2013年4月29日月曜日

キリスト信仰者の愛の試練 (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルター派福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2014年4月28日復活後第四主日 
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会にて
  
使徒言行録13:44-52、
ヨハネの黙示録21:1-5、
ヨハネによる福音書13:31-35
   
説教題 キリスト信仰者の愛の試練
   
   
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン
   
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
   
   
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 本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている時にイエス様が述べられた教えの一部です。マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、この最後の晩餐の時のイエス様の教えは聖餐式の教え、つまり、イエス様を救い主と信じる者は神との新しい結びつきの中でしっかり生きられるように聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受け取りなさい、という教えが中心です。ヨハネ福音書では、最後の晩餐の時のイエス様の教えはとても詳細に収録され、13章のはじめから17章の終わりまで4章に渡っています。
 
この長いイエス様の教えを駆け足でみてみますと、まずイエス様が弟子たちの土と埃にまみれた汚い足を洗い、弟子たちもお互いに同じようにしなさいと命じます。これは、お互いに奉仕の心を持って仕え合いなさい、という助け合い精神の意味だけではなく、罪の汚れからの清め、罪の赦しをお互いの間でも実践しなさい、という霊的な意味が含まれていることに注意する必要があります。その後で、もうすぐ自分は裏切られることになると弟子たちに予告し、その張本人となるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去って行きます。ユダが立ち去ったまさにその時、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言って、本日の箇所となります。
 
本日の箇所の終わりで、互いに愛し合いなさいと教えた後で、イエス様はこれからどこに行ってしまうのかということが弟子たちの関心事となります。そこで、イエス様は、自分こそは人が天の父なる神のもとに到達できる唯一の道であり、真理であり、命である、と宣べます(146節)。それから、天に上ったイエス様が彼を信じる者たちに聖霊を送るという約束が来て、自分と弟子たち信仰者たちの関係はぶどうの木と枝が結びついているように一体であると教えます。
 
しかしながら、イエス様が身近にいなくなる状況で、弟子たち信仰者たちはこの世では憎しみの対象となって迫害を受ける。しかし、イエス様が約束した聖霊が弁護者として働き、たとえ憎まれ迫害を受けても、信仰者は神の目から見てやましいことは何もなく、真理に沿って歩む者であることを聖霊は示してくれる。そして、この世で被る悲しいことつらいことは全て、イエス様の再臨の日に喜びに取って代わられる。弟子たち信仰者たちは、この世では苦難にあるが、この世のあらゆる力に打ち勝ったイエス様に結びついているので、気落ちせず勇気を持ちなさい、と励まします(1623節)。ここまでが16章で、17章は全章が、イエス様が弟子たち信仰者たちのために父なる神に捧げる祈りです。この祈りは、私たちのためにも祈られている祈りです。それですので、今日、お家に帰りましたら是非お読みすることをお勧めしたく思います。イエス様と父なる神が私たちのことをたえず心に留めているということがおわかりになると思います。
 
 
2.

以上が、ヨハネ福音書に収録された最後の晩餐でのイエス様の教えの概要でした。そこで、本日の箇所をみてみましょう。これからイエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが立ち去った後、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者がこれから目的を果たそうとして出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことでしょうか?
 
それは、イエス様が受難を受ける、死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定した、ということであります。それでは、どうしてイエス様が死ぬことが、栄光を受けることになるのか?しかも、それで、神も栄光を受けることになるのか?
 
イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な事柄が含まれていました。どんな事柄かというと、最初の人間アダムとエヴァ以来、人間が代々背負ってきた神への不従順と罪を人間から取り除くための犠牲になったということです。神は神聖な方ですので、神に背を向ける罪や不従順は神にとって忌むべきもの、焼き尽くすべき汚れです。私たち人間は、自分の力で罪と不従順の汚れを取り除くことはできません。私たちが死ぬということが、既に罪と不従順の力の下に服していることを示しています。取り除くことはできないと言って、そのままにしていれば、人間はいつまでたっても造り主である神との関係が断ちきれたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻ることはできません。神としては、人間がこの世では御自分とのしっかりした結びつきの中で生きられ、この世から死んだ後は、造り主である御自分のもとに永遠にもどることができるよう望まれたのです。それで、御自分の独り子をこの世に送り、人間全ての罪と不従順を全て神聖な御子に背負わせ、人間にかわって滅んでもらう道を選びました。少し刑法的な言葉を交えて言うならば、本当は神に対して有罪なのは人間の方でしたが、その罰は人間が背負うにはあまりにも大きく重すぎるので、神はそれを無実の方に負わせて、有罪の者が背負わないですむようにしたのです。有罪の者は、気が付いたら無罪となっていたのです。
 
そのようにして、人間の罪と不従順からの解放は、神の独り子の犠牲に免じて赦されるという形で実現しました。人は、イエス様の十字架での死は自分のためになされた犠牲の死ということがわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が独り子を用いて整えた「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができます。これが、キリスト信仰における「救い」であります。ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きる以上は、罪と不従順をまだ内に宿しています。しかし、信仰者は、神との結びつきが再興されて、永遠の命、復活の命に至る道に置かれた者です。そのような人に対しては、罪と不従順はもはや人を神から引き離す力を失っています。そもそも死から復活されたイエス様は、死を超える命を打ち立てました。それまでは、死は絶大な力を持っていましたが、永遠の命、復活の命が現れたことで、死は絶対者の地位から引きずり降ろされたのです。ルターの言葉を借りるならば、キリスト信仰者とは、たとえ自らの内に罪が宿っていても、罪が持っている死に至らせる毒の力を殺してしまう強力な対抗薬が全身全霊に作用している者と言うことができます。
 
以上から、神の独り子であるイエス様が死ぬことになるというのは、神の人間救済計画を実現することになる、それゆえイエス様が栄光を受けることになり、それはまた計画者であり実行者である神が栄光を受けることになるということが明らになりました。
 
 
3.

33節で、イエス様は、以前に反対者に対して「わたしが行く所にあなたたちは来ることはできない」と言っていたことを、弟子たちにも言います。そのため、ペトロや他の弟子たちが心配しだします。誰もついてくることの出来ない所にイエス様は行く。一体、イエス様はどこに行こうとなさっているのか?
 
死から復活させられて、40日の間、弟子たちの前に姿を現したイエス様は、天の父なる神のもとに引き上げられました。そこは、誰も行って帰ってくることはできない場所です。しかしながら、イエス様は、自分が天の父なる神のもとに行くのは、弟子たち信仰者たちに住む場所を用意するためであると、本日の福音書の箇所のすぐ後で述べます。そして、「行ってあながたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える」(143節)と述べ、将来の再臨の日に、彼らはイエス様の行く所に行けるようになると約束します。
 
それでは、イエス様の再臨の日まで、弟子たち信仰者たちは地上のこの世で取り残された状態になってしまうのか?そうではない、と主は言われます。なぜなら、主は父なる神のもとから神の霊である聖霊を弟子たち信仰者たちに送るからです。聖霊の働きについては、これからも礼拝説教や聖書の学びの会などを通してわかるようにしていきますが、キリスト教会の信仰告白の一つである二ケア信条には次のように簡潔に述べられています。「主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます。聖霊は父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられます。また、預言者をとおして語られました。」
 
聖霊が私たちのもとにいて下さるおかげで、弟子たち信仰者たちは、主の再臨の日がまだ先のことであっても、この世で取り残された者にはならない、ということが明らかになりました。そのことがわかった時、次に重要になることは、それでは、主の再臨の日まで、私たちキリスト信仰者はどのように生きるべきか、ということです。まさに、それについてイエス様は、本日の箇所で、こう教えるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(133435節)。
 
キリスト教の専売特許のように、隣人愛ということがよく言われます。隣人愛とは、どんな愛のことを言うのでしょうか?困難や苦難に陥った人を助けることを意味するのでしょうか?今次の東日本大震災では、大勢の人が被災地に赴き支援活動に参加しました。参加者の中には、キリスト教徒もいたことは言うまでもないのですが、総数からみたら、キリスト教徒でない人の割合の方が大きかったでしょう。つまり、困難や苦難に陥っている人を助けるというのは、別にキリスト教徒でなくてもできるのであります。こんなことは、支援活動に参加した仏教徒や無宗教の人たちからみたら当たり前すぎて、言うこと自体がキリスト教徒の傲慢ととらえられてしまうかもしれません。
 
しかしながら、キリスト教徒が困難や苦難に陥った人を助ける場合、外見はキリスト教以外の人たちの活動と変わりがないようでも、実は隣人愛の出発点になっているものと、それが最終的に目指しているものの中に決定的な違いがあります。それは何かと言うと、イエス様が私たちに互いに愛し合いなさいと命じる時、「私があなたがたを愛したように」と言っていることが関係します。イエス様がわたしたちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う。確かに、イエス様も、不治の病の人たちを完治したり、食べる物がなくて困った状態になった群衆の腹を満たしたり、舟が嵐で沈みそうになった時に嵐を静めたりしました。そのようにして、困難や苦難に陥った人々を助けました。
 
しかしながら、イエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると、それは、人間が造り主の神との関係を再興させて、神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにし、順境の時も逆境の時も絶えず神から見守られ助けを得られるようにする、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとにもどれるようにする、このことを実現するものでした。そして、その実現の障害となっていた罪と不従順を私たちから除去すべく自らそれを全部引き取るというものでした。そういうわけで、キリスト信仰者においては、隣人愛というものは、イエス様が自分の命を捧げてまで全ての人に救いを準備したということがその出発点であり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すゴールなのであります。そういうわけで、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、この出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になります。
 
そこで、隣人愛の対象が同じキリスト信仰者である場合をみてみましょう。この時、相手の方は既に神の整えた救いを所有しているので、その人が神との結びつきの中で人生の歩みを歩めるように支援することが隣人愛になります。キリスト信仰者といえども、罪や不従順に陥ったり、また罪と関係はないのに苦難や困難に陥ってしまうことがあります。そのような時、神との結びつきを疑うことが起きてきます。神の目から見れば、人がどんな状況にあっても、結びつきはちゃんと保たれているのにもかかわらず。どうやったら、その人が疑いに打ち勝って、結びつきを信じて力強く歩んでいけるか、キリスト信仰者の隣人はよく考えて行動しなければなりません。
 
次に、隣人愛の対象がキリスト信仰者でない場合、相手の方は、まだ神の整えた救いを所有していないので、その人が救いの所有者になるようにしていくのが隣人愛となります。しかし、これはたやすいことではありません。もし相手の人がキリスト信仰に興味関心を持っているなら、信仰者としては、心から教えたり証ししたりすることができます。しかし、いろんな理由から相手の人に興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それはまず不可能です。それでも、もし信仰者が、神との関係が再興されてその結びつきの中で生きることは本当に大事で素晴らしいことだとわかり、隣人にもこの同じ新しい命を持って人生を歩んでほしいと願うならば、まずはお祈りの中で父なる神にそれをお願いすることから始められます。隣人の救いのために神に祈ることは、その人の信教の自由を侵害することにはなりません。祈りの内容としては、父なる神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるようにして下さい、という具合に一般的に祈るのもいいし、もう少し具体的に、あの人にイエス様のことを伝える機会をわたしに与えて下さい、と祈ってもいいと思います。その場合は、次のように付け加えましょう。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。
 
 
4.

 イエス様が「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言う時、この愛せよという掟は、弟子たち信仰者たちに向けられていることがわかります。信仰者たちの隣人愛とは、既に受け取った「罪の赦しの救い」をしっかり所有して神との結びつきの中にとどまれるようにお互いを支援し合うことだと申しました。ルターは、キリスト信仰者というものは、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者である、と言っています。つまり、支援を必要としない人は誰もいないのです。もちろん、ある人は他の人より、多くの支援を必要としたり、少なく必要としたりする程度の違いはあるでしょうが、皆が支援を必要としているのです。
 
 最後に、お互いに支援を必要とし合うキリスト信仰者相互の隣人愛について、ルターが次のように教えていることを引用して、本説教の結びとしたく思います。この教えは、「コリントの信徒への第一の手紙」1227節で使徒パウロが「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と教えている所の注釈です。
 
「この御言葉は、我々が信仰の兄弟姉妹の愛を実践するように、また、言い争いや不和が教会内に生まれるのを阻止するようにと勧めるものである。もし、誰かが信仰の兄弟姉妹から不愉快な思いをさせられた時、それがその人にとって背負いきれない重荷になってしまわないためにも、このことは大切である。もっとも、我々がしっかりわきまえていなければならないことは、信仰の兄弟姉妹とは言っても、実際には我々の間には、弱さや道の誤りは無数に起き、避けられないということである。そのことに立腹しても仕方のないことである。誰だって、誤って舌を噛んでしまった時とか、目にひっかき傷を造ってしまった時とか、転んで足にけがをしてしまった時とか、いちいち立腹することはないだろう。それと同じことである。
 
 次のように考えてみるとよい。君を一つの体全体とすると、兄弟姉妹であり隣人でもあるその人はその一部分なのだ。そのことに対しては何もなしえない。その人が君に不愉快な思いをさせた時、彼は注意深さが欠けていたのだろうし、またそれを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたというのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。君は傷つけられて悲しんでいる。しかし、だからと言って、自分の体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒性の霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さい火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうであろう。その時はもう手遅れで、どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」
 
そういうわけで、愛する兄弟姉妹の皆様、私たちは皆、「始まったばかりの初心者で、これから成長していく者」であることを胸に刻み、それぞれが神から助けを受ける者であり、神から助けを受ける者としてお互いが支援し合うという構図を忘れないようにしましょう。

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年4月22日月曜日

主イエス・キリストは我らの良き羊飼い 我らに不足はなし (吉村博明)


 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2014年4月21日復活後第三主日 
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会にて
 
使徒言行録13:26-39、
ヨハネの黙示録7:9-17、
ヨハネによる福音書10:22-30

説教題 主イエス・キリストは我らの良き羊飼い 我らに不足はなし

(この説教のテキストはスオミ教会のホームページでも読むことができます。http://www.suomikyoukai.org/?p=4403

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
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 復活祭後の第一、第二主日の福音書の箇所は、死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事についての弟子たちの目撃録でした。復活後第三主日である本日の福音書の箇所は、舞台を再び、十字架と復活の前の出来事に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事が起きる前は、聞く人見る人にとってもわかりにくいことが多くありました。また、それらの意味を理解したつもりで実は間違っていたことも多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらはどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の箇所も、イエス様の十字架と復活の出来事が起きたことを知る者として、解き明かしてまいりましょう。
 
イエス様は、数々の奇跡の業と神の権威を持つ教えで、ガリラヤ地方とユダ地方、さらにヨルダン川東岸を含むローマ帝国シリア州(マタイ42425節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なる神から送られた神の子である、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的存在である「人の子」であると公言していました。これに対して、ユダヤ教社会の宗教指導層は、あの男は神の子でも救世主でもなんでもない、民衆を惑わす危険な存在だと見なしていました。宗教指導層が取り仕切っていた神と人間の関係を、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦以外の何ものでもありません。しかし、本当は、イエス様が取り仕切るやり方が神の意思そのものだったのです。宗教指導層は、自分たちの教えや流儀が神の意思を代弁していると思い込んでいました。
 
宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて死罪にしようと思っていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にいるイエス様を見つけて取り囲み、群衆の見ているただ中で尋問を始めました。イエス様が何か誤ったことを言えば、大勢の人が証人となる状況です。指導者たちは聞きました。いつまでお前は我々をはぐらかす気か、お前がもしメシアなら(ギリシャ語原文ではヘブライ語のメシアמשיחのギリシャ語訳であるキリストχριστοςが記されています)、我々にそうはっきり言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言っていたのに、君たちが信じようとしないのだ、と。ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことを、メシアであると指導者たちに公言したことは見当たりません。ヨハネ4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では、信奉者に対しても、反対者に対しても、自分は父なる神から送られた神の子であるとか、救世主的存在である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中には、イエス様がメシアであると信じる人も出ましたが(731節)。いずれにしても、イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言っていた、というのはどういうことでしょうか?これは、メシアという言葉が当時、神の意図に反して人々に誤って理解されていたという問題があります。
 
メシアとは、もともとは油を頭に注がれて聖別された者を意味しました。神の特別な使命を果たす者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様と理解されました。ダビデ王朝の王国は、紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにバビロンからユダの地に帰還しますが、民はそれ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間、民の間では、将来ダビデの血筋を引く者が王として現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し、諸国に号令をかけるとの期待がずっと抱かれていました。この王がメシアとして考えられたのです。
 
その一方で、バビロン捕囚から帰還したイスラエルの民の間で、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目し、今ある天と地はやがて終わりを告げ、新しい天と地にとってかわられる時が来るとわかった人たちがいました。そうした預言を信じる人たちにとって、メシアとは、創造の秩序が一新される時に現れ、創造主である神への信仰をしっかり守った者たちを新しい秩序の世界に迎え入れる、そういう終末的な救世主を指すということがだんだん明らかになってきました。この意味でのメシアは、この世的でユダヤ民族の解放に尽力するダビデ家系の王とは異なり、全人類にかかわる救世主です。そのようなメシアは、旧約聖書ダニエル書に出てくる「人の子」と結びつけて考えられるようにもなりました。
 
このようにみると、イエス様が尋問を受けた時、なぜずばり自分がメシアであると言わなかったのか、以前はっきり言っていたわけではないのに、どうして、既に言っていたなどと言ったのかがわかってきます。イエス様は、この世的で特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたメシアだったからです。もし、「私はメシアだ」と言えば、聞いた人たちの多くは、イエスが自分はメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えられたでしょう。そうなれば、宗教指導層にとってはしめたもので、この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様は、自分では本当の意味でメシアであるとわかっていましたが、聞く方がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使用するのは控え、かわりに父なる神から送られた神の子であるとか、終末の救世主である「人の子」であると公言していたのであります。しかし、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、これを言うことが、宗教指導者をますます苛立たせました。あの男は神を冒涜している、と。
 
 
2.

それでは、ユダヤ教社会の宗教指導層は、なぜイエス様が神の子であること、「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にあったにもかかわらず。イエス様が数々の奇跡の業を行っていることは、広く知れ渡っていました。そうした奇跡の業を自分の父である神の名によって行っている以上、業自体が自分が神の子であることを証しているのだ、それでもお前たちは信じようとはしない、とイエス様は呆れ返ります(102526節)。
 
指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、自分たちが神の意思だと思ってやっている規則をイエス様が飛び越える仕方で神との関係を取り仕切ろうとしている、これが指導層の権威に対する挑戦と受け止められ、危惧感を抱いたのであります。そうすると、彼らの権力欲が不信仰の原因だったと言えます。確かに4つの福音書の中には、サドカイ派やファリサイ派や律法学者などの宗教指導層が利己主義に陥っていることを批判する箇所が多くあり、ややもすると彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。実は歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それがどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができない不信仰に陥ったのかと言うと、それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思を代弁していると固く信じていたからです。このため、イエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に態度が頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増して、例えば、イエス様が不治の病の人を完治する奇跡を行っても、それが労働を禁じる安息日に行ったという理由で、この男は神の意思に反する者だ、と、奇跡よりも規則違反の方に目が行ってしまう位に本末転倒していたのであります。
 
ユダヤ教社会の宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因として、旧約聖書に述べられている神の約束というものをユダヤ民族のみに関わると理解していたことが考えられます。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の間の関係の歴史が延々と語り伝えられているので、ユダヤ民族以外の世界の諸民族は、その他多数にしか感じられなくなってしまうかもしれません。しかし、ユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものなのであります。
 
それは、創世記の出来事から明らかです。神によって造られた最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順となり、罪を犯したことが原因で人間は死ぬ存在となりました。人間は、ユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、罪を言い表すとき、具体的な行為に現れる罪(tekosyntiverksynd)と具体的な行為には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisyntiarvsynd)という二つの言葉があります。
 
罪のために、人間は神聖な神との関係が壊れてしまい、神から引き裂かれた存在となってしまいました。それに対して神は、人間が再び永遠の命を持って自分のもとに戻れるようにと人間救済計画を立てました。アブラハムが歴史の舞台に登場し、モーセがイスラエルの民を率いて奴隷の地エジプトを脱出するようになって、イスラエルの民、ユダヤ民族というものがはっきりしてきます。神は、この自分が選んだユダヤ民族とのやり取りを通して、自分はどんな存在でどんな意思を持ち、どんな考えを持つかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間救済計画についても預言者を通して明らかにしました。そして、計画実現の時が来た時に、独り子であるイエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様に課した役目は、人間が自分で背負っていては永遠に滅びてしまう罪と不従順をかわりに全部背負わせて、人間にかわって滅ぼさせること、そして、この身代わりの犠牲に免じて神が人間を赦すようにすることでありました。人はただ、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで、神の赦しがその人に効力を持つようになります。このように赦された人は神との関係が再興された者となり、神との結びつきの中で生きられるようになり、この世の人生を終えた後は、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになりました。イエス様が送られた場所は、まさに神の意思を具現化した十戒と神の御言葉と約束を授かっていたユダヤ民族の真っただ中でした。そこで、神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示すことによって反感を買い、それによって殺されるという形で贖罪の死が実現しました。そして、神はイエス様を死から復活させました。まさに、イエス様の十字架の死と死からの復活が起きたことで、神の意思と約束とは、実はかつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するためのものだった、それゆえ特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだった、ということが謎がとけるように明らかになったのであります。願わくは、この神の愛と恵みが、特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが、多くの人にわかってもらえますように。
 
 
3.

本日の福音書の箇所で、イエス様は、自分の羊について語っています。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ102728節)。永遠の命を与えられ、死んでも決して滅ぶことがない者とは誰かというと、それは、死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との関係が再興された者、つまりキリスト信仰者を指します。そういうわけで、この言葉は、十字架と復活の出来事の前に述べられたものですが、それらが起きた後で本当のイエス様のことがわかって信じるようになる者を指しています。
 
イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の出来事の前にイエス様と接触があって彼の教えを直に聞いたということではありません。もちろん、死から復活して天に上げられたイエス様の声を、私たちは直に耳に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼が選んだ弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主であると信じることなく福音書を読めば、それは古代中近東の人間の空想が混ざった一種の歴史的物語にしかすぎなくなります。しかし、信じる者にとっては、自分を造って命を与えてくれた神と自分との結びつきを取り戻して下さった方の言葉です。その意味で、私たち一人一人に語りかける言葉です。さらに福音書以外の書物についても、使徒が記した書簡は、イエス様の十字架の死と死からの復活があったからこそ生まれ出た信仰の書物です。旧約聖書も、来るべき救世主の受難と復活を通して人間の救いが実現することを示す書物群です。総じて聖書は、イエス・キリストに結びついています。聖書を読むことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができるわけです。
 
イエス様は、また、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っている、と言われます。103節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言い、14節で、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われます。このように、イエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのであります。個人的に知っているのだから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことを全部、祈りをもって打ち明けることを望んでいらっしゃいます。そうすることで、私たちはイエス様にしっかり信頼をおいていることを、イエス様にも示し、自分自身にも言い聞かせることになります。イエス様や父なる神はどうせ全部ご存知だから、あえて祈る必要もない、というのは、信頼をおくことを怠けることになり、やがては別のもの、自分自身とか全く他のものに信頼をおくようになる危険があります。使徒パウロは、「フィリピの信徒への手紙」46節にて次のように勧めています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
 
死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との関係がしっかり築かれた者として、この世の人生を歩むことになる、と先に申しました。人生の歩みでは、たえず私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを受け止めてくれる主がいつもそばにいて下さるということも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との関係はしっかり保たれているのであろうか、と疑問や不信を抱くことに多く遭遇することも事実です。例えば、神への不従順と罪に陥った時とか、また苦難や逆境に陥った時などがそうです。
 
罪と不従順に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの価値が減じることはありません。救いと恵みに力がなくて、自分が罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの価値と力は、私たちがどんな状況にあるかにかかわらず、不変です。それゆえ、罪と不従順に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、悔いる心を持って神の御前で赦しを願い求めることです。その時、十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも戻る場所があります。
 
私たちは、自分自身の罪が原因ではないのに、苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はどう理解したらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような者でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言わず、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは、私たちが自ら捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのであります。また、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちの神との結びつきを一層強めるものです。
 
パンとぶどう酒を受けて、造り主である神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて、神との関係が再興されたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、関係は再興され、結びつきは強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも知ることもできなくても、神が、これで再興された、強められた、と言えば、そうとしか言えないのであります。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということであります。その神の目で見ることができる事柄は、聖書を通して知ることができるのであります。聖書の言葉は、誠に神の御言葉であります。
 
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン