2013年8月27日火曜日

神が子供の信仰を価値あるものと見なす理由 (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2013年8月25日(聖霊降臨後第14主日)
スオミ教会にて

エレミヤ書15:15-21、
ローマの信徒への手紙12:9-18、
マタイによる福音書18:1-14


説教題 神が子供の信仰を価値あるものと見なす理由


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
 
 
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 イエス様が子供をとても大事に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されているし、また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、親たちがイエス様から祝福をいただこうと子供を連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、主は弟子たちを戒めて、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言って、祝福を授けます。旧約の伝統では、神が何か任務を与える時に選ぶのはたいてい大人なので(エリのもとに引き渡されたサムエルは例外でしょうか?)、イエス様が大人も子供も分け隔てなく接するというのは、当時としてはとても革新的なことにみられたでしょう。本日の福音書の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰をみて襟を正しなさいと言います。子供の信仰とはどういうものか?大人の信仰は何か道を踏み外してしまうかのようですが、どうして子供の信仰が手本となるのか、そういったことを後ほど考えてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてみましよう。その後で、子供の信仰と大人の信仰の問題について見てまいりたいと思います。


2.

 本日の福音書の箇所で、まず弟子たちがイエス様に質問します。「天の国で一番大いなる者は誰か?」と。「天の国」は、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、そのかわりに「天」という言葉を使います。この「神の国」、「天の国」については、以前の説教でもお教えしたところですが、ここでざっとおさらいしてみましょう。
 
 神の国は、イエス様が宣教活動を始めた時にイエス様と共に来ておりました。神の国が病気とか自然の猛威とか悪霊の力を超えた神の力に満ち満ちている領域であることは、イエス様が行った無数の奇跡の業で明らかにされました。ところが、多くの人たちが不治の病を癒され、悪霊を追い出してもらい、自然の猛威から助けられたといっても、人々はまだ神の国の中には入れませんでした。なぜなら、人間は最初の人間アダムとエヴァの堕罪以来、人間の造り主である神への不従順と罪を代々受け継いでおり、神聖な神と全く対極的な存在になってしまったからです。神への不従順と罪がある限り、人間は神聖な神の国には入れず、不従順と罪からくる裁きのもとに服しているだけです。ところが慈愛深い神は、この状況を打開して人間が神の国に入れるようにするために、独り子イエス様をこの世に送り、人間が本来受けるべき不従順と罪の裁きを全て彼に負わせて、十字架の死に引き渡しました。それだけで終わりませんでした。今度は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた復活の命、永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったのです。
 
このようにして、私たちの造り主である神は人間救済の計画をたてて、それを独り子イエス様を用いて全部自分で成し遂げてしまったのです。人間の側ですることと言えば、こうしたことが全て自分のために行われたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼をうけることで、それによって人間は神が実現した救いを所有する者となり、神の国の立派な一員として迎え入れられることとなったのです。
 
 私たちは今、目には見えない形で神の国に結び付けられていますが、今ある天と地が終わって新しい天と地に取って代られる日、つまり今の世の終わりの日には、神の国そのものもその一員であることも目に見える形で明らかになります。「ヘブライ人への手紙」1226節から28節に預言されているように、この世の終わりの日には、全てのものは滅び去り、消え去って、神の国だけが残ります。その時、再臨される主は、既に死んでいる者たちを復活させ、その時点で生きている者たちとあわせて、最後の審判にかけます。主は、この世で起きたあらゆる不正義とあらねばならなかった正義のバランスシートを完全に清算して、御自身の意に適う者たちを神の国に集めて、自らそこに君臨します。黙示録214節に預言されているように、この永遠の神の国のなかで全知全能の神は、私たちがこの世の人生の期間に流さなければならなかった涙を全て拭い取って下さいます。このようにして神は、もう死もなければ悲しみも嘆きも苦しみもない世界で私たちを最終的に癒し労って下さるのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、その信仰としっかり結びついて生きる者は皆、約束された永遠の命、復活の命に至る道を歩んでいるのであります。
 
 神の国とは以上述べたようなものでありますが、実は、イエス様の十字架と復活が起きる前には、こうしたことは当時の人々にはまだはっきり理解されていませんでした。多くの人たちにとって、神の国とは、イスラエルを外国支配から解放して生まれてくる民族自決国家のようなイメージが抱かれていました。

 それであればこそ、「神の国で誰が一番大いなる者か」という弟子たちの質問に対するイエス様の答えは、なおさら弟子たちの想像を超えたものでした。まず、子供を一人呼んで、弟子たちのただ中に立たせます。そして弟子たちに言われます。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない」と。イエス様は、神の国で誰が一番大いなる者かという質問に対して、すぐ誰それであると答えず、誰が神の国に入れるかということを述べます。神の国で誰が一番偉いかを言う前に、そもそもそこに誰が入れるかということに注意を喚起するのであります。「心を入れ替える」というのは、原語のギリシャ語では、「立ち返る」という意味の動詞(στραφητε)です。つまり、今の自分は自分の造り主である神のもとからも、神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らなければ、と気づくことです。子供のようになるというのは、先ほど申し上げたように、神が自分で全部成し遂げた救いをそのままいただくということです。神があげるよと言って下さるのを、ただただ受け取るだけ、です。文句もケチもつけず(もちろんつけようがないものですが)、また、これだけのものをいただけるのだから、何かこちらからもしないといけないとか、そんなお代の必要もなく、ただただ受け身になって受け取るだけ。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに無力な子供のようになって受け取るだけです。こうして、人間は神の国の一員に迎えられることができます。(本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の前になされたためで、それらのことが起きた後に、洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりします。)
 
神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として神の実現された救いを受け取る、こうして人間は神の国に入ることができる。そこで、イエス様は、その神の国の中で一番大いなる者は誰かということについて答えます。それは、「自分を低くして、この子供のようになる人」です。これは、神の国に入れる条件「神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として神の実現された救いを受け取る」と同じ内容です。自分を低くするとは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めても、いくら修行を積んでも、死を超えた復活の命、永遠の命には入れない、神の方で道を整えてくれなければならない、と全て認めること。つまり、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のようになる人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。「低くする」ことがどんなことか一目瞭然であるように、この子はおそらく身なりのみすぼらしい子供だったのではないかと思われます。
 
5節でイエス様は「私の名にかけて、このような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われます。この「受け入れる」というのは、よくありがちな理解ですが、孤児とか困窮した子供を引き取るという弱者救援の福祉的な意味ではありません。それではどんな意味かと言うと、6節でイエス様は「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っています。つまり、ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持っている子供です。何歳くらいの子供かは予測がつきませんが、信仰を持っている子供ということに注意して考えると、「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは、弱者の救援ということではなく、信仰を持った子供を信仰の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として扱う、受け入れる、という意味です。さらに付け加えれば、6節から9節の「つまずき」の問題が示しているように、信仰を持った子供を信仰から外れる道に陥らせることは一切しない、子供が信仰にとどまり信仰の中で成長していくように育てていく、これが「受け入れる」の意味です。
 
10節で、イエス様は、「守りの天使は、大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と言っています。当時もし、子供は親の守りの天使のもとに置かれていると考えられていたとしたら、これなども過激な思想だったでしょう。なにしろ、親にも子にもそれぞれ独立して守りの天使が別々についていると言っているのですから。
 
さて、6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でσκανδαλονスカンダロンといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でもカタカナ語になっている英語借用語スキャンダルがもとになっている言葉です。

「つまずかせるもの」はどう私たちをつまずかせるのか。先ほど申し上げましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が実現された救いを所有する者となって、この世にありながら既に神の国の一員として、約束された復活の命、永遠の命に向かって歩むようになりました。キリスト信仰者とは、ルターの言葉を借りれば、肉に宿る古い人を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人を日々育てていく存在です。「つまずかせるもの」とは、こうした歩みと育てを妨げたり止めさせようとするものです。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑というものもあります。例えば、「これこれをすれば素敵な人生をおくれるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を束縛して何になるんだい?」という具合に。キリスト信仰者からみれば、イエス様が十字架の犠牲の死をもって私たちを罪の奴隷支配から解放したということが最大の自由であって、「素敵さ」こそが束縛に他なりません。イエス様が言われる「五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよい」というのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神の意思に背いて得たものならば、呪われたものでしかないのです。

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話ですが、もし信仰を持った子供が信仰を外れる道に陥ってしまった場合、父なる神は見つけるまで探し出す決意でいるということです。迷い出たものが、見つけられることを拒否しない限り、神は必ず見つけて下さり、信仰の道に再び戻して下さいます。どうか、洗礼を受けて救いの所有者となったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、子供大人を問わず、神によって見つけられますように。
 
  
3.

 さて、大人の信仰と子供の信仰について考えてみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。
 
生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることには意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば大きく議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考え、それを実践する教派もあります。
 
ここで、神が実現された人間救済は人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取ってくださいと、全人類に差し出して下さっている。救いはまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのであります。逆に言うと、理解力がないと意味がないとか、何々をしなければ施さない、受けないと言う場合、贈り物に条件が課せられることになります。また、信仰が人間の自由な意思決定の産物となって、ある種の人工物化する危険があります。
 
もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会を形成しているフィンランドでも多くみられるのですが、幼児洗礼が形式的な通過儀礼になって、親は教会にも行かない、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神様やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気付かずに育ってしまう。そのままで堅信式の年齢を迎えると、堅信式教育でよほどの導きに遭遇しないと、それも同じような形式的な通過儀礼に終わってしまう。そうなってしまった若者は、その後の人生において、次のように考えるようになっていく。「聖書に書かれている神の意志というものは時代遅れでいちいち聞き従っていたら、自分の自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と。そういう世俗化、無信仰の人が多く出てきます。実際フィンランドでは、1990年代からこうした傾向が強まり、人口500万の国で、毎年少ない時で23万人、多い年で67万人の人が国教会を脱退していきます。多くの若者にとっては堅信式が生まれて初めて親から独立して聖餐式を受ける機会になるのですが、それが人生最後の聖餐式になる可能性も大いにあるのです。
 
このような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はもはや、そのような人たちにとって意味がありません。正確を期して言えば、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて、神に背を向けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が神に向き直って信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味をかみしめて生きることになるので、再洗礼の必要は全くありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかるようになって、それを携えて生きるようになるために、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は全人口の圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、人生の歩みの途上でという人が多い。そうなると、信仰を自己の自由な意思決定の産物にする危険がないかという問題がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんと同じような受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力と理解力と積み重ねた修行を持ってこの救いを勝ち得た」などと考えてはいけません。2000年前あのゴルガタの丘で起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の有する能力、業績、名声、霊性その他そういったものは全て贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気づくでしょう。その点で、子供が有利な地位にあることは否めないでしょう。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたことは、まさに、救いを贈り物として受け取り、そうしたものとして携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼の一つの問題として考えられる子供の信教の自由の制限ということについて一言。日本ではキリスト教徒の親が子供には成長してから自分で決めてもらうべきだとして洗礼を授けないことがあると聞いたことがあります。親は、もし自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想・哲学・イデオロギーを客観的に眺めらえる知識を築いて、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何か選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではないでしょうか。子供をキリスト信仰を持つ者として育てれば、将来子供は他の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に生じてくる荒波に乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。信教の自由とは、自分の好きな宗教を自由に選べるという意味もありますが、自分の信仰を妨げなく実践できる自由という意味もあります。子供にキリスト信仰を受け継がせることは、こちらの自由を実現することになるのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年8月19日月曜日

目には見えないからこそ信じて生きる (吉村博明)



説教執筆者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
信徒礼拝説教 2013年7月28日(聖霊降臨後第10主日)
スオミ教会にて
(2011年8月21日聖霊降臨後第10主日横須賀教会での説教を改訂)

イザヤ書55:1-5、
ローマの信徒への手紙9:1-5、
マタイによる福音書14:13-21

説教題 目には見えないからこそ信じて生きる


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


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 5千人以上の人たちの空腹をわずかな食糧で一度に満たしたことに限らず、イエス様が行い、またイエス様にまつわる奇跡は、無数の不治の病の癒し、悪霊の追い出し、自然の猛威を鎮めたこと、そして処女からの誕生や死からの復活など、枚挙にいとまがありません。本説教では、まず、イエス様の奇跡の業の信ぴょう性について考えてみます。その次に、奇跡が私たちの信仰にどんな意味があるのかを明らかにしながら、天地創造の神の私たちに対する愛と恵みについて学びを深めていきたいと思います。
 
これらの奇跡は全て福音書に収録されていますが、それらは全て目撃者の証言が土台となっています。ただし、目撃者の証言録がすぐ福音書にまとまったのではなく、証言はまず口伝えされ、やがて手書きされたものもあわせて伝承され、それらが集められて最終的に福音書という本の形にまとめられました。イエス様の一連の出来事から、大体一世代ないし二世代を隔てているので、伝承されていくうちに、もとの証言も、長すぎれば要約されたり、短すぎれば補足されたりするということがでてきます。それで、同じ出来事を扱っていても描写や記述にぶれがでてくることになります。ヨハネ福音書は、十二弟子のひとりであるヨハネが自分で書いたと言っているので(ヨハネ2124節)、つまり目撃者がじかに書いていると言っているので、信ぴょう性が高い可能性があります。しかし、これもイエス・キリストの出来事の時から、何十年もたって書かれているので、ヨハネが嵐のような人生を送っているうちに、胸にとどめた記憶も、年月とともに強調したいところはより強調され、瑣末に思われるところは背後に退くということもでてきます。それで結果的に、他の3つの福音書の土台にある証言の伝承と同じようなことが起こります。
 
 福音書の土台にある目撃者の証言が伝承されるうちに膨らんだり縮んだり、記述される出来事の文脈がかわってきたりするのは、目撃者、伝承者そして福音書を最終的に書き上げた人たちの記憶やものの見方が影響しているためですが、ここで忘れてはならないことがあります。それは、記憶やものの見方に相違があると言っても、これらの目撃者、伝承者、福音書記者はすべて皆、イエス・キリストが死から復活した神の子であると信じた人たちで、パウロを含む使徒たちの教えをしっかり守った人たちであるということです。大元のところのものは同じなのですから、記憶やものの見方に相違があっても、それは大元のものを覆すほどのものでは全くなく、許容範囲にとどまるものです。その意味で、伝承の過程において聖霊のコントロールがしっかり働いていたと言うことができます。ただし当時は、聖霊のコントロールから外れる伝承、教え、見解も多く流布しておりました。皆様も耳にしたことがあるかもしれませんが、トマス福音書とかユダ福音書とかがそうした伝承、教えでした。しかし、そうしたものは一切、聖書のなかに入ることはできませんでした。聖霊の働きの結晶である聖書をあなどってはいけません。こうしたことを念頭に置いて、5千人の空腹を一度に満たした奇跡について見てみましょう。
 
 この出来事は、マルコ福音書とルカ福音書では、12弟子たちが宣教旅行から帰ってきて、弟子たちを休ませようとイエス様が群衆から離れたガリラヤ湖の対岸へ連れて行ったが、群衆はそれでもついてきてしまう。仕方なく教えや癒しを続けているうちに夜が更けて、食べ物に困る事態になり、奇跡に及んだという流れです。歴史的な背景として、ヘロデ・アンティパス王が洗礼者ヨハネを殺害した後の出来事として記述されています。マタイ福音書では、12弟子たちが宣教旅行から帰還した旨が一切述べられず、弟子たちはいつの間にかまたイエス様と行動を共にしています。それでも、この5千人の奇跡の出来事は、ヘロデ・アンティパス王のヨハネ殺害後に起きたという歴史的背景については、マルコとルカと同じで、イエス様は弟子たちとガリラヤ湖の対岸に移動するも、群衆がついてきてしまい、その後はマルコとルカと同じような流れになります。ヨハネ福音書では、歴史的背景は触れられず、ただガリラヤ湖の対岸に移動したイエス様と12弟子たちを群衆が追っていくということから始まります。ヨハネ福音書では触れられていないとは言っても、出来事の前後に洗礼者ヨハネはもはや登場せず、背景にヨハネが姿を消すような事態があったことは明らかです。12弟子たちが宣教旅行から帰還した直後かどうかは見解が分かれるかもしれませんが、それでも、洗礼者ヨハネが歴史の舞台から姿を消した後で、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖の対岸に移動するや群衆が後を追ってきたという点では、4つの福音書は全て一致しています。奇跡自体の詳細についてみると、確かに、ある福音書では触れられているが他では触れられていないというものがいろいろあります。それでも、まず、(1)弟子たちがイエス様に、もう遅いし皆空腹だから群衆を帰らせて下さいとお願いする、(2)イエス様は、今ここにどれくらい食べ物があるかと聞かれる、そこには5切れのパンと2匹の魚しかない、(4)イエス様は群衆を座らせ、天を仰いで感謝し、(5)弟子たちを通してパンと魚を分配すると皆がおなか一杯になり、(6)あまりが出るくらいだった、(7)群衆は成人男子だけで5千人いた、という点では4つの福音書とも一致しています。このように5千人の奇跡の話は、とりあえず細かい相違点に目をつぶっても、一致する部分がこれだけでてくるという、目撃者の証言が伝承過程を経ても原形をとどめた好例と言うことができます。これで、奇跡の信ぴょう性についての議論は、とりあえず一段落したことにしましょう。


2.

 それでは、話を一歩進めて、イエス様が無数の奇跡を行われたことは、私たちの信仰にとってどんな意味があるのか、ということについて考えてみましょう。

 イエス様が数々の奇跡を行われたということにはどんな意味があるかというと、それは、神の国がイエス様と一体となって到来したことを示す役割がありました。どういうことか見てまいりましょう。

 まず、洗礼者ヨハネが登場し、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べて、神の裁きの日とメシアの到来の日が近づいたことを人々に知らせ、それに備えよと訴えます。そのヨハネが投獄された後、ガリラヤに乗り出したイエス様も、全く同じ言葉「悔い改めよ。神の国が近づいた」を公にして活動を始めます。ただし同じ言葉を使ったと言っても、イエス様の場合は、神の国が彼自身と一体になって既に来ている、という点でヨハネの場合と大きく異なっていました。ヨハネが「神の国が近づいた」と言うとき、それは「まだ来ていない」ことを意味しましたが、イエス様の場合は「もう来ている」ことを意味していました。

神の国がイエス様と一体となって来たというのは、彼の行った数々の奇跡に示されています。マタイ福音書11章で、投獄中のヨハネが弟子をイエス様のもとに送って、彼が預言に約束されたメシアであるかどうか確認させます。ヨハネに伝えなさいとイエス様が言った言葉は、「私は現に目の見えない者が見えるようにし、耳の聞こえない者が聞こえるようにし、歩けないものを歩けるようにし、らい病を患った人たちを完治し、死んだ者を生き返らせ、貧しい者に良い知らせを宣べ伝えている」というものでした。この言葉はイザヤ書の35章と61章の初めが凝縮されていますが、これらは救いの日つまり神の国の到来を預言する言葉です。また、マルコ福音書3章では、イエス様が悪霊を退治した時、反対者たちから「あいつは悪霊の仲間だからそんなことができるのさ」と中傷を受けます。それに対してイエス様は、「悪霊が悪霊を退治したら彼らの国は内紛でとっくに自滅しているではないか」と反論し、自分が神の国と一体になっているからこそ悪魔が逃げていくのだと証します。このようにイエス様の数々の奇跡の業は、病や悪霊の力を超えた力が存在し、そういう大きな力が働く領域があることをはっきり示すもので、神の国が彼と共に到来したことの印だったのであります。
 
ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありません。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神の国に入ることはできません。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。本来私たち人間が受けるべき不従順と罪の裁きを、イエス様が全部引き受けて十字架で死なれ、ご自身の血を代価として支払って、私たちを罪の奴隷状態から解放して下さった。同時に死から復活されたことで、死を超えた永遠の命に至る扉も開いて下さった。このことが、まさにこの私のために行われたのだとわかって、イエスを主と信じて洗礼を受けて、そうして神がイエス様を用いて完成された救いを所有する者となった時、私たちは神から義なるものと見なされる存在となり、神聖な神の国の立派な一員として迎えられることとなったわけであります。


3.

ところが、洗礼を受けて、完成された救いの所有者となって、神の国の一員に迎えられたと言っても、病や飢えや渇きや自然の猛威は、私たちにとってまだ現実です。キリスト教徒も、そうでない人たちと同じように病や飢えや渇きや自然の猛威に晒されます。もちろん、時としてそうしたものから奇跡的に助かった人の信仰の証を聞くこともありますが。神の国の一員に迎えられているのなら、どうしてかつてイエス様が来た時のような力ある国ではないのか、という疑問が起きましょう。

それは、まだこの世が終わっておらず、神の国の一員である私たちは実はまだそうしたこの世にも生きていることによります。この世が終わる時、全てのものは滅び去り、神の国だけが永遠に残ります。イエス様が再臨され、信仰をしっかり守って生きた者たちに復活の命を与え、神の国に集められます。そこは、全ての涙が拭われ、死も悩みも嘆きも苦しみも存在しないところです(黙示録214節)。まさに病や悪霊や自然の猛威を超えた力が働く領域です。そもそもそういう邪悪なものが全て消滅してしまったからです。

ここで「信仰をしっかり守って生きた人たちが永遠の命を与えられて神の国に集められる」と聞くと、たいていのキリスト教徒は自分には無理だと思ってしまいます。なぜなら、肉をまとってこの世を生きる以上は、自分の内に罪と神への不従順がまだ宿っていることを認めざるを得ないからです。しかしながら、「信仰をしっかり守って生きる」と言うのは、罪と不従順がなくなった状態を意味するのではないのです。そんなことは、まだ不可能です。洗礼を通して神がイエス様を用いて実現した救いの所有者になる、ということは一体何なのか?それは、罪と不従順をまだ持っているにもかかわらず、それらがもたらす裁きが赦されて、神からさもそれらがないかのように見てもらえるようになったことを意味します。その時、このようなことを成し遂げて下さった神を賛美し感謝しようという心が生まれ、「全身全霊をもって神を愛せよ」と「自分を愛するが如く隣人も愛せよ」という神の意志に聞き従うのは当然だという心が育っていきます。実に洗礼によって、私たちは、肉に宿る古い人間を日々死に渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていく存在へと新しく創造されたのであります。この一大プロセスの終着点に復活があり、その時、古いものは全て消滅し、私たちは完全なキリスト教徒となって、永遠の命を生き始めます。そういうわけですから、洗礼を通して力強い神の国の一員に迎えられた筈なのに不運にも死が間近に迫る事態となってしまったとしても、本当は慌てふためく必要はないのです。瞬きした瞬間、私たちは完全なキリスト教徒になって永遠の命を生きています。その時、死は私たちに何の力もありません。実は、死は、私たちが洗礼を受けた時に、もう私たちを支配する力を失っているのです。


5.

 以上、イエス様が奇跡の業を通して、神の国の到来とその力を示されたことと、そして洗礼が私たちをそうした神の国の一員に迎える力をもつものであることが明らかになりました。理性をもち、目で見えるものにより頼もうとする私たちに、こうしたことを信じるのは、簡単なことではありません。私たちは、それらのことを目で見ることができず、信じる手がかりは、聖書に書かれたことしかないからです。イエス様の時代の人たちは、奇跡を目のあたりにしたので、信じるもなにも、見たことをそのまま受け入れるほかありませんでした。あえて言うならば、奇跡を「信じる」必要がなかったのです。私たちの場合は、目撃者の証言が唯一の手がかりです。「信じる」とは、目に見えないからこそ、成り立つものと言うことができます。要は、天地を創造し、私たちも創造し、ひとり子をこの世に送られた神は自分で言った言葉と約束をちゃんと守り通せるお方であると、信じることができるかどうか、ということです。ここまで言われれば、信じて当たり前という気持ちになります。
 
ルターは、信じることと実感することは相反するものであり、相反するこれらのものの戦いがあることで信仰が強められると教えています。

「福音から真理の光を受けた人は、聖書の御言葉に支えられて心をキリストに傾注するようになる。その人は、自分の内に罪と神への不従順があることを感じ、まだその中に浸かっていると思い知りながらも、実は次第に地獄と罪の支配が及ばないところへと導かれるのである。

 この時、その人の内に戦いが始まる。実感することこそ全てだとする実感中心主義は、聖霊と信仰に対して戦いを挑み、聖霊と信仰は実感中心主義に戦いを挑む。信仰は、その性質上、理性が実感を追い求めるのをほっておく。信仰は、生きる時も死ぬ時も、ただ聖書の御言葉のみにより頼み、目に見えるものにより頼もうとしない。実感中心主義では、理性と五感が把握できる以上には到達できない。このように、実感中心主義は信仰に対立し、信仰は実感中心主義に対立する。この戦いの中で、信仰が成長すればするほど、実感中心主義はしぼんでいく。逆もまたしかりである。

 罪、驕り、貪欲、憎しみなどが私たちの内に宿っているが、それは、私たちを信仰に踏みとどまらせて鍛えるためであり、そうすることで信仰は日々前進し、私たちは最終的に頭からつま先までキリスト教徒となって、完全にキリストの守りに覆われ、復活の日の大祝宴の席につけるようになる。海の波を見たまえ。あたかも岩壁を力で破壊しようとするかのごとく、次から次へと押し寄せるが、岩壁にあたると壊れてしまい消えてしまう。同じように罪や神への不従順も、私たちの頭上に襲いかかって、私たちを絶望に追いやろうとするが、それらも退却を余儀なくされ、最後には消滅するのである。」


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン