2013年4月29日月曜日

キリスト信仰者の愛の試練 (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルター派福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2014年4月28日復活後第四主日 
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会にて
  
使徒言行録13:44-52、
ヨハネの黙示録21:1-5、
ヨハネによる福音書13:31-35
   
説教題 キリスト信仰者の愛の試練
   
   
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン
   
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
   
   
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 本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている時にイエス様が述べられた教えの一部です。マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、この最後の晩餐の時のイエス様の教えは聖餐式の教え、つまり、イエス様を救い主と信じる者は神との新しい結びつきの中でしっかり生きられるように聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受け取りなさい、という教えが中心です。ヨハネ福音書では、最後の晩餐の時のイエス様の教えはとても詳細に収録され、13章のはじめから17章の終わりまで4章に渡っています。
 
この長いイエス様の教えを駆け足でみてみますと、まずイエス様が弟子たちの土と埃にまみれた汚い足を洗い、弟子たちもお互いに同じようにしなさいと命じます。これは、お互いに奉仕の心を持って仕え合いなさい、という助け合い精神の意味だけではなく、罪の汚れからの清め、罪の赦しをお互いの間でも実践しなさい、という霊的な意味が含まれていることに注意する必要があります。その後で、もうすぐ自分は裏切られることになると弟子たちに予告し、その張本人となるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去って行きます。ユダが立ち去ったまさにその時、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた」と言って、本日の箇所となります。
 
本日の箇所の終わりで、互いに愛し合いなさいと教えた後で、イエス様はこれからどこに行ってしまうのかということが弟子たちの関心事となります。そこで、イエス様は、自分こそは人が天の父なる神のもとに到達できる唯一の道であり、真理であり、命である、と宣べます(146節)。それから、天に上ったイエス様が彼を信じる者たちに聖霊を送るという約束が来て、自分と弟子たち信仰者たちの関係はぶどうの木と枝が結びついているように一体であると教えます。
 
しかしながら、イエス様が身近にいなくなる状況で、弟子たち信仰者たちはこの世では憎しみの対象となって迫害を受ける。しかし、イエス様が約束した聖霊が弁護者として働き、たとえ憎まれ迫害を受けても、信仰者は神の目から見てやましいことは何もなく、真理に沿って歩む者であることを聖霊は示してくれる。そして、この世で被る悲しいことつらいことは全て、イエス様の再臨の日に喜びに取って代わられる。弟子たち信仰者たちは、この世では苦難にあるが、この世のあらゆる力に打ち勝ったイエス様に結びついているので、気落ちせず勇気を持ちなさい、と励まします(1623節)。ここまでが16章で、17章は全章が、イエス様が弟子たち信仰者たちのために父なる神に捧げる祈りです。この祈りは、私たちのためにも祈られている祈りです。それですので、今日、お家に帰りましたら是非お読みすることをお勧めしたく思います。イエス様と父なる神が私たちのことをたえず心に留めているということがおわかりになると思います。
 
 
2.

以上が、ヨハネ福音書に収録された最後の晩餐でのイエス様の教えの概要でした。そこで、本日の箇所をみてみましょう。これからイエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが立ち去った後、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者がこれから目的を果たそうとして出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことでしょうか?
 
それは、イエス様が受難を受ける、死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定した、ということであります。それでは、どうしてイエス様が死ぬことが、栄光を受けることになるのか?しかも、それで、神も栄光を受けることになるのか?
 
イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な事柄が含まれていました。どんな事柄かというと、最初の人間アダムとエヴァ以来、人間が代々背負ってきた神への不従順と罪を人間から取り除くための犠牲になったということです。神は神聖な方ですので、神に背を向ける罪や不従順は神にとって忌むべきもの、焼き尽くすべき汚れです。私たち人間は、自分の力で罪と不従順の汚れを取り除くことはできません。私たちが死ぬということが、既に罪と不従順の力の下に服していることを示しています。取り除くことはできないと言って、そのままにしていれば、人間はいつまでたっても造り主である神との関係が断ちきれたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻ることはできません。神としては、人間がこの世では御自分とのしっかりした結びつきの中で生きられ、この世から死んだ後は、造り主である御自分のもとに永遠にもどることができるよう望まれたのです。それで、御自分の独り子をこの世に送り、人間全ての罪と不従順を全て神聖な御子に背負わせ、人間にかわって滅んでもらう道を選びました。少し刑法的な言葉を交えて言うならば、本当は神に対して有罪なのは人間の方でしたが、その罰は人間が背負うにはあまりにも大きく重すぎるので、神はそれを無実の方に負わせて、有罪の者が背負わないですむようにしたのです。有罪の者は、気が付いたら無罪となっていたのです。
 
そのようにして、人間の罪と不従順からの解放は、神の独り子の犠牲に免じて赦されるという形で実現しました。人は、イエス様の十字架での死は自分のためになされた犠牲の死ということがわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が独り子を用いて整えた「罪の赦しの救い」を自分のものとすることができます。これが、キリスト信仰における「救い」であります。ただし、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きる以上は、罪と不従順をまだ内に宿しています。しかし、信仰者は、神との結びつきが再興されて、永遠の命、復活の命に至る道に置かれた者です。そのような人に対しては、罪と不従順はもはや人を神から引き離す力を失っています。そもそも死から復活されたイエス様は、死を超える命を打ち立てました。それまでは、死は絶大な力を持っていましたが、永遠の命、復活の命が現れたことで、死は絶対者の地位から引きずり降ろされたのです。ルターの言葉を借りるならば、キリスト信仰者とは、たとえ自らの内に罪が宿っていても、罪が持っている死に至らせる毒の力を殺してしまう強力な対抗薬が全身全霊に作用している者と言うことができます。
 
以上から、神の独り子であるイエス様が死ぬことになるというのは、神の人間救済計画を実現することになる、それゆえイエス様が栄光を受けることになり、それはまた計画者であり実行者である神が栄光を受けることになるということが明らになりました。
 
 
3.

33節で、イエス様は、以前に反対者に対して「わたしが行く所にあなたたちは来ることはできない」と言っていたことを、弟子たちにも言います。そのため、ペトロや他の弟子たちが心配しだします。誰もついてくることの出来ない所にイエス様は行く。一体、イエス様はどこに行こうとなさっているのか?
 
死から復活させられて、40日の間、弟子たちの前に姿を現したイエス様は、天の父なる神のもとに引き上げられました。そこは、誰も行って帰ってくることはできない場所です。しかしながら、イエス様は、自分が天の父なる神のもとに行くのは、弟子たち信仰者たちに住む場所を用意するためであると、本日の福音書の箇所のすぐ後で述べます。そして、「行ってあながたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える」(143節)と述べ、将来の再臨の日に、彼らはイエス様の行く所に行けるようになると約束します。
 
それでは、イエス様の再臨の日まで、弟子たち信仰者たちは地上のこの世で取り残された状態になってしまうのか?そうではない、と主は言われます。なぜなら、主は父なる神のもとから神の霊である聖霊を弟子たち信仰者たちに送るからです。聖霊の働きについては、これからも礼拝説教や聖書の学びの会などを通してわかるようにしていきますが、キリスト教会の信仰告白の一つである二ケア信条には次のように簡潔に述べられています。「主であって、いのちを与える聖霊を私は信じます。聖霊は父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられます。また、預言者をとおして語られました。」
 
聖霊が私たちのもとにいて下さるおかげで、弟子たち信仰者たちは、主の再臨の日がまだ先のことであっても、この世で取り残された者にはならない、ということが明らかになりました。そのことがわかった時、次に重要になることは、それでは、主の再臨の日まで、私たちキリスト信仰者はどのように生きるべきか、ということです。まさに、それについてイエス様は、本日の箇所で、こう教えるのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(133435節)。
 
キリスト教の専売特許のように、隣人愛ということがよく言われます。隣人愛とは、どんな愛のことを言うのでしょうか?困難や苦難に陥った人を助けることを意味するのでしょうか?今次の東日本大震災では、大勢の人が被災地に赴き支援活動に参加しました。参加者の中には、キリスト教徒もいたことは言うまでもないのですが、総数からみたら、キリスト教徒でない人の割合の方が大きかったでしょう。つまり、困難や苦難に陥っている人を助けるというのは、別にキリスト教徒でなくてもできるのであります。こんなことは、支援活動に参加した仏教徒や無宗教の人たちからみたら当たり前すぎて、言うこと自体がキリスト教徒の傲慢ととらえられてしまうかもしれません。
 
しかしながら、キリスト教徒が困難や苦難に陥った人を助ける場合、外見はキリスト教以外の人たちの活動と変わりがないようでも、実は隣人愛の出発点になっているものと、それが最終的に目指しているものの中に決定的な違いがあります。それは何かと言うと、イエス様が私たちに互いに愛し合いなさいと命じる時、「私があなたがたを愛したように」と言っていることが関係します。イエス様がわたしたちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う。確かに、イエス様も、不治の病の人たちを完治したり、食べる物がなくて困った状態になった群衆の腹を満たしたり、舟が嵐で沈みそうになった時に嵐を静めたりしました。そのようにして、困難や苦難に陥った人々を助けました。
 
しかしながら、イエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると、それは、人間が造り主の神との関係を再興させて、神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにし、順境の時も逆境の時も絶えず神から見守られ助けを得られるようにする、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとにもどれるようにする、このことを実現するものでした。そして、その実現の障害となっていた罪と不従順を私たちから除去すべく自らそれを全部引き取るというものでした。そういうわけで、キリスト信仰者においては、隣人愛というものは、イエス様が自分の命を捧げてまで全ての人に救いを準備したということがその出発点であり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すゴールなのであります。そういうわけで、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、この出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になります。
 
そこで、隣人愛の対象が同じキリスト信仰者である場合をみてみましょう。この時、相手の方は既に神の整えた救いを所有しているので、その人が神との結びつきの中で人生の歩みを歩めるように支援することが隣人愛になります。キリスト信仰者といえども、罪や不従順に陥ったり、また罪と関係はないのに苦難や困難に陥ってしまうことがあります。そのような時、神との結びつきを疑うことが起きてきます。神の目から見れば、人がどんな状況にあっても、結びつきはちゃんと保たれているのにもかかわらず。どうやったら、その人が疑いに打ち勝って、結びつきを信じて力強く歩んでいけるか、キリスト信仰者の隣人はよく考えて行動しなければなりません。
 
次に、隣人愛の対象がキリスト信仰者でない場合、相手の方は、まだ神の整えた救いを所有していないので、その人が救いの所有者になるようにしていくのが隣人愛となります。しかし、これはたやすいことではありません。もし相手の人がキリスト信仰に興味関心を持っているなら、信仰者としては、心から教えたり証ししたりすることができます。しかし、いろんな理由から相手の人に興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それはまず不可能です。それでも、もし信仰者が、神との関係が再興されてその結びつきの中で生きることは本当に大事で素晴らしいことだとわかり、隣人にもこの同じ新しい命を持って人生を歩んでほしいと願うならば、まずはお祈りの中で父なる神にそれをお願いすることから始められます。隣人の救いのために神に祈ることは、その人の信教の自由を侵害することにはなりません。祈りの内容としては、父なる神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるようにして下さい、という具合に一般的に祈るのもいいし、もう少し具体的に、あの人にイエス様のことを伝える機会をわたしに与えて下さい、と祈ってもいいと思います。その場合は、次のように付け加えましょう。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。
 
 
4.

 イエス様が「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言う時、この愛せよという掟は、弟子たち信仰者たちに向けられていることがわかります。信仰者たちの隣人愛とは、既に受け取った「罪の赦しの救い」をしっかり所有して神との結びつきの中にとどまれるようにお互いを支援し合うことだと申しました。ルターは、キリスト信仰者というものは、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者である、と言っています。つまり、支援を必要としない人は誰もいないのです。もちろん、ある人は他の人より、多くの支援を必要としたり、少なく必要としたりする程度の違いはあるでしょうが、皆が支援を必要としているのです。
 
 最後に、お互いに支援を必要とし合うキリスト信仰者相互の隣人愛について、ルターが次のように教えていることを引用して、本説教の結びとしたく思います。この教えは、「コリントの信徒への第一の手紙」1227節で使徒パウロが「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と教えている所の注釈です。
 
「この御言葉は、我々が信仰の兄弟姉妹の愛を実践するように、また、言い争いや不和が教会内に生まれるのを阻止するようにと勧めるものである。もし、誰かが信仰の兄弟姉妹から不愉快な思いをさせられた時、それがその人にとって背負いきれない重荷になってしまわないためにも、このことは大切である。もっとも、我々がしっかりわきまえていなければならないことは、信仰の兄弟姉妹とは言っても、実際には我々の間には、弱さや道の誤りは無数に起き、避けられないということである。そのことに立腹しても仕方のないことである。誰だって、誤って舌を噛んでしまった時とか、目にひっかき傷を造ってしまった時とか、転んで足にけがをしてしまった時とか、いちいち立腹することはないだろう。それと同じことである。
 
 次のように考えてみるとよい。君を一つの体全体とすると、兄弟姉妹であり隣人でもあるその人はその一部分なのだ。そのことに対しては何もなしえない。その人が君に不愉快な思いをさせた時、彼は注意深さが欠けていたのだろうし、またそれを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたというのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。君は傷つけられて悲しんでいる。しかし、だからと言って、自分の体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒性の霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さい火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうであろう。その時はもう手遅れで、どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」
 
そういうわけで、愛する兄弟姉妹の皆様、私たちは皆、「始まったばかりの初心者で、これから成長していく者」であることを胸に刻み、それぞれが神から助けを受ける者であり、神から助けを受ける者としてお互いが支援し合うという構図を忘れないようにしましょう。

 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン