2022年11月14日月曜日

我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにあり (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年10月30日(聖霊降臨後第21主日)スオミ教会

 

イザヤ書1章10-18節

テサロニケの信徒への第二の手紙1章1-4、11-12節

ルカによる福音書19章1-10節

 

説教題 「我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにあり」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の日課は徴税人ザアカイについての話です。徴税人についての話は先週もありました。エルサレムの神殿で徴税人が神に罪を告白する祈りをしたという話です。ただそれは、イエス様のたとえの教えだったので架空の人物でした。今日の話は、イエス様がエルサレムに向かう途上で通りかかったエリコという町で実際に起こった出来事です。架空の話と実際に起こった話といういう違いはありますが、本日の話は先週の話と繋がっています。

 

 どう繋がっているかと言うと、イエス様は先週のたとえで、神に義とされる者、つまり神に相応しいとされる者は、自分が罪深い人間であることを認めて神に憐れみと赦しを心から祈れる者であると教えました。そこでイエス様は、神の掟をちゃんと守って神に相応しい者になれるというやり方を否定したのです。果たして、人間は神に自分の罪を告白して赦しを乞う祈りで神に相応しいとされるのか?その通りであることを私たちにわからせるためにイエス様は十字架と復活の業を成し遂げられたのです。それで、十字架と復活の出来事の後は、人間は十字架にかけられたイエス様を心の目で見ることができれば罪が赦されて神に相応しいと認めてもらえるようになったのです。そうなるために私たちは神のみ前で自分が罪ある者であると認めて赦しを祈らなければならないのです。それなので、神に相応しいと認めてもらう際には掟を守ることには意味がないのです。意味があるのはイエス様の十字架と復活の業とそれを人間が受け入れることなのです。そういうわけで先週のイエス様の教えは、十字架と復活の出来事の後の正しい祈り方を前もって教えるものだったのです。

 

 本日の個所は、イエス様のおかげで神に相応しいと認められたら、続いて何が起きるかということを示しています。何が起きるかと言うと、神の意志に沿うように生きようという心が生まれるということです。今日はこのことを見ていきます。最初に注意すべきことを述べておきます。イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言っているところです。二つのことに注意します。一つは「救い」とは何かということです。普通、病気とか何か困難や苦難が解決したり解消したりすると「救われた」と言います。ところがキリスト信仰では、「救い」はこの世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生きられることです。また、この世の人生を終えた後は復活の日に目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて神の御許に迎え入れられることでもあります。それで今はそこに至る道を神との結びつきを持って歩めることが「救われている」ことになるのです。道の歩みの上で病気になったりいろんな困難や苦難に遭遇します。しかし、なかなか解決が得られなくても、神との結びつきを持てて復活を目指して歩んでいる限りはキリスト信仰者は「救い」がなくなったなどと考えません。「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我と共に在せばなり」という詩篇23篇の心意気でいるのがキリスト信仰者です。

 

 もう一つの注意事項は、イエス様が「今日、救いがこの家を訪れた」と言ったのは一見すると、ザアカイが財産を貧しい人に施します、だましとったお金は4倍にして返しますなどと改心したことに対するご褒美として言ったように聞こえます。それで、救いは善行の見返りとして与えられるという見方が生まれると思います。ところが、全然そうではないのです。先週も見たように、イエス様は掟を守ったり何か良いことをして神に相応しいと認めてもらうやり方を否定しました。今日の出来事もその延長線上にあります。このことがわかるためには、この個所を先週の個所とあわせて何度も何度も読み返さないとわかりません。一回読んでわかったような気分でいると、イエス様が本当に教えようとしていることと反対の理解になってしまいます。

 

2.葛藤する徴税人たち

 

 神に相応しいと認められたら、今度は神の意志に沿うように生きようとする心が生まれるということを、これから本日の個所をもとに見ていきます。その前に、徴税人について先週お話ししたことを少し復習しておきます。徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人たちです。彼らは決められた徴収額以上に取り立てて私腹を肥やすような人たちでした。それなので、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人は同胞の裏切り者とみなされて憎まれていました。

 

 そうした一方で、福音書に登場する徴税人たちは貪欲で悪質なタイプとは少し様子が違うことにも気づかされます。ルカ3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが神の裁きの日が近いことを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの神への立ち返りを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。先週の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらも、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。この他にも、マルコ2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。

 

 以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合かはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければといういう気運があったことが読み取れます。本日のザアカイも、イエス様に並々ならぬ関心があったことからすると、洗礼者ヨハネの宣べ伝えが影響を及ぼしていたと考えられます。ヨハネは、もうすぐ神の裁きの日が来る、誰も逃れられない、だから神に背を向けて生きる生き方をやめて神に立ち返る生き方をしなさいと宣べ伝えました。同時に、自分の後に偉大な方が来られるとも宣べました。それがイエス様でした。イエス様は奇跡の業をもって来るべき神の国の実在を示し、自分が罪の赦しの権限を持つことを示されました。その時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前でしたが、神の裁きを心配した人たちにとってイエス様は救いの道を示して下さる希望の光に映ったでしょう。

 

3.ザアカイ、イエス様を受け入れる

 

 イエス様が弟子たちと大勢の支持者たちを従えてエリコの町に入ってきました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かった上に群衆に遮られて見ることができません。それで先回りして木に登り、上から見ることにしました。そこをイエス様一行が通りかかります。イエス様はザアカイに気づいて彼を名前で呼びます。さすが神のひとり子です、まだ会ったことのない人の名前をご存じでした。ということは、ザアカイがどんな素性の者かもご存じだったでしょう。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」当時は一緒に食事するというのはとても強いきずながあることを意味しました。それで、「なんであんな罪びとの家に?」と言う周囲の不満や失望は理解できます。

 

 ここから先ですが、一回読むと、ザアカイが財産を分け与えますとか言うところは、まだいちじく桑の木の下でのやり取りのように見えます。しかし、よく目を凝らして何度も読むと、木から降りたザアカイは喜んでイエス様を迎えたので実際は家に連れて行ったのです。ギリシャ語原文を見ても、群衆はイエス様の滞在中ずっとぶつぶつ言っていたという書き方です。それなので8節の「ザアカイは立ち上がって」というのは、イエス様が家から出発する場面と考えられます。「立ち上がって」とありますが、ザアカイが座った状態から立ち上がったみたいですが、そうではありません。ギリシャ語の言葉は立っている状態でも使われる言葉なので「立ち上がる」と訳すのは誤りです。どんな日本語に直せるのかは少し難しいですが、感じとしては、これから喋る人にスポットライトを当てるような感じです。ここは「イエス様と向かい合って」という意味でしょう。

 

 以上から、ザアカイは、イエス様の呼びかけを聞いて木から降りて、イエス様を家に迎え入れて一緒に過ごす時を持ちました。そこでイエス様の人となりを見、その言葉を聞いたでしょう。どんな言葉であったかはルカ福音書には記されてはいないのでわかりません。しかし、大事なのはイエス様を受け入れて一緒の時を持った後で、財産の半分を貧しい人々に分け与える、だましとったものを4倍にして返すという決心をしたということです。その後でイエス様は、「今日、救いがこの家を訪れた」と言いました。ザアカイの決心の背景には、イエス様を自分のもとに受け入れたことがあります。このことに気づくと、ザアカイはイエス様から救いを保証してもらうために決心したのではないことがわかります。それで今度は、ザアカイがイエス様を受け入れたことを少し詳しく見てみます。

 

4.神とイエス様の側の受け入れ

 

 ザアカイがイエス様を受け入れて家に招く前に、イエス様がザアカイを受け入れて家に招くようにと命じていました。つまり、イエス様が最初ザアカイを受け入れザアカイはそれに応じたのです。イエス様の受け入れを受け入れたのです。イエス様がザアカイを受け入れる前、ザアカイの方では特にイエス様に受け入れられるというつもりはなく、ただイエス様を一目見たいというだけでした。その時のザアカイは金には全く不自由しないという羽振りの良さでしたが、民族の裏切り者、罪びとの最たる者というレッテルをはられていました。金さえあれば、そんな不名誉は痛くもかゆくもないという態度だったと思います。そこに洗礼者ヨハネが現れて神の裁きと神への立ち返りということが公けに言われるようになりました。神の裁きが起これば、いくら金を積んでも何の役にも立たないこと位はザアカイにもわかったでしょう。実際、大勢の徴税人たちがヨハネのもとに行って洗礼を受け、徴税人を辞める者さえ出ていたのです。さあ、自分はどうしたら良いか?

 

 その時、このエリコの町にあのイエスがやって来ると聞きつけます。あの、洗礼者ヨハネが自分の後に来る偉大な方と言っておられた方、数多くの奇跡の業を行い、いつの日か到来する神の国について教え、また罪の赦しの権限を持つと自ら言われる方、その方が今来られるのだ。ザアカイが関心を抱くのは当然でしょう。ただ木の上から見ることができたらその後のことは何も考えていなかったでしょう。ところが、そのお方が彼に目を留め、名前で呼び彼の家に立ち寄りたいなどと言ったのです!イエス様は、心に葛藤を抱えていたザアカイを見つけて彼を呼びました。イエス様は心に葛藤を抱えていた彼、まだ善い行いをするに至っていない彼をそのまま受け入れたのです。ザアカイはその受け入れに応じたのです。その後でイエス様と共に過ごす時を持ち、その後で財産を捨てる決心をしたのです。全てはイエス様が悩む彼を受け入れたことから始まったのです。

 

 イエス様が悩む者を受け入れるとその人に新しい心が生まれるというのはキリスト信仰にそのまま当てはまります。もっと正確に言うと、イエス様が受け入れてくれたことに応じる、つまりイエス様の受け入れを受け入れることで新しい心が生まれるのです。まさにザアカイがその模範例となりました。先週もお教えしましたようにキリスト信仰では、神の掟を守ったり善い業を行ってそれで神に認められる、神に相応しいとされるという考え方をしません。人間には神の意志に反しようとする性向、罪があるので神の意思に完全に沿うことが出来ないのです。

 

 ではどうしたらよいのか?そのままでは人間は救われない状態に留まってしまいます。それを分かっていた神は、それでひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。イエス様は人間の全ての罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けられました。罪の償いを人間に代わって神に対して果たして下さったのです。神はこのイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。私たちの造り主である神のもとに戻れる道が開かれたのです。人間は、これらのことは全て神が自分のためになして下さったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から罪を赦された者と見なしてもらえます。

 

 こうして人間は、イエス様が果たして下さったことと彼を救い主と信じる信仰のおかげで神に相応しいとされ、神との結びつきを持ってこの世を歩み始めます。歩む先は、復活の体と永遠の命が待っている神の御国です。キリスト信仰者はそこに至る道に置かれて、その道を歩んでいくのです。神との結びつきがあるので逆境の時も順境の時と変わらない助けと良い導きを神から得られます。また、この世を去った後は、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて神の御許に迎え入れられます。このようなこの世と次に到来する世にまたがるような大きな救いを、ひとり子を犠牲にしてまで与えて下さった神に私たちはただただひれ伏して感謝し、これからは神の意思に沿うように生きようと志向し出します。その時、神の掟を守り善い業を行うことが当然のことになります。そこでは、掟を守ることや善い業を行うことは神に認めてもらうための手段ではなくなっています。こっちは何もしていないのに神に先回りされて先に認められてしまったので、その結果そうするのが当然という心になってするのです。

 

 このイエス様の十字架と復活の業が実は神が人間を受け入れる業だったのです。もし神が罪を持つ人間など絶対受け入れないという態度だったら、ひとり子を贈って十字架と復活の業を成し遂げさせることなどはしなかったでしょう。人間を受け入れるから贈ったのです。そしてその次に大事なのは人間がその神の受け入れに応じるかどうかです。神の受け入れを人間が受け入れるかどうかです。人間が神の受け入れに応じて受け入れるというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということです。神の受け入れを受け入れた者は、神との結びつきを持って復活の日に至る道を歩み始めます。初めにも申しましたように、本当に「死の陰の谷を往くとも、我、禍をおそれじ、なんじ、我とともに在せばなり」になるので、もう安心と信頼しかないという感じになります。それで神の意志に沿うように生きるのが当然という心になります。

 

 ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉の体を纏って生きている以上は神の意志に反する罪をまだ持ち続けます。しかし、信仰者は神の受け入れを受け入れたので神から相応しい者とされます。ひとり子のイエス様のおかげでそのように見てもらえると思うと、畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで一杯になり、神の意思に沿うようにしなければと襟を正します。そうなるとかえって神の意思に敏感になりますが、まさにそのために「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という先週の徴税人の祈りがあるのです。そして祈りは必ず聞き遂げられるということは、心の目をゴルゴタの十字架に向けられる時にわかります。あそこに首をうな垂れたあの方がおられる。その肩の上に私たちの罪が重くのしかかっている。このことを確認できれば、私たちは大丈夫であることが厳粛にわかります。

 

 ザアカイの場合は、もちろん、十字架と復活の前の出来事なので、イエス様のことを復活の救い主と信じる信仰も洗礼もまだありません。しかし、ザアカイが辿ったプロセスにはキリスト信仰の原型があります。まず神は、葛藤を持つ私たちを受け入れて下さる。イエス様はザアカイを名前で呼んで受け入れました。神はイエス様に十字架と復活の業を成し遂げさせることで私たちを受け入れてくれました。イエス様に受け入れられたザアカイは、その受け入れに応じてイエス様を自分の家に迎え入れました。私たちは、神の受け入れを信仰と洗礼をもって受け入れて神と御子を心の中に迎え入れます。ザアカイはイエス様の受け入れを受け入れて、彼の人となりを見、その御言葉を聞いて、神の意志に沿うように生きようとする心を持ちました。私たちも、神の受け入れを受け入れて聖書の御言葉を通してイエス様の人となりを知り御言葉を聞くことで神の意志に沿うように生きよう、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するがごとく愛そうという心を持つようになります。

 

 このようにイエス様がまずザアカイを受け入れて、ザアカイもイエス様の受け入れを受け入れて、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になった、イエス様はこのプロセス全部を指して「救いが訪れた」と言われたのです。私たちの場合も同じです。神がイエス様の十字架と復活の業を通して私たちを受け入れて下さった、この神の受け入れを私たちが信仰と洗礼で受け入れる、その結果、神の意志に沿うように生きようという心になる、このプロセスにあれば私たちに「救いが訪れた」ことになるのです。

            

             我らの救いは、神が我らを受け入れるイニシアチブを我らが受け入れることにある。

             救いは我々が何かを成し遂げた褒美として与えられるものではない。

             我々は善い業を神のイニシアチブを受け入れた後でするようになるのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン