たち価値あるお金よ、あそこに、治療を受けられない病人がいる。彼のところに急行し、すぐ助けてあげなさい。』財産をこのように扱える者が、財産の主人なのである。」

 しかし、もし財産や所有することが人を束縛してその虜にしてしまい、ルターの教えるように財産を扱えない人はもうその奴隷であり、もはや神に従属していないのであります。イエス様の意図ははっきりしています。神と富の双方に仕えることはできない、どっちか一方にしか仕えることができない以上は、あなたたちは、神に仕えなさい、神に仕えることで富の主人になりなさい、と教えるのです。そして、25節の「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか云々と思い悩むな」と続いて行きます。「だから、言っておく」というのは、ギリシャ語では「それゆえ(δια τουτο)、お前たちに言っておく」、つまり、「お前たちは富にではなく神に仕えなさい。それゆえ、お前たちは、神に仕える者である以上は、何を食べようか云々と思い悩んではならない」ということなのです。食べる物や着る物など生活の必要物は、もちろん、なくてはならないものです。しかし、それが心や頭を支配してはいけない、ということなのであります。天の父なるみ神こそはお前たちの造り主であり、お前たちが何を必要としているかご存知で、お前たちの生活の必要物を準備して下さる方である。なのに、自分の造り主を忘れる位に心と頭を必要物のことで一杯にしてはならない。また必要物のことを心配しすぎるあまり、神がそれを準備してくれることを忘れたり、疑ったりしてはならない、神を信頼しなければならない、というのがイエス様の教えの主旨です。

 ここのイエス様の教えで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この有名な「空の鳥」「野の花」のたとえは誤解されることがあって、「空の鳥が種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもせず、それでいて神は養って下さる」と聞くと、人によっては、「ああ、働かなくても神様は養ってくれるのか」と理解する向きがあります。イエス様は、働く必要はないと教えてはいません。イエス様が教えていることは、「種まきもせず、刈り入れもせず、倉にも納めることもしない鳥たちを神は十分に養って下さるのだから、お前たちのように種まきをし、刈り入れをし、倉に納められている者たちは、もっと養って下さるのだ。だから、なおさら心配の必要はないのだ」ということです。同じように、「働きもせず、紡ぎもしない野の花を神はきれいに装って下さるのだから、働いて、紡いでいるお前たちは、もっと素晴らしく装って下さるのだ。だから思い悩む必要は何もないのだ」ということです。つまり、働くことが前提されているのです。

 それでは、富に対しては主人として、神に対しては従属する者として生きる者は、あとは働きさえすれば、必要物は満たされてくるかというと、ここでイエス様はひとつ大事な事柄を付け加えます。神に仕える者には追い求めているものがある。それは生活の必要物ではないが、それを追い求めているからこそ、必要物があとから付いてくるものである。それでは、神に仕える者が追い求めるものは何かというと、それが「神の国と神の義」なのであります。33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」「加えて与えられる」というのは、ギリシャ語の動詞に忠実に訳せば「付け足される」とか「付け加えられる」です。「求めなさい」というのは、ギリシャ語のニュアンスで「求めることを常としなさい」、「求めることを常態としなさい」となります。[1]つまり、ここは、「富ではなく神に仕える者であるお前たちは、働きつつも、いつも神の国と神の義を求めていなさい。そうすれば、生活の必要物は神の国と神の義の付け足しのようについてくる。だから、必要物のことを心配する必要はない。神に仕える者とは、それくらいに神を信頼する者である。この間、お前たちの心と頭を支配するものは、神の国と神の義でなければならない。」これがイエス様の教えの主旨です。それでは、神に仕える者が心と頭を一杯にし、追い求めなければならない「神の国と神の義」とは何かを見てみましょう。

3.

 イエス様が活動を開始する直前、洗礼者ヨハネが現れて、「神の国が近づいた」と宣べ伝えました。そして実際に神の国は、イエス様と一体となって到来しました。神の国がイエス様と一体となってきたというのは、彼の行った無数の奇跡の業、難病や不治の病の人たちを完治したり、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、嵐のような自然の猛威を静めたり、悪霊を追い出した等々の業にあらわれています。つまり、神の国とは、あらゆる邪悪なもの危険なものの力が及ばない国、神の意思と力で満たされた空間ないし領域です。今は私たちの目には見えませんが、将来今の世が終わりを告げる日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる時、「ヘブライ人への手紙」122628節に記されているように、全ての被造物が崩れ去って、唯一崩れ去らないものとして現れてくるものが神の国です。2000年前に神の国がイエス様と共に到来したというのは、人々に前もって神の国というものを少し身近に体験させる意味がありました。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。難病や不治の病を治してもらったり、悪霊を追い出してもらったり、自然の猛威から助けられても、助けられた人たちはまだ神の国の外側に留まりました。なぜなら、神の国に入れるためには、人間が神の目から見てふさわしい者になっていなければならない。神の意思を100%実現できる者でなければならない。つまり、神の義を体現していなければならないのです。そんなことは罪の汚れに満ち、神聖な神から切り離された人間には不可能です。

神は、この惨めな人間が神の国の中に入れるようにしました。どのようにしてかというと、まずひとり子のイエス様をこの世に送られた。そして、神への不従順と罪の汚れにまみれた人間が本来受けるべき裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせた。神は、このイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪と不従順は赦すことにしたのであります。私たち人間は、これらのこと全てが自分のためになされたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が整えられた罪の赦しの救いを受け取ることができるようになったのです。こうして、私たちはまだ罪の汚れを残しているにもかかわらず、イエス様を救い主と信じる信仰によって、神から罪の赦しを得て神の国に入ることが可能となったのです。神は、私たちの汚点には目を留めず、私たちが洗礼の時に被せられたイエス様の清さをみられるのです。このような仕方で、私たちは神の義を体現することができるようになったのです。こうして、私たちは今、イエス様を救い主と信じる信仰によって、今は目に見えない神の国の中にすでに迎え入れられ、神からの守りと良い導きを得ながらこの世の人生を歩み進んでいます。そして、今の世が終わる日には、神の国の一員であることが目に見える形で現れます。

以上から、「神の国と神の義を求める」というのは、実に、イエス様を救い主と信じる信仰に入って、その信仰にしっかり留まることであることが明らかになりました。「山上の説教」を最初に聞いた人たちは、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかわからず、途方にくれたでしょう。しかし、イエス様の十字架と復活の後は、何を意味するかがはっきりわかるようになったのであります。イエス様は、言うならば、御自分の死と復活を行うことを通して、「神の国と神の義を求める」ことが具体的に何をするのかを明らかにしたのであります。

私たち人間が神の義を得られて、神の国に迎え入れられるようにしようと、神がイエス様を犠牲にしてまで実現して下さった救い、私たちがこの救いを思い起こし、神から受けている恵みのあまりにも大きいことを思い知った時、それまで自分を押し潰すかのように圧倒していた心配事や思い悩みは急にしぼんで影が薄くなります。イエス様が「思い悩むな」と言うのは、無理して頑張って心配事を忘れろ、ということではありません。また、無関心を決め込むことでもありません。忘れようと頑張っても心配事は消えません。ただ、自分が神からどれだけの恵みを受けているかがわかった時に初めて、心配事は自分を圧倒する力を失い、冷静に向き合って取り組めるものに変わるのです。その時、神こそが本当に全身全霊をもって信頼するに値する方だとわかり、心配事を全て打ち明けて委ね、神からの解決と助けを安心して忍耐して待つことができるのです。逆に、救いを受け取っていない人は、自分を圧倒するような心配事にどう対処するのでしょうか?圧倒しようとする力はそのままで、それに向き合わなければなりません。それだからこそ、出来るだけ多くの人が、イエス・キリストの救いの福音を聞くことができるように、そして、その救いを受け入れることができるようにと願ってやみません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。





[1] 動詞が現在形であることに注意

2014年2月17日月曜日

『汝の敵を愛せよ』とは、一体どんな愛なのか? (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2014年2月16日(顕現節第六主日)

スオミ・キリスト教会

レビ記19章17-18節
コリントの信徒への第一の手紙3章10-23節
マタイによる福音書5章38-48節

説教題 「『汝の敵を愛せよ』とは、一体どんな愛なのか?」

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

先週の主日に続いて、今週もイエス様の山上の説教が続きます。先週申し上げましたように、イエス様はこの説教で十戒をはじめとするモーセ律法の正しい理解について教えます。十戒や律法を正しく理解するとは、それらを与えられた方の意思を正しく理解すること、つまり天と地と人間を造られて私たちに命と人生を与えられた父なるみ神の意思を正しく理解することです。イエス様は、人々が十戒も律法も神の意思も正しく理解していないことを知っていました。それで、教える際にはいつも、「かつて次のような掟が与えられて、それについてこう言われてきたが、私は次のように言う」と前置きを述べて、正しい理解を教えていきます。それができたのは、もちろんイエス様が神のひとり子だからで、父であるみ神の意思を正確に知る立場にあったからです。

38節と39節で、イエス様は、律法では「目には目を、歯には歯を」と言われているが、悪人には手向かってはならない、と教えます。これは、一体どういうことか?悪人が何か悪さをしようとして、それをそのままにせよとは?右の頬を打たれたら左を差し出せ、とか、下着を取ろうとする者には上着を取らせよ、とか。イエス様は、悪がしたい放題するにまかせよ、悪をそのままのさばらせておけ、と言っているのでしょうか?

イエス様はそのようなことを教えてはいません。それでは何を教えようとしているのか?以下、それを明らかにしてまいりましょう。

「目には目を、歯には歯を」という掟は、出エジプト記212225節やレビ記241720節に出てきますが、申命記191621節にはどうしてこのような掟が必要なのか理由が記されています。それによると、裁判沙汰になった時、一方が他方を陥れようとして嘘の訴えをしたとする。訴えが嘘であると判明したら、その嘘つきが嘘をつくことで相手を陥れようとしたのと同じ状態を嘘つきに味あわせなければならない。つまり、目には目を、ということです。そして20節で言われます。「ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。」つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、こういうことをしたらこういう報いが来るぞ、他人の目を失明させた者は自分の目を失明させねばならなくなるぞ、ということで、同じ悪が自分にも跳ね返ってくるとはっきりさせることを通して悪を控えさせるという、人間が悪に手を出さないようにする抑止力だったのです。

しかしながら、もともとは悪に対する抑止力として始まったこの掟は、反対の結果をもたらしてきました。それは、損害を被ったら仕返しをしてもよい、あるいは、仕返しをしなければならない、というふうに理解されるからです。そうなると、収拾がつかなくなることが沢山でてきます。例えば、子供が取っ組み合い掴み合いのケンカを始めたとします。間に入って止めた大人が、何が原因なのかと聞くと、A君は、B君がぶったから仕返ししたと言います。B君になぜぶったのと聞くと、A君が気にさわることを言ったからと言う。それにそんなに強くぶってないのにA君は強くぶち返したと付け加えます。それに対してA君は、強くぶち返したのはB君の方だ、だから自分も強く仕返しした、というふうになっていきます。子供のケンカでなくても、仕返しをする時はたいてい受けたダメージ以上のダメージを与えようとするのが常でしょう。受けた以下のものでは仕返しをしたという気がしないからです。

そういうわけで、イエス様の教え「悪人には手向かうな」というのは、実は、「悪を成す者に対して仕返しや報復はするな、悪を成す者と同じ手は使うな」という意味なのであります。悪の好き放題にさせろとか、悪をのさばらせていい、ということではないのです。右の頬を打つ者に対して殴り返すな、ということであります。ギリシャ語では正確には「右の頬を平手で打つ」ですが、これは当時の人たちにとって、公けの場で侮辱することを意味しました。それで、侮辱されても侮辱し返すなという意味になります。また、誰かが法律に訴えて所有物を悪賢く合法的にかすめ取ろうとしても、同じ手口を使って相手から取り上げるな、ということであります。しかし、疑問が生じます。なるほど、悪人には手向かうなというのは、悪人に対して報復するなということを意味するのか、でも、悪に好き放題させるのに変わりはないのではないか、悪をのさばらせることになってしまうのではないか、と。

ここでイエス様の教えをもう少し詳しく見てみましょう。イエス様は、右の頬を打たれたら打ち返してはいけないとは言いますが、打たれたままでいなさいとも言いません。相手に左の頬をさし出しなさいと言います。また、悪賢く合法的に所有物を取られてしまったら、同じ手口で相手から取り去ってはいけないと言いますが、そのまま取られて泣き寝入りしなさいとも言っていません。下着に対する上着ですから、取られたもの以上のものを相手に取らせなさいと言います。ギリシャ語のニュアンスでは「取らせなさい」というより、相手に「放り出してしまいなさい」がいいと思います。41節の「1ミリオンではなく2ミリオン行く」という話は少しわかりにくいですが、当時の人たちがこれを聞いて思い浮かべるのは、ローマ帝国の兵隊が現地の人を強制的に道案内させたり荷役をさせたりすることです。つまり、占領者が無理矢理1ミリオン(約15キロメートル)の距離の荷役労働を課したら、それを屈辱と思わずに命令者について歩き、歩き終わってもそのままもう1ミリオン追加で歩いてしまいなさい、ということです。

こうなると、悪を成す者が最初に目論んだことを上回るものをその者につき返すということになります。突き返された者はどう思うでしょうか?右の頬を打って相手を侮辱することを目論んだ者が、左の頬を突き出されたら、どう思うか?折角こいつを、名誉を傷つけられた悔しさに打ちひしがせてやろうと思ったのに、こいつときたら左頬を出してきやがった。一体何なんだこれは?こいつは自分の名誉にこだわっていないのか?それじゃ、侮辱した甲斐がないじゃないか。また、他人の所有物を悪賢く取り上げた者が、もっと値段のはるものを目の前に放り出されたら、どう思うか?わざわざ手間をかけてかすめ取らなくとも、持って行きたかったらどうぞ持って行って下さい、と突き出されてしまった。一体何なんだこれは?また、1ミリオン荷役労働に服させて占領者の優越感に浸っていたら、こちらは何も言わないのに突然さらにもう1ミリオン歩き出されてしまった。何なんだこれは?このように、最初の目論みを上回るものを突き返されると、最初の目論みが何だかちゃちなものに見えてしまいます。これは、悪を成す者の面目を失わせることになります。

42節を見ると、イエス様は「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と言われます。これは、これまで教えてきた「悪を成す者に仕返しや報復をしてはならない、悪を成す者と同じ手を使ってはならない」ということと結びつきがないようにみえます。しかし、結びついています。この「求める者には与えなさい」という掟は、申命記157節がもとになっています。「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」つまり、あなたに求める者、借りようとする者は貧しい者である、だからあなたは貸し与えなさい、ということですが、あなたを侮辱しようとする者、所有物を取り上げようとする者、強制しようとする者、これらの者も基本的には貧しい者である。だから、侮辱される者、取り上げられる者、強制される者は貧しくない者なのだから、貧しい者に対しては貸し与える態度で臨まなければならないということなのであります。

そういうわけで、侮辱する者、取り上げる者、強制する者に対して仕返しや報復をしない、同じ手を使わないでいる時、侮辱される者、取り上げられる者、強制される者はする者に対して一段高い立場に立つことになります。一見すると侮辱した方が高く、侮辱された方が低く見えますが、本当は侮辱する方が貧しく、される方は貧しくないので、こちらが高いのであります。力関係の高い低いは、道徳的には逆転するということであります。

イエス様が教えることは、道徳的に崇高なものを目指す人にとって受け入れられますが、たいていの人は尻込みするでしょう。崇高な道徳は素晴らしいと思うが、自分は名誉や所有物を犠牲にしてまでそれを実現させる器ではない。誰か立派な人がやってくれればいいと思うのではないでしょうか?しかし、イエス様は、立派かどうかに関係なく、こうしなければならないと教えられる。それはちょっと無理ですよ、イエス様、と思われる方はイエス様の次の教えを見ていくといいと思います。

2.

43節と44節。あなたたちは、汝の隣人を愛せよ、汝の敵を憎めよ、と教えられてきたが、私はあなたたちに命じる。あなたたちは敵を愛しなさい。あなたたちを迫害する者たちのために祈りなさい。「汝の隣人を愛せよ」という掟はレビ記1718節にありますが、「汝の敵を憎め」という掟はモーセ律法の中には見られません。掟にないことが、どうして教えられてきたのでしょうか?レビ記で言う愛すべき隣人とはイスラエルの民に属する同胞を指しています。それで、同胞愛としての隣人愛の裏返しとして、敵は憎んでもよいという考え方がユダヤ民族の苦難の歴史と相まって生まれてきたと考えられます。隣人を愛せよという掟は裏を返せば敵を憎めよということだから、これも掟であるというふうになってしまったのでしょう。しかし、イエス様は命じます。敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ、と。ここでも、イエス様は私たちに崇高な道徳の実践者になれ、と命じておられるのでしょうか?45節を見るとイエス様の意図がわかってきます。

45節。敵を愛し、迫害する者のために祈るのは、おまえたちが天の父なるみ神の子となるためである。なぜならば、神は悪人にも善人にもご自分の太陽を昇らせ、神を畏れる者にも神に背を向ける者にも雨を降らせるからである。こう聞くと、なるほど、神は悪人にも、神に背を向ける者にも気前よくしてくれるのか。悪さをしようが善をしようが神は恵んでくれるのなら、別に悪に留まっていたっていいわけだ、そういう理解がされる危険があります。しかし、イエス様は、悪はしたい放題でいいとか、のさばっていてよいとは教えていません。実は全く逆のことが言われているのです。

どういうことかと言うと、神が悪人にも、神に背を向ける者にも太陽を昇らせ、雨を降らせるというのは、これらの者が神の用意した救いに与れるようにするという意図があるのです。神が用意した救いとは何かと言うと、以下のことです。人間は自分の造り主である神との結びつきがこの世でも次の世でも失われてしまっている、それを神は人間が自分との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことができるようにし、この世から死んだ後は永遠に自分のもとに戻れることができるようにした、これが救いです。どのようにしてこの救いができたかと言うと、人間と神との結びつきが切れた原因は人間に罪と不従順が入り込んで、人間が死ぬ存在になったからですが、神は独り子のイエス様をこの世に送って、人間の罪からくる罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせた。神はこの御子の身代わりの死に免じて人間を赦すことにした。人間はこのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の赦しの救いを受け取ることができ、神との結びつきが回復した者となれる。そうして人間はこの世の人生の歩みでは、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死んでも永遠に自分の造り主のもとにもどれるようになったのであります。

神は、イエス様を用いて実現された救いを善人だけでなく悪人も受け取るように意図しました。それで、善人だけでなく悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるのです。もし、太陽が善人にしか昇らず、雨が義人にしか降らないとしたら、悪人や神に背を向ける者はすぐ滅びてしまいます。神が彼らにも太陽を昇らせ雨を降らせるのは、彼らが一日も早く救いを受け取るようにと猶予の時間を与えているのです。もし悪人が、神は自分にも太陽を昇らせてくれるのだから、自分の悪を認めてくれているんだ、だから悪のし放題でいいんだ、と思ったら、それはとんでもない誤解で、それは神の意図に対する大きな裏切り行為です。そのままで行けば、この世の段階で何か罰が下るか、そうでなくても最終的には最後の審判の日に罰を下されるでしょう。

神としては、悪人も自分との結びつきを回復してほしいという意思なのですから、既に結びつきを回復した者はこの神の意思に従って、その実現のために悪人や敵に対してどんな働きができるかを考えなければなりません。悪人だから敵だから滅びてしまえ、というのは神の意思に反することです。悪人や敵のために祈らなければなりません。自分を迫害する者のために祈れというのは、天の父なるみ神よ、迫害を終わらせて私を助けて下さい、という自分のための祈りではありません。父なるみ神よ、あの迫害する者がイエス様を救い主と信じてあなたの用意された罪の赦しの救いを受け取ることができるようにして下さい、と悪人や敵のために祈ることです。言うまでもないことですが、悪人や敵がイエス様を信じて救いを受け入れることになったら、迫害もなくなります。悪人や敵が神との結びつきを回復できるように働きかけ、またそれを祈ること、これがキリスト信仰者にとって敵を愛するということであります。

先ほど、悪を成す者に仕返しや報復をしてはいけない、悪を成す者と同じ手は使ってはならない、敵を愛さなければならない、というイエス様の教えは崇高な道徳の実践ではないかという疑問を投げかけました。キリスト信仰にあっては、これらのことは崇高な道徳の実践ではありません。それでは何かと言うと、それはただ、父なるみ神の意思に従って生きることそのものであります。ひとり子を犠牲にするのも厭わない位に私たちのことを思ってくれた父なるみ神の意思、日々私たちに良い導きと助けを与えてくれ、たとえこの世から死ぬことになってもすぐ御許に引き寄せてくれる父なるみ神の意思に従って生きることそのものであります。もし、神が用意した救いもなく、イエス様もなくて、これらの教えを実践しようとすれば、それこそ人間の崇高な道徳の実践となり、立派な英雄的な人しか行えなくなります。崇高な道徳の実践とは、人間がこうだと決めた意志の実践です。だから意志の強い人しかできません。しかし、神の意思に従って生きるキリスト信仰者は、自分の意思にかえて神の意思を前面に押し出そうとする者です。もちろん自分の意思と神の意思が衝突することもありますが、それでも神の意思を立てようとする。そういう内的な戦いをする者です。神の意思を立てようとする者にとって、イエス様の教えは当たり前のことなのであります。

3.

 イエス様が山上の説教を行った時、それはまだ彼の十字架の死と死からの復活が起きる前のことでした。まだ、神が罪の赦しの救いを実現する前でした。そのため、説教を聞いた群衆は、悪を成す者に報復をしてはいけないとか、敵を愛せよとか聞いた時、崇高な道徳の実践にしか聞こえなかったでしょう。先週の箇所のイエス様の教え「悪さをされても腹を立てるな」「姦淫の目をもって異性を見るな」、これらも同様だったでしょう。しかし、十字架と復活によって状況が一変したのです。神がイエス様を用いて実現した救いを受け取ることで、これらの教えは、全ての信仰者の心を掴み方向づけるようになったのです。

十字架と復活の出来事の後で、この「悪を成す者に報復をするな」、「敵を愛せよ」というイエス様の教えを、神の意思に従う者の立場から、使徒パウロが大きく取り上げました。「ローマの信徒への手紙」121721節で彼は次のように教えます。

「だれに対しても悪に悪を返せず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
「せめてあなたがたは」というのは、他の者がキリスト信仰者との平和共存に反対しようとも、信仰者はそれを受けて立つことはせず、一方的になっても平和共存路線を貫きなさいということです。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、裁くのは神の仕事であって、起きた不正義に対しては神が報いと償いをする。それは最終的に最後の審判の日に実現する。だから、不正義の報いと償いは神に任せて、信仰者は以下のことに専念しなさいと言います。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる」
善をもって悪に報いてやった敵の頭に燃える炭火を積むとは、一つには敵が自分の悪行を恥じ入る意味があります。もう一つは、敵が悔い改めない限り、ただただ最後の審判で自分が受ける裁きを自ら確定していくことを意味します。
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
悪に対抗するのに悪をもってすると、悪に頼ったことになり、悪に負けたことになります。悪に本当に勝つには善をもって悪に立ち向かうしかないのです。その時、敵は悔い改めるかもしれないし、改めない場合は、あとは神がその者を完全に裁くことになります。どっちにしても、善をもってする場合、悪は打ち負かされる運命にあるのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。