説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年5月19日 聖霊降臨祭
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
創世記11:1-9、
使徒言行録2:1-21、
ヨハネによる福音書16:16:4b-11
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
復活祭から7週間たった本日は、聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日で、復活祭から50番目の日をギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーπεντηκοστη ημεραと呼ぶことから、聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な主日であります。クリスマスの時、私たちは、私たちの救い主が乙女マリアから生まれ、この神の御子が私たちを救うために人となられたことを喜び祝います。復活祭の時には、私たちのために苦しみを受け十字架の上で死なれた主が、自らの死と復活をもって死の力を無力にして、私たちのために神のもとに戻る道を開いて下さったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の時には、イエス様が約束通り私たちに聖霊を送って下さり、聖霊の力で私たちが信仰を持てて、神の真理に導かれて生きられるようになったことを喜び祝います。
皆様もご存じのように、キリスト教会の復活祭は、もともとはユダヤ教の伝統で出エジプトを記念する過越祭でした。歴史的には、過越祭から7週間たった時に七週祭という、収穫の捧げものをする祭日が守られていました(出エジプト記34章22-23節、申命記16章9-10節)。そういうわけで、イエス様が十字架に架けられ復活した年、西暦30年ないしそれに近い年の七週祭の日には、普段から世界各地からやってきたユダヤ人でごった返ししていたエルサレムの町は、お祝いのためにもっと人が増えていたでしょう。世界各地、とは言っても、もちろん地中海世界と現在の中近東が中心ですが、どんな地域から来ていたかについては、先ほど朗読していただきました使徒言行録2章の中に詳しく列挙されています。
聖霊が下ってイエス様の弟子たちに注がれた時、天から激しい風が吹くような音が聞こえ、人々は音のする方へ集まってきました。そこで、信じられない光景を目にしました。ガリラヤ出身者のグループが突然、集まってきた人々のいろいろな国の言葉で話をし出したのです。ギリシャ語、ラテン語、アラム語、ヘブライ語は言うに及ばず、世界各地の土着の言語を使って話を始めたのです。どんな言語にしても外国語を学ぶというのは、とても手間と時間がかかることです。それなのに弟子たちは、突然できるようになったのです。使徒言行録2章4節によると、聖霊が語らせるままにいろんな国々の言葉で喋り出した、とあるので、聖霊が外国語能力を授けたのであります。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話し始めたのでしょうか?少なくとも、初級英会話レベルの内容ではなかったようです。使徒言行録2章11節で、集まってきた人たちの驚きを代弁して誰かが言います。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
イエス様の弟子たちが世界各地の国々の言葉で語った「神の偉大な業」(τα μεγαλεια του θεου複数形なので正確には「数々の業」)とは、どんな業だったのでしょうか?集まってきた人たちは、世界各地から来たとは言え、皆ユダヤ人でした。ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解するものの筆頭は、何と言っても、出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで神から十戒を授けられ、神の民として約束の地カナンに自分たちの移住場所を獲得していく、という壮大な出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、バビロン捕囚からの帰還もあげられます。一度滅びて他国に強制連行させられた民が、神の人知を超えた歴史のかじ取りのおかげで、通常不可能な祖国復帰が実現したという出来事です。もう一つ、神の偉大な業として、神が万物を、そして私たち人間を造られた天地創造の出来事も付け加えてよいかと思います。この他にも、ユダヤ人が「神の偉大な業」と理解できる出来事はあるかと思いますが、以上の3つは代表的なものとして考えてよいでしょう。
ところが、イエス様の弟子たちが「神の偉大な業」について語った時、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となった新しい出来事でした。つまり、偉大な預言者の再来と目されたあの「ナザレ出身のイエス」は、実は神の子であり、十字架刑で処刑され埋葬されたにもかかわらず神の力で復活させられて、人々の前に再び現れ、つい10日程前に天に上げられた、という出来事です。これは、まぎれもなく「神の偉大な業」であります。こうして、ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエスの出来事とその意味することが語られたのです。
ユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」であれば、ユダヤ人の誰もが理解できるものだったでしょう。しかしながら、イエス様の出来事の場合、多くの人にとってはただ聞いた噂とか断片的な話のつなぎ合わせだったでしょうから、出来事の全体像を把握していたのは弟子たちを除いてはいなかったでしょう。ましてや、イエス様の出来事が人間の救いにとってどんな意味があるのか、そんなことは理解の域を超える事柄だったでしょう。
そこでペトロは、集まってきた群衆に向かって、この聖霊降臨の出来事について二つの異なる解き明しをします。最初の解き明しは、この異国の言葉を話し出すという現象についてです(使徒2章14-21節)。その次に、イエス様の出来事そのものとその意味について解き明しを始めます(22-40節)。ただし、この二つ目の解き明しは、本日の使徒言行録の箇所の後になります。
2.
異国の言葉を使って神の偉大な業を語りだすという出来事は、旧約聖書ヨエル書3章1-5節の預言の成就である、とペトロは解き明かしします。イエス様は、自分が天に上げられた後はお前たちが孤児みたいにならないために父なる神のもとから聖霊を送る、と何度も約束されました(ヨハネ14章、15章26節、16章4b-15節、ルカ24章49節、使徒1章8節)。天から激しい風のような轟く音がして、炎のような分岐した舌が弟子たち一人一人の上にとどまった時、異国の言葉で「神の偉大な業」について語りだすことが始りました。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言の言葉そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、つまり、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だった、とわかるのであります。このことが示すように、父なる御神も御子イエス様も、私たちのために聖書の中で約束されていることは、必ず守り通し実現される方なのですから、私たちも、神は真に信頼するに値する方である、ということを忘れないようにしましょう。
ところで、ペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と述べます。「終わりの時に」とは、ギリシャ語の原語では「終わりの日々に(εν ταις εσχαταις ημεραις)」となっています(ヘブライ語のヨエル書のこの箇所は「その後(אחרי־כן)」で、ギリシャ語訳旧約聖書の同箇所は「終わりの日々」です)。「終わりの日々」とはどういうことかと言うと、イエス様の十字架の死と死からの復活によって神の人間救済計画が成就したので、それから後の人間の歴史というものはイエス様の再臨を待つ「終わりの日々」となるわけです(同じ考え方は「ヘブライ人への手紙」1章1節にあります)。もう2千年近くたちましたが、仮に3千年かかろうとも、主の再臨を待つ以上、今は「終わりの日々」なのであります。
3.
以上、弟子たちが異国の言葉を使って「神の偉大な業」を語りだした現象は、旧約に預言された聖霊降臨の実現であるというペテロの解き明かしについて述べました。これに続いて、ペテロは、「神の偉大な業」の中で最も新しくまだ人々が理解していないイエスの出来事とその意味について解き明かしをしていきます。それは、使徒言行録の本日の箇所の後になる2章22-40節にあります。しかし、これはまだ序論です。その後もペテロは解き明しを続けます。神殿でイエス様の名において病人を癒した時にも、驚く群衆の前でとても詳しく解き明しますし(3章11-26節)、議会で取り調べを受けた時も同様です(4章8-12節)。これらの箇所は本日の日課には入らないので本説教では取り上げませんが、ペテロそして他の使徒たちが解き明かした「イエス様の出来事とその意味」について、その主旨をここで述べてみたく思います。
イエス様の出来事とその意味についてわかろうとする時、私たちはまず、人間は造り主である神に造られた被造物であるということをわきまえておかなければなりません。人間は自分の力と意志で自分を造ったのではありません。光よあれ、と言って、光を造った神の手によって造られたのです。その造り主の神と造られた人間の間に深い亀裂が生じてしまったことが、創世記に堕罪の出来事として記されています。人間が神への不従順と罪に陥り、神聖な神のもとにいられなくなったのです。罪と不従順を受け継ぐ人間は、自分の力で神のもとに戻ることはできません。そこで、神は人間が御自分との結びつきを回復できて、御自分のもとに戻ることができるようにと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて行ったことは次のことです。人間に張り付いている罪や不従順には、人間を造り主から永遠に引き裂かれた状態にとどめる力がある。まさに呪いの力です。その力を無力化するために、神は人間の罪と不従順を全部イエス様に背負わせて、それらがもたらす滅びの死を全部イエス様に叩きつけた。これがゴルガタの十字架の出来事です。このように神は、イエス様を人間の身代わりとして死なせて、その犠牲に免じて人間の罪と不従順を赦すことにし、そのようにして造り主と人間の結びつきを回復して、造り主のもとに永遠に戻れる道を開いたのです。まさに罪の赦しによる救いを実現させたのであります。さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させることで、死を無力にし、死を超える永遠の命、復活の命への扉も開かれました。私たち人間は、神のひとり子の死が本当に私たちの身代わりのための死だったとわかって、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けることで、この「罪の赦しの救い」の中に入ることができます。ところが、わからず、信ぜず、では、せっかく神が全ての人のために整えて下さった「罪の赦しの救い」の外側にとどまることになってしまいます。
こうしてキリスト信仰者は、この世ではまだ罪と不従順が張り付いているにもかかわらず、赦しを受けた者として、呪いの力を上回る命の力の下に置かれることになります。そして、この世にいながら永遠の命、復活の命に向かう道に乗せて、その上を歩み始め、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻れるようになったのです。
4.
人は洗礼を受ける時、神が送られる霊、聖霊を受けます。人がイエス・キリストを救い主とわかって信じることができるのは、聖霊の力が働いているからです。聖霊の力が働かなければ、誰もイエス様が自分の救い主だとはわかりません。いくら歴史の本をたくさん繙いたり、また歴史学・社会学的に「ナザレ出身のイエス」の思想と行動を分析しても、それではイエス様は、せいぜい歴史上数多くいた卓越した思想家、宗教家の一人としてしか捉えられません。単なる知識の集積だけでは、イエス様を「私の救い主」として捉えることはできません。つまり、この世を生きるこの私を永遠の命、復活の命に至る道に乗せて下った方、その道の歩みを日々支えて下さり、そして、この世から死んだ後は私を引っ張り上げて造り主のもとに永遠に戻ることができるようにして下さる方です。単なる歴史学、社会学の説明の中には聖霊は働きません。そもそも学術的研究というものは、本質上そういうものなのです。ところが、もし人が、知識の有無にかかわらず、ああ、あの2000年前のパレスチナで起きた出来事は実は今を生きている自分のためになされたのだ、とわかった時、それは聖霊がその人に働き始めているのです。そして、その人が洗礼を受けると、それからは100パーセント聖霊の働きのもとで生きることになります。他の霊は、その人に対して足場を失い、出て行かざるを得なくなります。「エフェソの信徒への手紙」1章13節に、聖霊を受けることは証印を押されることである、とありますが、まさに「この人は、神がイエス様を用いて整えた救いを受け取って、その所有者になった」という証印であります。
ところで、「他の霊」と申しましたが、聖書はいろいろな霊の存在について述べています。「ヨハネの手紙一」4章には、霊が神の霊かそうでない霊かを見分ける基準として、イエス・キリストのことを、人間となってこの世に来た神の子であると言い表すかどうか、つまりイエス・キリストについての真理をしっかり言い表すか、それとも覆い隠してしまうか、それが決め手である、と言っています。聖霊が「真理の霊」と言われるのは(ヨハネ15章26節、14章17節にもある)、まさに、イエス・キリストは人となった神のひとり子であり、神はイエス様を用いて人間の救済計画を実現された、という真理を人に明らかにするからです。
旧約・新約を通して聖書は、いろいろな霊の存在は当たり前のことと見ています。いろいろな霊の存在は、この日本に住む私たちにも身近なことです。表の社会では、霊などというものは表立って取り上げられませんが、それでも大新聞のページの下の方によく載せられるいろんな宗教団体の出版物の広告をみると、どれもいろいろな霊とかかわりを持っていることを窺わせます。表の社会も一歩裏に入ると、いろいろな霊とかかわりを持って生きている人は多いと思われます。この世の人生の中で、さまざまな困難に遭遇して、その解決を得ようとして、または今の境遇よりももっと成功して繁栄しようとして、いろいろな霊に伺いをたてたり、仕えたりするということが多くあると思います。
聖書の中で神は、霊媒や口寄せと一切の関係を持つことを禁じています(レビ記19章31節、申命記18章11節)。なぜなら、人間は、そのような者たちが呼び出す霊に依り頼み、自分の幸福や不幸、成功や失敗は霊のご機嫌次第ということになってしまい、自分で自分を霊に縛りつけていくことになるからです。私たちが依り頼むべきものは、私たちを造られた神のみでなければなりません。いろいろな霊というのも、「コロサイの信徒への手紙」1章16節に述べられているように、実は造られた被造物にしかすぎません。被造物である私たちが依り頼むべきものは、造り主であって別の被造物であってはなりません。それでは、なぜ神は依り頼んではならないものをわざわざ造られたのか?もともと天地創造の時に神が造られたものは全て良いものでした(創世記1章4節、12節、18節、21節、25節、31節)。それが、堕罪によって被造物は神聖さを失い、神との関係が断ち切れてしまったのです。「ローマの信徒への手紙」8章22節の言葉を借りれば、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」という状態に陥ったのです。神は、神聖さを失って神との関係が断ち切れ、死ねば永遠に造り主から切り離されて滅ぶしかない人間を深く憐み、再び関係を回復して神のもとに永遠に戻れることができるようにしようと、ひとり子を犠牲にして救いを私たちに整えて下さった、これは先に見た通りです。それほどまでして私たちに、今の世と次の世の双方を結びつける愛と恵みを示して下さった造り主をさしおいて、この世限りの幸福や成功を求めて被造物である霊に依り頼む、これくらい天地創造の神を失望させ、悲しませ、また怒らせることはないのです。
被造物である霊のなかで最大最悪のものは、聖書の中で悪魔サタンと呼ばれる霊です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味ですが、何を非難し告発するかというと、神の前で「この人はどうしようもない罪びとで憐れみをかけてはならない、極刑に値する」と告げ口をするのです。その働きぶりは、ヨブ記の最初のところで窺えます。このようにサタンの目的は、人を絶望に追いやり永遠に神と切り離された状態にとどめようとすることです。聖霊は、サタンに対抗します。サタンが「この人には義のかけらもない」と告発すると、聖霊は「この人は洗礼を通して、キリストの義という白い衣を頭から被せられている」と言って弁護するのです。本日の福音書の箇所でイエス様が言われるように聖霊が「弁護者」と呼ばれる所以です(ヨハネ15章26節、14章16節も)。
聖書に出てくる他の霊や日本の裏社会に跋扈する霊は一見サタンとは別もののように見えますが、イエス・キリストについて真理を言い表さず、それを覆い隠したりすることで、造り主と人間の関係回復を妨げたり、人が造り主のもとに永遠に戻ることを妨げようとします。つまり、神から出たのではない霊はどれも、同じ目的を持っているのです。
5.
最後に、本日の福音書の箇所で、イエス様が、弁護者である聖霊が来れば、罪と義と裁きについて世の誤りを明らかにする、特に、「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」(16章8、10節)である、と述べています。この箇所のギリシャ語の原文は少々難解なのですが、要は、イエス様が父なる御神のもとに行くことが、罪にとどまるこの世に対して神の義を明らかにするということです。それでは、イエス様が天に上げられることとこの世で神の義が明らかになることとは、一体どう結びつくのか?そのことについてのルターの教えを引用して、本日の説教の締めとしたいと思います。
「この主の言葉こそは、主が成し遂げた全仕事は我々の罪からの贖いと救い以外の何ものでもないことを如実に示している。まさに、このために神の御子は天から送られたのであり、我々のために与えられた任務を全て果たしたのである。その任務とは、受難であり、死であり、そして死からの復活であった。彼の任務は、実はまだ続いている。彼を救い主と信じる者たちの中にある神の御国を堅持することである。これは、この世の終わりの日まで続く任務である。
主が父なる御神のもとに行くということは、彼が尊い血を流して御自分を犠牲にするに任せるということであり、また、我々の罪がもたらす死の負債を御自分の命を代償にして全額支払うということである。そして、死から復活させられることで、罪と死と地獄に対して勝利し、それらを御自分の下に服従させるということである。
主は、復活の命を持つ者として、父なる御神の右に座し、そこから、我々の肉眼では見えないけれども、天上のもの地上のもの全てを支配する。福音が宣べ伝えられるところで、主は、信仰者をみもとに集め、御国を広げていく。主は、また、御神と我々人間との間をとりもつ永遠の大祭司として、御神の前で信仰者を代表し、我々のための祈りを御神に捧げて下さる。そのようにして、信仰者とはいえまだ弱さと罪が残存している我らを助けて下さる。
以上のようなわけで、キリスト信仰者が御神の前で義なる存在でいられるのは、主が父なる御神のもとに行くからなのである。つまり、主が私たちのために苦しみを受け、死から復活させられることで、御神と我々の関係が修復されたからである。主のおかげで、我々は罪の赦しの恵みを受けることができるのである。これがいわゆる「人間外部に由来する義」というものである。我々人間がそれを持てるために何かをしなければならないとか犠牲を払わなければならないとか、そういう必要のない義である。それは、我々に贈り物として与えられるのであり、それを受け取る時、我々は神の義を自分のものとすることができるのである。この「人間外部に由来する義」を受け取った時、我々は、御神の御心に適う者、その愛する子供となり、相続人の地位におかれるのである。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン