説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年5月26日(三位一体主日)
日本ルーテル福音スオミキリスト教会
イザヤ書6:1-8、
ローマの信徒への手紙8:1-13、
ヨハネによる福音書16:12-15
説教題 なぜ神は三位一体なのか?
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天地及び人間を造り、私たちに人生を与えて下さった神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格の三つです。これらが同時に一つであるというのが私たちの神であります。
三つが一体を成しているということは、本日の福音書の箇所にもよく出ています。まず、イエス様は弟子たちにこう言います。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを背負いきれない、耐えられない(ギリシャ語動詞βασταζωは「理解する」より、こっちのほうがよい)、と(12節)。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないものとは、もちろん、神から送られた独り子がこれから十字架刑に処せられて死ぬことになるということ。そして、そのような仕方でしか、人間を神から切り離している原因すなわち罪の呪いを取り除くことが出来ないということ。このようなことは、十字架と復活が本当に起きる前の段階では、聞くに耐えられないことであります。なぜなら、このナザレ出身のイエスこそ、ユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる英雄であるとの期待がもたれていたからであります。
しかしながら、十字架と復活そして昇天の後で、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかるようになります。まさに、神の御子の十字架上の死は人間を罪の呪いから贖い出すための身代わりの死であったのだと、そして、主の死からの復活によって永遠の命が確立し、罪と死は人間に対する支配力を失ったのだと、こうした真理がわかるようになったのであります。これは聖霊が働いたためですが、まさに、イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということです。この箇所のギリシャ語の原文は、「あなたがたが真理全体にしっかりとどまれるように聖霊は教え導く」と訳すこともできます。神の真理がわかってイエス様を救い主と信じて生きるようになっても、今のこの世には罪の力がまだ働いていて、神の真理を曇らせよう、イエス様が救い主であることを忘れさせようとします。そうなると、それまで当然と思われていた神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することは、嫌気がさすものになっていきます。信仰者は、この変わり様を悲しみ、なんとかまた当然のこととなるようにと苦しい戦いを始めます。この時、真理全体にとどまれるよう私たちを応援してくれるのが聖霊なのす。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちが信仰の戦いをする時には、私たちは一人ぼっちではなく、聖霊が共におられることを忘れないようにしましょう。
13節から15節にかけてイエス様は、聖霊が私たちを教え導いてくれる時、それは聖霊が自分で好き勝手なことを告げるのではなく、イエス様がこう言いなさいと言ったことを、イエス様についての真理を、私たちに告げるのだ、と教えます。そして、父なる御神のものは同時に御子のものでもある、と言われているように(15節)、イエス様がこう言いなさいと言ったことは、それは父なる御神がこう言いなさいと言ったことでもある、ということなのであります。つまり、父と子と聖霊は同じ真理を持って作用するという意味で、三位一体なのであります。
キリスト教は、現在、カトリック、プロテスタント、正教などにわかれていますが、わかれていてもこれらが共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体として受け入れています。そうした共通の信仰告白は、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。わかれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があると言えます。また、わかれた教会が一致を目指す時の土台とも言えます。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。
三位一体は、初期のキリスト教徒が新しく作り出した考えと見なされることがあります。しかし、その見方は正しくありません。三つの人格を一つとして持つ神ということは、既に旧約聖書のなかに垣間見ることが出来ます。箴言8章22-31節には、神の知恵がいかに人格を持った存在であり、知恵(「彼」と呼ばれる)は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っている時にその場に居合わせていた、ということが述べられています。イエス様は、自分がソロモン王の知恵より優れたものであると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。ソロモン王の知恵は神由来の知恵として知られていたので、それより優れた知恵と言えば、神の知恵そのものということになります。箴言のなかに登場する、天地創造の時に父なる御神とともに居合わせた知恵について、初期のキリスト教徒たちは、これがイエス・キリストを指すとすぐわかりました。それで、御子は天地創造の時にすでに父なる御神と一緒にいたということを言うようになったのです(第一コリント8章6節、コロッサイ1章14-18節、ヨハネ1章、ヘブライ1章1-3節)。さらに、天地創造の時、神は言葉を発しながら万物を作り上げていったことから、御子が創造に積極的にかかわったことを明確にしようと、それでイエス様のことを神の言葉そのものであると言うようになりました(ヨハネ1章)。
ところで、天地創造の時に居合わせたのは神の知恵や言葉である御子だけではありません。創世記1章2節には、神の霊も居合わせたことが明らかに述べられています。創世記1章26節に興味深いことが書いてあります。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。天地創造を行った神は、その時に人格を持った同席者を有していたということであります。
2.
次に、私たちの神はなぜ三つの人格を同時にもった一人の神でおられるのか、ということについて考えてみます。神が三位一体であるということは、神の私たちに対する愛と大いに関係があります。私たちに愛と恵みを注ぐために、神は三位一体でなければならない、三位一体でなければ愛と恵みは注げない、と言っても過言ではないくらい、神は三位一体な存在なのであります。以下に、そのことを見てまいりましょう。
私たちがまず、思い起こさなければならないことは、神と人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪のときにできてしまいました。「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知り行えるようになってしまう。そして死する存在になってしまいます。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのであります。人によっては、悪い行いを外に出さない真面目な人もいるし、悪いこともするが良い行いが上回っているという素敵な人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いている。このように人間を罪の存在とみなすと、神は全く正反対の立場の神聖な存在です。神と人間、それは神聖と罪という全くかけ離れた二極の存在です。
ここで、「神聖」という言葉について。日本語ではよく「聖」という言葉を使います。「聖なる万軍の主」とか言うように。それは少し弱くありませんか?明治憲法に「天皇は神聖にして侵すべからず」とありましたが、「神聖」と言った方が、「聖」より迫力があって、本質に迫れる言葉だと思います。
神の神聖さとは、罪の存在である人間にとってどんなものであるか、それについて本日の旧約の箇所イザヤ6章はよく表しています。エルサレムの神殿で預言者イザヤは神を肉眼で見てしまう。その時の反応は次のようなものでした。「私は呪われよ、私は滅びてしまう。なぜなら私は汚れた唇を持つ者で、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が、王なる万軍の主を見てしまったからだ」。これが、神聖と対極にある罪の存在が神聖を目にした時の反応であります。罪の汚れをもつ存在が神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのでありますから、預言者でもない私たちにはなおさらのことです。自分の罪と自分の属する民の罪を告白したイザヤに対して、天使の一種であるセラフィムは、燃え盛る炭火をその唇に押し当てます。それがイザヤを罪から清めました。そして彼は神と面と向かって話ができるようになります。モーセは、そのような罪からの清めをせずにシナイ山で神と面と向かって話すことを許されましたが、山から下るとその顔は光輝き、人々の前で話をするときは顔に覆いを掛けねばならないほどでした(出エジプト記34章)。神の神聖さは、罪の汚れを持つ人間にとって危険なものなのです。
神を直接見ることのない私たちにとって、神聖の危険はわかりにくいかもしれません。聖礼典と呼ばれる洗礼や聖餐は、神聖な礼典です。でも、洗礼式や聖餐式において、誰も目や体を焼き尽くすような光や熱に遭遇しません。しかし、それらの礼典の持つ影響力は、莫大なものであることを忘れてはなりません。
洗礼によって、私たちは、イエス・キリストの義という白い衣を頭から被せられます。義というのは、神の神聖な意志が成就されている状態です。イエス・キリストは神の御子なので、その義を持っています。不従順と罪にまみれた私たちは、義が持てないので、それを外から与えてもらい、義にしてもらわねばなりません。本来私たちが受けるべき不従順と罪の裁きをイエス様がかわりに引き受けて下さって、私たちにはご自身の白い衣を被せて下さった、このことをわかって、それでイエス様は私の救い主であると信じて洗礼を受ければ、神は私たちに白い衣がまとわれていると認めて下さいます。私たちが衣の内側にまだ罪の汚れを持っているのにかかわらず、私たちがまとっているその白い衣を見て私たちを神に相応しい者と見て下さいます。洗礼には、このようなとてつもない影響力があります。
聖餐も同様です。この世の人生を歩むとき、私たちの内に残る不従順や罪が、私たちのまとっている義の衣のことを忘れさせようとします。まとう以前の古い命に戻るように誘い出します。そこで聖餐にて主の血と肉を受けることで、私たちは、義の衣を被されていることをはっきり思い起こすことができます。そして、その衣をまとわされた者としてふさわしく生きる力と栄養を受け取ることになります。パウロは、こうした聖餐がいかに神聖なものであるかを教えました。彼は、コリントの信徒たちに次のように注意しました。聖餐を受ける前に、まず、自分自身をよく吟味しなさい。不従順と罪の汚れのために義の衣をまとって生きることに疲れました、それで、主から力と栄養をいただきたいのです、と希求しなさい。そのように希求する者として聖餐に与りなさい。しかし、自己吟味もせず、聖餐が霊的な力と栄養を与える重大なものであることをわからずに受けるならば、それは主の体と血に対して罪を犯すことになり、ひいては、その人に対して裁きを呼び起こすことになる。実際、コリントの教会にて、聖餐を誤った仕方で受けた者が、病気になったり命を落とした例があると、パウロは指摘しています(第一コリント11章26-32節)。
以上のように、神の神聖さに対して、私たち人間は、怖れをもってよく注意しなければなりません。しかし、今の世が新しい世にとってかわる日、すなわち復活が起きて私たちが永遠の命に入る日には、全てが一変します。そこで、私たちは神聖な神を顔と顔を合わせるように目にすることが出来るのです(第一コリント13章12節)。その時、私たちは、神の神聖さに燃やし尽くされません。なぜなら私たちが神聖な者に変えられたからです。
3.
このように、神聖な神は、復活の日に私たちを神聖なご自身のもとに迎え入れて下さいます。私たち人間との間にある果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちが信じて洗礼を受けた時にその手と手が結ばれ、その後は神は、私たちから手を離すことがない限り私たちを天の御国に導いて下さいます。このような神の私たちに対する愛は、三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりわかります。このことをルターの使徒信条の説明を通してみてみましょう。今日は、説教の後で、この使徒信条によって信仰告白をいたします。
使徒信条の第一部は、神が父としての人格をもつことと、その創造の役割について信仰告白するところです。ルターは、これを次のように説明します。
「私は、神が私と全ての生き物を造られたこと、私に肉体と魂と目と耳その他の全ての器官と理性と五感をお与えになったことを信じます。また神は、これらのものが動くようにして下さり、さらに衣服、靴、食べ物、飲み物、家屋、配偶者、子供、畑、家畜その他の所有物を与えて下さり、また毎日十分に栄養その他生きるための必要物をお贈り下さり、さらに、あらゆる危険から守って下さり、あらゆる悪から守り救い出して下さると信じます。これらのこと全てを、神は、私が何かを行った褒美として与えて下さるのではなく、ただ神ならではの思いやりと憐れみから一方的にして下さったと信じます。私は、こうしたこと全てのために、神に感謝し賛美を捧げ、神に仕え、従順でなければなりません。以上のことは、まことにその通りです。」
使徒信条の第二部は、神が御子としての人格をもつことと、それが私たちを罪の呪いから贖う役割を持つということについての信仰告白です。ルターは、次のように説明します。
「私は、永遠という状態のなかで父から生まれた真の神である方、また同時に乙女マリアから生まれた真の人間でもある方、イエス・キリストを私の主であると信じます。その主が、私を滅びと裁きから贖い出して下さったこと、そして私を全ての罪から、また死や悪魔の力から神の御許へと買い戻して下さったこと、しかも、私を買い戻す際に金銀その他の財宝を代償金にせず、ご自身の神聖で高価な血をもって、その買い戻し金とされました。そして、何の罪もないのに、苦しみ死ぬことによって私を買い戻して下さったことを信じます。この買戻しは、私が彼自身のものとなり、彼の御国の忠実な一員となるためになされました。また、私が永遠の義のなかにとどまれ、良心の潔癖さを保証され、まさに至福に与る者として彼に仕えることができるようになるためになされたのだと信じます。私が永遠の義と良心の潔癖さと至福の中で主に仕えるということは、主が死から復活し永遠に生きて治められていることと表裏一体の関係にあります。以上のことは、まことにその通りです。」
使徒信条の第三部は、神が聖霊としての人格をもつことと、それが私たちを絶えず神聖化する役割をもつことについての信仰告白です。ルターは、これを次のように説明します。
「私は、私が自分の頭脳と能力によってはイエス・キリストを私の主と信じることもできず、彼のもとにいくこともできないと信じます。そうではなく、聖霊が福音を通して私を招き、賜物を通して私に理解を与え、正しい信仰にあって私を神聖なものとし、守って下さったのでした。聖霊は、私に対して行ったように、地上の全てのキリスト信仰者を招き、集め、理解を与え、神聖なものとし、イエス・キリストにあって唯一の正しい信仰のなかで守ってくださいます。このキリスト信仰者の共同体において、主は、私にも他の全ての信仰者にも、毎日、全ての罪を十分に赦し、最後の日に私と全ての死んだ人をよみがえらせ、キリストに繋がる私と他の全ての信仰者に永遠の命を与えて下さると信じます。これらのことは、まことにその通りです。」
以上、神は創造と贖いと神聖化の三つの役割をもって活動することが明らかになりました。まず、神は創造の主として、私たちを造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪と不従順に陥ったために、神は今度は、独り子を使って私たち人間のために罪と死と悪魔を無力化して、私たちをそれらから贖い出して下さいました。こうして、私たちは、罪の赦しの救いの中に生きることとなりましたが、人生の日々の歩みのなかで、信じることが弱まったり、罪の赦しの中に生きていることを忘れそうになります。そのたびに、聖霊から導きや指導を受けるようになりました。
これらのことを成し遂げて下さった神への感謝が、私たちの生きる土台となりますように。また、その感謝から、神を全身全霊で愛する心、隣人を自分を愛するが如く愛する心が生まれますように。その時、隣人も三位一体の神の愛を受け取ることが出来るよう、私たちを用いて下さるように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン