2013年1月29日火曜日

罪の自覚 (吉村博明)


 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
 
主日礼拝説教 201327日顕現節第四主日 横浜教会
 
エレミア書1:9-12、
コリントの信徒への第一の手紙12:12-26、
ルカによる福音書5:1-11

説教題 「罪の自覚」
 
 
私たちの父なる神とイエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                     アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
 舟も沈まんばかりの大量の魚。それを見たペトロは、イエス様に「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んでしまう。なぜペトロはこの時、自分は罪びとであると罪の告白をしたのでしょうか?9節をみると、夥しい大量の魚をみて恐れおののいていることが、そう告白するようになった原因のように書かれています(θαμβος γαρ περιεσχεν αυτον [.......] επι των ιχθυων [.....])。ペトロは大量の魚を見て何を恐れたのでしょうか?そして、恐れることがどうして罪の告白になったのでしょうか?本説教では、そうしたことを中心にみていきたいと思います。
 
 
1.
 
イエス様はガリラヤ湖の岸辺で群衆に教えを宣べています。教えの内容については触れられていませんが、4つの福音書の記述から、次のような内容であったことは十分に推察できます。つまり、神の国が近づいたこと、人間は罪の赦しを受けて神の国の一員となれるが、その罪の赦しが間もなくメシアの働きで実現すること、そして人間が罪の赦しを得られるためには、神が人間に望んでおられることは何かをしっかり学び、そこから人間は悔い改めて神のもとに立ち返る心を持つ必要があること、これらのことが考えられます。
 
岸辺には大勢の人が集まってイエス様の教えを間近で聞こうと、どんどん迫ってきます。イエス様のすぐ後ろは湖です。その時、イエス様は岸辺に漁師の舟が二そうとまっているのを目にします。ちょうど漁師が舟から降りて、向こうで網を洗っているところでした。イエス様は、ペトロの所有する舟に乗って、彼に命じて岸から少し離れたところまで漕がせて、今度は舟から岸辺の群衆に向かって教え続けました。ひと通り教えた後で、今度はペトロに命じてもう少し沖合まで漕いで、魚を捕るべく網を投げるよう命じます。
 
ところがペトロは、夜通し頑張ったが何も捕れなかった、と応じます。夜の暗い時というのは、魚捕りに最適な時なので、それでも何も捕れないのであれば、日中明るい時はなおさら捕れないではないか。ペテロの応答にはイエス様の命令に対する懐疑が窺われます。しかし、すぐそれをかき消すように、あなたのお言葉ですから網を投げ入れてみましょう、と言って言う通りにします。この時ペトロはイエス様のことを、何か上に立つ者、指導的立場にある者を意味する言葉エピスタテースεπιστατηςで呼んでいます。新共同訳では「先生」となっていますが、「先生」を意味する言葉ディダスカロスδιδασκαλοςは使われていません。ペテロはイエス様のことを単に教える人というより、何か上に立って指導的な立場にある人とのイメージがあったのでしょう。それで、職業漁師の自分としては無駄だとは思うが、そのような立場の方がおっしゃるならその通りにいたしましょう、と聞き従うことにしたのであります。イエス様は、既にガリラヤ全土で権威ある教えと奇跡の業によって名声を博しています。ペテロもその噂は耳にしていたでしょう。夜通しやってみて収穫ゼロだったけれども、この方は奇跡も行われる方なので、この期待薄の日中に何らかの収穫があれば、それでも立派な奇跡ではないか、そんな考えがあったのではないかなどと想像したりします。
 
ところが、結果は何らかの収穫どころではありませんでした。網も破れんばかりの夥しい魚の量。もう一隻の舟が応援にかけつけるも、このままでは二隻とも沈んでしまう位の量の魚で舟は溢れかえります。全く予期もしなかった出来事が目の前に現れました。恐れを抱いたペトロは叫びます。「私から離れて下さい!なぜなら私は罪びとだからです!」その時ペトロは、イエス様のことを先ほどまでの「上に立つ者」を意味する言葉で呼ばず、今度は神を言い表す言葉キュリオスκυριος「主」と呼びます。ペテロの罪の告白は、神に対する告白となったのです。
 
それでは、ペトロは何に恐れを抱き、そしてどうしてその恐れから神に対する罪の告白をするようになったのでしょうか?ペトロが恐れたのは舟が沈みかけたことではありません。ペトロが金槌でないことは、ヨハネ21章で、復活したイエス様に真っ先に会おうと上着を着けたまま水に飛び込んで岸まで泳ぐ場面があったことに明らかです。ペトロが恐れたのは、いま目の前に起きている信じられない光景の中に神の力が働いたことをみたからです。神の力が働いたのをみたということは、神が自分の間近にいた、ということです。神を間近に見たりすることが人間に大きな恐れを抱かせることは、イザヤ書6章に端的に表されています。ユダ王国が国王国民こぞって神の意思に背くような道を歩んでいた頃、預言者イザヤはエルサレムの神殿で神を目撃してしまいます。その時、イザヤは「私などは呪われてしまえ。私は滅びに定められてしまったのだから。汚れた唇を持ち、汚れた唇を持つ民の真っただ中に住んでいる者なのに、私の目は万軍の主であり王である神を見てしまったのだから」と悲痛に叫びます。ここには、神聖な神と汚れた人間の間の絶望的な隔たりが一気に明らかになります。神の神聖さには、あらゆる汚れを焼き尽くしてしまう強力な炎のような力が満ちています。イザヤは、神殿の祭壇にあった燃え盛る炭火を唇にあてられ、「お前は悪と罪から贖われた」と宣言されます。イザヤが火傷一つ負わなかったというのは、炭火がイザヤを霊的に清めたことを意味します。人間が真の神を間近に見てしまった場合、その神聖さと全くの対象にある自分の汚れを一気に思い知ることになります。そうなると、神は罪と悪を断じて許さず、焼き尽くすことも辞さない方ですので、そこには当然強い恐れが生じるのです。
 
 
2.
 
人間が神聖な神と全く対照的な存在であると言う時、何が人間をそのような存在にしているのかについて見ていきましょう。創世記3章に人間が罪に陥る堕罪の出来事が記されています。神に造られた最初の人間アダムとエヴァが、悪魔の蛇にそそのかされて、食べてはならない実を食べ、良いことだけでなく悪いこともわかり行えるようになってしまいます。これは、それ自体大きな出来事のようには見えません。単に何か木の実を取って食べたの、食べなかっただのというだけの話のようにみえます。しかし、まさにこの出来事がその後の人間の歴史に重大な影響を及ぼすことになったのです。まず、神がしてはならない、したらこうなってしまうと警告されていたことをあえてしてしまった結果、人間は造り主の神のもとで永遠に平穏無事に生きられる地位を失います。悪魔の蛇の誘惑で、「神のようになれるぞ」と言われ、神に対する驕りと虚栄心が呼び覚まされてしまいました。また、「神は本当はそんなことは言っていないぞ」と言われて、神への懐疑心も呼び覚まされてしまいました。こうして神と人間の関係が崩れてしまったのです。こういうふうに神と張り合ってやろうとか、神について聖書に書かれていることを疑い、ひいては聖書の神の存在さえも疑うというのは、人間の歴史の中でずっと続くことになりました。
 
人間は神の意思に背くような存在になると、神の意思に背くような行為をしたり、言葉を発したり、考えを持ったりするというような罪を犯す存在になりました。しかしながら、人間の罪というのは、こうした行為とか言葉とか考えとか、具体的な形になって現われるものに限りません。マルコ福音書7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派の人たちとの有名な論争があります。そこでイエス様は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚して神聖な神から切り離しているのは人間自身に宿っている諸々の性向なのだから、と教えます。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに背反する汚れに満ちている、というのであります。人間に根底的に汚れがあって、それが基となって神の意思に反する悪い行為、言葉、考えの形をとって表に現われてくる、そういう根底的な汚れがあるのであります。
 
この人間が内在的に有している、神の意思に背こうとする根底的な汚れは、最初の人間から代々受け継がれてきたものであります。フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、罪というものをはっきり二つに分類して言い表す言葉があります。ひとつは、「継承する罪」ないし「遺伝する罪」罪です(フィンランド語perisynti、スウェーデン語arvsynd)。もうひとつは「行為に現れる罪」です(「フ」語tekosynti、「ス」語verksynd)。日本語では罪をこのようにはっきり分けて言い表す言葉はあるでしょうか?日本語では「原罪」という言葉があります。アダムとエヴァのもともとの罪である「原罪」は彼ら以後の人間たちも引きずっているので、その意味では「継承」、「遺伝」する罪なのですが、「原罪」という漢字の言葉だけでは、もともとという意味合いが強く出て、「継承する」とか「遺伝する」という意味は見えにくいのではないでしょうか?
 
いずれにしても、罪には、具体的に現れる形をとらなくても、人間存在の根底にあって、あたかも遺伝子的に人間を罪びとならしめている罪があるのです。このことは、人間は死ぬ存在である、ということにも現れています。食べたら死んでしまうぞと神に警告されていた実を最初の人間は食べてしまいました。人間は、罪と不従順に陥って神から切り離された存在になってしまっただけではなく、死に定められた存在にもなってしまいました。そういうわけで、人間が死ぬということが実は、人間には根底的な罪がある、ということの現れになっているのです。表に具体的に現れないで、人間に根底的にあって遺伝される罪がある。それがために生まれたばかりの赤ちゃんも罪びとなのです。生まれたばかりで、スヤスヤ可愛く眠っている赤ちゃんをみていると、この子が何を悪いことをしたって言うのだろう、罪を犯すなどとは想像もつかない、というのが大方の反応でしょう。しかし、たとえ具体的に形をとって表に現す罪は犯せなくとも、赤ちゃんも存在としてはやはり遺伝継承する罪を背負っているのであります。それゆえ、赤ちゃんと言えども、洗礼は必要なのであります。
 
使徒パウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだ」と教えます(ローマ512節)。まさに罪は、具体的に形をとって現れる罪だけではなく、全ての人間に受け継がれてその根底に横たわり人間の存在を規定している罪がある。そしてすべての具体的な罪というのは、その根底的な罪が生み出しているのであります。イザヤは神殿で神を見てしまう出来事以前に、すでに神に選ばれて預言者になっていました。預言者として神に選ばれた以上、私たちとは別格な人物だったのです。それにもかかわらず、神を目にした時、自分は呪われよ、と言って、罪の告白をするのです(イザヤ書65節)。つまり預言者イザヤも、遺伝継承する罪をしっかり自覚していたのであります。本日の福音書の箇所のペトロも、「私から離れて下さい!私は罪びとなのですから!」と叫んだのは、何か具体的に犯した罪の行為が心に引っかかって言ったというより、イザヤのように神聖な神が間近にいる事態に直面して、そのために、神聖な神と全く対象な自分、遺伝継承する罪を持つ自分の自覚が一気に呼び覚まされたのであります。
 
 
3.
 
それでは、神との関係が崩れて、永遠に造り主のもとに戻れなくなってしまった人間を、神はどう思ったでしょうか?このままではいけない、人間との関係を回復しなければならない、と神は考えました。神との関係回復のためには、人間から罪の汚れを取り除かなければなりません。しかし、人間は自分の力でそれを取り除くことができません。神は存在上、罪を看過したり罰せずにおくことは出来ません。ただし、人間は罪の汚れを取り除くことはできなくても、神からそれを赦されることはできます。神から罪を赦された者として、常に神の方を向いて、神のもとに立ち返る道を歩む、そのようにして神との関係を回復して生きることは出来ます。それが、状況打開の突破口になりました。
 
まさに、この状況打開の実現のために、神は独り子イエス様をこの世に送り、人間の全ての罪と不従順からくる罰を彼に全部負わせて、十字架の上で人間の身代わりとして死なせました。神は、御自分の独り子の身代わりに免じて人間を赦すことにしたのです。さらに、それだけでなく、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命が存在することも示されました。人間は、この神の御子の犠牲の死が本当に自分のために行われたとわかって、イエス様こそが自分の救い主であると信じて洗礼を受ける時、神の罪の赦しはその人に対して本当のことになります。なぜなら、その人は、神がイエス様を用いて整えた救いを信じることで受け取ったからです。神の罪の赦しの救いは、それを受け取った人に対して本当のことになるのです。
 
こうして、神の赦しの救いを受け取った人は、この世にあってはその救いの中で生きることができるようになります。まさに神との関係を回復した者として、順境の時も逆境の時も常に神の守りを得られ、この世から死んだ後は、永遠に神のもとに戻ることが出来るのであります。その人にとって、この世の人生とは、造り主のもとに永遠に戻る道を歩んでいるということになります。実に私たち人間は、最初の人間アダムのために失われてしまったものを、イエス様のおかげで取り戻すことができたのであります。このことについて、使徒パウロは次のように教えています。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされたように、一人の人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」(ローマ51819節)。
 
 
4.

さて、造り主である神のもとに永遠に戻る道を歩むキリスト信仰者ではありますが、罪の汚れが完全に消滅したわけではありません。この世において肉をまとって生きる以上は、他の人たち同様に罪の汚れを宿しています。しかし、神が整えた赦しの救いを受け取っているキリスト信仰者にあっては、罪というものはもはや私たちを神から引き離す力を失っているのです。私たちがこの世から死ぬ時は、イエス様がすぐさま手を伸ばして私たちを神の御許に引き上げて下さいます。このように、罪の赦しの救いとは、人間が遺伝子のごとく代々継承して死の力に服従してしまう原因だった罪に、とどめの一撃を与えたものだったのです。使徒パウロは、いかなるものも信仰にとどまる私たちを神の愛から引き離すことは不可能である、ということを強く教えています。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ83138節)。
 
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年1月23日水曜日

肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2013年1月20日顕現節第三主日 
日本福音ルーテル横須賀教会にて
   
エレミア書1:4-8、
コリントの信徒への第一の手紙12:1-11、
ルカによる福音書4:16-32
  
説教題 「肉眼ではない信仰の目を通してイエス様を見る」

 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

先週の福音書の箇所はルカ3章でした。私たちは、イエス様がヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受け、神からの聖霊が彼に降って特別な力が備えられたことをみました。特別な力とは、神の人間救済計画を実現するための力です。それは、罪と不従順の奴隷状態にあって死の力の支配下にある人間をそこから解放するために、自らを犠牲の身代金として人間を神のもとに買い戻す、つまり人間を罪と死の奴隷状態から贖うという計画でした。洗礼のすぐ後で、イエス様はユダの荒野で40日間にわたって悪魔から誘惑の試練を受けますが、どれも神の御言葉を盾としてはねのけました。神の御言葉には悪魔を退かせる力があること、そして御言葉を真理であると信じる者には悪魔は手の出しようがないということを示す出来事です。この荒野の試練の出来事の後に、本日の福音書の箇所の出来事が来ます。荒野の試練の後でイエス様は、ユダの地からガリラヤの地に移ります。ガリラヤ各地のシナゴーグ、ユダヤ教の教会堂を回って、そこで神の国が近づいたということ、救いがまもなく実現するという福音を人々に伝え始めます。そして神の国が架空のものではないことを示すために数々の奇跡の業を行いました。イエス様の評判はガリラヤ全土に広まりました。イエス様が赤子の時から長年育った故郷の町ナザレに入ったのはちょうどそのような時でした。
 
イエス様のナザレ来訪の目的は、生まれ育った故郷に帰ってのんびり休暇を過ごすということではありません。これまでガリラヤ各地で行ってきたのと全く同じ宣教をするためでした。しかし、顔見知りが多くいる故郷の町では、他の町々と勝手が違いました。どう勝手が違ったか、なぜそのようなことになったか、ということが本日の福音書の箇所の主題と言えます。
 
イエス様は、これまでそうしてきたように、まず町のシナゴーグに入ります。安息日の礼拝で人々に教えるためです。私たちの用いる新共同訳では何気なく「いつものとおり」とありますが、ギリシャ語の意味はもう少し深くて「彼にとって習慣であった」ということです。イエス様が宣教活動を始める前にも安息日にはきちんと欠かさずシナゴーグに通っていたことが窺われます。
 
ところで、当時の礼拝の仕方ですが、ヘブライ語で書かれた旧約聖書の朗読の後、アラム語で解き明かしする説教が行われていました。なぜ二つの言語が出てくるかというと、イスラエルの民はもともとヘブライ語で話したり書いたりしていました。神の言葉も当然もともとはヘブライ語で記されました。ところが紀元前6世紀におきたバビロン捕囚でイスラエルの民は異国の地バビロンに連行されます。捕囚は50年近く続き、これは二、三世代に渡るので、イスラエルの民はその言語がだんだん異国の言語であるアラム語に同化していきます。日本で明治時代からアイヌ民族の同化政策が行われると二、三世代後にはアイヌ語使用者がどんどん失われるという悲劇が起きました。他方、朝鮮半島では日本の支配は35年でしたが、支配側の同化政策にもかかわらず半島の人たちは自分たちの言語をしっかり維持したのは驚嘆に値するのではないでしょうか。
 
話が脇に逸れましたが、捕囚のイスラエルの民は、バビロン帝国を滅ぼして中近東の新しい覇者となったペルシャ帝国の王の計らいでエルサレム帰還が認められます。帰還した民は廃墟となったエルサレムの町と神殿の復興事業にとりかかります。当時の民の苦難と信仰の戦いの出来事については、エズラ記とネヘミア記に記されています。ネヘミア記8章を繙くと、民の指導者が民に向かってモーセの律法を朗読する箇所があります。そこに、朗読者が「律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」とあります(8節)。つまり、ヘブライ語の聖書を朗読しアラム語に翻訳して解説したということであります。こうしてヘブライ語の聖書を神聖な最高権威の書として朗読してから、民が理解できるアラム語に訳したり解説したりすることが始まります。この形の礼拝が、イエス様の時代のシナゴーグの礼拝の時にも続いていたということであります。
 
さて、シナゴーグの会堂長は、その日の神の御言葉の朗読と解き明しの説教をする人を、今やガリラヤ全土に名声を博している御当地出身のイエスに依頼しました。会堂は参会者で一杯です。イエス様に神の御言葉が記された巻物が手渡されます。巻物というのは、同じ大きさの紙を重ねて閉じるという方式で作った本ではなく、動物の皮をつなぎ合わせてそこに文字を記して巻物にした形の書物です。皆様も耳にしたことのある死海文書というのもこういう形の書物です。イエス様は立って、イザヤ書61章の最初の部分を朗読しました。そこは、神に油注がれた者、つまりメシアが神の霊を受けて、捕らわれ人に解放を、心を打ち砕かれた人に心の癒しを、目の見えない人に目が見えるようになる、という喜びの知らせを伝える、そして主なる神の恵みの年、恵みの時が到来したことを告げ知らせる、という内容です。このルカ福音書に引用されているイザヤ61章は、旧約聖書にあるイザヤ書の同じ章の文と少し違います。新共同訳にあるイザヤ書はヘブライ語の聖書を和訳したものです。どうしてヘブライ語聖書のイザヤ書とイエス様が引用したイザヤ書に違いがあるかというと、これは、イエス様が読み間違えたのでも、また福音書を書いたルカが間違えたのでもありません。ルカ福音書にあるイザヤ書の引用ですが、これはギリシャ語版の旧約聖書からのものなのです。ヘブライ語で書かれた神の御言葉は、紀元前32世紀頃に大々的にギリシャ語に翻訳されます。当時の地中海世界にはヘブライ語やアラム語ができないギリシャ語を主要言語とするユダヤ人が大勢いたのです。イエス様は、間違いなくヘブライ語の聖書を朗読し、その後でアラム語で解き明しの説教をしたでしょう。その出来事を文章にしたルカはギリシャ語で書いています。ルカは手元にヘブライ語の旧約聖書がなかったのか、またはギリシャ語の方が出来るのでギリシャ語の訳を参照したということなのでしょう。そういうわけで、私たちも、新約聖書を読むとき、そこに旧約聖書の引用があって、少し違っているというのを見つけた時は、福音書記者や使徒たちが間違えたとか、すぐに安易に決めつけないようにしましょう。
 
朗読した後、イエス様は巻物を係の者に返して、席につきます。席というのは、説教者の座る所ですので、会堂の人たちの視線が一気にイエス様に注がれます。とても緊迫感のある場面です。イエス様が口を開きます。「今日、この聖書の言葉は、あなたがたが耳にしたとき(ないしは、あなたがたが耳にした如くに、聞いた通りにεν τοις ωσιν υμων)、実現した。」この言葉の後でイエス様は解き明しをしていきますが、それについてはルカ福音書では記述されていません。22節に、参会者の「みんなは、その口からでる恵み深い言葉(複数形)に驚いた」とあり、解き明しを続けたのは間違いありません。内容的には、間違いなく、神の国が近づいたこと、救いがまもなく実現すること、そのために悔い改め、つまり各自神のもとに立ち返るよう促すことが中心だったでしょう。いずれにしても、イザヤの言葉が実現した、と冒頭で宣言した時、この油注がれたメシア、神の霊を受けて、解放や目の開眼や癒しや神の恵みの時の到来を告げ知らせるのはこの自分である、と証したのであります。(ところで、「主の恵みの年」という言葉についてですが、これとレビ記25章にある「ヨベルの年」との関係をみることは興味深いテーマですが、時間の都合上、本説教では取り上げないこととします。)
 
 
2.

ところが、ここで状況が一変する出来事が起きます。聴衆は、イエス様の口から出る恵み深い言葉を驚きを持って聴いている。同時に、彼らは、あの男は一体何者だったっけ、というようなことも気にし出す(μαρτυρεω「証する」という動詞は、与格の目的語を伴うと、肯定的にも否定的にもその者について証する意味があります)。というのは、説教者が御当地でよく見慣れた顔だったからです。そこで誰かが「あいつは、大工のヨセフの息子じゃないか!」と叫び、他の者も一同に「あっ、そう言えば確かにそうだった」と同調していきます。この時点まで、人々は、神の人間救済計画の実現が近づいた、この方はその実現の担い手なのだ、ということがすぐそこまで本当だと信じられるところまで来ていました。ところが、それが突然消えうせて、目の前にいるのは、みんなも知っている近所の若造にすぎなかった、ということになったのです。つまり、これまでは、聴衆の目の前で語るイエス様は肉眼に映る像を超えた存在でした。それが、突然、肉眼に映る像に戻っていまい、それ以上の何ものでもなくなってしまったのです。もう少しで肉眼の目ではない心の目、信仰の目が持てるところまでいっていたのに、肉眼の目に戻ってしまった。その目で得られる像が真実だと思うようになってしまったのです。
 
信仰の目とはどういう目かというと、神が人間を罪と死の奴隷状態から救い出そうという御心意思を持っていることを見ることができる目であり、神は救いを実現するために御自分の独り子をこの世に送られたという真理を見ることのできる目であります。この真理は肉眼では見えません。肉眼では、目の前にいる男は単なる大工の息子にしか見えません。信仰の目を通して見るイエス様は、まさに天と地と人間を造られた神が提示するイエス像であります。それは、人間が限界ある知識を駆使して、ああだ、こうだと言って造り上げたイエス像ではなく、神の計り知れない知恵に助けられて知ることのできるイエス像であります。
 
イエス様は、信仰の目から肉眼の目に戻ってしまった聴衆の変化に気づきました。こうなってしまったら、ナザレの人たちは奇跡でも行わない限り信じないということもわかりました。イエス様は、ナザレの人たちが自分に向かって「医者よ、自分を治してみろ」と言いたくて仕方がないと見破ります。「医者よ、自分を治してみろ」というのは、そうしたらお前が良い医者であると信じてやろう、ということであります。これに加えてナザレの人たちはイエス様に向かって、カファルナウムで行ったのと同じ奇跡を故郷の町でもやってみろ、そうしたら信じてやろう、そう言いたくて仕方がないと見破ります。
 
しかしながら、イエス様は、ナザレの人たちには奇跡を行うことはしませんでした(マルコ65節、マタイ1358節も参照)。そのかわりに、旧約聖書の記述をもってそれを彼らの真の姿を映し出す鏡のように用いて、彼らがどういう人間であるかを示しました。旧約聖書の記述とは、一つは列王記上17章にある預言者エリアが大飢饉の時にシドンのサレプタのやもめを餓死から救ったという出来事、もう一つは列王記下5章にある預言者エリシャがアラムの王の軍司令官ナアマンのらい病を完治した出来事についてです。サレプタのやもめもナアマンもイスラエルの民に属さない異教徒の民でした。当時のイスラエル北王国は神の道に背く道を歩んでいました。神は、御自分の預言者を自分の民のもとには送らず、異教徒に属する者に送り、彼らを助けたのでした。イエス様は、ナザレに奇跡を行う預言者が送られないのはこれと全く同じであると言うのであります。つまり、ナザレの人たちは、かつて不信仰に陥っていたイスラエル北王国と同じ立場にある、というのです。これを聞いた聴衆は激怒します。怒り狂ったと言ってもいいでしょう。イエス様をシナゴーグから追い出し、そのまま山の上まで追いやってそこの崖から突き落とそうとします。しかし、不思議なことにイエス様は群衆をすり抜けて行き、難を逃れます。普通なら群衆の押し出す力で人ひとり崖から突き落とすのはたやすいことだったでしょう。どうやって群衆の力をかわせたのか、詳細については何も記されていません。これも奇跡の業だったと考えられます。イエス様は、十字架と復活の出来事のためにこの世に送られた以上、それが実現するまではどんなに絶体絶命の危険が起きても、ゴルガタの時までは神はイエス様が滅びるようなことは一切認めなかったのであります。

 
3.

ところで、イエス様はなぜナザレの人たちが御自分に対して攻撃的になるようなことを言ったのでしょうか?肉眼の目に戻ってしまった人たちを信仰の目に戻すことは考えなかったのでしょうか?先ほども触れましたように、ナザレの人たちがイエス様をメシア、救い主と信じるようになるためには、もはや奇跡を見せないと効き目がない、ということをイエス様はわかっていました。もちろん、奇跡を目撃したり体験したりすることを出発点として信仰に入ることも可能です(ヨハネ1411節)。しかし、そこには、ただ超自然的な力が原因となって神を畏れるというだけにとどまってしまう危険があります。本当の信仰とは、たとえ肉眼で見なくとも、神が人間救済の意思と計画を持ち、それを独り子イエス様を用いて実現したということが真理であると信じることであります。ちょうどイエス様が不信心のトマスに対して「見ないのに信じる人は幸いである」と言われた通りです(ヨハネ2029節)。奇跡を目撃したり体験したりして信仰に入るというのは、結局のところ、肉眼に頼る信仰で、必ずしも信仰の目を持ってする信仰にはならないのです。イエス様がナザレの人たちに対して肉眼に頼る信仰を認めなかったということは、ある意味で彼らに、信仰の目をもってする信仰に導く道を開いたということでもあります。しかしながら、彼らの反応は残念なことに、メシア救世主を殺害するという、それ自体実現不可能、考え方としては自暴自虐そのものと言える行為に走りました。イエス様を殺害して十字架と復活の出来事を起こさせないようにするというのは、神の人間救済計画の実現を妨害するということですから。
 
ナザレの人たちは、肉眼に頼る信仰の道を絶たれた時、なぜ信仰の目をもってする信仰の道を目指すことを考えなかったのでしょうか?この大きな原因は、彼らが自分たちは罪と不従順に陥っているということを認められなかった、ないしは認めたくなかったからです。イエス様は、彼らがエリヤとエリシャの時代のイスラエル北王国の罪の状態と同じであると明確に指摘しました。しかし、ナザレの人たちは、それで謙虚に立ち止まって自分たちの生き方を神の意思に照らし合わせて自省することをしませんでした。全く正反対に、自分たちは、かつて神の罰として滅亡した王国と同列視されるような罪は何も犯していない、といきり立ってしまったのです。
 
このことからも明らかなように、信仰の目をもってする信仰、信仰の目をもってイエス様を見ることができるためには、自分が生まれながらに神に対する不従順と神の意思に反する罪をたくさん持っているということと、そのような罪を思いと行いと言葉によって犯してきたということを認めることができるかどうかにかかってくると思います。人によっては、具体的にどんな罪を犯したか心当たりがないという人もいるかもしれません。しかし、人間は最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順に陥り罪を犯したために死ぬ存在となってしまいました。それで、人間が死ぬということ自体が人間の罪性、不従順性を現しているのであります。人間を造られた神は、人間がこの世から死んだ後、永遠に造り主である自分の元にもどれるようにと、またこの世の人生の段階ではそのような永遠の命に至る道を歩めるようにと、さらに歩む際には順境にあっても逆境にあっても造り主の守りを得て歩めるようにと、そのために独り子イエス様をこの世に送られ、彼に人間の罪と不従順がもたらす罰を全て身代わりに受けさせました。人間は、イエス様のこの身代わりの罰受けが本当に自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、その瞬間、イエス様の身代わりの罰受けはその人に本当に起きたことになるのです。この時、その人の信仰には信仰の目が伴っています。神の意思と計画が真理であるとわかるために、奇跡や超自然的な力に頼る必要が全くありません。また、人間が限界ある知識をもって構築したイエス像をみることがあっても、それは使徒信条や二ケア信条のようなキリスト教の信仰告白で私たちが告白するイエス・キリストと全く異なるものであるとすぐわかります。信仰の目をもって見るイエス様は、信仰告白のイエス・キリスト像の中に凝縮されています。
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2013年1月14日月曜日

イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年1月13日主の洗礼日 
日本福音ルーテル日吉教会にて

イザヤ書42:1-7
使徒言行録10:34-38、
ルカによる福音書3:15-22
 
説教題 「イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

 イエス様が洗礼を受けるとは、一体どういうことか?洗礼と言えば、ルターが小教理問答書の中で端的に述べているように、「罪の赦しをもたらし、私たちを死と悪魔から救い出すもの、そして神の言葉と約束を信じる者全てに永遠の幸いを与えるもの」であります。イエス様のような聖霊によって宿り、罪の汚れもしみもない神の御子にどうして洗礼が必要なのか?イエス様の洗礼の出来事について詳しく記述してあるマタイ31317節をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を目の前にして、洗礼者ヨハネはとまどいます。それもそのはず、「私の後に強大な方が来られる。その方は聖霊と火をもってあなたたちに洗礼を授ける。私はその方の履物を脱がす値打もない」と自分が証しした救世主がわざわざ洗礼を受けにやってきたからです。それでヨハネは、「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と述べたのであります。
 
 なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?この問題について、ちょうど二年前、本日吉教会のこの同じ説教壇に立ってお話しいたしました。その時の福音書の箇所は、先ほど申しましたマタイ31317節でした。その時の説教題は「イエス様の洗礼に現れた神の恵み」というもので、今回は「イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛」です。洗礼で現れたものが異なっているように見えますが、実は同じものです。「神の恵み」も「神の正義と愛」も、言葉は違いますが同じものを指しています。いわば、同じものを別の角度から眺めるだけのことでして、そうすることで、その同じものが、いつも一つの角度から眺めていた時よりも、もっと大きく深く豊かなものであることがわかるようになるのであります。
 
なぜイエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要があったのか、ということについて、初めは、二年前にお話ししたことを少しおさらいしながら、少しずつそれを別の角度から眺めていこうと思います。

 
2.

 まず、イエス様の洗礼は神の人間救済計画と結びついている、ということをしっかり覚えておく必要があります。神の人間救済計画とは、以下のようなことです。創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥り罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と述べている通りです(ローマ623節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力の下に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできません。そこで、父なる神は、人間が再び造り主である御自分のもとに戻れるようにと計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済計画です。
 
人間が神聖な神のもとに戻れるようにするためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が、私たちを罪の奴隷状態から解放する身代金となったのであります(マルコ1045節、エフェソ17節、1テモテ26節、1ペテロ11819節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた復活の命、永遠の命が存在することを示されました。人間は、この神が御子を用いて実現した「赦しの救い」を受け入れることで、救いに与ることができます。つまり、救われるのです。「赦しの救い」を受け入れることとは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、人間は、この世の人生の段階で、復活の命、永遠の命に至る道を歩み始めることができるようになります。順境の時にも逆境の時にも常に神の御手に守られて生きるようになり、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。
 
それでは、イエス様が洗礼を受けたことが、この神の人間救済計画の実現にどう結びつき、どう資するのかをみてみましょう。
 
洗礼を受けることで神の御子であるイエス様は、洗礼を必要とする人間たちの同列に加えられることとなりました。「フィリピの信徒への手紙」2章に書いてある通りです。つまり、「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる。パウロが言うように、「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア44節)のであります。ただ、我々と同列に加わえられたと言っても、人間の持つ不従順と罪は持たない神聖な神の御子でした(ヘブライ415節)。そのような方が、人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また自分自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかった。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」218節に言われるように、主は、試練に遭う者たちを助けることができるのであります。
 
人間と同列に加わったというのは、神が人間に寄り添う姿勢を示したとか、人間と連帯しようとしたなどと言うことが出来ます。ただし、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、この「同列に加わる」というのは、「寄り添う」とか「連帯」という言葉では言い尽くせない、そんな言葉が生易しく聞こえてしまう位もっと大きな意味があるということです。このことは、神の御子がどうして人間として生まれてこなければならなかったか、というクリスマスのテーマにも関わってきます。
 
先ほど、神の人間救済というものは、神が人間に与える「罪の赦しの救い」であると申し上げました。ところで、この「赦しの救い」を実現するためには、誰かが人間にかわって罪の罰を受ける犠牲にならなければなりませんでした。もし罰が起きなければ、神は罪を是認したことになります。しかし、神は人間が背負いきれない罰を背負わされて押し潰されるように滅んでしまうのを望まなかった。罪は断固として認めないが、しかし人間は救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は犠牲を自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのであります。そうすることで、使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア313節)。イエス様が人間と同列に加わった、と言う時、私たちは、この「わたしたちのために呪いとなった」ということ、イエス様が人間に降りかかって染みついている呪いを全て自分のものとして引き取って下さったことをいつも心に刻み付けておかなければなりません。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり、連帯したりしますが、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は、もっともっと根本的なものであるということを忘れてはなりません。
 
 
3.
  
イエス様が洗礼を受けたのは、私たち人間と同列に加わるという意味があったということが明らかになりました。同列に加わると言っても、とても深い根本的な意味があることもわかりました。ここで角度を少し変えて、今度は洗礼を受けた時にイエス様に聖霊が降ったり、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声も轟いたという出来事を中心にイエス様の洗礼をみていきましょう。この出来事は、本日の旧約の日課であるイザヤ書4217で言われている預言の成就です。そこで、この預言を見てみる必要があります。
  
このイザヤ書の箇所で、神は、将来地上で活動する僕(つまり御子イエス様)が神からの霊を受け、また神から特別な力を与えられて、何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?
 
私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返され、神の僕が何か裁きに携わることが強調されます
。しかし、これは困った訳と言わざるを得ません。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体なんなのでしょう?「裁き」は「導き出す」ものなのでしょうか?「置く」ものなのでしょうか?裁判官や陪審員が困難な訴訟で「判決を導き出す」という言い方はあるでしょうが、「判決を置く」という言い方はあるでしょうか?私も含めてここにいる皆さんは「裁き」とか「導き出す」とか「置く」という個々の単語の意味はわかるでしょう。しかし、意味がわかる単語をそのままつなげて文にした時、その文も同じように意味がわかるかというと必ずしもそうならないことがあるのです。受験国語の成績の良かった人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書の本来の意味と同じであるとどうやってわかるのでしょうか?
 
いずれにしても、私たちは、個々の単語の意味がなまじっかわかるのでそれをつなぎ合わせた文も何となくわかったつもりで読み進んでしまう。すると、振り返ってみるとどうでしょう。これは一体何だったのだろうということが起きてしまうのです。そういうわけで、皆様も聖書を読む際には「この箇所は一体何が言いたいんだ」という追及する姿勢をお持ちになることをお奨めします。理解が難しい箇所は無数に出てくると思います。その中でも、「ここは今の自分にとって何か大きな意味があるのではないか」というような箇所があったら、立ち止まって何度か読み返して考えてみたり、聖書の他の箇所を手掛かりにして理解できるか試みたりして下さい。神からの知恵を祈り求めることも忘れてはなりません。それでも自分の力で解明できない時は、注釈書を繙いたり、牧師先生や宣教師に聞いたりしましょう。そうすることで神の御言葉である聖書と私たち自身の関係は深くなります。逆に言えばそうしないと深くなりません。
 
少し脱線しましたが、イザヤ書42章の神の僕の活動についてみていきます。神の僕が携わることになると強調されている「裁き」ですが、ヘブライ語の元の単語であるミシュパートמשפטは、広い意味では「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」というものです。そこから、「裁き」とか「判決」というような意味に限定することができます。しかし意味の限定はそれだけに尽きません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」ということから、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。他にもまだあります。参考までに、各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の新共同訳の「裁き」をどう言っているか見てみますと、英語の聖書は大抵justice、ずばり「正しいこと」、「正義」です。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Rechtで「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデンのルター派国教会が使用している聖書ではrätten、これは「権利」の意味が強くなります。フィンランドのルター派国教会が使用している聖書ではoikeus、これは「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味します。以上のようなわけで、イザヤ42章の最初に言われる神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」を指していると理解することにします。それから、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞יצאשיםも、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と理解してそう訳しても何の問題もありません。以上から、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民、特にイスラエルの民以外の異邦人をさしますが(גוי)、諸国民に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を据える、打ち立てる」ということであります。
 
そこで、神の僕がもたらしたり、打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何かを明らかにしなければなりません。神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」ということです。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのでしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が罪の奴隷状態や死の力から解放されることであり、それらから解放された者としてこの世を生きることであり、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻るということであります。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのであります。これらは全て、神の僕イエス様が十字架の死と死からの復活をもってこの世にもたらし、打ち立てたものであります。
 
イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおりの神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神の人間救済計画を実現するための力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神の御子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすために必要な出来事でした。洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、イエス様が主体的に神の人間救済計画を実現させる活動を始める出発点となったのでした。

 
4.

最後に洗礼者ヨハネがイエス様について、「聖霊と火をもって洗礼を授ける」方であると言ったことについて若干申し上げておきたく思います。私たちは洗礼を受ける時、聖書を朗読して神の言葉と結びつけられた形で水をかけられますが、「聖霊と火をもって」とはどういうことでしょうか?ユダヤ教の伝統では、ヘブライ語もギリシャ語も「霊」と「風」は同じ言葉で言い表されていました(רוחπνευμα)。「風」と「火」のふたつは「水」よりも強い要素と考えられていたので、「風つまり聖霊と火をもって洗礼を授ける」方が「水で洗礼を授ける」ヨハネよりも強大な者であることを意味しました。このことは二年前の説教でも触れた次第です。
 
 しかしながら、「聖霊と火をもってする洗礼」というのは、こういう表現上のものにとどまりません。私たちキリスト信仰者が受けた洗礼は実際に「聖霊と火をもってする」洗礼でもあったのです。洗礼を受ける時、私たちは聖霊も受けます。ところで、人は、洗礼を受ける前に、イエス様を救い主と信じ始めます。あの2千年前の今のパレスチナで起きた出来事はこの自分のためになされたのだということをわかり始めるのは、聖霊がその人に働き始めたからであります。実に聖霊の力が働かなければ、人はイエス様を救い主と信じることはできないのです(第一コリント123節)。イエス様を何か歴史上の人物の一人として知識で知ってはいても、それは自分の救い主として信じることとは何の関係もありません。洗礼を受けることで、人は聖霊の影響力のもとに置かれます。これは赤ちゃんも同じです。神の赦しの救いは神からの贈り物である以上、赤ちゃんも、親の愛を注がれてただそれを受け取るのと同じように神の贈り物も受け取るのです。赤ちゃんや子供が、その後の人生で聖霊の力が働く受け皿のように育っていくかどうかは、あとは家庭や教会がどう育てていくかということが大きな課題になります。 
 
聖霊に加えて「火をもってする洗礼」とはどういうことか。イザヤ6章には、神聖な神を目で見てしまったイザヤが自分は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民と共に住む者、と罪の告白をします。その時、セラフィムが火鋏で燃え盛る祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせ、イザヤの罪を赦して清めます。火ではなく水を使う私たちの洗礼でもほとんど同じようなことが起こります。私たちは、洗礼を受けて聖霊の力の下でイエス様を救い主と信じて生きる限り、私たちに宿る罪と不従順は私たちを滅ぼす力を失っているのです。私たちがこの世から死んだとき、私たちの造り主のもとに永遠に戻ることを妨げる力はなくなっているのです。洗礼によって私たちはそれ位清められているのであります。もちろん、残存する罪はあるのだから、私たちの目から見たら清められていないのですが、神は私たちがイエス様の義という神聖な純白な衣を被せられていることを見て下さるのです。罪と不従順は残り、それらを背負うのはつらいことですが、私たちが神の恵みと信仰にとどまる限り、それらは最終的な力を失っていて、本当は気抜けした状態になっているのです。
  
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン