2013年8月12日月曜日

今の時から、そして永遠に (吉村博明)


説教執筆者 吉村博明

信徒礼拝説教2013年7月21日(聖霊降臨後第9主日)
スオミ教会にて
(2012年4月15日横浜墓地春季墓前礼拝での説教を改訂)

説教題「今の時から、そして永遠に」

聖書の箇所 詩篇121篇

1.都に上る歌。
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
2.わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
   天地を造られた主のもとから。
3.どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように
4.見よ、イスラエルを見守る方は
    まどろむことなく、眠ることもない。
5.主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6.昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
7.主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
    あなたの魂を見守って下さるように。
8.あなたの出で立つのも帰るのも
    主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。(新共同訳)



私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様


1.詩篇121篇 - 聖地巡礼の旅路の歌から人生の旅路の歌へ

聖書の中で、祈祷書・讃美歌集のような書物として「詩篇」があります。全部で150篇の祈りや歌が収められていますが、120篇から134篇まではどれも冒頭に「都に上る歌」と題されております。都とはエルサレムを指しますが、原語のヘブライ語の正確な意味は、「エルサレムの神殿の祭事の時に都エルサレムに上るキャラバンの歌」という意味です。簡単に言うと、エルサレムの神殿の年中行事に参加する「聖地巡礼者たちの歌」ということです。

 エルサレムの神殿は、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちが紀元前500年代の終わりに再建した第二神殿がありましたが、西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後、神殿は存在していません。巡礼の本当の目的地である神殿がない以上、この詩篇121篇はもう意味がないのでしょうか?いいえ、実は、この詩篇の歌は、イエス・キリストの出来事の後に新しい意味を持つようになりました。以下、そのことをみてまいりましょう。

エルサレムの神殿では、イスラエルの民が自分たちの罪を天地創造の神から赦してもらうために、夥しい数の羊や牛などの生け贄を捧げていました。ところが、イエス・キリストが来て、イスラエルの民だけでなく人間すべての罪が神から赦されるようにと、神の子でありながら自分自身を犠牲の生け贄として捧げ、十字架上の死に自らを委ねました。この犠牲をよしと見た神は、死んだイエス様を三日後に死から復活させて、人間のために永遠の命、復活の命への扉を開かれました。

このようにして神は、イエス様を用いて人間の救いを全て整えられたのであります。救われるために人間がすることと言えば、この救いの福音を聞いて、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、イエス・キリストを救い主と信じ洗礼を受けるだけです。そうすることで私たちは、神の整えられた「罪の赦しの救い」を所有することができ、この世にいながら、永遠の命、復活の命に至る道を歩むようになるのであります。

こういうわけで、イエス・キリストの十字架と復活の出来事の後は、人間は、罪や不従順を神から赦してもらうために、また神から守りと平安をいただくために、もう何も犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったのであります。この世から死んだ後に永遠の命、復活の命を持って、自分の造り主である神のもとで永遠に暮らすことができるようになるために、何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったのです。神のひとり子にまさる犠牲の生け贄など存在しないからです。仮に今、神殿が存在したとしても、その年中行事の儀式に参加する必要はないのです。それならば、この詩篇の歌は、イエス・キリストを救い主と信じる者には無用なものなのでしょうか?

いいえ、そうではありません。たとえ、エルサレムの神殿が存在しなくても、また、イエス様が私たちを罪と不従順の奴隷状態から贖いだしたおかげで神殿など不要になったとしても、この「聖地巡礼者たちの歌」は依然として重要です。なぜでしょうか?この歌は、エルサレムの神殿が存在する時は、確かに神殿に巡礼する旅路についての歌でした。ところが、神殿が存在せず不要になった後では、この歌は、イエス・キリストを救い主と信じる者の人生の旅路についての歌になったのです。この詩篇121篇には、神の助けや見守りという言葉が繰り返されます。これも、神殿があった時には、巡礼の旅路で受ける神の助け、見守りでしたが、神殿がない今では、人生の旅路で受ける神の助け、見守りを意味します。従って、この歌で歌われる旅路の最終目的地も、神殿があった時には神殿とそこでの祭事への参加ということでしたが、イエス・キリストを救い主と信じる者にとっては、この世の人生を終えた後で造り主の神のもとで永遠に暮らすこと、これが最終目的地になったのです。「聖地巡礼」という冒頭の言葉も原語のヘブライ語のもともとの意味は「上に昇る」という意味です。この歌の最後の言葉は「今の時から、そして永遠に」です。つまり、この歌は、この世での聖地巡礼ということを超えて、天国での永遠の人生に向かう旅路という意味を持っているのです。


2.イエス・キリストを救い主と信じる者の人生の旅路

このように詩篇121篇は、イエス・キリストを救い主と信じる者にとっては、人生の旅路とそこで受ける神からの助けについて歌う歌になりました。それでは、この歌がどのように人生の旅路を歌っているのかを見てみましょう。

 1節で、「私は山に向かって目を上げる」と言います。「山」とは聖地巡礼者にとっては、エルサレムの神殿や町が横たわるシオンの山を意味しました。キリスト教徒なら、今の世の天と地が消え去って新しい天と地にとってかわられる時に現れる天上のエルサレム(黙示録21章)を瞼に思い浮かべるでしょう。ここで大切なことは、具体的に何か雄大な山を見て、「私の助けはどこから来るのだろう」とつぶやく時、助けは、その山も含めて天と地の一切のものを造られた神から来るということです(2節)。自然の荘厳さや雄大さに目を奪われすぎて、それ自体が助けをもたらすような神秘的な力を持っていると見なすのは本末転倒です。そうした荘厳で雄大な自然自体を造られた神がおられる、力と助けは彼からのみ来ると肝に銘じておかなければなりません。私たち自身も、天地創造の神に造られたのです。しかも、その同じ造り主が私たちの救いのために御子イエス様を送られ、私たちにかわって救いを整えて下さったのです。私たちは、造られた被造物ではなく造り主を信じ、より頼まなければなりません。

3節から6節までは、神が一時も休まずに私たちに目を注ぎ、私たちのこの世の人生の旅路を守って下さることが歌われます。「見よ、イスラエルを見守るかたはまどろむことなく、眠ることもない」(4節)。「イスラエル」というのは、もともとは神の民イスラエルですが、イエス・キリストの十字架と復活の後は、この神のひとり子を信じる者が神の民になるので、キリスト教徒を指します。

ところで、神が不眠不休で私たちに目を注ぎ、私たちのこの世の人生の旅路を守って下さると言っても、そう思えない事態に私たちはしばしば遭遇します。苦難や不幸に見舞われた時など、神に見捨てられた、背を向けられた、と思いがちです。また、ひょっとしたら、全身全霊で神を愛さなかったことがあった、隣人を自分を愛するが如く愛することがなかった、それで神は怒って罰を下したのだ、と思うことがあります。ここで思い違いをしてはなりません。神は、イエス・キリストを救い主と信じる者が神の意志を満たせなかったことや、それに背いてしまったことを本当に悔やみ、どうか見離さないで下さいと祈る時、神は、イエス・キリストの身代わりの犠牲に免じて赦して下さり、新しい一歩を踏み出せるように助けて下さるのです。神に対して恥じ入り悔いる心を持つ者を、神は決して見捨てたり、背を向けたりはしません。もちろん、神が絶えず見守っているということは、苦難や困難の最中にはなかなか実感できないものであります。しかし、これは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を持つ者にしてみれば、実感は難しくとも真理なのであります。このことは、苦難や困難をくぐり終えた後で事後的にわかるということがよくあります。この事後的にわかるということは、後で8節を見る時にでてきます。

6節で、昼は太陽があなたを傷つけることはなく、夜も月が傷つけることはない、と歌われています。中近東の強い日差しの中での巡礼旅行は、まさに太陽に傷つけられるという感じでしょう。しかし、月が傷つける、とはどういうことでしょうか?月が昼間の太陽と同じくらい灼熱を放つとは考えにくいことです。実は、これは、創世記で太陽と月が造られたことを振り返れば、意味がわかります。創世記11617節で、神は、日中を支配させるために太陽を造り、夜を支配させるために月を造ったとあります。太陽は日中を支配する力であり、月は夜を支配する力です。詩篇1216節の「昼は太陽があなたを傷つけることはなく、夜も月が傷つけることはない」というのは、日中を支配する力からも、夜を支配する力からも守られるという意味です。つまり、昼も夜も関係なく、私たちは一寸の隙もないくらい神から目を注がれて、始終守られているという意味です。

さて、最後の78節に来ました。新共同訳聖書では、二節共に「見守って下さるように」、「見守って下さるように」と祈り願うような形で訳されています。ヘブライ語の動詞の用法として、実は、「神は見守って下さる」とか「見守って下さる方である」と、神の未来の行為とか神の習性を言い表す意味にもなります。英語、ドイツ語の主要な聖書やスウェーデンやフィンランドのルター派国教会の聖書をみても、新共同訳のような祈り願う訳はしていません。それですので、本説教でも、「神は必ずそうして下さる方だ」という意味で訳します。そうすると、7節は「主はあなたをあらゆる悪から守られる方である。あなたの魂を守られる方である」となります。私たちは、「主の祈り」を祈る時、「私たちを悪より救いだして下さい」と祈り願いますが、もし神が私たちを悪より救い出して下さるかどうか不安を抱くときは、この詩篇1217節を思い出しましょう。続いて、8節は、新共同訳では「あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」となっていますが、ヘブライ語原文では「帰る」とは言っていません。「入っていくこと」です。英語、ドイツ語の主な聖書、フィンランドやスウェーデンの聖書をみても「帰る」という訳はありません。みな「入っていくこと」になっています。そうすると、8節は「主は、あなたが出ていくことと入っていくことを守られる。今の時から、そして永遠に」となります。それでは、「出ていくこと」とは何から出ていくことで、「入っていくこと」とはどこへ入っていくことでしょうか?

神殿が存在していた頃の聖地巡礼の歌であれば、「出ていくこと」とは巡礼への出発、「入っていくこと」とは、待望のエルサレムに到着し、祭事に参加するために神殿に入っていくことを意味します。これが、キリスト教徒の人生の旅路の歌ということになれば、「出ていくこと」とはこの世の人生を終えて、この世から死ぬということになり、「入っていくこと」とは、永遠の命、復活の命を持って、造り主である神のもとに永遠に一緒にいる永遠の人生に入っていくことになります。神が「あなたの出ていくことと入っていくことを守られる。今の時から、そして永遠に」というのは、まさにこの世から死んで永遠の人生に移行するという境目にいるという場面です。この境目まで来たとき、私たちは、この世の人生で数々の苦難や困難に遭遇したにもかかわらず、この地点まで来られたというのは、やはり神の導きや助けが途切れることなくずっと今に至るまであったということを思い知ることができる時なのであります。ああ、あの時、神に背を向けられたとか、神に見捨てられたなどと思ってしまっていたが、実はそうではなく、本当はそのような時も神はずっと目をかけていて下さっていたのだ。自分はただそれに気づかなかっただけなのだ、と。


3.

さあ、これでこの世から次の世に移行しよう。神はこの瞬間から永遠まで、私を守って下さる。そう思うや否や、一つの大きな問題にぶつかります。それは、復活はいつ起きるのかということです。もし、ちょうど私が移行しようとするこの瞬間に、イエス・キリストが再臨して、死者の復活が起きれば、私もすぐその復活の波に乗って、造り主である神のもとに運ばれる。ところが、キリストの再臨がまだ先のことだとすれば、私はこの世から離れた瞬間、どこにいることになるのだろうか?イエス様を救い主と信じてこの世から死んだ先達たちは、どこで主の再臨と死者の復活の日を待っているのだろうか?何十年、何百年も待っていて退屈しないのだろうか?その間、何をしているのだろうか?実は、この問題に対して、ルターが明快な答えを出しています。彼によれば、この世からの死は一時の眠りのようなものであり、眠った本人にすれば、それが何十年、何百年たっていても蘇って起きた瞬間に、「あれ、いつ眠りこけたのかな」としか思えないくらい短く感じられるものだというのであります。以下に、ルターの教えを引用して本説教の締めとしたく思います。

「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン