説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年1月13日主の洗礼日
日本福音ルーテル日吉教会にて
イザヤ書42:1-7、
使徒言行録10:34-38、
ルカによる福音書3:15-22
説教題 「イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
イエス様が洗礼を受けるとは、一体どういうことか?洗礼と言えば、ルターが小教理問答書の中で端的に述べているように、「罪の赦しをもたらし、私たちを死と悪魔から救い出すもの、そして神の言葉と約束を信じる者全てに永遠の幸いを与えるもの」であります。イエス様のような聖霊によって宿り、罪の汚れもしみもない神の御子にどうして洗礼が必要なのか?イエス様の洗礼の出来事について詳しく記述してあるマタイ3章13-17節をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を目の前にして、洗礼者ヨハネはとまどいます。それもそのはず、「私の後に強大な方が来られる。その方は聖霊と火をもってあなたたちに洗礼を授ける。私はその方の履物を脱がす値打もない」と自分が証しした救世主がわざわざ洗礼を受けにやってきたからです。それでヨハネは、「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と述べたのであります。
なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのでしょうか?この問題について、ちょうど二年前、本日吉教会のこの同じ説教壇に立ってお話しいたしました。その時の福音書の箇所は、先ほど申しましたマタイ3章13-17節でした。その時の説教題は「イエス様の洗礼に現れた神の恵み」というもので、今回は「イエス様の洗礼に現れた神の正義と愛」です。洗礼で現れたものが異なっているように見えますが、実は同じものです。「神の恵み」も「神の正義と愛」も、言葉は違いますが同じものを指しています。いわば、同じものを別の角度から眺めるだけのことでして、そうすることで、その同じものが、いつも一つの角度から眺めていた時よりも、もっと大きく深く豊かなものであることがわかるようになるのであります。
なぜイエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要があったのか、ということについて、初めは、二年前にお話ししたことを少しおさらいしながら、少しずつそれを別の角度から眺めていこうと思います。
2.
まず、イエス様の洗礼は神の人間救済計画と結びついている、ということをしっかり覚えておく必要があります。神の人間救済計画とは、以下のようなことです。創世記3章にあるように、最初の人間が造り主である神に対して不従順に陥り罪を犯したために、人間は死する存在となってしまい、神聖な神から切り離されて生きなければならなくなってしまいました。使徒パウロが、罪の報酬は死である、と述べている通りです(ローマ6章23節)。人間は罪と不従順がもたらす死の力の下に従属する存在となってしまいました。詩篇49篇に言われるように、人間はどんなに大金をつんでも死の力から自分を買い戻すことはできません。そこで、父なる神は、人間が再び造り主である御自分のもとに戻れるようにと計画をたてられ、それを実行しました。これが神の人間救済計画です。
人間が神聖な神のもとに戻れるようにするためには、なによりも人間を罪の奴隷状態と死の力から解放しなければなりません。しかし、肉をまとい肉の思うままに生きる人間には、自身に宿る罪と不従順を取り除くことは不可能です。そこで神は、御自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪と不従順からくる罰を全て負わせて死なせ、その身代わりの死に免じて人間を赦すことにしました。この神のひとり子が十字架の上で血みどろになって流した血が、私たちを罪の奴隷状態から解放する身代金となったのであります(マルコ10章45節、エフェソ1章7節、1テモテ2章6節、1ペテロ1章18-19節)。さらに、神は、一度死んだイエス様を復活させることで、死を超えた復活の命、永遠の命が存在することを示されました。人間は、この神が御子を用いて実現した「赦しの救い」を受け入れることで、救いに与ることができます。つまり、救われるのです。「赦しの救い」を受け入れることとは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。こうして、人間は、この世の人生の段階で、復活の命、永遠の命に至る道を歩み始めることができるようになります。順境の時にも逆境の時にも常に神の御手に守られて生きるようになり、この世から死んだ後は、永遠に造り主である神のもとに戻ることができるようになります。
それでは、イエス様が洗礼を受けたことが、この神の人間救済計画の実現にどう結びつき、どう資するのかをみてみましょう。
洗礼を受けることで神の御子であるイエス様は、洗礼を必要とする人間たちの同列に加えられることとなりました。「フィリピの信徒への手紙」2章に書いてある通りです。つまり、「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。人間と同列に置かれ、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになる。それで人間の不従順と罪から来る罰をまさに罰として引き受けることができるようになる。パウロが言うように、「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のであります。ただ、我々と同列に加わえられたと言っても、人間の持つ不従順と罪は持たない神聖な神の御子でした(ヘブライ4章15節)。そのような方が、人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また自分自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかった。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、主は、試練に遭う者たちを助けることができるのであります。
人間と同列に加わったというのは、神が人間に寄り添う姿勢を示したとか、人間と連帯しようとしたなどと言うことが出来ます。ただし、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、この「同列に加わる」というのは、「寄り添う」とか「連帯」という言葉では言い尽くせない、そんな言葉が生易しく聞こえてしまう位もっと大きな意味があるということです。このことは、神の御子がどうして人間として生まれてこなければならなかったか、というクリスマスのテーマにも関わってきます。
先ほど、神の人間救済というものは、神が人間に与える「罪の赦しの救い」であると申し上げました。ところで、この「赦しの救い」を実現するためには、誰かが人間にかわって罪の罰を受ける犠牲にならなければなりませんでした。もし罰が起きなければ、神は罪を是認したことになります。しかし、神は人間が背負いきれない罰を背負わされて押し潰されるように滅んでしまうのを望まなかった。罪は断固として認めないが、しかし人間は救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は犠牲を自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が、自己犠牲の愛であると言われる所以です。しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。なぜなら、人間の罪と不従順の罰を全て受ける以上は、罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の意思を表す掟です。それは、神がいかに神聖で、人間はいかにその正反対であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は、当然、律法の上にたつ存在です。しかし、それでは、罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければなりません。まさに、このために神の子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのであります。そうすることで、使徒パウロが言うように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。イエス様が人間と同列に加わった、と言う時、私たちは、この「わたしたちのために呪いとなった」ということ、イエス様が人間に降りかかって染みついている呪いを全て自分のものとして引き取って下さったことをいつも心に刻み付けておかなければなりません。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり、連帯したりしますが、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は、もっともっと根本的なものであるということを忘れてはなりません。
3.
イエス様が洗礼を受けたのは、私たち人間と同列に加わるという意味があったということが明らかになりました。同列に加わると言っても、とても深い根本的な意味があることもわかりました。ここで角度を少し変えて、今度は洗礼を受けた時にイエス様に聖霊が降ったり、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声も轟いたという出来事を中心にイエス様の洗礼をみていきましょう。この出来事は、本日の旧約の日課であるイザヤ書42章1-7で言われている預言の成就です。そこで、この預言を見てみる必要があります。
このイザヤ書の箇所で、神は、将来地上で活動する僕(つまり御子イエス様)が神からの霊を受け、また神から特別な力を与えられて、何かを実現していくことが預言されています。何を実現するのでしょうか?
私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返され、神の僕が何か裁きに携わることが強調されます
。しかし、これは困った訳と言わざるを得ません。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体なんなのでしょう?「裁き」は「導き出す」ものなのでしょうか?「置く」ものなのでしょうか?裁判官や陪審員が困難な訴訟で「判決を導き出す」という言い方はあるでしょうが、「判決を置く」という言い方はあるでしょうか?私も含めてここにいる皆さんは「裁き」とか「導き出す」とか「置く」という個々の単語の意味はわかるでしょう。しかし、意味がわかる単語をそのままつなげて文にした時、その文も同じように意味がわかるかというと必ずしもそうならないことがあるのです。受験国語の成績の良かった人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書の本来の意味と同じであるとどうやってわかるのでしょうか?
いずれにしても、私たちは、個々の単語の意味がなまじっかわかるのでそれをつなぎ合わせた文も何となくわかったつもりで読み進んでしまう。すると、振り返ってみるとどうでしょう。これは一体何だったのだろうということが起きてしまうのです。そういうわけで、皆様も聖書を読む際には「この箇所は一体何が言いたいんだ」という追及する姿勢をお持ちになることをお奨めします。理解が難しい箇所は無数に出てくると思います。その中でも、「ここは今の自分にとって何か大きな意味があるのではないか」というような箇所があったら、立ち止まって何度か読み返して考えてみたり、聖書の他の箇所を手掛かりにして理解できるか試みたりして下さい。神からの知恵を祈り求めることも忘れてはなりません。それでも自分の力で解明できない時は、注釈書を繙いたり、牧師先生や宣教師に聞いたりしましょう。そうすることで神の御言葉である聖書と私たち自身の関係は深くなります。逆に言えばそうしないと深くなりません。
少し脱線しましたが、イザヤ書42章の神の僕の活動についてみていきます。神の僕が携わることになると強調されている「裁き」ですが、ヘブライ語の元の単語であるミシュパートמשפטは、広い意味では「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」というものです。そこから、「裁き」とか「判決」というような意味に限定することができます。しかし意味の限定はそれだけに尽きません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」ということから、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。他にもまだあります。参考までに、各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の新共同訳の「裁き」をどう言っているか見てみますと、英語の聖書は大抵justice、ずばり「正しいこと」、「正義」です。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Rechtで「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデンのルター派国教会が使用している聖書ではrätten、これは「権利」の意味が強くなります。フィンランドのルター派国教会が使用している聖書ではoikeus、これは「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味します。以上のようなわけで、イザヤ42章の最初に言われる神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」を指していると理解することにします。それから、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞יצא、שיםも、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と理解してそう訳しても何の問題もありません。以上から、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民、特にイスラエルの民以外の異邦人をさしますが(גוי)、諸国民に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を据える、打ち立てる」ということであります。
そこで、神の僕がもたらしたり、打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何かを明らかにしなければなりません。神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」ということです。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのでしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が罪の奴隷状態や死の力から解放されることであり、それらから解放された者としてこの世を生きることであり、そして、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻るということであります。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」なのであります。これらは全て、神の僕イエス様が十字架の死と死からの復活をもってこの世にもたらし、打ち立てたものであります。
イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおりの神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神の人間救済計画を実現するための力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神の御子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすために必要な出来事でした。洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、イエス様が主体的に神の人間救済計画を実現させる活動を始める出発点となったのでした。
4.
最後に洗礼者ヨハネがイエス様について、「聖霊と火をもって洗礼を授ける」方であると言ったことについて若干申し上げておきたく思います。私たちは洗礼を受ける時、聖書を朗読して神の言葉と結びつけられた形で水をかけられますが、「聖霊と火をもって」とはどういうことでしょうか?ユダヤ教の伝統では、ヘブライ語もギリシャ語も「霊」と「風」は同じ言葉で言い表されていました(רוח、πνευμα)。「風」と「火」のふたつは「水」よりも強い要素と考えられていたので、「風つまり聖霊と火をもって洗礼を授ける」方が「水で洗礼を授ける」ヨハネよりも強大な者であることを意味しました。このことは二年前の説教でも触れた次第です。
しかしながら、「聖霊と火をもってする洗礼」というのは、こういう表現上のものにとどまりません。私たちキリスト信仰者が受けた洗礼は実際に「聖霊と火をもってする」洗礼でもあったのです。洗礼を受ける時、私たちは聖霊も受けます。ところで、人は、洗礼を受ける前に、イエス様を救い主と信じ始めます。あの2千年前の今のパレスチナで起きた出来事はこの自分のためになされたのだということをわかり始めるのは、聖霊がその人に働き始めたからであります。実に聖霊の力が働かなければ、人はイエス様を救い主と信じることはできないのです(第一コリント12章3節)。イエス様を何か歴史上の人物の一人として知識で知ってはいても、それは自分の救い主として信じることとは何の関係もありません。洗礼を受けることで、人は聖霊の影響力のもとに置かれます。これは赤ちゃんも同じです。神の赦しの救いは神からの贈り物である以上、赤ちゃんも、親の愛を注がれてただそれを受け取るのと同じように神の贈り物も受け取るのです。赤ちゃんや子供が、その後の人生で聖霊の力が働く受け皿のように育っていくかどうかは、あとは家庭や教会がどう育てていくかということが大きな課題になります。
聖霊に加えて「火をもってする洗礼」とはどういうことか。イザヤ6章には、神聖な神を目で見てしまったイザヤが自分は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民と共に住む者、と罪の告白をします。その時、セラフィムが火鋏で燃え盛る祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせ、イザヤの罪を赦して清めます。火ではなく水を使う私たちの洗礼でもほとんど同じようなことが起こります。私たちは、洗礼を受けて聖霊の力の下でイエス様を救い主と信じて生きる限り、私たちに宿る罪と不従順は私たちを滅ぼす力を失っているのです。私たちがこの世から死んだとき、私たちの造り主のもとに永遠に戻ることを妨げる力はなくなっているのです。洗礼によって私たちはそれ位清められているのであります。もちろん、残存する罪はあるのだから、私たちの目から見たら清められていないのですが、神は私たちがイエス様の義という神聖な純白な衣を被せられていることを見て下さるのです。罪と不従順は残り、それらを背負うのはつらいことですが、私たちが神の恵みと信仰にとどまる限り、それらは最終的な力を失っていて、本当は気抜けした状態になっているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン