2015年1月19日月曜日

時は満ち、神の国は近づいた(マルコ1章15節) (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年1月18日 顕現節第3主日

エレミア16章14節-21節
コリントの信徒への第一の手紙7章29-31節
マルコによる福音書1章14節-20節

説教題 「時は満ち、神の国は近づいた(マルコ115節)」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 ガリラヤ湖の岸辺をイエス様が通りかかる。そこで、漁師の兄弟ペトロとアンデレが網を投げて漁をしているのに出くわす。イエス様が、私について来なさい、お前たちを人間をとる漁師にしよう、と声をかけると、二人はすぐに網を捨てて従って行った。さらに進んでいくと、今度は漁業経営者ゼベダイが二人の息子ヤコブとヨハネさらに雇われ漁師たちと一緒に舟の中で網の手入れをしているのが見えた。イエス様はすぐこの兄弟にもついて来るようにと声をかけた。すると、これもまた、父親と雇い人たちを舟に残して従って行った。

これは一体何なのでしょう?イエス様が声をかけると、かけられた人はまるで自動反応のように従って行ってしまいます。このような自動反応的なつき従いは他にもあります。マルコ214節をみると、取税人のレビが税を取り立てる場所に座っていたところをイエス様について来なさいと言われて、そのまま立ち上がってついて行きました。同じ出来事を記したルカ528節をみると、レビは「全てを捨てて」ついて行った、とあります。二組の漁師の兄弟たちも、自分たちの生業や家族を捨てるようにしてイエス様につき従って行ったのであります。

さて、このところフランスのテロや地下鉄サリン事件の裁判の新しい動きがニュースを騒がしました。そのような時勢ですので、本日の福音書の箇所は読みようによっては、若者が何もかも捨てて宗教的な指導者に従って行ったと受け取られ、やっぱり宗教は怖い危ないという反応を持たれる向きが出るかもしれません。しかしながら、時事的な問題や出来事を土台にして宗教とはこういうものだと結論してしまうと、今度は聖書が伝えようとしていることが見えなくなってしまいます。時事的な問題や出来事はそれはそれとしてひとまず置いといて、ここでは聖書が伝えようとしていることだけに焦点をあて、その伝えようとしていることをわかるようにしていきたいと思います。それがわかったら、そこから時事的なこと周りの世界のことをどう考えていったらよいか、という判断の土台になればと願う者です。

2.

本日の福音書の箇所の記述を見ると、イエス様とつき従って行った人たちとの間にはなんのやり取りも交わされていないことに気づかされます。「ついて来なさい」という一言でついて行ってしまいます。本当に何か不思議な力が働いて、声をかけられた人が次々と吸い取られていくようです。マルコ福音書とマタイ福音書の記述は、流れとして、イエス様はまず弟子をある程度集めてから奇跡の業や教えの宣べ伝えを大々的に行っていきます。そうすると、最初の弟子たちは、イエス様の教えも奇跡の業もまだ知らないでつき従って行ったことになります。本当に何か不思議な力が働いたとしか言いようがありません。

こういう場合、説明の仕方としてよくあることですが、4人の漁師の若者たちのつき従いを合理的に説明しようと、その時彼らがどんな社会的心理的状態にあったかを推測することがなされます。例えば、ペトロ、アンドレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、平凡な漁師の暮らしに満たされないものを感じる日々であったとか、特にヤコブとヨハネは雇い人を持つほどの裕福な経営者の跡取りとして安定を約束されていたが心に空白を感じていたとか、まずそういうことにして、そういう時に突然声をかけてくれた人物を見ると、その眼差しに何かただならぬものを感じて、この人について行けば、きっと満たされないものを満たしてくれて本当の人生を全うできると確信して、それで全てを捨ててついて行った、という具合です。

私は、4人の若者の内面は別に分析する必要はないと思います。第一、福音書にはそのことについて何も書かれていません。書かれていないというのは、福音書記者マルコにとっては、別に知らなくても書かなくてもよいことだったのです。マルコにとっては、イエス様の呼びかけの声の中に聞く者を有無を言わせずにつき従わせる力があったことを知らせるだけで十分だったのです。

それでは、イエス様の呼びかけの声の中に聞く者を有無を言わさずにつき従わせる力があったという、その力についてみていきたいと思います。

3.

 最初に、イエス様が公けに活動を始めた頃の様子をマルコの記述をもとに整理してみましょう。そうすると、イエス様の不思議な力のこともわかってきます。

 イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、神から「お前はわが愛する子である」と神の子の認知を受け、神の霊すなわち聖霊を注がれました。こうしてイエス様は神のひとり子としての自覚をもって、彼がこの世に送られた目的である人間救済計画の実現に乗り出しました。公けに活動を開始する直前、イエス様はユダヤの荒野で悪魔から40日間試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、洗礼者ヨハネが、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって投獄されました。領主の不倫問題に口をはさんだことが原因でした。まさにその時、イエス様はユダヤ地方からガリラヤ地方に乗り込んで活動を開始します。その時、彼が公けに宣べたスローガン的な言葉が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。そのガリラヤでの活動の最初の頃に4人の漁師を弟子にして、ユダヤ教の会堂シナゴーグで教えを説き始め、さらに人前で奇跡の業を行い始めたのです。

「時は満ち、神の国は近づいた」というスローガン的な言葉は、イエス様の活動と人について端的に言い表しています。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉が使われています。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、単に時の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。つまり、「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということであります。この「時」が洗礼者ヨハネの投獄の時と重なったのは、これは、ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに至らせる悔い改めの洗礼」を与えることができなくなった、これからはイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということであります。洗礼者ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのであります。

「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけからみると、空高いどこか、ないしは宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれてしまいます。そうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また数学や物理学を使って測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定したり確定できない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたのです。そうすると「神の国」とは、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいですが、神から見たらこちらの方が裏側でしょう。神は、天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられた後、あちら側に引き籠ってしまうことはしませんでした。あちら側から絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。その中で最大の関わりは、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間救済計画を実現したことでしょう。

ところで、旧約聖書のイザヤ書の終わりの方(6517節、6622節)や新約聖書の多くの箇所(第二ペトロ313節、黙示録211節、ヘブライ122629節など)を見ると、今あるこの世は滅びるという終末についての預言があります。その時、神は今ある天と地にかわって新しい天と地を創造し、そこで唯一残るものとして現れてくるのが「神の国」です。そうすると、「神の国」とは天国のことだから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?という疑問が起きると思います。実はそうではなく、「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活ということが起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることなのです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。そうなると、じゃ、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きると思います。実はこれも、何度も教えたところですが、ルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠っているのであります。復活の日に復活の体と命を与えられて蘇らせられるということであります。

このような「終末」とか「新しい天地」とか「死からの復活」などが大黒柱になっている死生観は、日本の仏教や神道と大きく異なっています。仏教でしたら、亡くなってから33年間の修行のあと極楽浄土に入れ、神道でしたら、郷土ないし日本国全体にとって意味のある人となれば神になって神社に祀られることなります(そうすると、亡くなった人によっては、居る場所が極楽浄土と神社が指定する場所の二つを持つということも考えられます)。

話しが脇道にそれましたが、それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、彼は終末が近づいたと言っていたのでしょうか?そうだとすれば、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままなので、イエス様の言ったことは当たっていなかったことになります。しかし、イエス様は少し違うことを言っていたのです。

どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業が、神の国が近づいたことと関係があります。イエス様は無数の奇跡の業を行いました。大勢の難病や不治の病の人を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、枚挙に暇がありません。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげたという人道支援の意味もあったでしょう。また、自分は神のひとり子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ1411節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上にいて困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜそうしないで、さっさと十字架の道に入って行ったのか、という疑問が起きます。

イエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せた、味あわせたということがあります。神の国とは、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神によって労われるところです。神の国はまた、同じ黙示録214節で言われるように、神がそこに迎え入れられた者の目からことごとく涙を拭い取り、悲しみも嘆きも労苦もないところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神の手によって償われるところです。このように最終的に労われたり償われるところがあるので、キリスト信仰者というのは、この世ではとにかく神の御心に従って、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛して生きようとする。その時、人の目から見て無意味で取るに足らないことでも、神の目から見ればとても意味のある素晴らしいことである、と知っているのです。それゆえキリスト信仰者は、何かをなそうとする時、神の御心に沿うようにしよう、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛するようにしよう、そうすれば結果は期待外れでも無駄だったとか無意味だったとかいうことは何もない、とわかっているのです。ルターが言った言葉として伝えられていますが、「明日この世が終わると知っていても、今日リンゴの木を植えて育て始めよう」というものがあります。まさにそういう心意気が生まれるのです。

このように神の国とは、神の正義と栄光が貫徹されていて、そこに迎え入れられた者はこの世で受けられなかった償いと労いを最終的に全部受けられて、あらゆる害悪や危険そして死そのものがなく、永遠に平和と安心の中で生きられるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹というものもなく、自然の猛威に晒されるということもない状態が生まれました。つまり、神の国そのものがイエス様の一つ一つの奇跡の業を通して人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は神の国と共にあって歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになって目に前に現れて、「私について来なさい」と言ったら、人間は抵抗できるでしょうか?イエス様の呼びかけの声の中に聞く人を有無を言わさずにつき従わせる力があったというのは、まさにここにあります。病気が治れと言われて健康に変わったように、悪霊が出て行けと言われて出て行ったように、嵐が静まれと言われて静まりかえったように、「ついて来なさい」と言われたらついていくしかなかったのです。イエス様の眼差しとか声の調子の中に何か満たされないものを満たしてくれる何かを感じたとか、そういう感傷的なレベルの話ではないのです。イエス様の呼びかけの声の中には、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いていたのです。

4.

 そういうわけで、イエス様がこの世で活動していた時、神の国が彼と共にあったということ、彼の行った奇跡の業は、まさに神の国の実在性を示すものであったということがわかりました。イエス様に呼びかけられて自動反応のようにつき従って行った弟子たちも神の国の力を及ぼされたので、これも奇跡の業と言ってもよいでしょう。

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神との結びつきを失って神への不従順と罪を代々受け継いできました。人間は、そのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。人間は神聖な神とあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしても、宗教的な修行を積んでも、人間は心と体と魂に染みついている罪と不従順を消去することはできず、自ら神聖な存在に変身することはできません。

人間が神との結びつきを回復できて神の国に迎えられるように問題を解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。神は、人間が罪と不従順の汚れを自分で除去できない以上、その罰を全部自分のひとり子に請け負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。私たち人間は、まさにイエス様が十字架で流した血を代価として、罪と不従順の奴隷状態から買い戻されたのです。神は、私たちの命をそれくらい価値あるものと見て下さったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を今度は死から復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉も人間のために開かれました。私たち人間は、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の身代わりの犠牲に免じて罪が赦されるということが本当に起こり、神との結びつきが回復して、見事に神の国に迎え入れられるのです。私たちのために御自分のひとり子も惜しまなかった愛と恵みの神のみ名が永久にほめたたえられますように。
 
5.

 最後に蛇足ですが、本説教の初めで、時事的な問題や出来事のために、宗教に関わることで否定的な印象を生み出す可能性があると申しました。イエス様に呼びかけられた若者が有無を言わない状態でつき従って行ったというのは、何か宗教団体や宗教運動のいかがわしい勧誘を想起させてしまうのではないかと。しかし、イエス様がいわゆる教祖とか幹部などという宗教指導者と全く異なる方であることは、本説教からも明らかになったと思います。イエス様とは、神の国が一緒について回り、また天と地と人間を造られて人間一人一人に命と人生を与えた神の力が働いた方で、まさに神から送られた神のひとり子でした。それのみならず、最後はそうした神的なものを一切かなぐり捨てて十字架の道に入られた方でした。人間を通して生まれて人間の体を持っていたので、人間と同じ痛み苦しみを味わえる者として、本当に痛みと苦しみを味わうことになると知りながら、あえて十字架の道に入られたのです。そうしないと、私たち人間はいつまでたっても神との結びつきを回復できず神の国に入ることができないからです。手足を五寸釘で打ちつけられて、わき腹をこれでもかと槍で刺されて、本当に痛みと苦しみの中で死に絶えました。そして三日後、天地創造の神の力によって、復活の体と命をもって復活させられました。このような方に、宗教指導者という名称はあてはまりません。

 それから、イエス様に「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われて弟子になった若者たちはどうなったでしょうか?彼らは宗教団体の教祖とか幹部だったでしょうか?彼らの使命はと言えば、それは、イエス様と始終共にいて、彼の教えと業をつぶさに見聞きすること、そしてイエス様から受けた教えと授かった力をもって宣教することでした(マルコ31315節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの迫害を顧みない命を賭した証言を聞いて、イエス様を知らなかった人たちが彼を救い主と信じるようになる、そういう連鎖反応が起こっていきました。その集大成として聖書の新約の部分ができあがったのであります。弟子たちの証言と旧約新約双方の聖書がなければ、誰も信仰を持つことができず、主が扉を開いた神の国にも入れません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現された救済が国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする役割を担ったのであります。

 その時、彼らはどんな教えをひろめたでしょうか?それは皆様に使徒書簡をしっかり読んでいただくようお願いしたく思います。時事的な問題や出来事からキリスト信仰を捉えようとする向きには、イエス様の十字架と復活というものが本当はどんな倫理道徳を生み出すのか、一つの例として使徒パウロの次の言葉を見てみるとよいと思います。これはほんの一例です。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12921節)

 またパウロは、聖霊を受けた信仰者は、聖霊が結ぶ実を結べる器にされていくとし、その実として、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をあげています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン



2015年1月12日月曜日

なぜイエス様は洗礼を受けなければならなかったのか? (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2015年1月11日 主の洗礼日

イザヤ書42章1節-7節
使徒言行録10章34-38節
マルコによる福音書1章9節-11節

説教題 「なぜイエス様は洗礼を受けなければならなかったのか?」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?マルコ14節に、ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えていたとあります。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しを得られるために、今神に背を向けて生きている生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼と言い換えてよいと思います。罪の赦しそのものを与える洗礼は、復活後のイエス様が命じた洗礼なので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の洗礼、方向転換の印としての洗礼ということになります。いずれにしても、イエス様のように方向転換するもなにも、そもそも神の霊によって宿り乙女から生まれ、罪の汚れもしみもない神のみ子にどうして洗礼など必要なのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を目の前にして、洗礼者ヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。

 なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?本日はこの問いの答えを明らかにしていこうと思います。

2.

 なぜイエス様はヨハネから洗礼を受ける必要があったのか?この問いの答えを見つけようとする場合、まず、イエス様が行ったり教えたりしたこと、さらにイエス様に起こった出来事の全ては神の人間救済計画の実現に関係があるということをよく覚えておく必要があります。つまり、イエス様の洗礼も神の人間救済計画の実現に結びついているのです。そこで初めに、神の人間救済計画とは何か、ということがわからなければなりません。それは大体以下のようなことです。

創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神との結びつきを失って生きていかなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と教えている通りです(ローマ623節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできないのです。そこで、父なるみ神は、人間が再び造り主である自分との結びつきを持ってこの世を生きられ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済です。

人間が神聖な神との結びつきを回復できるようになるためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子がゴルガタの十字架の上で血みどろになって流した血が、私たち人間を罪の奴隷状態から解放する身代金となったのです(マルコ1045節、エフェソ17節、1テモテ26節、1ペテロ11819節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。人間は、神がみ子イエス様を用いて実現した「罪の赦しの救い」を受け取ることで、彼の身代わりの死に免じて罪を赦されて、神との結びつきを回復することができるようになったのです。つまり、救われるのです。「罪の赦しの救い」を受け取るというのは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、神との結びつきを回復できた人間は、この世の人生の段階で、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めることになります。神との結びつきがあるので順境の時にも逆境の時にも常に神から良い導きと助けを得られて生きられるようになり、万が一この世から死んでも、その時は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。

以上が、神の人間救済計画とその実現についてでした。それでは、イエス様が洗礼を受けたことが、この神の人間救済計画の実現にどう結びつき、どう役立ったのかをみていきましょう。

神のみ子であるイエス様は、洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間たちと同列に加えられることとなりました。「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる、ということです。このことは、元日礼拝の説教でも触れました。その時は、イエス様の割礼が福音書の箇所でした(ルカ22124節)。イエス様は、割礼を受けることで、外面的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のみ子が、神聖さを欠いて罪の汚れを持つ人間の立場を持たされました。人間の中でも、罪の汚れから贖われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならないユダヤ民族の立場を持たされたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのにもかかわらず、全く逆の立場を持たされることによって神からの罰を罰として本気で受け、死の苦しみを本気で受けて本気で死ぬ者になったのです。もしイエス様がこうした立場を持たされずに、単に神聖な立場のままにいたら、死も苦しみもイエス様に近寄ることはできなかったでしょう。パウロが述べたように、「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア44節)のであります。ただ、何度も繰り返すように、我々と同列に加えられ人間と同じ立場を持たされたとは言っても、イエス様は不従順と罪は持たない神聖な神のみ子だったのです(ヘブライ415節)。そのような方が、人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また御自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」218節に言われるように、主は、試練に遭う者たちを本当にわかって助けることができるのです。

人間と同列に加わったというのは、神が人間に寄り添う姿勢を示したとか、人間と連帯しようとしたなどと言うことが出来ます。ただし、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、この「同列に加わる」というのは、「寄り添う」とか「連帯」という言葉では言い尽くせない、そんな言葉が生易しく聞こえてしまう位もっと大きな意味があるということです。どういうことかと言うと、先ほど、神の人間救済というものは、神が人間に与える「罪の赦しの救い」であると申し上げました。この「罪の赦しの救い」を実現するためには、誰かが人間にかわって罪の罰を受ける犠牲にならなければなりませんでした。もし罰が起きなければ、神は罪を是認したことになるからです。しかし、神は人間が背負いきれない罰を背負って押し潰されて滅んでしまうのを望まなかった。罪は断固として認めないが、しかし人間は救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は犠牲を自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の下に置かれ、さらに洗礼者ヨハネから洗礼を受けなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア313節)。イエス様が人間と同列に加わった、と言う時、私たちは、この「わたしたちのために呪いとなった」ということ、イエス様が人間に降りかかって染みついている呪いを全て自分のものとして請け負って下さったことをいつも心に刻み付けておかなければなりません。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり、連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は、もっともっと根本的なものであるということを忘れてはなりません。

3.

イエス様が洗礼を受けたのは、私たち人間と同列に加わるという意味があったということが明らかになりました。同列に加わると言っても、とても深い根本的な意味があることもわかりました。ここで角度を少し変えて、今度は洗礼を受けた時にイエス様に聖霊が降ったり、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声も轟いたという出来事を中心にイエス様の洗礼をみていきましょう。この出来事は、本日の旧約の日課であるイザヤ書4217で言われている預言の成就です。イエス様の洗礼は、預言の成就のためになされる必要があったということが明らかになります。そこで、この預言の内容を見てみる必要があります。

このイザヤ書の箇所で、神は、将来地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が神からの霊、つまり聖霊を受け、同時に神から特別な力を与えられて、何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?

私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが強調されます。しかし、これは困った訳と言わざるを得ません。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体なんなのでしょう?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?裁判官や陪審員が訴訟で「判決を導き出す」という言い方はあるでしょうが、「判決を置く」という言い方はあるでしょうか?私も含めてここにいる皆さんは「裁き」という言葉、「導き出す」という言葉、「置く」という言葉のそれぞれの単語の意味はわかるでしょう。しかし、意味がわかる単語をそのままくっつけて文にした時、その文も同じように意味がわかるかというと必ずしもそうならないことがあるのです。受験の国語の成績が良い人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにあるのでしょうか?

いずれにしても、私たちは、個々の単語の意味がなまじっかわかるのでそれをつなぎ合わせた文も何となくわかったつもりで読み進んでしまう。すると立ち止まって、振り返ってみるとどうでしょう。これは一体何だったのだろうということが起きてしまうのです。そういうわけで、皆様も聖書を読む際には「この箇所は一体何が言いたいんだ」という追及する姿勢をお持ちになることをお奨めします。理解が難しい箇所は無数に出てくると思います。その中でも、「ここは今の自分にとって何か大きな意味があるのではないか」というような箇所があったら、立ち止まって何度か読み返して考えてみたり、聖書の他の箇所を手掛かりにして理解できるか試みたりして下さい。神からの知恵を祈り求めることも忘れてはなりません。それでも自分の力で解明できない時は、注釈書を繙いたり、牧師先生や宣教師に聞いたりしましょう。そうすることで神の御言葉である聖書と私たち自身の関係は深くなります。逆に言えばそうしないと深くなりません。

少し脱線しましたが、イザヤ書42章の神の僕の活動についてみていきます。神の僕が携わることになると強調されている「裁き」ですが、これはヘブライ語の元の単語はミシュパートמשפטと言い、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」という広い意味があります。その広い意味から、「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、広い意味から限定した意味はそれだけに尽きません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」ということを出発点にすれば、「裁き」や「判決」の他にも、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。他にもまだあります。参考までに、各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の新共同訳の「裁き」をどう言っているか見てみましょう。英語の聖書は大抵justice、ずばり「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Rechtで「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデンのルター派教会が使用している聖書ではrätten、これは「権利」の意味が強くなります。フィンランドのルター派国教会が使用している聖書ではoikeus、これは「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味します。以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。それから、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצאשים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳して何の問題もありません。以上から、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民、特にイスラエルの民以外の異邦人をさしますが(גוי)、諸国民に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということであります。

そこで、神の僕がもたらしたり、打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何かを明らかにしなければなりません。神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」ということです。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのでしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が罪の奴隷状態や死の力から解放されることであり、それらから解放されて神との結びつきを持つ者としてこの世を生きることであり、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻るということであります。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのであります。これらは全て、神のみ子イエス様が十字架の死と死からの復活をもってこの世にもたらし、打ち立てたものであります。

イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおりの神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神の人間救済計画を実現するための力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のみ子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすために必要な手続きでした。洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、イエス様が主体的に神の人間救済計画を実現させる活動を始める出発点となったのでした。

4.

以上が、なぜイエス様は洗礼者ヨハネの洗礼を受けなければならなかったかという問いの答えです。洗礼を受けることで、人間と同列に加えられる意味がある。ただし、そこには神の人間救済計画が完全な形で実現されるという深い意味があることがわかりました。加えて、神が預言者を通して約束されたことが成就するという意味がありました。そこから私たちは、神とは真に約束したことを必ず果たされる忠実な方であることを知ることができます。

最後に洗礼者ヨハネがイエス様について、「聖霊をもって洗礼を授ける」(マルコ18節)方であると言ったことについて若干申し上げておきたく思います。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、他の人に起こらなかったことが起こりました。聖霊が彼の上に降ったということです。この聖霊の降臨は、私たちの洗礼にも起きます。つまり、イエス様の洗礼は、後のキリスト信仰の洗礼の先駆けになっているのです。私たちは洗礼を受ける時、水をかけられますが、「聖霊をもって」する洗礼、洗礼される人に聖霊が降る洗礼とは、どういう洗礼でしょうか?

私たちは洗礼を受ける時、聖書を朗読して神の御言葉と結びつけられた形で水をかけられます。化学や物理学を用いた計測では、水は御言葉に結びつけられてもられなくても水としての成分は同じです。しかし、御言葉に結びつけられた水は、神の目から見ると、これは聖霊が降る洗礼を可能にする要素に変貌しているのです。聖霊が降るということについて、少し詳しく言うと、人は洗礼を受ける前にも、既にイエス様を救い主と信じ始めます。遥か昔の彼の地で起きた出来事は現代を生きるこの自分のためになされたのだということをわかり始めます。それが起こるのは、聖霊がその人に働き始めたからであります。使徒パウロが教えるように、聖霊の力が働かなければ、人はイエス様を救い主と信じることはできません(第一コリント123節)。イエス様を何か歴史上の人物の一人として知識で知ってはいても、それは自分の救い主として信じることとは何の関係もないのです。聖霊が働かなければ、イエス様について知っていることは単なる知識にとどまるだけです。

しかし、洗礼を受けることで、人は持続的に聖霊の影響力のもとに置かれることになります。これは赤ちゃんも同じです。「罪の赦しの救い」は神からの贈り物である以上、赤ちゃんも、親の愛を注がれてただそれを受け取るのと同じように神の贈り物も受け取るのです。赤ちゃんや子供が、その後の人生で聖霊の力が働く受け皿として育っていくかどうかは、あとは家庭や教会がどう育てていくかということに大きくかかってきます。 

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは聖霊を受けた者として、神のことを「アッバ、お父さん」と呼べるくらい神の子とされていることを忘れないようにしましょう。使徒パウロが随所で教えているように、神の子とされているならば、それはイエス様と兄弟の立場を持たされているということです。イエス様と共に神の御国を継ぐ跡継ぎにされているのです(ローマ81517節、29節、ガラテア32727節、457節、エフェソ11114節)。そのことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン