2013年1月7日月曜日

幸いなるかな、御子を救い主と信じる者は (吉村博明)


 
説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
  
 
主日礼拝説教 2012年12月23日待降節四主日 
日本福音ルーテル横浜教会にて

ミカ書5:1-4a
ヘブライの信徒への手紙10:5-10、
ルカによる福音書1:39-45
 
説教題 「幸いなるかな、御子を救い主と信じる者は」
 
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
1.

 本日は待降節第四主日であります。昨年は、第四主日の次の土曜日が降誕祭前夜、つまりクリスマス・イヴだったので、その翌日の日曜日にクリスマスの主日礼拝を守ることができました。今年は、明日月曜日がイヴとなり、火曜日がクリスマスとなります。私が住んでいたフィンランドをはじめキリスト教が伝統的に国民大多数の宗教になっている国ですとクリスマス・イヴもクリスマスも休日になるのですが、事情が異なる日本では祝日や日曜日に重ならない限りは平日です。イヴの明日月曜日は振替休日でたまたま休みですが、クリスマスの日である火曜日は平日です。本横浜ルーテル教会は、火曜日は礼拝を行わないので、本日がクリスマスの礼拝を兼ねています。とは言っても、クリスマス・イヴの前日に、救い主の誕生を神に感謝する趣旨で説教するのは少しあべこべと思われ、それで本日の説教は、まだ主の降臨を待つ待降の趣旨で進めていきたく思います。明日のイヴ礼拝でルカ福音書2章のイエス様誕生直前と誕生時の出来事について朗読されます。火曜日に定められている福音書の箇所は、ヨハネ1章の最初です。神の御言葉そのものが人間の姿をとってこの世に降られた方としてイエス様について述べられています。皆様、是非ご自宅で心を静めて御言葉をかみしめる一時をお持ち下さるようお願い申し上げます。
 
 
2.

本日の福音書の箇所は、神の御子イエスを産むことになるマリアと洗礼者ヨハネを産むことになるエリザベトが会う出来事です。小さな出来事にすぎないような箇所ですが、私たちの信仰にとって、とても大切なことが少なくとも二つあります。そのことについて見ていきましょう。
 
私たちの信仰にとって大切なことの一つ目は、神はまことに人間の造り主であるということです。神が私たちに命を与えたのは、単に私たちを無造作に大量生産しているのではなく、私たち一人一人に実現すべき計画も併せて備えて下さっているのです。それゆえ、神は、私たちが母親の胎内に宿り始めた時から、私たち一人一人のことを既にご存知なのです。そのことをまず、エリザベトとマリアについて見てみましょう。
 
エリザベトとマリアの妊娠は、神の特別な力が働いて起こりました。エリザベトは普通ならもう出産は無理と言われるくらいの高齢者、マリアの方は処女でした。神は、御自分の計画を実現するために、これらの妊娠不可能な女性たちを通して必要な人材を準備したのでした。エリザベトの胎児は将来洗礼者ヨハネとなり、人々の心を救い主の到来に備えさせる役割を担いました。そのためにヨハネは、「神のもとに立ち返るための洗礼」を宣べ伝えました。それは、人々の心に神への不従順と罪の自覚を呼び起こすと同時に、人々が「罪の赦し」という神の救いを受け入れるのにふさわしい存在にする、ということでした。この「罪の赦しの救い」は、イエス様が人間全ての罪と不従順の罰を全て請け負って十字架の上で死なれた時に整えられました。神は、このような役割を担わせるためにヨハネとイエス様を生まれさせました。神は、二人が胎児だった時から、二人のことをご存知でした。
 
それでは、私たちの場合はどうでしょうか?神は、私たちが胎児だった時から私たちのことをご存知だったのでしょうか?エリザベトとマリアの胎児と違って、私たちには神の人間救済計画を実現する役割は与えられていません。それならば、神は、イエス様やヨハネのことは知っていても、私たちのことは知らなかったのでしょうか?いいえ、そうではありません。天と地を造られ、人間をも造られた神は、私たち人間の全てを胎児の時から知っているのです。詩篇139篇には、次のように謳われています。「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」(1316節)。
 
このように人間の造り主である神は、胎児の時から私たち一人一人のことをご存知です。それでは、私たちを造り、私たちのことを胎児の時から知っている神は、私たちにも何か計画を備えたのでしょうか?イエス様とヨハネには明確な計画があり、神は彼らを通してそれを実現しました。イエス様とヨハネの場合とは異なりますが、もちろん、私たちにも神の計画があります。どんな計画かと言うと、人間全てに共通する計画と一人ひとりの人間に備えられた個別の計画の双方があります。
  
人間全てに共通する計画とは、神がイエス様を用いて整えた救いを人間が受け取って、救いの所有者となることです。神がイエス様を用いて整えた救いとは、先ほども申しました「罪の赦しの救い」です。人間は、創世記3章に記されている通り、神に対して不従順となり罪に陥って以来、神聖な神と切り離された状態となってしまいました。神との関係が修復されるためには、人間から罪と不従順を除去しなければなりません。しかし、それは肉をまとう存在である人間には不可能です。それをなんとかしようとしたのは神でした。神は、ひとり子イエス様をこの世に送り、彼に人間の罪と不従順の罰を全て負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。人間の救いが、「罪の赦しの救い」であると言われる所以です。さらに神は、死んだイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命、復活の命があることを示されました。こうして人間がこのイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、即座に神はこうおっしゃるのです。「お前は、私のひとり子が人間を罪の奴隷状態から贖うために犠牲になったとやっとわかったのだな。お前がそう信じる以上、お前は私の赦しを受け入れたのだ。従って、お前の罪はイエスの犠牲に免じて赦される。」人間は、神のこの「罪の赦しの救い」を受け取った瞬間から、この世の人生の段階で、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めることになります。この世の人生の歩みで、順境の時も逆境の時も常に神の御手に守られて生きられるようになり、この世から死んだ後は、造り主のもとに永遠に戻ることが出来るのであります。「罪の赦しの救い」とは、まさに読んで字のごとく、罪の赦しを土台にして人間が永遠に生きられるようになる救いであります。
 
このように神は、全ての人間が受け取ることが出来るようにと、イエス様を用いて救いを整えられて、それを全ての人間に「さあ、受け取りなさい」と提供しているのです。世界にはそれをまだ受け取っていない人が大勢います。また、一度受け取ったにもかかわらず、受け取ったことを忘れてしまった人や、受け取ったものを自分で改造しようとするなど惑わされてしまった人も大勢います。いずれにしても、神が全ての人間に共通に備えた計画とは、神が提供する救いを受け取ることであり、それはまだまだ実現途上なのであります。
   
神は全ての人間に共通する計画と同時に、救いを受け取った人たち一人一人に対してもそれぞれ個別の計画を備えました。それが何であるかは、人がそれぞれ置かれた境遇や直面する課題に応じて異なってきますので、それは各自が具体的な状況の中で生きながら、祈りの時に神に問うて下さい。答えは必ず与えられるでしょう。神が私たち一人一人に備えた計画とは何かを考える時、次のことを念頭に入れて下さい。どんな境遇に置かれても、どんな課題に直面しても、キリスト信仰者なら誰でも、自分に内在する罪・不従順と戦うことになるということです。境遇や直面する課題が異なっても、自分は果たして神を唯一の主として全身全霊で愛しているかどうか、また隣人を自分を愛するが如く愛しているかどうか、この二つに照らし合わせて、自分の思い、行い、言葉を振り返ることになります。そうなると、やはり、自分に内在する罪や不従順はいろいろなかたちで現れてくることに気づかされます。そのため、キリスト信仰者は、罪の告白と赦しの宣言を通して、絶えず自分の新しい原点である罪の赦しの十字架のもとに立ち返り、そこから再出発します。
 
 
3.

本日の箇所が私たちの信仰について教えるもう一つの大切なことは、人間の母を通して生まれた神のひとり子を救い主として信じる者は幸いである、ということです。本日の福音書の箇所で、エリザベトはマリアのことを幸いな人であると言います。
 
私たちの用いる新共同訳ではエリザベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言います。ギリシャ語の原文は少しわかりにくい形でして、次のようにも訳せます。「信仰を持つようになったこの方は(信じるようになったこの方は)、なんと幸いでしょう。なぜなら、主がこの方におっしゃったことは必ず実現するからです。」こちらの方は、ドイツ語のルター版の訳やフィンランドやスウェーデンのルター派国教会の聖書の訳です。英語訳の聖書の多くは新共同訳と同じです、というか新共同訳が英語訳に倣っているのかもしれませんが。ただし英語訳と言っても、ジェームズ王欽定訳はルターや北欧諸国の訳と同じです。一方では、「神が言ったことは必ず実現すると信じたマリアは幸いだ」と言う。他方では、「信仰を持つにようになった(信じるようになった)マリアは幸いだ、なぜなら神が彼女に言ったことは必ず実現するからだ」と言います。
 
「信仰を持つようになった(信じるようになった)マリアは幸いだ」などと言うと、マリアは以前は信仰がなくて、それが天使ガブリエルの告知があって信仰を持つようになった、という意味にとられてしまうかもしれません。しかし、そうではありません。マリアはユダヤ人として、天と地と人間を造った神を信じていました。そして、その神はイスラエルの民をエジプトから導き出した神であり、またバビロン捕囚とそこからの帰還の歴史が示すように、背を向ければ罰を下すが、立ち返って助けを求めれば憐れみを示す、そういう神であると信じていました。こうした神信仰はイスラエルの過去の歴史に目が向くものです。
 
そこで、当時の神信仰には、未来に目を向けた部分もありました。いつかダビデ王の家系の王が現れて、イスラエルの民を他民族の支配から解放し、同時に、民を罪から贖って神聖な神の御前に相応しいものとする、そして世界の諸国民はイスラエルの神を敬うようになる、そういう期待が当時のユダヤ教社会にはありました。しかしながら、この未来に目を向けた神信仰には不明な点も多くありました。例えば、この他民族から解放された新しいイスラエルとはこの地上に建設される国家なのか、それともこの世のものではない天の御国なのか。また、民を罪から贖うと言う時、イザヤ53章の主の僕が頭に浮かぶけれども、それとイスラエルを他民族支配から解放する王はどう結びつくのか、そもそも王は人間の王なのか、それとも神のもとから遣わされる人間離れした者なのか。いろいろな考えがありました。こうしたユダヤ人の神信仰の未来に目を向けた部分について、マリアはどのような期待を持っていたかはわかりません。しかし、天使ガブリエルの告知が、それをはっきりさせたのです。ガブリエルは、生まれてくる子は神の子であると伝えました。マリアの受胎を経て人間の姿かたちをとって現われるが、実は神の子である、と。そうなれば、神の子が君臨して永遠に続く王国というのは、もはや地上の国家ではなく、天の御国つまり神の国となります。このようにガブリエルのマリアに対する告知は、ユダヤ人の信仰のはっきりしなかった部分を確定して、それを将来のキリスト信仰に方向づける大きな転換点になったのです。
 
以上から、「信仰を持つようになったマリアは幸いだ」という場合の「信仰」とは、神の子が人間となって救い主として送られるという信仰を意味します。そういう信仰を持つようになったことが幸いである、というのであります。どうしてそういう信仰を持つことが幸いかと言うと、理由は、「神が彼女に言ったことは必ず実現する」からであります。そしてそれはその通りになったのであります。
 
 ここで、「幸い」というのはどのようなことかについて考えてみましょう。
幸いとは、一過性的な、この世的な幸福、幸運ではなく、もっと持続的な幸福で、この世を超えて永遠の命の獲得に結びついた幸福です。先ほど、キリスト信仰者は、この世の人生の段階で永遠の命に至る道を歩んでいる、と申しましたが、これが幸いなことなのであります。たとえ、この世の人生で逆境に陥って、貧乏になったり病気になったりしても、永遠の命に至る道を踏み外さずに歩み続けられるのであれば、その人は幸いなのであります。マタイ5章でも言われているように、幸いな人は、霊的に貧しい人であったり、今悲しんでいる人であったり、義に飢え渇く人であったり、また義のために迫害される人であったりします。どれもみな永遠の命に至る道を歩み続ける人を指しています。逆に、この世の目から見て幸福や幸運にどっぷりつかる人生を送ることができても、信仰を持たず永遠の命に至る道を歩まない人は幸いではないのであります。マリアは、婚約中の妊娠という、ユダヤ教の律法から見てもまことにゆゆしき状況に陥り、人間の目から見て幸福とは言えない不名誉な状況が行く手に待っていようとも、神の目から見て、良しとされることを受け入れました。それで、マリアは幸いな人なのであります。
 
さて、私たちは幸いでしょうか?答えは、「イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者は幸いである」ということになります。その理由は、マリアの場合と同じで、「神が私たちに言われたことは必ず実現する」からであります。必ず実現することは何かと言うと、信仰を持って生きる者がこの世にあっては永遠の命、復活の命に至る道を歩むことができ、順境の時にも逆境の時にも常に神から助けを得られて、この世から死んだ後は永遠に造り主のもとに戻ることができる、こうした神の約束が全て実現することであります。これらのことは、本当に必ず実現するのか、どうして実現すると自信を持って言えるのか?それは、実現すると信じているからであります。信じているだけでは、実現する根拠になりえていないではないか、と言われてしまうかもしれません。実現すると信じる根拠は何なのか、と問われることになるでしょう。それは、神のひとり子が人間となってこの世に生まれたこと、そのひとり子は人間の罪と不従順の罰を全て引き受けて十字架で死に、三日目に復活の体をもって死から蘇ったこと、これらのことが歴史上に起きたということ、これが神の約束は必ず実現すると信じる根拠です。それ以外の何の根拠もしるしもいらないのです。ルターは、キリスト信仰者とは、神の御言葉を自分の命よりも確かなものであると見いだせる者である、と次のように教えています。
 
「君が信仰を持つに至ったならば、信仰の中にとどまって強くなりなさい。それ以外に道はないのだ。信仰の中にとどまって強くなると言っても、それは主イエス・キリストとしっかり結びついてそうしなければならない。主以外のなにものと結びついても強くはなれない。なぜなら、強さは主に由来するものだからである。主由来の強さには、理解しがたいものがある。この世から見れば、そこには何も価値がないようにみえる。というのも、そこにはただ単に御言葉しかないからだ。実に主由来の強さとは、御言葉を土台とし、それにしっかり結びついたものなのだ。
かつて私は、主由来の強さというものは、強さの中でも最も有力なものである以上、何か別の土台の上に立たなければならない、と考えた。それは、あたかも頑丈な岩盤の上に建てられたもの、難攻不落な城塞に防護されたもの、鎧と兜と最高の武器で武装されたものと同じでなければならない、と考えた。こういうものを、この世は「強くなること」と言う。 
しかしながら、これらのもの全ては価値のないものである。そのようなものは悪魔に対抗できない。真の強さとは、霊的な強さ、永遠と結びついた強さでなければならない。主イエス・キリストは、その強さそのものである。神の御言葉と結びつく信仰は、主を自己のものとして所有する。たとえ我々が主の強さを目で見ることができなくとも、主は悪魔より強いのである。主により頼み、しっかり結びついている者は、雄々しく悪魔に立ち向かうことができる。このようにキリストに属する者たちは、主にしっかり結びついてきたし、これからも結びついているであろう。
つまるところ、もし君が強くありたいと思うならば、キリストが君の強さであるようにしなさい。彼を所有し、彼をより深く知ろうと努力しなさい。神の御言葉を純粋に保ち、それに何も混じり気をつけないようにしなさい。御言葉を毎日熱心に学びなさい。御言葉が君の心と一体になるまで、それを心に刻み付けなさい。そうすることで、君は、神の御心と意思が一層確かなものであるとわかるようになり、さらには自分の命よりも確かなものになっていこう。これこそが、主との結びつきにあって強くある、ということである。」
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン