2022年11月28日月曜日

キリスト信仰者よ、新しい光の世を先取りしてこの世を歩もう (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士) 


主日礼拝説教2022年11月27日 待降節第一主日

スオミ教会

 

イザヤ書2章1-5節

ローマの信徒への手紙13章11-14節

マタイによる福音書24章36-44節

 

説教題 「キリスト信仰者よ、新しい光の世を先取りしてこの世を歩もう」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と罪の赦しの恵みの中に留まられますように。

 

 今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。その日の福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

 

 その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、イエス様の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うのです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。

 

 さて、スオミ教会のホサナですが、北欧の国と同じようにしたかったのですが、2年前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年と一昨年はルカ21章とマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。そういう話は聖霊降臨後の終わりの頃に相応しいと思うのですが、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならないというのは少し気が重いです。しかし、それでも今日の聖書の箇所はイエス様の再臨にどう備えるかという内容なので、それはそれで主を迎えることに関係することと思い、日本の日課に従うことにしました。

 

2.イザヤ215

 

 最初に旧約の日課イザヤ書2章を見ていきます。これは、この世の終わりの時に何が起こるかについての預言です。主なる神の神殿のある山が地上のあらゆる山の中で一番高くそびえて、他の山々は揺り動かされてしまうが、主の山だけは揺るがない。そこを目指して諸民族が大河のようにやってくる。彼らは次のように言う。「主の山に上り、ヤコブの神が住まわる神殿に行こう。神は私たちが神の意思に従って生きられるように私たちを教えられる。なぜなら神の掟はシオンから、神の御言葉はエルサレムから出てくるのだから。」そう諸民族は述べてやって来る。一つ余計なことですが、新共同訳では、諸民族が言う言葉は、私たちはその道を歩もう、までです。しかし、正しくは「なぜなら、主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」までです。接続詞「なぜなら」が抜け落ちているので付けてあげて、カギかっこを後ろに移動します。

 

 諸民族がそう言いながら天地創造の神のもとにやって来る時、神は裁きを行う。諸民族の間に正義を打ち立てるが、多くの者は裁かれるという書き方です。諸民族が持っていた武器は農具に変えられ、もうお互いに対する武力行使はなく戦について学ぶこともない、そういう時が来る、だからヤコブの家の者である我々は主の光の中を歩もうではないか。そういうことが述べられています。

 

 さて、この世の終わりに世界の諸民族がエルサレムに上って行くとか、主の掟と御言葉はシオンやエルサレムから出るとか言うのを聞くと、本当に諸民族が一斉にあの中東の地に向かって飛行機か何かに乗って行くのだろうかと疑わしくなります。ヤコブの家などと言うと、ユダヤ民族のことを言っているように聞こえます。しかし、そうではありません。黙示録を見ればわかる通り、今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される日に現れるエルサレムとは、今の世界地図にあるイスラエル国の都市ではなく、天上のエルサレムのことです。天地創造の神から義と認められた人たちが迎え入れられるところです。そこに向かう諸民族の大移動ももうこの世の移動手段によらない、何か霊的な移動です。ヤコブの家というのは狭く考えればユダヤ民族ですが、新約聖書の観点から見ると、イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた者の集合体です。血筋上のユダヤ民族ではなく、信仰によって神の民の一員とされた者たちです。

 

 また、ここでは裁きのことが言われているので最後の審判があります。最後の審判では旧い世で損なわれたり中途半端になってしまった正義が回復して完全なものになります。イザヤ2章はそのことについて、個人レベルの正義ではなく民族や国レベルの正義について言っています。かつて旧い世では、正義の実現のため、などと言って振りかざしていたあらゆる武器が新しい世で農具に変えられます。武器なんかでは正義は実現しない、農具の方が正義に相応しいということです。農具に変えるというのは、新しい天と地の世で農耕文明が始まるということではなく、武器を作るくらいの暇と力があるのなら最初から農具にしていれば旧い世はパラダイスになったのに、そうしなかったのは実に愚かなことだったと思い知らせるシンボル的な意味があります。

 

 そういうふうに考えると、人間はどうしてそうすることが出来ないのか?今の世界情勢を見るにつけ嘆かわしくなります。ひょっとしたら、今の戦争を機に人類は武力に凝りて軍縮を一生懸命にやるようになるだろうか?その時、武器に費やした巨額のお金を気候変動や貧困や疫病の対策に向けられるようになるだろうか?どうでしょうか?そんなのユートピアすぎて非現実的だ、と言ってしまったら、もう無理だとあきらめることになります。聖書が言うように、新しい天と地の再創造の後にそうなることを信じ期待して、今はもうなるようになれと落ちるところまで落ちるしかないのか?

 

 聖書が今の世に対してそういう投げやりな態度の書物でないことは5節の言葉から明らかです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」「ヤコブの家」とは、神から義と認められた人たちを意味します。まさに「神の民」です。神に義と認められた人たちとは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちです。ひょっとしたら、全人類が心を入れ替えて一致団結して叡智を働かせて戦争や気候変動をストップさせることができるかもしれない。もちろんそうなることにこしたことはありません。しかし、たとえそうなっても、今の天と地がいつか終わって新しい天と地に再創造されて最後の審判を経て神の御国への迎え入れがあることに変更はありません。逆に、人間が頑張っても危機を解決できない場合でも天地の再創造と神の御国への迎え入れは起こります。危機の回避か突入か、どっちを経由しても再創造と迎え入れに至るわけです。それでどっちになるにしても、今は主の光の中を歩まないといけないのです。既にイエス様を救い主と信じている人はこの光の中に留まって歩むこと。光を失わないようにすること。まだその光の中に入っていない人はこれから入るようにするということです。それでは、主の光の中を歩むとは具体的にはどういうことでしょうか?それが、今日の使徒書と福音書の日課で明らかにされています。

 

3.ローマ131114

 

 この個所は天地の再創造と最後の審判の時に起こる復活に向けての心構えを教えています。それが、主の光の中を歩むとはどういうことかを明らかにします。まず、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言います。「覚めるべき」と言うと、今寝ぼけた生き方から目を覚ませ!と言っているように聞こえます。しかしパウロが第一コリント15章で言っているように、復活とはこの世から死んだあと眠りにつき、そこから起こされることです。それなので、ここはこの世で寝ぼけた生き方をやめよという命令ではなく、もうすぐ眠りから目覚めさせる時、すなわち復活の日が来るという必然について言っているのです。

 

 次に、「今、救いが近づいた。あなたたちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時よりも近づいた」というのは当たり前のことです。時間が経過したのですから。キリスト信仰には今の天と地が新しい天と地に取って代わられる日が来るという終末論と新生論があり、その日がいつかは神しか知らないが、とにかくその日は来る、だから、私たちが一年一年過ごしていく度にその時に近づいていることになります。パウロが言う「救い」とはローマ823節で言っていた「体の解放」、つまり今纏っている肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられることです。このように、パウロはここで復活の日が近いことを言っているのです。パウロはその期待が強かったようです。しかし、実際はどうだったでしょうか?パウロがこの世を去って2000年近く経ちましたが、同じ天と地はまだ続いています。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは今の世は続くと言っていました。当時の人たちにとって世界は地中海とその周りが全てでしたから世界は今より小さく見られていました。しかし、いまだ福音が宣べ伝えられていなかったり自分の言語で聖書を読めない民族は世界に多く残っているので、今の世の終わりは当分まだなのでしょう。

 

 「夜は更け、日は近づいた」というのも同じ考えです。今のこの世の有り様が夜の暗闇に例えられています。日と言うのは新しい世のことです。今の世の有り様が終わりに近づいている、復活を経た新しい世の到来が近いということです。そのように今はまだ夜で暗いが、夜が終わって夜明けが来るのと同じように復活と新しい世も来る。それで、もうすぐ光の中を歩むことになるのだから、今はもうすぐ終わる暗闇に従うことを止めて、暗闇の力に対抗できる光の武具を身につけよ、とパウロは喚起します。光の武具を身に着けるとはどういうことか、パウロはそれを説明します。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」「品位をもって」というのは、すぐ後に酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみというものが言われるので、それらの対極として品行方正の意味に訳にしたと思います。もちろん、酒宴、酩酊、淫乱や好色は日中よりは暗い夜に行うことが多いと思います。しかし、ここで日中と言うのはあくまで暗闇の今の世に対する光の新しい世のことを意味します。それなのでここのパウロの意図は、新しい世はまだ来ていないが、今は既にその中にいるがごとく、そういう者として歩もうということです。光の新しい世はまだであるが、キリスト信仰者はもう一足早くその光の世にいるがごとく、今はこのもうすぐ終わる暗闇の世を生きなさい、ということです。それが光の武具を身に着けるということになります。一足早く光の世にいるようにして光の武具を身に着けるとはどういうことか?二つの大事なことがあります。一つは隣人愛で愛すること、もう一つは罪に反対して生きることです。その二つについてみてみます。

 

 まず、隣人愛で愛することについてですが、実はそれについて今日の個所の直前で言われています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいと言う言葉に要約されます(139節)」等々。パウロは今の世がもうすぐ終わることを次の所で言う前に、隣人愛で愛せよと命じるのです。さて皆さん、今の世がもうすぐ終わるということをわかった上で本当に隣人愛で愛することができるでしょうか?どうせ世界が終わるのに無意味なことを言っていると思う人もいるかもしれません。もし自分の命があと少ししかないと前もって分かったら、取り乱したり無力感に陥ったり自暴自棄になるかもしれません。しかし、人生の最後を人のために尽くそうという心も生まれることもあります。黒澤明の古い映画「生きる」の主人公がその例です。余命僅かと告げられた主人公は最初は快楽に走りますが、最後は人のために尽くそうと必死になりました。死を目前にした者が自分の生き方が無意味にならない、意味のある生きた方になることを他人のために尽くすこと他人が喜ぶ顔を見ることで見出したと言ってもよいでしょう。

 

 パウロの隣人愛で愛せよという教えはどうでしょうか?「生きる」の主人公のように、この地上での残された時間を意味のある生き方をするのだ、そのために隣人愛で愛するのだということでしょうか?そういう面もあるかもしれませんが、キリスト信仰の場合は、映画の主人公と違って、地上の残された時間の先を見ています。光の新しい世では愛と正義が完全なものになっている。それらを損なったり汚すものはもう存在しない。自分はイエス様のおかげでそこに迎え入れられて完全な愛と正義に包まれて生きることになるのだから、今はあたかも既に迎え入れられた者のようにこの世で立ち振る舞おう、新しい光の世を先取りした者としてこの世を生きよう、パウロが言っていることはそういうことです。黒澤明の映画はこの世を超えたことはないので人間中心主義です。文字通りヒューマニズムです。キリスト信仰の場合はこの世を超えたことを視野に入れています。何主義と言ったらよいでしょうか?皆さん、何か言葉を考えて下さい。

 

 光の武具のもう一つ大事なことは、罪の自覚を持ち罪を告白し罪の赦しを受ける生き方をすることです。パウロは14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。これは、洗礼の時にイエス様を白い汚れない衣のように頭から被さられて、神からはさも罪の汚れがない者のように見なされることを象徴して言っています。既に洗礼を受けてこの神聖な衣を身に纏った人はそれを手放さないようにしなさい、まだ纏っていない人は暗闇の世が終わるまでに早く纏いなさいということです。

 

 イエス様という汚れのない衣を被されたとは言っても、私たちの内には神の意志に反する罪がまだ残っています。それなので、洗礼の後はこの衣の神聖な重みで罪を圧し潰していく生き方が始まります。どういうことかと言うと、罪の自覚が起きるたびに神のみ前で罪を告白して(神のみ前です、人間の前ではありません)、聖霊からゴルゴタの十字架を心の目に映し出してもらって、罪の赦しが揺るがずにあることを確認して罪の赦しの中に留まることです。その時、父なるみ神は言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることは分かっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦された。これからは注意しなさい」と。この時キリスト信仰者は襟を正し、畏れ多い気持ちと感謝に満たされて日常生活に戻ります。このような罪の自覚と告白と赦しはこの世を去る時まで繰り返されますが、神はこれを罪に与さずに生きた証、罪に反抗して生きた証、罪を圧し潰す生き方をした証しと認めて下さいます。そして復活を果たした後はこの繰り返しはもうありません。罪がなくなっているからです。

 

4.マタイ243644

 

 ここでは、イエス様の再臨のことが述べられています。イエス様の再臨というのは天地の再創造と最後の審判と復活にくっついている出来事です。イエス様は、キリスト信仰者はその時に備えて目を覚ましていなければならない、準備が出来ていなければならないと言います。ノアの洪水のことが例として言われます。ノアは目を覚まして準備が出来ていた人の例です。目を覚まして準備をしていれば、箱舟に入って洪水から守られたように守られて神の御国に迎え入れられると言うのです。反対に目を覚ましておらず準備もしていないと悲劇的なことになると。

 畑にいる二人の男と臼を引く二人の女の話は分かりにくいと思います。これは、神の国に迎え入れられるというのは選別があるということ、みんながみんな天国に行けてハッピーになるわけではない、なぜなら最後の審判があるということを意味しています。二人のうち一人というのは、50%の確率と言っているのではなく、迎え入れられる者と入れられない者の二つに分かれるということです。もう一つ気を付けなければならないことがあります。畑にいる二人の男の人も臼を引く二人の女の人も両方とも同じ仕事をしています。外側から見たらみんな同じ仕事をしていて一体何の違いがあって何の落ち度、デメリットがあって、一人は迎え入れられて、一人は迎え入れられないのかわかりません。これは、神は、人間の目で外から見て気がつかないこと、見えないことを全てご存じであるということを意味しています。神は造り主で私たちの髪の毛の数まで把握しておられる方ですから、私たちの行いや言葉について人には知られないこと、心の中のことまでご存じです。

 

 そこまで言われると、自分は神のみ前ではもうだめかと思ってしまいます。しかし、さっき言ったことを思い出しましょう。罪の自覚と告白と罪の赦しの繰り返しに生き、神の罪の赦しのお恵みの中に留まり、被されたイエス様の衣を手放さないように歩んでいれば何も心配ないのです。それが目を覚ましていること準備していることになります。泥棒に入られないように起きているというのも、泥棒とは罪のことです。自覚と告白と赦しがあれば、罪に支配されることはありません。イエス様の衣をしっかり握りしめれば握りしめるほど、罪は圧し潰されて行きます。

 

 以上、キリスト信仰者は新しい光の世を先取りして、このもうすぐ終わる暗闇の世を進んでいけることについてお話ししました。先ほどの映画「生きる」の主人公についてもう一つ述べておくことがあります。それは、主人公が快楽から人のために尽くそうとする転機になったことについてです。彼の職場を辞めて別の仕事に就いた若い女性がとても活き活きして仕事をしているのを目撃して、自分もあのように輝きたいと思ったことが転機でした。キリスト信仰は輝きを与える信仰です。その輝きは、新しい光の世の輝きであり神の栄光の輝きです。復活の日に自分もその輝きを映し出す復活の体を与えられて神のもとに迎え入れられます。キリスト信仰者は私自身も含めてですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって新しい光の世を先取りしていることにもっと気づくべきだと思います。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年11月22日火曜日

イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の信仰 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年11月20聖霊降臨後最終主日)スオミ教会

 

エレミヤ書23章1-6節

コロサイの信徒への手紙1章11-20節

ルカによる福音書23章33-43節

 

説教題 「イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の信仰」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.メシアと神の国

 

 本日の福音書の個所はイエス様が十字架にかけられた場面です。イエス様の両側に犯罪人が二人、一人は右側に、もう一人は左側に十字架にかけられました。三人とも五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。後は息を引き取るのを待つだけです。真に残酷な場面です。

 

 犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。イエス様の十字架の上には「この男はユダヤ人の王」という札が掲げられていました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていたローマ帝国の官憲にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとこうなるぞ、という具合に。

 

 このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られていたのです。ところが当時、このような民族解放と王国復興の期待について少し異なる期待の仕方もありました。どんな期待の仕方かと言うと、復興される王国というのは、民族自決国家というようなこの世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わって新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。それは、この地上の有り様を飛び越え新しい有り様の世のことです。さて、地上の国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代のユダヤ民族にはこの世的でない超越的な王国とメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない数多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国が地上の国ではなく将来の新しい有り様の世であることをはっきりさせたのです。

 

 イエス様を罵った犯罪人は、イエス様のことを地上の王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったと思われます。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのでしょう。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様の方は「あなたの御国」、つまりイエス様が王である国にイエス様が入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上の国ではない、今の世を超えたところにある国であり、イエス様はその王であると信じたのです。つまり犯罪人は超越的な国とメシアの存在を信じたのです。

 

 それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかという疑問が起きます。なんだか苦しみを和らげるための気休め言葉か、イエス様みたいに権威のある方が言えば、苦しみの中にあっても耐えられるありがたい励まし言葉ということなのか?そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園にいることになる、と言っているのです。息を引き取ってこの世から別れたら一緒に楽園にいることになる、ということです。

 

 そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあって、神以外誰も知らない将来の時、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、イエス様の再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?そういうプロセスを経て天の御国に入ることが出来るのではなかったのか?今日中に楽園にいることになると言ってしまったら、プロセスはなくなってしまうのではないか?

 

 この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚ませられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。それなので、イエス様が今日中に楽園にいることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので間違いではありません。

 

2.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言

 

 イエス様に「私のことを思い出して下さい」という犯罪人の言葉ですが、これはよく目を見開いて何度も読んでみると、これはキリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白それに信仰者が受け取る罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。

 

 最初の犯罪人がイエス様を罵った時、彼は諫めて言いました。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。」この訳は不十分です。ギリシャ語原文を忠実に見るとこうなります。お前がこの方と同じ罰を受けているからという理由で、この方をお前と同等に扱うようなことを言うなんて、お前はなんと大それたことを言うのか、お前は神を恐れないのか、という意味です。ユダヤ教社会の指導者たちもローマ帝国の兵士たちも、イエス様に対して「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と繰り返し言っていました。この犯罪人はイエス様に対して「自分を救ってみろ」だけではなく、「自分と俺たちを救ってみろ」と、自分たちのことも入れたのです。

 

 これに対してもう一人は、それは間違っている、神を冒涜することになると否定したのです。なぜなら、自分たちは犯罪を犯して刑罰を受けて当然の報いを受けている、しかし、イエス様の場合は何も悪いことをしていないのに自分たちと同じ刑罰を受けている、だから同等に扱うのは間違っているというのです。そして、その犯罪人は、イエス様がこの世の王国を超えた新しい世の王であると信じています。別の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世の王国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、こっちの犯罪人は、イエス様は新しい世の王でもうすぐそこに入ることになると信じています。イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われている。イエス様のことを自分たちのように本当に犯罪を犯して罰を受けている者と同等に扱うのは神を冒涜することになる、と。

 

 この犯罪人にはイエス様が王として新しい世の国に入ることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこのような言葉をかけて下さる方がおられるというのは何と勇気づけられることでしょうか!

 

 この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。方や犯罪人、方やキリスト信仰者、果たして同じと言えるのか?疑問を抱く方がおられるかもしれません。同じだとわかるために、ここで少し罪と罰の問題を考えてみます。キリスト教は罪を赦すと言っているから、犯罪を犯しても罰を与えないということなのか?それでは犯しても構わないということにならないか?などと聞く人がいます。そういうことではありません。神は十戒で殺すな、盗むな、等々と命じています。それらは神の意志なのでやってはいけないこと、許されないことなのです。やったら神の意志に反したので罰せられることなのです。

 

 社会の法律が罪や罰について規定する時、それは人間が人間に対して行った罪についてです。人を傷つけたら、それは人間に対して罪を犯したことになり、法律が想定している社会の安定を損ねたことになります。それに対して賠償なり刑罰が課せられます。課せられる賠償や刑罰の大きさは社会によって異なり、何が妥当かについて議論は絶えず起こります。キリスト信仰の場合、罪は人間に対して犯したというだけでなく、人間に対して犯したことを通して神に対して犯したということが出てきます。神に対する罪の罰は神罰です。神罰とは、人間が造り主である神と切り離された状態でこの世を生きなければならないということです。そして、この世から別れた後は切り離された状態が永遠のものになってしまうということです。

 

 社会の罪と罰とキリスト信仰の罪と罰の違いについて、神に対する罪ということの他にもう一つ重要なことがあります。それは、殺すな、姦淫するな、盗むな、等々の神の掟は、行動だけでなく心の中でも破ったら、同様に神に対して罪を犯したことになり神罰の対象になるということです。法律の規定だけでしたら、人間に対する罪は行動や言葉で現れるものが罰の対象になります。キリスト信仰の場合は心の中で神の意志に反するものを抱いたら、それでもう神罰の対象になるのです。人間は心の中まで見通せないので法律をもってしても心の中にあるものを罰することはできません。キリスト信仰では神は人間を造られた方なので心の中も全てお見通しです。神の意志に反することが心の中にあれば、それも罪になり神罰の対象になるのです。

 

 しかし、人間が神罰を受けることは神の御心ではありませんでした。神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげたい、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげたいと思いました。それを可能にするためにひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、人間のために永遠の命に至る道を開かれたのです。

 

 そこで人間が、これらのことは本当に起こったことだ、それでイエス様は自分の救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きていくことになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままなので、復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。

 

 ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中に神の意志に反するものがいつも渦巻いています。それに気づいた時、キリスト信仰者は失望したり不安に陥った時には絶望しそうになります。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の壮大な計画によってあの十字架が歴史上に打ち立てられた以上は、あの方は自分の救い主であり続け、神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もう失望や不安や絶望に浸る必要はないのです。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世の道を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味しています。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、神の罪の赦しのお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。

 

3.神の祈りの学校

 

 本日の福音書の個所は、犯罪人が息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けたという出来事です。それに関連して、ある方が言われたことを思い出しました。その方はキリスト信仰者ではないのですが、ミッション系の学校に通ったことがあり、聖書のこともよくご存じの方でした。ある日、その方に洗礼を受ける考えがあるか尋ねたところ、自分は死ぬ寸前にイエス様助けてと言うからそれで十分、今は縛られないで生きていたいということでした。確かに、本日の福音書の個所の犯罪人の例があるので、最後の瞬間の前にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性も否定できません。しかし、ここには考えなければならないことが二つあります。

 

 まず、洗礼を受けると聖霊が授けられるということがあります。少し別の言い方をすると、洗礼によって聖霊が常駐するようになるということです。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけですと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけですと、イエス様のことを、自分がこの世と次に到来する世の双方の世を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の立場です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。

 

 もう一つ問題点があります。それは、「神の祈りの学校」の生徒としての研修期間がなくなってしまうということです。「祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間で口にされる言葉の一つです。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならずに失望や挫折もあるかもしれない、しかし、そういうことを通しても神は人間の願いよりも大きなことを教え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。研修期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば本当に何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2022年11月14日月曜日

我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにあり (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年10月30日(聖霊降臨後第21主日)スオミ教会

 

イザヤ書1章10-18節

テサロニケの信徒への第二の手紙1章1-4、11-12節

ルカによる福音書19章1-10節

 

説教題 「我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにあり」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課は徴税人ザアカイについての話です。徴税人についての話は先週もありました。エルサレムの神殿で徴税人が神に罪を告白する祈りをしたという話です。ただそれは、イエス様のたとえの教えだったので架空の人物でした。今日の話は、イエス様がエルサレムに向かう途上で通りかかったエリコという町で実際に起こった出来事です。架空の話と実際に起こった話といういう違いはありますが、本日の話は先週の話と繋がっています。

 

 どう繋がっているかと言うと、イエス様は先週のたとえで、神に義とされる者、つまり神に相応しいとされる者は、自分が罪深い人間であることを認めて神に憐れみと赦しを心から祈れる者であると教えました。そこでイエス様は、神の掟をちゃんと守って神に相応しい者になれるというやり方を否定したのです。果たして、人間は神に自分の罪を告白して赦しを乞う祈りで神に相応しいとされるのか?その通りであることを私たちにわからせるためにイエス様は十字架と復活の業を成し遂げられたのです。それで、十字架と復活の出来事の後は、人間は十字架にかけられたイエス様を心の目で見ることができれば罪が赦されて神に相応しいと認めてもらえるようになったのです。そうなるために私たちは神のみ前で自分が罪ある者であると認めて赦しを祈らなければならないのです。それなので、神に相応しいと認めてもらう際には掟を守ることには意味がないのです。意味があるのはイエス様の十字架と復活の業とそれを人間が受け入れることなのです。そういうわけで先週のイエス様の教えは、十字架と復活の出来事の後の正しい祈り方を前もって教えるものだったのです。

 

 本日の個所は、イエス様のおかげで神に相応しいと認められたら、続いて何が起きるかということを示しています。何が起きるかと言うと、神の意志に沿うように生きようという心が生まれるということです。今日はこのことを見ていきます。最初に注意すべきことを述べておきます。イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言っているところです。二つのことに注意します。一つは「救い」とは何かということです。普通、病気とか何か困難や苦難が解決したり解消したりすると「救われた」と言います。ところがキリスト信仰では、「救い」はこの世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生きられることです。また、この世の人生を終えた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御許に迎え入れられることでもあります。それで今はそこに至る道を神との結びつきを持って歩めることが「救われている」ことになるのです。道の歩みの上で病気になったりいろんな困難や苦難に遭遇します。しかし、なかなか解決が得られなくても、神との結びつきを持てて復活を目指して歩んでいる限りはキリスト信仰者は「救い」がなくなったなどと考えません。「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我と共に在せばなり」という詩篇23篇の心意気でいるのがキリスト信仰者です。

 

 もう一つの注意事項は、イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言ったのは一見すると、ザアカイが財産を貧しい人に施します、だましとったお金は4倍にして返しますなどと改心したことに対するご褒美として言ったように聞こえます。それで、救いは善行の見返りとして与えられるという見方が生まれると思います。ところが、全然そうではないのです。先週も見たように、イエス様は掟を守ったり何か良いことをして神に相応しいと認めてもらうやり方を否定しました。今日の出来事もその延長線上にあります。このことがわかるためには、この個所を先週の個所とあわせて何度も何度も読み返さないとわかりません。一回読んでわかったような気分でいると、イエス様が本当に教えようとしていることと反対の理解になってしまいます。

 

2.葛藤する徴税人たち

 

 神に相応しいと認められたら、今度は神の意志に沿うように生きようとする心が生まれるということを、これから本日の個所をもとに見ていきます。その前に、徴税人について先週お話ししたことを少し復習しておきます。徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人たちです。彼らは決められた徴収額以上に取り立てて私腹を肥やすような人たちでした。それなので、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人は同胞の裏切り者とみなされて憎まれていました。

 

 そうした一方で、福音書に登場する徴税人たちは貪欲で悪質なタイプとは少し様子が違うことにも気づかされます。ルカ3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが神の裁きの日が近いことを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。先週の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらも、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。この他にも、マルコ2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

 

 以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければといういう気運があったことが読み取れます。本日のザアカイも、イエス様に並々ならぬ関心があったことからすると、洗礼者ヨハネの宣べ伝えが影響を及ぼしていたと考えられます。ヨハネは、もうすぐ神の裁きの日が来る、誰も逃れられない、だから神に背を向けて生きる生き方をやめて神に立ち返る生き方をしなさいと宣べ伝えました。同時に、自分の後に偉大な方が来られるとも宣べました。それがイエス様でした。イエス様は奇跡の業をもって来るべき神の国の実在を示し、自分が罪の赦しの権限を持つことを示されました。その時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前でしたが、神の裁きを心配した人たちにとってイエス様は救いの道を示して下さる希望の光に映ったでしょう。

 

3.ザアカイ、イエス様を受け入れる

 

 イエス様が弟子たちと大勢の支持者たちを従えてエリコの町に入ってきました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かった上に群衆に遮られて見ることができません。それで先回りして木に登り、上から見ることにしました。そこをイエス様一行が通りかかります。イエス様はザアカイに気づいて彼を名前で呼びます。さすが神のひとり子です、まだ会ったことのない人の名前をご存じでした。ということは、ザアカイがどんな素性の者かもご存じだったでしょう。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」当時は一緒に食事するというのはとても強いきずながあることを意味しました。それで、「なんであんな罪びとの家に?」と言う周囲の不満や失望は理解できます。

 

 ここから先ですが、一回読むと、ザアカイが財産を分け与えますとか言うところは、まだいちじく桑の木の下でのやり取りのように見えます。しかし、よく目を凝らして何度も読むと、木から降りたザアカイは喜んでイエス様を迎えたので実際は家に連れて行ったのです。ギリシャ語原文を見ても、群衆はイエス様の滞在中ずっとぶつぶつ言っていたという書き方です。それなので8節の「ザアカイは立ち上がって」というのは、イエス様が家から出発する場面と考えられます。「立ち上がって」とありますが、ザアカイが座った状態から立ち上がったみたいですが、そうではありません。ギリシャ語の言葉は立っている状態でも使われる言葉なので「立ち上がる」と訳すのは誤りです。どんな日本語に直せるのかは少し難しいですが、感じとしては、これから喋る人にスポットライトを当てるような感じです。ここは「イエス様と向かい合って」という意味でしょう。

 

 以上から、ザアカイは、イエス様の呼びかけを聞いて木から降りて、イエス様を家に迎え入れて一緒に過ごす時を持ちました。そこでイエス様の人となりを見、その言葉を聞いたでしょう。どんな言葉であったかはルカ福音書には記されてはいないのでわかりません。しかし、大事なのはイエス様を受け入れて一緒の時を持った後で、財産の半分を貧しい人々に分け与える、だましとったものを4倍にして返すという決心をしたということです。その後でイエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。ザアカイの決心の背景には、イエス様を自分のもとに受け入れたことがあります。このことに気づくと、ザアカイはイエス様から救いを保証してもらうために決心したのではないことがわかります。それで今度は、ザアカイがイエス様を受け入れたことを少し詳しく見てみます。

 

4.神とイエス様の側の受け入れ

 

 ザアカイがイエス様を受け入れて家に招く前に、イエス様がザアカイを受け入れて家に招くようにと命じていました。つまり、イエス様が最初ザアカイを受け入れザアカイはそれに応じたのです。イエス様の受け入れを受け入れたのです。イエス様がザアカイを受け入れる前、ザアカイの方では特にイエス様に受け入れられるというつもりはなく、ただイエス様を一目見たいというだけでした。その時のザアカイは金には全く不自由しないという羽振りの良さでしたが、民族の裏切り者、罪びとの最たる者というレッテルをはられていました。金さえあれば、そんな不名誉は痛くもかゆくもないという態度だったと思います。そこに洗礼者ヨハネが現れて神の裁きと神への立ち返りということが公けに言われるようになりました。神の裁きが起これば、いくら金を積んでも何の役にも立たないこと位はザアカイにもわかったでしょう。実際、大勢の徴税人たちがヨハネのもとに行って洗礼を受け、徴税人を辞める者さえ出ていたのです。さあ、自分はどうしたら良いか?

 

 その時、このエリコの町にあのイエスがやって来ると聞きつけます。あの、洗礼者ヨハネが自分の後に来る偉大な方と言っておられた方、数多くの奇跡の業を行い、いつの日か到来する神の国について教え、また罪の赦しの権限を持つと自ら言われる方、その方が今来られるのだ。ザアカイが関心を抱くのは当然でしょう。ただ木の上から見ることができたらその後のことは何も考えていなかったでしょう。ところが、そのお方が彼に目を留め、名前で呼び彼の家に立ち寄りたいなどと言ったのです!イエス様は、心に葛藤を抱えていたザアカイを見つけて彼を呼びました。イエス様は心に葛藤を抱えていた彼、まだ善い行いをするに至っていない彼をそのまま受け入れたのです。ザアカイはその受け入れに応じたのです。その後でイエス様と共に過ごす時を持ち、その後で財産を捨てる決心をしたのです。全てはイエス様が悩む彼を受け入れたことから始まったのです。

 

 イエス様が悩む者を受け入れるとその人に新しい心が生まれるというのはキリスト信仰にそのまま当てはまります。もっと正確に言うと、イエス様が受け入れてくれたことに応じる、つまりイエス様の受け入れを受け入れることで新しい心が生まれるのです。まさにザアカイがその模範例となりました。先週もお教えしましたようにキリスト信仰では、神の掟を守ったり善い業を行ってそれで神に認められる、神に相応しいとされるという考え方をしません。人間には神の意志に反しようとする性向、罪があるので神の意思に完全に沿うことが出来ないのです。

 

 ではどうしたらよいのか?そのままでは人間は救われない状態に留まってしまいます。それを分かっていた神は、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はこのイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。私たちの造り主である神のもとに戻れる道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て神が自分のためになして下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。

 

 こうして人間は、イエス様が果たして下さったことと彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しいとされ、神との結びつきを持ってこの世を歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので逆境の時も順境の時と変わらない助けと良い導きを神から得られます。また、この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。このようなこの世と次に到来する世にまたがるような大きな救いを、ひとり子を犠牲にしてまで与えて下さった神に私たちはただただひれ伏して感謝し、これからは神の意思に沿うように生きようと志向し出します。その時、神の掟を守り善い業を行うことが当然のことになります。そこでは、掟を守ることや善い業を行うことは神に認めてもらうための手段ではなくなっています。こっちは何もしていないのに神に先回りされて先に認められてしまったので、その結果そうするのが当然という心になってするのです。

 

 このイエス様の十字架と復活の業が実は神が人間を受け入れる業だったのです。もし神が罪を持つ人間など絶対受け入れないという態度だったら、ひとり子を贈って十字架と復活の業を成し遂げさせることなどはしなかったでしょう。人間を受け入れるから贈ったのです。そしてその次に大事なのは人間がその神の受け入れに応じるかどうかです。神の受け入れを人間が受け入れるかどうかです。人間が神の受け入れに応じて受け入れるというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の受け入れを受け入れた者は、神との結びつきを持って復活の日に至る道を歩み始めます。初めにも申しましたように、本当に「死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我とともに在せばなり」になるので、もう安心と信頼しかないという感じになります。それで神の意志に沿うように生きるのが当然という心になります。

 

 ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉の体を纏って生きている以上は神の意志に反する罪をまだ持ち続けます。しかし、信仰者は神の受け入れを受け入れたので神から相応しい者とされます。ひとり子のイエス様のおかげでそのように見てもらえると思うと、畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで一杯になり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうなるとかえって神の意思に敏感になりますが、まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という先週の徴税人の祈りがあるのです。そして祈りは必ず聞き遂げられるということは、心の目をゴルゴタの十字架に向けられる時にわかります。あそこに首をうな垂れたあの方がおられる。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫であることが厳粛にわかります。

 

 ザアカイの場合は、もちろん、十字架と復活の前の出来事なので、イエス様のことを復活の救い主と信じる信仰も洗礼もまだありません。しかし、ザアカイが辿ったプロセスにはキリスト信仰の原型があります。まず神は、葛藤を持つ私たちを受け入れて下さる。イエス様はザアカイを名前で呼んで受け入れました。神はイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせることで私たちを受け入れてくれました。イエス様に受け入れられたザアカイは、その受け入れに応じてイエス様を自分の家に迎え入れました。私たちは、神の受け入れを信仰と洗礼をもって受け入れて神と御子を心の中に迎え入れます。ザアカイはイエス様の受け入れを受け入れて、彼の人となりを見、その御言葉を聞いて、神の意志に沿うように生きようとする心を持ちました。私たちも、神の受け入れを受け入れて聖書の御言葉を通してイエス様の人となりを知り御言葉を聞くことで神の意志に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するがごとく愛そうという心を持つようになります。

 

 このようにイエス様がまずザアカイを受け入れて、ザアカイもイエス様の受け入れを受け入れて、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になった、イエス様はこのプロセス全部を指して「救いが訪れた」と言われたのです。私たちの場合も同じです。神がイエス様の十字架と復活の業を通して私たちを受け入れて下さった、この神の受け入れを私たちが信仰と洗礼で受け入れる、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になる、このプロセスにあれば私たちに「救いが訪れた」ことになるのです。

            

             我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにある。

             救いは我々が何かを成し遂げた褒美として与えられるものではない。

             我々は善い業を神のイニシアチブを受け入れた後でするようになるのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年11月11日金曜日

最後の審判をクリアーできる祈り (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2022年10月23日(聖霊降臨後第20主日)スオミ教会

 

エレミヤ14章7-10、19-22節

テモテへの第二の手紙4章6-8、16-18節

ルカによる福音書18章9-14節

 

説教題 最後の審判をクリアーできる祈り

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 神のもとに立ち返る徴税人たち

 

福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前の通り、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人は、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。占領された国民の中に占領国に仕える人たちがいたということです。どうして仕えたかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が同胞の裏切り者とみなされて憎まれていたことは驚きに値しません。

 

ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際の徴税人とは少し様子が違うのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確実なものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。

 

もちろん本日の箇所の徴税人は、たとえの教えの架空の人物です。しかし、徴税人のグループが洗礼を受けにヨハネのもとに行ったという歴史的事実からすると、今日のように改心した徴税人が実際にいたことは否定できないのです。ルカ19章のザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決断をします。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

 

以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。

 

2.二つの対照的な祈り

 

本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方が出ています。一つは宗教エリートのファリサイ派の人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと守っていますと神に報告します。私は周りにうようよいる罪びとたちと全然違うことを感謝します、などと醜いエリート意識そのものです。子供が先生に「先生、ボクは~君みたいに悪い子じゃないよ、いい子だよ」というのを大人にしたらこうなるのでしょう。もう一つは徴税人の祈りです。自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。なので、胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。

 

先週の福音書の箇所は「やもめと裁判官」のたとえでした。それも祈りについて教えるところで、神に対して祈り願い求めることを絶やしてはならないという教えでした。神に対して祈りを絶やさないというのは、十戒の第一の掟「私以外に神があってはならない」を守ることです。ルターも教えたように、祈ること願いごと、喜びや感謝、悲しみなど全てのことを創造主の神に祈り打ち明けるべきである、他のものにそうしてはならないというのが第一の掟のポイントです。神を全身全霊で愛するというのも同じです。「愛する」などと聞くと恋愛を連想してしまい、神を愛するなんてどうしたらいいかよくわからないと言う人もいます。要は神以外に祈らない打ち明けない、それだけ神を信頼してやまないということです。だから、祈りを絶やしてはいけないのです。

 

そこで、先週と本日の祈りの教えには興味深い関連性があることに気づきましょう。「やもめと裁判官」のたとえは弟子たちに対して述べられました。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたでしょうか?「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(189節)です。ここで「正しい」という言葉に注意します。ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」とは、「神の目に適う、神に相応しい」ということです。どういうふうに「目に適う」「相応しい」かと言うと、最後の審判の時に神のみ前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に投げ込まれる心配はないという位に神に相応しいということです。14節を見ると「義とされて」と言われています。ディカイオオという動詞が使われていて、これはさっきのディカイオスを動詞にしたものです。これを「義とされて」と訳したのだから、ディカイオスも「正しい」ではなく「義なる」と訳すべきだったと思います。「正しい」と言ってしまうと、少し人間的すぎてこの世止まりではないかと思います。「義」とは、この世とこの次に到来する世の双方にまたがる、神的な「正しさ」です。人間的な「正しさ」とはスケールが違いすぎます。イエス様がこのたとえを話した人たちは、自分たちはそういう義の者である、他の者はそうではないと見下している人たちでした。この人たちは誰なのでしょうか?ファリサイ派でしょうか?実はそうではないのです。

 

「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、最後の審判の日、果たして、やもめのように祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。この質問のすぐ後で今日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話します。ここでは、自分は神に相応しいと自信満々な者たちが相手です。つまり、このたとえが向けられた相手は、弟子たちの中で自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると自信満々な人たちだったのです。果たして私が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか?というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる人たちに向けて話されたのです。

 

そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものになっています。たとえ最後までひるまずに祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまうのです。

 

洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないために洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねました。そして、本日の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いはなく、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけでした。神から罰を受けるとはどういうことか?それは、この世の人生を終えた後で復活の日に復活に与れず、復活の体も永遠の命も与えらえず、神の御許に迎え入れられなくなってしまうということです。しかも、問題はこの世の次の段階に限りません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。たとえ罰は将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。歩む道を変えなければならないのです。

 

「私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました」と認めて、「神さま、どうか罰しないで下さい」と憐れみを乞うた徴税人。その彼が神に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので何も心配することはなく、神に憐れみを乞う必要もありません。自分では神に背を向けた生き方をしているなどとは思いもよりません。しかし、百点満点のはずの彼が神のみ前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように聞こえます。それでは、ありきたりの道徳論です。ここは道徳教育みたいなことを言っているのではありません。ここは人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならない大きな問題があることを言っているのです。これがわからないと、この個所はわからないのです。

 

3.原罪を直視することから始まる救い

 

私たちは徴税人が「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。私たちの場合は、同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。加えて、神の意思を表している十戒に照らしても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様は何と教えていましたか?たとえ殺人を犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。

 

以前にもお教えしましたが、フィンランドやスウェーデンには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」に分けて言い表す言葉があります([]gärningsyndarvsynd[フィ]tekosyntiperisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いでいる罪です。この受け継いでいる罪があるから行為に現れる罪も起こるという、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら具体的に犯していたかもしれないのです。

 

マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうのかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にしているのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神に相応しい者となれるのでしょうか?

 

これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に贈られました。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで神罰を人間に代わって受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はイエス様のこの身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間のために開かれました。神のもとに至る道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しい者とされ、神との結びつきを持って歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので、順境の時でも逆境の時でも変わらない助けと良い導きを神から得られます。この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。

 

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを持っているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを受け取ったので、神からそういう者として見てもらえます。キリスト信仰者は、そのように見ててもらえることを畏れ多く感謝し、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうすると神の意思に一層敏感になります。まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という徴税人の祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちは自分の内にある神の意志に反するものに気がつく度に、心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あそこに首をうな垂れたあの方がおられす。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫になっていることがわかります。父なるみ神は私たちを本当に憐れんだので、ひとり子を犠牲にするのを厭わなかったのです。神は罰しないで本当に赦して下さることを、私たちがわかるようにイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。

 

 ところで、徴税人の祈りにはイエス様の十字架の言及はありません。まだ十字架の出来事が起きる前なので、それは無理もありません。しかし、イエス様はもうすぐしたら十字架と復活の出来事が起こると知っています。その時が来たら、徴税人の祈りを祈る者は心の目をゴルゴタの十字架に向けることができ、神から罪を赦されていることがわかります。この意味で徴税人の祈りは、神から罪の赦しを得られて神に相応しい者とされる祈りなのです。これぞまさしく、最後の審判をクリアーできる祈りなのです。

 

そういうわけで、キリスト信仰者にとって「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは、イエス様の十字架と復活の業があるおかげで、なくてはならない祈りです。イエス様を救い主と信じてこれを祈る限り、イエス様の犠牲に免じて神から罪を赦されるのです。イエス様を信じない人は、誰かの何に免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で罪の償いを神に対して果たさなければならなくなります。しかし、それは不可能です。このことを、本日の個所のファリサイ派の人の祈りが明らかにしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、お前には本当の罪の償いはないと言われて蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が途轍もなく大きなものであることを知って茫然として足がすくんでしまった瞬間、イエス様のおかげで神の御手が自分を離さずしっかり支えてくれていることです。

 

4.イエス様の再臨は怖くない

 

キリスト信仰者が復活の日の神の御許に迎え入れられる地点に向かって歩む道にはいつも罪の自覚と赦しの繰り返しがあります。しかし、最後の審判の時、神はこの繰り返しのことを、それはお前が神に相応しい者、義なる者として相応しく生きた証しと認めてくれます。その時、繰り返しは終わります。

 

本日の使徒書、第二テモテ468節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、そのような生き方を総括する言葉になっています。それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。

 

「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」

 

兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。

 

「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」

 

イエス様の再臨というのは、最後の審判があったりするので怖いものに感じられます。しかし、その日は、お前は神に相応しい者、義なる者として相応しく生きてきたと認められる日です。また、罪の自覚と赦しの繰り返しが終わる日です。義の栄冠はその象徴です。だからキリスト信仰者にとっては主の再臨は怖い日ではありません。待望の日です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン