2015年9月28日月曜日

神が子供を抱きしめた瞬間 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年9月27日 聖霊降臨後第十八主日

エレミア書11章18-20節
ヤコブの手紙4章1-10節
マルコによる福音書9章30-37節

説教題 「神が子供を抱きしめた瞬間」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先週の説教で、マルコ82738節はマルコ福音書全体の中で大きな転換点をなしているということを申し上げました。それまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動をしていましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで先週の箇所の出来事があり、イエス様は初めて弟子たちに自分の受難と死からの復活について弟子たちに預言しました。9章に入って「高い山」、ヘルモン山と推定される山に登って自分の姿が変わるところを弟子たちに目撃させる出来事があります。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。

本日の箇所でイエス様と弟子たちは、まずガリラヤ地方に戻ってきます。少し奇妙なことにイエス様は自分がガリラヤ地方に入ったことを人に知られたくなかった(30節)とあります。なぜでしょうか?これは、先週申し上げたことを思い出すとよいと思います。先週の箇所で、イエス様は弟子たちに自分がメシアであることを人々に言い広めてはいけないと命じたことがありました。その理由として、メシア、すなわち頭に油を注がれて神の目的のために聖別された者ですが、そのメシア理解についてイエス様が自分のことを考えていた内容と人々の理解の間に大きな相違がありました。イエス様にとってメシアというのは、人間と神との間の壊れた関係を修復して人間が神との結びつきを持って今の世と次の世を両方生きられるようにする、そういうことを実現する者で、まさに人間の救い主、救世主でした。ところが当時の人々は、メシアと聞けば、ダビデ王朝の家系に属する者がユダヤ民族を他民族支配から解放して王の位について諸国に号令をかけるという民族解放者をイメージしていました。このような理解が持たれたのは、旧約聖書にそう理解できる預言があちこちにあったからですが、天と地と人間を造られた神の意図はそんな一民族の解放にはありませんでした。しかし、特定の歴史状況の中で生きてその中で抱かれてきた夢や願望を皆が共有していると、旧約聖書にある神の意図を本来の広さ深さで理解することはなかなか難しいことでした。これは、きわめて人間的なことであります。メシアが神の意図に沿って正しく理解されるようになるためには、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を待たなければなりませんでした。

そういう時勢でしたから、もしイエス様がメシアであると言い広められたらどうなるか?ユダヤ民族の多くは自分たちの解放者がついにやって来た、と大喜びですが、当時ユダヤ民族を実効支配していたローマ帝国やそれに取り入る傀儡政権の指導層は絶対反対だったでしょう。ローマ帝国は反乱に神経をとがらせていたので、もし鎮圧部隊出動ということにでもなれば、イエス様のエルサレム入城予定に支障をきたしたでしょう。イエス様にしてみれば、全ての出来事が福音書に記されているように起きるためには、今のところは自分がメシアであると言い広められない方が目的に適ったのであります。

2.

さてイエス様一行は、懐かしのカペルナウムに到着しました。ガリラヤ湖沿岸の町です。かつてユダヤ地方で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、まっさきに乗り込んできて活動を開始したところです。漁師の兄弟ペトロとアンデレまたヤコブとヨハネをはじめとする12弟子を選んだところです。33節で、一行がカペルナウムのある家に入ったことが言われていますが、カペルナウムの家と言えば、マルコ1章でイエス様がペトロとアンデレの家に入って、ペトロの病気の姑を癒したことが記されています。その後で町中の人が病人を連れて来ました。2章ではある家で全身麻痺状態の人を罪の赦しとセットで癒す奇跡を行っていますが、これがペトロの家か別の家かは定かではありません。またイエス様の弟子となった徴税人レビが自分の家にイエス様一行とともに大勢の罪びとを一緒に食事に招いたこともあります。本日の箇所のカペルナウムの家はこれらのどれか、また別の家か定かではないですが、出来るだけ人に知られないように行動しようとするなら、前行った家の可能性が高いのではないかと思われます。

ところで、一行がガリラヤ地方に入って、まだカペルナウムに到着する前のことでした。イエス様は再び自分の受難と死からの復活について預言します。最初の預言の時には驚いたペトロが、そんなことはあってはならないと預言を否定して、イエス様から、お前は人間の栄光ばかり考えて神の計画を無にしようとしている、悪魔同然だと叱責されてしまいます。ペトロのメシア理解が民族解放の英雄であったことを露呈したのであります。二度目の預言の時も、弟子たちはまだ預言の意味を理解できず、反論すると厳しい叱責が待っているので怖くて何も聞くことができません。メシアの正しい意味を理解できるためには、本当に十字架と復活の出来事が起きないと無理なのであります。

この時、弟子たちの間にイエス様に従っていくことは一体何なのだろうという疑問が起きたと考えられます。この方は、エルサレムに入城した後は神の大いなる業を呼び起こして、天から降ってくる天使の軍勢の力を持って占領者と傀儡政権を打ち倒し、ユダヤ民族を解放して真の王として君臨して諸国に号令をかける、そういう方だと信じて、我々はついてきたのではなかったか?それなのに、自分は殺されてしまうなどと言われる。しかも、3日後に死から復活するなどとも。それではユダヤ民族の解放はどうなってしまうのか?直近の弟子としてついて来ている我々の立場はどうなってしまうのか?殺されてしまうと言うのは、あまりにもあっけない結末ではないか?しかし、死から復活するというのは一体何なのだ?死から復活した者として新たに指導を開始し民族解放運動が新局面に入るということなのか?こういうふうに、弟子たちのそれまで抱いていた民族解放や解放の英雄のイメージが壊されて、新しいイメージが描ききれないという状況があったと思われます。このイエス様の再度の預言の後で弟子たちは、「誰が最も偉大な者か」ということについて議論し合い始めますが、恐らくメシア・イメージが混乱したことが原因にあったと考えられます。

3.

さて、カペルナウムの家に入られたイエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てをお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について、どういう者が神の御心に適う最も偉大な者かについて教えます。人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節のたった3節に凝縮されています。イエス様は、まず言葉で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(35節)」。

これは、まさにイエス様が行ったことでした。イエス様は神のひとり子であり天の御国にて神の栄光に包まれていれば良い方でした。それが、神に対する不従順と罪のゆえに神との結びつきが失われてしまった人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと、神はひとり子イエス様をこの世に送られました。人間の心と魂と体を持つ者として、人間の悩みと苦しみがわかり、最後は罪と不従順がもたらす神の罰を全ての人間の身代わりとなって十字架の上で受けて死なれました。人間は、この神のひとり子の犠牲の身代わりが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを受けられ、神との結びつきが回復するのです。

それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を今度は死から復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。神との結びつきを持って生きる者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになってもその時は自分の本当の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。私たち人間にこのような計り知れない救いをもたらすために、イエス様は神の栄光に満ちたひとり子でありながら、私たちと同じ人間の姿かたちをとってこの世に送られて十字架の死を受け入れたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えて、いちばん先の者になったのです。イエス様の十字架と復活の出来事の後でメシアの本当の意味がわかった人たちが、まさにこのことを次のように手短く言い表しました。使徒パウロがそれを「フィリピの信徒への手紙」2章の中で引用しています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです(611節)」。

このようにイエス様は、もともといちばん先の者だったのが全ての人の後になって全ての人に仕えて、再びいちばん先の者となられました。イエス様は弟子たちに、いちばん先になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、後になろうともせず仕えようともしない者は本当にいちばん先にはなれない、と教えられます。これは、どういうことなのでしょうか?もちろんこれは、弟子たちも犠牲の生け贄となって十字架にかかって、人間が神から罪の赦しを受けられるようにしなさい、ということではありません。罪の赦しの救いと神との結びつきの回復をもたらす犠牲は神のひとり子が全て行いました。私たち人間が神のひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいないのです。神は自分のひとり子を犠牲にしてもいいと思うくらいに、私たち人間が救われることを重視したのです。そういうわけで、罪から贖われる犠牲はイエス様の十字架一回限りで、それ以上はいらないということになります。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういうことなのでしょうか?

4.

それについてイエス様は、言葉と行為をもって教えます。まず、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。ここはとても劇的な場面ですので、一字一句みて、どれだけ劇的なことかを再現してみたく思います。

イエス様一行は、カペルナウムのある家の中に入られました。その中のある部屋にイエス様と12弟子が一緒に入りました。皆が座っています。子供を真ん中に立たせたということは、真ん中が空くように座ったということなので、車座のような座り方だったのでしょう。最も偉大な者は誰かという弟子たちの議論に対する答えとして、イエス様はまず、全ての人の後になれ、全ての人に仕える者となれと教え、その後で、子供の手を取って真ん中に立たせました。ギリシャ語原文には「手を取る」とまでは書いてありませんが、座っていたイエス様が立ち上がって、別の部屋か一番近くにいた子供を弟子たちがぐるりと見ている真ん中まで自分で連れて行ったのであります。

次にイエス様がしたこと。私たちの新共同訳では「抱き上げて」とありますが、ギリシャ語の動詞εναγκαλισαμενοςは、少し厄介な言葉です。動詞の成り立ちは、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味ですので、そのままでいけば「抱きしめる」の意味です。必ずしも「抱き上げる」とか「抱っこする」ではありません。どっちでもいいではないかと思われるかもしれませんが、使われている言葉や動詞の形から可能な限り正確な情景描写を試みたいと思います。問題のギリシャ語を英語の聖書(NIV)はどう訳しているかと言うと、「抱き上げた」とも「抱きしめた」とも取れます(taking him in his arms, もしtaking him up in his armsならば明らかに「抱き上げた」でしょう)。ドイツ語の聖書でルター訳ですが、「抱きしめた」(herzen)です。ところが、Einheitsübersetsung訳をみると「抱き上げた」の意味が強く出ます(nahm es in seine Arme, もしnahm es auf seine Armeなら完全に「抱き上げた」でしょうか?)。フィンランド語訳では、「抱きしめた」とでも「抱き上げた」とでもとれます。スウェーデン語訳ははっきり「腕を回して抱いた」ですので、「抱きしめた」です。

イエス様は子供を抱っこしたのか、または立たせたまま自ら屈んで抱いたのか、どっちか決めかねるのですが、36節に出てくるギリシャ語の動詞の用法をよく見ると、イエス様が子供を真ん中に立たせたと言うところの「立たせた」が他の動詞よりも重く感じられます(すぐに後に来る「言った」を除いて)。それにこだわると、子供は立ったままということで、イエス様が屈むようにして腕を回して抱いたということになります。もちろん、子供を真ん中に立たせた後すかさず、よっこらしょっと、と抱っこした可能性も否定できません。ここから先は個人的な見解になってしまいますが、子供を抱っこするというのはよくあることなので、立たせたまま屈んで抱いた方がとても劇的な感じがします。皆様はどう思われるでしょうか?

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちみんなが見ている前に子供を連れて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そして行為を言葉に言い換えて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れ、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れるということは、これはイエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父として信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。子供を受け入れることがキリスト信仰を証しするような、そんな子供の受け入れ方をしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、と言うのであります。これはいったいどういうことでしょうか?

子供を受け入れることがキリスト信仰を証するような、そんな子供の受け入れ方とは、どんな受け入れ方なのでしょうか?ここでカギになってくるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。先ほどみた英語、ルター・ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも、「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn, ただし、Einheitsübersetzung訳では「私のためにum meinetwillen」)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりそうでわかりにくい表現です。それでは、イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依り頼んで」という意味です。そうは言っても、それが子供の受け入れをどう規定するかはわかりにくいです。一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の何者の名前にも拠らないということです。子供を受け入れる時、引き合いに出すのは例えば誰か過去の偉人が慈善を沢山行ったから自分もそれに倣ってそうする、ということではないし、また他ならぬ自分が善意を持って慈善を行うという自分自身に依拠することでもない。ましてやいろんな宗教の神々や霊の名を引き合いに出すことなどしない。ただただイエス様の名前だけを引き合いに出してそれに依拠して、子供を受け入れるということです。

それでは、その唯一の名前の持ち主であるイエス様というのはどんな方でしたか?イエス様とは、十字架上の犠牲の死を遂げることで人間を罪の支配力から贖い出した方、そして死から復活させられたことで人間に永遠の命の扉を開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」の引用にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざまずく名なのです。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、受け入れられる子供も、受け入れをする大人と同じように、イエス様が実現した罪の赦しの救いを受けられるようにすることです。そして大人と同じように永遠の命に至る道を歩めるようにすること、つまり大人と同じように神の御国の一員に受け入れ一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても大人同様に、イエス様が実現した罪の赦しの救いは提供されている、また永遠の命に至る道は開かれている、ということをしっかり認めて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことかおわかりになるのではと思います。こういう子供の受け入れ方をした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているということがわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

ところで、兄弟姉妹の皆さん、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたり開かれたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、開かれているにもかかわらずまだ道を歩んでいない人は大人も子供も含め世界にまだまだ大勢いるのです。また、一度は受け取って歩み始めた人で、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人も大勢います。兄弟姉妹の皆さん、私たちは、洗礼を受けた時にイエス様に抱っこされたり抱きしめられたのです。イエス様の抱きしめをしっかり受け続けられるために、聖餐式を受け続けるのです。そういうわけで、イエス様に抱きしめられた者として、また抱っこしてもらった者として、お互いに信仰の成長を大切に考えていきましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るようにと、また正しい道に戻ることが出来るようにと祈り続けましょう。もしそうした人たちに教えたり諭したりする時が与えられたら、神が聖霊を働かせて相応しい時と言葉が与えられるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン




2015年9月21日月曜日

福音は命の永久保証書 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教2015年9月20日 聖霊降臨後第十七主日

イザヤ書50章4-11節
ヤコブの手紙2章1-18節
マルコによる福音書8章27-38節

説教題 「福音は命の永久保証書」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 先日、家電屋に冷蔵庫を買いに行きました。保証期間は1年と言われ、ちょっと短いなと思ったのですが、冷蔵庫の価格の5%を追加で払えば5年に出来ると言われ、しかもポイントでカバーできるというのでお願いしました。冷蔵庫の値段より1円も多く払わないで保証期間を延ばせたので、何かとても得をした気分になりました。これで5年間は故障してもタダでなおしてもらえる。それ以後は、壊れたらきっと修理代は高くついて新しいのに買い換えなさいということになるのだろうな。でも、5年先のことなんか今はまだ悩む必要はないなどと自分に言い聞かせたりしました。

 その翌日に今日の説教の準備を始めたのですが、本日の福音書の次の箇所で立ち止まりました。聖書を読まれる方なら誰でも知っているイエス様の有名な教えです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために失う者は、それを救うのである。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(マルコ83437節)。」

 これを読む人はたいてい、イエス様は命の大切さ、かけがえのなさを教えているのだと理解するでしょう。たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得にもならない。それくらい命は価値のあるものなのだ、と。そうすると、最初に言っていること、つまりイエス様に付き従いたい者は自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい、というのはなんのことだろうか?自分を捨てるというのはどういうことなのか?イエス様が背負いなさいと言っている十字架とは何なのか?人生の苦難や困難から逃げてはいけない、しっかり取り組みなさい、ということなのか?苦難や困難のない安逸安泰な人生を望んではいけないのか?

それから、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」というのは、一体どういうことか?人間、どうせいつか必ず死ぬので、自分の命を救いたい、救いたいと思うこと自体が無駄だということなのだろうか?それに加えて、イエス様のため、福音のために命を失った者は、失ったにもかかわらず、それを救うというのはどういうことなのか?大抵の方は、ああ、迫害を受けて殉教した者は天国に入れることを言っているんだな、と理解するのではないでしょうか?

そういう理解も間違いではないのですが、まだ少し浅いと思います。今見てきた福音書の箇所はマルコ834節から38節までですが、本日与えられた箇所は、27節から33節までが最初にあり、最後に39節がきます。これらを全部ひっくるめてしっかり読むと、今見た34節から38節の内容ももっとよくわかります。結論から言いますと、先ほどの冷蔵庫の保証期間に結びつけて考えると、イエス様と福音を携えて生きる者は命の保証期間が永久にあるようなもので、携えないで生きる者は保証がなく全部自己負担で生きようとするのと同じではないかということです。壊れた冷蔵庫の場合は、保証がなくても自費で修理か買い替えかのいずれかを選ぶことができますが、命の場合は、失われたらどんなに大金を積んでも取り戻すことはできません。自己負担の限界です。しかし、イエス様と福音を持つ者は、この世での命が失われても、復活の日に神から復活の体を与えられて新しい命を生きることになるので、命の保証期間は永久にあります。こうしたことがわかるために、以下、本日の福音書の箇所をみていきましょう。

2.

 まず、本日の福音書の箇所であるマルコ82738節ですが、これは、マルコ福音書全体の中で大きな転換点にあります。これまでイエス様はガリラヤ地方とその周辺地域で活動していましたが、ここでガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで、本日の箇所の出来事があり、その後でヘルモン山と推定される「高い山」に登って姿が変わったところを弟子たちに目撃させる。それから後はただただエルサレムに向かって南下していきます。そういうわけで、本日の箇所はまもなくエルサレムで起こる十字架の死と死からの復活の出来事に向かい始める出発点であります。まさにそれに相応しく、本日の箇所でイエス様は初めて、自分の受難と復活について預言します。

 本日の箇所の前半部分を見ていきましょう。マルコ827節から33節までです。まず、人々はイエス様のことを何者と考えているか、という質問をイエス様がします。弟子たちの答えから、人々は彼のことを過去の預言者がよみがえって現われたと考えていることが明らかになりました。それに対して、弟子のペトロがイエス様をそうした預言者ではなく、「メシア」と信じていることが明らかになりました。その後でイエス様は、自分の受難と死からの復活について預言しました。それを聞いてショックを受けたペトロがそれを否定すると、イエス様は厳しく叱責したのです。ここで疑問として起きることは、まず、この「メシア」とは何かということです。普通、救い主とか救世主を意味すると言われます。しかし、それならイエス様はなぜメシアである御自分のことを誰にも話してはならないと弟子たちに命じたのでしょうか?それから、ペトロがイエス様の受難と復活の預言を否定した時、イエス様は激しく叱責してペトロのことをサタン、悪魔とまで言う。ペトロはそんなに悪いことを言ったとは思えないのに、どうしてなのか?こういう疑問が起きてきます。以下にそれらを明らかにしていこうと思います。

 まず初めに、「メシア」について。これはヘブライ語の言葉マーシーァハ(משיח)で「油を注がれた聖別された者」の意味です。具体的には、ユダヤ民族の初代王サウルが預言者サムエルから油を頭から注がれて正式に王となったこと(サムエル記上101節)に由来します。サウルの後に王となったダビデも同じで、それ以後は神の約束もあって(サムエル記下71316節)、ダビデの家系に属する王を意味するようになります。それ以外の使い方としては、イザヤ451節、レビ記43節、ダニエル926節、詩篇10515節等ご参照。ユダヤ民族の王国が滅びると今度は、将来ダビデの家系に属しユダヤ民族を他民族支配から解放して君臨する王が現れるという期待が高まります。さらにイエス様の時代に近づくと、メシアとは、この世の終わりに現れてユダヤ民族の解放を主な任務としつつも全世界に神の救いを及ぼす、そういう一民族の解放に留まらず、文字通り「世の救い主」、「救世主」という理解も出て来るようになります。

このヘブライ語のメシアは、新約聖書が書かれたギリシャ語ではキリスト(クリストスχριστος)という言葉に訳されます。イエス・キリストのキリストとはイエス様の名字ではなく、メシアというヘブライ語起源の称号をギリシャ語に訳して、イエスという名に付けたということであります。

 さて、ペトロがイエス様のことをメシアと言いました。イエス様は弟子たちに「御自分のことを誰にも話さないように戒めた」とありますが、これは理解に苦しむところです。なぜなら、イエス様はこれまでも大勢の群衆の前で神の国や神の意志について教え、それだけでなく、群衆の目の前でも無数の奇跡の業も成し遂げて、大勢の人が遠方から病人や悪霊に取りつかれている人を沢山運んできたくらいにその名声は広く行き渡っていたからです。

実は、イエス様が「誰にも話さないように」と戒めたのは、自分のことを誰にも話すな、ということではありません。触れ回ってはいけないのは自分がメシアであるということ、これを言いふらしてはならないということだったのです。どういうことかと言うと、先ほども申しましたように、メシアという言葉には、ユダヤ民族を他民族支配から解放し王国を復興させるダビデ系の王という意味がありました。もし人々がイエス様をそういうメシアだと理解してしまったら、どうなるか?イエス様は、本当は神の救いをユダヤ人であるなしにかかわらず全世界の人々に及ぼすためにこの世に送られた。それなのに一民族の解放者に祭り上げられてしまったら、それは神の人類救済計画の矮小化です。それだけではありません。占領者のローマ帝国は王国復興を企てる反乱者には神経をとがらせていました。もしガリラヤ地方で反乱鎮圧のため軍隊出動という事態になっていれば、エルサレムで受難と復活の任務を遂行するというイエス様の予定に支障をきたすことになったでしょう。

 ペトロのメシア理解にもおそらく一民族の解放者のイメージが強くあったと思われます。それで、イエス様が宗教指導層に迫害されて無残にも殺されるという預言を聞いた時、王国復興の夢を打ち砕かれた思いがして、そんなことはあってはならないと否定してしまったのだと思います。

 それにしても、預言を否定したペテロに「サタン、悪魔」と言って叱責するのは、いくらなんでも強すぎはしないか?しかし、神の救いを全世界の人々に及ぼすために十字架の死を通って死からの復活を実現しなければならない。そのためにこの世に送られた以上は、それを否定したり阻止したりするのは、まさに神の計画を邪魔することになる。神の計画を邪魔するというのは悪魔が一番目指すところです。それで、計画を認めないということは、悪魔に加担することと同然になってしまいます。これが、イエス様の強い叱責の理由です。ここで、この神の計画というものを少しおさらいする必要があります。

キリスト教信仰では、人間は誰もが神に造られた被造物であるということを一番の大前提にしています。この大前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまった、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために人間は死ぬ存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ623節)。このように人間が死ぬということが、造り主である神との関係が壊れているということの現れなのです。

このため神は、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしてあげようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間からその罪と不従順を除去しなければならない。しかし、それは不可能なことでした。三週間前の主日の福音書の箇所はマルコ7章の初めの部分でした。そこでの問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまったか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、人間を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき罪の呪いをひとり子に背負わせて、罪からくる罰を彼に叩きつけて十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦す、というものです。そこで人間は誰でも、このひとり子を犠牲に用いて行った神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける。そうするとことで人間は、この「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。人間は洗礼を受けることで、不従順と罪を持ったままイエス様の神聖さを純白な衣のように頭から被せられます。こうしてイエス様を救い主と信じる者は神の目に義(よし)とされて神との結びつきが回復して、それからは順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと良い導きを受けて生きられるようになり、万が一この世から死んだ時も、その時は御許に引き上げられて、永遠に自分の造り主である神のもとに戻ることができるようになったのです。

 さて、イエス様の弟子たちは、イエス様にユダヤ民族解放の夢を託していました。大勢の支持者を従えてエルサレムに入城し、天から降る天使の軍勢の力を得てローマ帝国軍とそれに取り入る傀儡政権を打ち倒して、永遠に続くダビデの王国を再興し、全世界の諸国民に号令する - そういう壮大なシナリオを思い描いていました。ところが、「迫害されて殺されて三日目に復活する」などと聞かされて、何のことかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、全てのことが起きた後で、それこそが本当に全人類の歴史にとって大きな転換点になったとわかったのであります。

3.

以上マルコ827節から33節までをみてきました。神の人間救済計画の全容が明らかになったと思います。この計画の実現のために神はイエス様をこの世に送ったのですが、人々は自分たちの民族的悲願のため、神の計画のスケールの大きさが理解できませんでした。全てのことがわかるのには、十字架と復活の出来事を待たねばならなかったのです。

神の人間救済計画についてわかったところで、マルコ834節から38節を見るとその内容もよくわかってきます。

 それでは、イエス様が、つき従う者つまり私たちキリスト信仰者に対して背負いなさいと言っている十字架とは何か?そして、命を救う、失う、と言っていることは何か?それらについてみてみましょう。

 まず、私たちの背負う十字架ですが、これは、イエス様が背負ったものと同じものでないことは明らかです。神のひとり子が神聖な犠牲となって全人類の罪と不従順を全部請け負って、罪から来る神の罰を全て引き受けて、人間の救いを実現した以上、私たちはそれと同じことをする必要はないし、そもそも神のひとり子でもない私たちにできるわけがありません。

 それでは、私たちが各自背負うべき十字架とは何でしょうか?自分を捨てるとはどんなことなのでしょうか?ルターは、キリスト信仰者というのは自分の内に、神の霊に結びつく新しい人を植えつけられた者だと教えます。それでキリスト信仰者の人生は、この神の霊に結びつく新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせていくことになるのだと教えます。古い人を死なせるというのはどぎつい言葉ですが、これはそんなに物騒なことではありません。ルターが言わんとするところは、まず、自分の肉に古い人がいることを認めて、それが神の意志に反して生きるようにと自分をたえずそそのかすことを忌み嫌うこと。忌み嫌っているのに神の意思に反するようにと引っ張る力が働くのも現実にある。しかし、それにもかかわらず神はイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに私を罰するかわりに赦して下さる、その赦しを神から受け取ること。これが古い人を死なせ、新しい人を育てることなのです。神の赦しという重石をのせられて、古い人は日々押し潰されていくのであります。

そういうわけで、「自分を捨てる」というのは、肉に結びついた古い人を死なせていこう、神の霊に結びついた新しい人を育てていこう、そういう生き方を始めることです。それはまさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで始まります。「自分を捨てる」と言うと、なにか自分で自分を律するようにして無私無欲の立派な人間を目指すように聞こえますが、そうではありません。また、自分自身を放棄することでもありません。そうではなくて、神が与える赦しの恩恵に包まれて、もっともっと包まれようと赦しに次ぐ赦しを受けて自分が新しくされていく、そのことに身も心も委ねてしまうことです。古い人が衰えれば衰えるほど、新しい人が育っていくということです。

そういうわけで、私たちがそれぞれ背負う十字架も、洗礼を受けた時に始まる新しい人と古い人との間の内的な戦いということになります。戦いの現れ方は、それぞれ人が置かれた状況によって違います。例えば職場や家庭などの具体的な人間関係の中で、死なせるべき古い人の特徴がはっきり出てくるかもしれません。自分より良い境遇の人を妬むことで古い人が強まるかもしれません。あるいはキリスト信仰の故に、誤解を受けたり仲間外れになったりすると、イエス様を唯一の救い主と信じることが揺らいでしまって、新しい人の育ちが後退するかもしれません。このように背負う十字架は、それぞれ見た目は違っても、新しい人と古い人の間の戦いを戦うという点では内容はみな同じです。

 さてここで、命を救うこと、失うことについて見ていきましょう(注)。36節でイエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言います。ここの「命を失ったら」の動詞「失う」(ζημιοω)と、前の35節で二度「命を失う」と言っている動詞「失う」(απολλυμι)ですが、原語のギリシャ語ではそれぞれ違う言葉を使っています。36節の動詞の正確な意味は「傷がついている」とか「欠陥がある」です。そのため、この動詞を「失う」と訳してはいけないと注意する辞書もあるくらいです。そうなると35節と36節はどう理解したらよいでしょうか?

先ほど、「自分を捨てること」と「各自自分の十字架を背負うこと」というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて古い人と新しい人との内的な戦いを始めることであると申しました。この見方に立つと、35節と36節で命を救うとか失うとか言っているのは、実は、この内的な戦いを戦いながら神のもとに戻る道を歩んでいるかいないかを意味することが明らかになってきます。以下、35節から先を整理してみます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」これは、解説的に言い換えるとこうなります。「イエスを救い主と信じず古い人の言いなりのままにいて新しい人を植えて育てようとしない者は、永遠の命を望んでも、それを得られない。なぜなら、自分の造り主である神のもとに戻る道を歩んでいないからだ。しかし、イエスを救い主と信じて内的な戦いを始めた者は、たとえその信仰が原因で命を失うことがあっても馬鹿を見たことにはならない。その者は永遠の命を得る。なぜなら神のもとに戻る道を歩んでいるからだ。」

36節と37節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」これも次のように言い換えることができます。「イエス様を救い主と信じず古い人の言いなりになって生きていて神のもとに戻る道を歩んでいない者は、命に傷がついているのである。そのような者が全世界を手に入れても何の得があろうか?全世界を支配して莫大な財産を有していても、そうしたものでは永遠の命を買い取ることはできないのだ。」

詩篇4989節をみると、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」と言われています。まさにその通りです。保証書がなくて壊れた冷蔵庫だったら自費で直したり買い換えたりできます。しかし命の場合は、失ってしまったら、全世界の資産の合計を差し出しても、元に戻らないし、新しい永遠の命にも変えることができません。ところが、人間にこの代価、身代金を支払って下さった方がおられるのです!イエス・キリストという神のひとり子が私たちの犠牲の生け贄となって十字架の上で血みどろになって流した血が全世界の総資産にも勝る代価、身代金となったのです。それをもって、人間を罪の支配力から解放し、本来の造り主である神のもとに買い戻して下さったのです。私たち一人一人は、神の目から見てそれくらい高価なものなのです。

さらに神は一度死んだイエス様を復活させることで、今度は永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそこを歩むようになったのです。福音というのは、神がイエス様を用いて実現した人間の救いを伝える良い知らせを意味しますが、それは真に人間にとって命の永久保証書です。冷蔵庫の保証書はポイントを使って5年に延ばすことができましたが、こちらの方は、神のひとり子が高価な代価を払ってくれて、無限に延ばすことができました。どれだけ得をしたか考えただけで、兄弟姉妹の皆さん、気が遠くなりませんか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン


(注 35節から37節まで、命、命と繰り返して出てきますが、これは「生きること」、「寿命」を意味するζωηツオーエーという言葉でなく、全部ψυχηプシュケーという少し厄介な言葉です。これは、生きることの土台・根底にあるものというか、生きる力そのものを意味する言葉で、「生命」、「命」そのものです。よく「魂」とも訳されますが、ここでは「命」でよいかと思います。