2022年4月25日月曜日

イエス様の与える平和を持てれば見ないでも信じられる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年4月24日 復活節第一主日

 

使徒言行録5章27~32節

ヨハネの黙示録1章4~8節

ヨハネによる福音書20章19~23節

 

説教題 「イエス様の与える平和を持てれば見ないでも信じられる」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の福音書の個所は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張っていたのが、目の前に現れて信じるようになったという出来事です。その時イエス様が言います。「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである。」この言葉にはキリスト信仰にとって大事なことが含まれています。今日は「見なくても信じる者は幸い」とはどういうことかを見ていきたいと思います。それと、イエス様は弟子たちに「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とも言われます。罪すなわち人間が神の意思に反することを行ったり言ったり思ったりすることですが、それを赦すのは神の権限なのに、その権限を弟子たちに与えるというのです。これはとても大きな権限です。説教の終わりにこのことについても触れておこうと思います。

 

2.復活に付随する大事なこと

 

 「見なくても信じる者は幸い」ということについて。私たちは目で見たら、その時はもう、信じるもなにもその通りだと言うでしょう。ところが、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。

 

 イエス様の弟子たちは復活の目撃者です。信じるも何もそうとしか言いようがなく、後で迫害が始まった時にも見たものを見なかったことにする改ざんみたいなことは出来ませんでした。本日の使徒言行録の個所でも、弟子たちはユダヤ教社会の指導者たちからイエスの名を広めるなと脅しを受けます。しかし彼らは折れません。なぜ折れないかというと、目撃したことがとても大事なことだから譲れないのです。イエス様の復活に何かとても大事なことが付随しているのです。もしその大事なことがなくてただ死んだ人間が息を吹き返して出てきただけだったら、確かに情報を拡散したい気持ちにはなるでしょうが、拡散したら命はないと言われたら、そこまでしてやる人はいないでしょう。しかし、復活に何かとても大事なことが付随してあるから、命を危険に晒しても折れないということになったのです。それでは付随している大事なこととは何か?それがわかると、見なくても信じる者は幸いということもわかってきます。

 

 ところで、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。その後は復活したイエス様を目撃できません。それで、目撃者の証言を信じるかどうかということになります。彼らの証言を聞いて信じることが出来た人たちは、どうしてできたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも後に目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?それは、やはり、復活に付随している大事なことを目撃者同様に持てるようになったからです。本当にその大事なこととは何でしょうか?

 

3.イエス様が与える平和とは?

 

 そこで本日の福音書に戻ります。イエス様が復活した日の夜のこと、弟子たちはある家に集まっていました。ペトロとヨハネは、その日の朝早くマグダラのマリアからイエス様の墓が空であったという知らせを聞きました。すぐ自分たちも確認に行ったところ、確かに墓は空でした。この出来事が先週の福音書の箇所の内容でした。今、家の中でペトロとヨハネは、空の墓のことを他の弟子たちに話したところでした。そこへマリアが来て復活したイエス様に会ったと言ったのです。さあ、どうしたものか。主は本当に復活したのだろうか?みんなで出かけて行って会うことができるだろうか?しかし、外はイエス様を死刑に追いやった者たちで溢れかえっている。うかつに人前に出たら危険だ。それで成す術もなく家の中で過ごすうちに夜になりました。その時、なんとイエス様本人がそこに現れたのです。迫害を恐れて扉という扉にしっかり鍵を掛けたにもかかわらず。

 

 ルカ24章を見ると弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。本日のヨハネ20章にもあるように、イエス様は、弟子たちに自分の手とわき腹の傷跡を見せて本人確認をさせます。先週の説教でもお話ししましたように、復活されたイエス様は人間がこの世で有する体とは全く異なる復活の体を有していました。それは、亡霊と違って実体のある体でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それはあたかも天使のような体でした。復活したイエス様は、この世の我々の肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持っていたのです。そのような体を持つ者が本来いる場所は天の父なるみ神がおられる神聖な天の国です。罪の汚れに満ちたこの世ではありません。イエス様は本当は、復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったのです。しかし、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間、この地上にいることになったのです。

 

 弟子たちの前に現れたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言います。弟子たちは周りの人たちを恐れていました。イエス様がいなくなって将来どうなるか全くわからない不安がありました。そのような時に「平和があるように」というのは、恐れと不安を超えるものがあるのだ、恐れと不安ではなくそれを持ちなさい、とおっしゃっているのです。恐れと不安を超える平和とはどんな平和でしょうか?

 

 ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は実際にはアラム語で話していたので、シェラームשלמという言葉だったでしょう。そのアラム語の言葉の元にある言葉は、言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームשלומです。このシャーロームという言葉は広い意味を持ちます。国と国が戦争しないで仲よくするという意味の平和もありますが、その他にも繁栄とか、成功とか、健康とか、国だけでなく人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。ずばり、神の救いを意味することもあります(1列王記233節、イザヤ5410節「平和の契約」と訳すことも可)。そうなると、日本語の「平和」と違ってきて、それなら「繁栄」とか「成功」とか「救い」と訳せばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、もともとのヘブライ語の言葉シャーロームはこれら全部を含めてしまうのです。

 

 イエス様は「平和」という言葉をもっと深い意味で言っています。十字架に掛けられる前日、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ1427節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和である。しかも、それを、この世が与えるように与えるのではない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャーロームなのでしょうか?まず、「この世が与える」平和シャーロームとは何かを考えてみます。先ほどシャーロームは広い意味があると申しました。国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生が含まれると。もしこれらのものが「この世が与える」ものなら、それは人間が自分の力で獲得したものです。

 

 ところがイエス様が与える平和シャーロームは違います。それは彼特製の平和で、しかも、それを「この世が与えるように」与えるのでない。つまり、イエス様の平和シャーロームは人間の力で獲得するものではない。あくまでもイエス様が与えるものです。そうすると、イエス様が与えるシャロームは、国と国との平和とか、人間個人の望ましい理想的な状態とは違うのでしょうか?結論を先に申しますと、イエス様が与えるシャーロームは、こうした理想的な状態の土台にあるような根源的な平和です。それがあってはじめて、シャーロームが普通意味する理想的な状態が成り立つと言えるような根源的な平和です。それがなければ、どんなに理想的な状態を獲得しても危いというような、そんな根源的な平和です。一体それはどんな平和なのでしょうか?

 

 イエス様が与える平和を理解する鍵が聖書の中にあります。「ローマの信徒への手紙」51節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており...」。つまり、「平和」とは人間と神との間の平和です。そうすると、イエス様のおかげで神との間に平和が得られているということは、イエス様が来られる以前は人間と神の間は平和がない、言わば敵対関係だったのか、という疑問が起きます。実はそうだったのです。そのことは「コロサイの信徒への手紙」12122節に明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対していた私たち人間がイエス様の十字架の死によって神と和解することができ、神聖な神の前に立たされることになっても神に認めてもらえるようになった、と言うのです。神との敵対、そしてイエス様の死による和解と平和、これらは一体どういうことでしょうか?

 

 これらのことがわかるためには、まず、私たち人間には造り主がいるということ、その造り主が私たちに命と人生を与えられたということに立ち返ってみる必要があります。そして、立ち返ったら今度は、その造り主と私たち人間との関係はどうなっているのかということを考えてみなければなりません。

 

 創世記を繙くと、人間はもともとは創造主の神に似せて造られたくらいに神に近い存在でした。それが最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったため神との結びつきが失われてしまいました。神との結びつきが失われたのに伴って人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬であると教えている通りです(ローマ623節)。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも人間の罪性が言われるので、よく嫌がれます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らないではないか、と言われます。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。

 

 罪が内部に入り込んでしまったため、人間は神聖な神の御前に立たされたら焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして罪のゆえに神と人間の間に敵対関係が生じてしまったのです。しかし、神は、人間を神から切り離している罪の力を無にして、人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと決めました。そのために自分のひとり子をこの世に贈りました。人間の全ての罪をこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで全ての罪の神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。神のひとり子が人間に代わって人間の罪を全て神に対して償って下さったのです。神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。

 

 さらに神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、復活と永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。こうしたことが起こった後で人間の側ですることと言えば、あとは、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、この神がしてくれた罪の償いが自分に起こったことになります。本日の黙示録15節で言われるように、イエス様は自分が流した血によって私たちを罪から解放されたのです。難しい言葉で言うと、罪から「贖って」下さったのです。このように罪を償われ罪から贖われた人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、神との和解ができたことになります。神との平和な関係に入ったのです。こうしてその人は神との平和な関係を持ってこの世の荒波の中を進んでいくことになります。進む先は、復活の日に復活の体を着せられ永遠の命を与えられるところです。今年のスオミ教会の年間主題でも言われるように、キリスト信仰者はイエス様と一緒に最終港を目指してこの世という海の航海を続けていくのです。

 

 この航海を進む中で成功、繁栄、健康などこの世的な平和シャーロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まっていれば、神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係はしっかり保たれています。人間的な目から見れば、失敗、貧困、病気などの不運に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えません。しかし、キリスト信仰者というのは罪の告白を行って罪の赦しの宣言を受け、また聖餐式で主の血と肉に与っていれば神の目から見て結びつきも平和な関係も何ら変更なくしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に永遠に迎え入れて下さいます。このことを確信してこの世から別れるのがキリスト信仰者です。イエス様のおかげで神と平和な関係にある人は本当に見ないで信じられる幸いな人です。

 

4.罪を赦す権限について

 

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに大事な任務を与えます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ここで次のような疑問が起きます。キリスト教は、イエス様の十字架で全ての罪が赦されたと言っているではないか。それなのになぜ、まだ赦されるとか赦されないとか言い続けるのか?この疑問について考えてみましょう。

 

 まず確認しておかなければならないことがあります。それは、父なるみ神はイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したわけですが、今度は人間の方がこの確立した救いを受け取らないと、この赦しはその人に効力を持たないということです。救いは確立された、しかし、それを受け取らないと、その外側にとどまることになってしまうのです。せっかく神が全ての人間に対して、どうぞ受け取って下さい、と言って差し出して下さっているのに。そこで、もし受け取れば、神がイエス様の犠牲に免じて赦すと言っていることが、その人にとってその通りになるのです。

 

 そう言うと今度は、じゃ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪が償われて罪から贖われると言ったのに、それでもなお赦されるだの赦されないだの言うのはどうしてか、という疑問が起きると思います。確かにキリスト教では、十字架の出来事で全ての罪は赦されたと言いますが、全ての罪が赦されたというのは、これで信仰者から罪がなくなるということではありません。なくなるのは罪が人間を神から引き離そうとする力、復活に向かわせない力です。

 

 人間はイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になっても、肉の体を纏っている限り、神の意思に反しようとする罪を持っています。その点は信仰者でない人と何の変わりはありません。ただ、何が違うかというと、キリスト信仰者の場合、罪の赦しの救いを自分のものとして所有していて、神もそのような者としてその人を見てくれている。それでその人がたとえ思いや言葉や行いによって罪を犯しても、すぐ神のみ前でそれを認めて、イエス様を救い主と信じていますから赦して下さいと祈れば、神も、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、これからは犯さないようにと言って下さいます。変わらぬ結びつき、平和な関係の中で引き続き復活に至る道を歩ませ下さるのです。

 

 このように信仰者は罪を犯さなくなった者ではなく、犯してもイエス様を自分の救い主と信じる信仰のゆえに神との結びつき平和な関係は揺るがずに、復活に至る道を歩ませてもらっている者です。それなので、信仰に留まる限り、罪が本来持っている力、人間を神から引き離して復活に向かわせず永遠の滅びに向かわせようとする力は信仰者に対しては無力化しているのです。私たちの礼拝の最初に唱えられる罪の告白と赦しの祈り、それに続く赦しの宣言というのは、罪の無力化を確認するものです。そういうわけで、罪の告白を行い赦しの宣言を受けるということは、洗礼という原点に立ち返ることを意味します。

 

 ここで一つ細かいことを言うと、礼拝の「罪の告白」の後に「赦しの宣言」が続くと申しましたが、日本福音ルーテル教会の式文では「赦しの宣言」ではなく「赦しの祈願祝福」となっています。内容は先ほど一緒に唱えたように、「ひとりのみ子イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に、赦しと慰めを与えて下さるように」という文言です。司式者は、赦しがありますようにと祈り願う言い方です。これに対してフィンランドのルター派教会で用いられる式文では、もっと違う言い方がされます。こう言います。「神からその権限を委ねられた者として、次のように宣言します。あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されたと宣言します。」文字通り、会衆に罪は赦されたと宣言するのです。日本のように、赦しがありますようにと祈り願うこととは違います。そして宣言する場合、司式者が赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言するというのです。誰がそんな権限を委ねられているのでしょうか?最初の使徒たちがイエス様からこの権限を委ねられました。本日のヨハネ福音書にある通りです。その後は、使徒の伝統に立って教会の牧会者に任命された者です。私は、いつの日かこのスオミ教会でフィンランドと同じような宣言がなされることを希望します。

 

 最後に、イエス様が弟子たちに命じたことの中に「あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」というのがありますが、それについてひと言。使徒や使徒の伝統に立って任命された牧会者が赦さない罪とはどんな罪でしょうか?これは、自分は罪を犯したことがないとか罪を持っていないという人の場合です。そういう人は罪の告白をする必要を感じない人で、罪の告白がないから赦しを宣言しようにもできません。先ほども申し上げたように、キリスト信仰者と言えども罪は内にあるので、罪の告白は必要です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年4月21日木曜日

復活した者たちが相まみえるところ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年4月17日 復活祭

 

イザヤ書65章17~25節

コリントの信徒への第一の手紙15章19~26節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

説教題 「復活した者たちが相まみえるところ」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

  今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 

 復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。復活祭では何をお祝いするのでしょうか?十字架刑という惨い殺され方をしたイエス様が死から復活して本当に良かったという、イエス様のハッピーエンドのお祝いでしょうか?そうではありません。それでは復活祭は何をお祝いするのでしょうか?それがわかるために、まず「復活」とはそもそも何なんのかがわからないといけません。それと、なぜイエス様は復活を遂げる前に十字架の死を遂げなければならなかったかもわからないといけません。

 

 そういうわけで今日の説教は、初めに復活とは何なのかについて考えます。その次にイエス様がなぜ復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったかをわかるようにします。そして最後に、イエス様が復活したことは私たちに何の関係があるのかをみていきます。

 

2.復活とは何か?

 

 復活とは何か?復活とは、よく混同されますが、ただ単に死んだ人が少したって生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 

 復活の体について、使徒パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」15章で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(4243節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(5254節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ1225節)。

 

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それは、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 

 復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象があります。目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流した出来事があります。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

 

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前の説教でもお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのは、天にいるのが相応しい神聖な体を持つイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様とすがりつく地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」とはどういうことでしょうか?マリアはイエス様だと気づく前ずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上に遺体までなくなってしまって喪失感と言ったらありません。そこでイエス様に気づいた時どんな反応だったでしょうか?私たちの経験でも例えば、最愛の人が何か事故に巻き込まれて、もう死んでしまったとあきらめたか、まだあきらめきれないという時、突然その人が無事に戻ってきて目の前に現れたらどうなるでしょうか?たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめるでしょう。マリアもそうしたのでしょう。ただ相手が崇拝する人の場合は、「すがりつく」というのはひれ伏して両足を抱きしめることだったかもしれません。

 

 イエス様が「すがりつくな」と言ったということについて少し注意します。以前にもお教えしたことですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)と言っています。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 

 以前もお教えしましたが、イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様自身、この言葉の後で触れてはならない理由を言っています。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は自分に触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。そういうことになります(後注)。

 

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これは、この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 

 本当なら危険極まりないことなのになぜイエス様は許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちた方だから、という常套句を使えばそれまでですが、私はそれだけではないと思います。イエス様がマリアのことを、今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上は彼女も復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたからだと思います。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」これと同じことはパウロも本日の使徒書の日課でも述べていました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

3.私たちの復活のための十字架の死

 

 次に、なぜイエス様は復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったのでしょうか?

 

 イエス様の十字架の死というのは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしてくれたということでした。「罪」と聞くと普通は何か犯罪行為とか、そこまでいかなくとも何かとても悪い行いを思い浮かべる人が多いです。聖書ではそれは、人間に備わってしまっているもので神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。旧約聖書の創世記に記されているように罪は、神に一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。しかし神は、罪の引き離す力から人間を解放して結びつきを回復してあげよう、人間が自分と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことをしてあげようと決めたのです。

 

 それでは、そのように人間を救おうという神の御心とイエス様の十字架と復活とはどう結びつくでしょうか?それは、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部引き受けてくれたことになり、そのようにしてイエス様が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さったのでした。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たした償いが完璧なものだったからです。その意味で罪は本当は破綻してしまったのです。

 

 さらに神は、想像を絶する力でイエス様を死から復活させました。これで死を超える永遠の命があることがこの世に示されました。そこに至る道が人間の前に開かれました。そこで人間は、これらのことは全て自分のために起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人に入り込んで、その人の中にある罪を圧し潰していきます。自分で償ったのではなく他人が償ったというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であればちっぽけな人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方が神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもので決して軽んじてはならないものとわかります。なにしろ罪が償われたというのは、神が、お前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さることなのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

 

 罪の償いをしてもらったということは、神から罪を赦されたと見なしてもらえることになります。その時、神との結びつきは回復しています。そうなると人生は神の御心に従って進むことになります。どんな御心かと言うと、神との結びつきは人がどう感じようが順境の時でも逆境の時でも変わらずにあり、それで人生は神の守りと導きの中で復活の日を目指して進むものなるということです。そして、この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられるということです。まさに罪と死の支配から解放された人生を持つようになるということです。

 

 このように罪と死の支配から人間を解放するという神の御心がイエス様の十字架と復活によって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った者はイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活の可能性が開かれたことを覚える日でもあるのです。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身のためだけでなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

 

4.復活した者たちが相まみえるところ

 

 最後に、復活というのは自分自身が復活させられるというだけでなく、復活の日に同じように復活させられた人たちと懐かしい再会を遂げるという希望があることも見ておこうと思います。

 

 キリスト信仰の復活というのは、聖書によれば、将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる日に起こることです。新しい世になる前に今ある世が終わるのでよく終末論と言われますが、新しい天と地、新しい世ということも言っているのでそれを忘れてはいけません。死者の復活というのも、その時に一斉に起こることです。それなので、一人ひとりがこの世を去って各々が何年したら復活するということではありません。ここのところがキリスト信仰の死生観が他の宗教と大きく違う点の一つではないかと思います。一人ひとりがこの世を去った後はパウロもイエス様も言うように、復活の日まではみんな静かに眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。ただし、その時に起こるべきこととしてイエス様の再臨とか最後の審判ということがあります。それらについては別の機会にお話しします。

 

 本日の旧約聖書の日課イザヤ書65章は復活を遂げた者たちが迎え入れられるところはどんなところかについて述べています。初めに新しい天と地が創造されることが言われています。この箇所で使われている言葉はこの世に関係するものばかりなので、新しい世のことを言っているように聞こえないかもしれません。しかし、聖書をよく知っている人ならこれは黙示録の終わりの部分の先取りだとわかるでしょう。この個所を見てみましょう。

 

17「見よ、わたしは新しい天と地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」

 

 「初めからのこと」はヘブライ語(הרשנות)を見ると「以前のこと」と訳したほうがいいです。その意味は、以前の天と地の時にあったこと、そこで神の意思に反したことがあったこと、それらは新しい天と地の下ではもう神にも神のもとに迎え入れられた者にも関係なくなるということです。

 

1819節前半「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。」

 

 エルサレムとは今のイスラエル国のエルサレムではなく、新しい天と地の下で復活した者たちが迎え入れられるところを聖書ではそう呼んでいます。

 

19節後半~20「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。」

 

 これは黙示録21章で言われていることと同じです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」「最初のもの」とは、旧い天と地の下にあったことです。それらはもう神にも復活を遂げた者にも関係なくなるということです。

 

2123節前半「彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。」

 

 新しい天と地の下で何が変わるかについて、復活した者の有り様が永遠のものに変わるだけではありません。そこは完全な正義が実現されているところであることをこの個所は言い表しています。「他国人」は、ヘブライ語(אחר)を素直に訳すと「他人」です。外国から侵略されるという意味でなく、隣人関係において奪ったり奪われたりということがなくなるということです。「私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる」も、正確な訳は「私の選ばれた者らは自分たちの手の業を享受する」です。このように新しい世は正当な権利が侵されない正義が蔓延する世であることを言っているのです。

 

23節後半「彼らは、その子孫と共に主に祝福された者の一族となる。」

 

ここの正確な訳は「彼らは、主に祝福された者の子孫である。彼らの子孫は彼らと共にある」です。ずばり、復活の日に復活した者たちみんなが相まみえることを言っているのです。

 

24「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。」

 

神がそれくらい復活した者たちの近くにおられるということは黙示録213節でも言われています。「見よ、神が住まわるところは人々の間にある。神は彼らのもとに住まわれる。彼らは神の民となる」

 

25「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」

 

イザヤ書11章にも同じような預言があります。狼やライオンのような獰猛な獣が草やわらを食べているというのは信じられない光景ですが、実はこれは天地が創造された時の状態でした。創世記130節に創造の業を終えた神がこう言われます。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草をたべさせよう。」いつから動物たちのあるものが他の動物たちを食べるようになったのでしょうか?やはり堕罪の出来事が天地創造の安全で安心な秩序を壊してしまったのでしょうか?そうだとすると、新しい天と地の再創造というのは堕罪の前の全てが良い状態に戻すということになります。そのようなところに私たちは招かれ、その招きを受けたキリスト信仰者たちはそこを目指して今この世を進んでいるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

 


 

後注 

 

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ2027節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ2039節の「触りなさい」とヨハネ2027節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατεβαλε)であることに注意します。ヨハネ2017節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いているのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。

2022年4月19日火曜日

私たちが守るべきもの (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年4月10日 聖金曜日

イザヤ書52章13節~53章12節

ヘブライの信徒への手紙10章16~25節

ヨハネによる福音書18章1節~19章42節

 

説教題「私たちが守るべきもの」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始まったのでした。

 

イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています。こともあろうに彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、激痛と意識もうろうの中でイエス様が最後に目にした光景だったでしょう。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦しみや激痛で満ちています。

 

私たちの周りにも苦しみや激痛が沢山あります。特に今はウクライナの戦争が連日ニュースに出ます。無残に破壊された町並み、殺されてしまった人たち、何百万の避難民、取り残されてしまった人たち、これらの映像や写真を毎日見ていると、イエス様の受難など背景に追いやられて色あせてしまうかもしれません。イエス様のことは2000年前の遠い過去の出来事であるのに対してウクライナの戦争はまさに現在進行中のことです。イエス様の受難はイエス様一人の苦しみでしたが、ウクライナの戦争では犠牲者は何万人単位です。そちらの受難の方が規模が大きく身近に感じられるとしても無理はありません。

 

ところで、侵略国との力の差は圧倒的なのにウクライナの人たちが受難を覚悟で侵略国の要求を跳ねのけてまで戦うのはなぜか?それは、自由と民主主義を守りたいからです。もし守りたいものが物質的な安定とか生命の保全とか美しい郷土だけならば、それらは独裁国が支配しても得られます。しかし、独裁国に支配されたら、間違っていることを間違っていると言えなくなります。そう言う人を毒殺することも厭わない相手です。しかし、支配者は国民が不満を抱かないように物質的・生命的安定も配慮するでしょう。自分たちに盾突かなければという条件でですが。もちろん物質的・生命的な安定は大事ですが、間違っていることは間違っていると言える自由とそれを運用できる民主主義はもっと大事だ、それは他のものと引き換えることはできない、たとえ物質的・生命的な安定を失うことになっても守らなければならない、これがウクライナの人たちの選択でありそのための戦いであると言ってよいと思います。ウクライナの人たちの選択について日本でもいろんな議論がされています。その議論は実は、もし私たちも同じ危機に襲われたらどんな選択を取るのかということを好むと好まざるにかかわらず考えさせるものになっていると思います。

 

2.ここで先ほど色あせてしまうと言ったイエス様の受難に目を向けてみます。実は、イエス様の受難もよく見ると、人間にとって他のものに引き換えることができない大事なものがあります。何かと言うと、イエス様の受難によって、人間は自分たちが失っていた神との結びつきを取り戻すことができたということ。それで、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになったということ。そして、この世から別れた後は神のもとに永遠に戻ることができるようになったということです。

 

それらのことがイエス様の受難を通してどのようにして起こったかということが先ほど読んだイザヤ書の箇所で述べられています。この箇所はイエス様の時代の数百年前に書かれた預言です。それが実際に起こったのです。

 

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。なぜこのようなことが起こったのかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わせたのです。人間の神に対する背きのゆえに、イエス様がかわりに神の手にかかって命ある者の地から断たれたのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもありませんでした。それなのに、その墓は神に逆らう者と一緒にされました。苦しむイエス様を神は打ち砕き、こうしてイエス様は自らを償いの捧げ物としたのです。神の僕であるイエス様が「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」のです。イエス様は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたけれども、実はそれは多くの人の過ちを担って、背いた者のために執り成しをしたことだったのです。

 

このイザヤ書の預言から明らかなように、イエス様は私たち人間のかわりに神から罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが神の意思に反しようとする性向、罪を持ってしまっているために、神との結びつきがない状態で行き先もわからずこの世を生きていたからでした。神との結びつきが回復できて行き先がわかるようになるために、神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさせたました。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。罰はイエス様が受けて下さったので人間は受けないで済む可能性が開かれました。あとは人間の側がこのことは本当に起こった、だからイエス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける。そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人に入り込み、その人は神から罪を赦されたものと見てもらえるようになります。

 

神から罪を赦されたので神との結びつきを回復してこの世の人生を進むことになります。進む行き先は復活の日に復活させられて神の国に迎えいれられるところです。罪は人間を復活のない方に追いやろうとします。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、追いやられることはありません。キリスト信仰者は罪と死の支配から解放されているのです。イエス様の十字架の受難が人間にもたらしたこと、罪の赦しと神との結びつきの回復そして復活と永遠の命、これこそがキリスト信仰者が他のものと引き換えにできないことです。これらのことを守らず他のものに引き換えてしまったら、自分をも守らないことになります。これらのことを守ることは、自分を守ることになるのです。

 

3.この2000年前のかの地で起きた出来事が時空を超えて現代の日本に生きる自分のためにもなされたというのは身近に感じられないかもしれません。しかし、実際にそうなのです。それを示すイエス様の言葉があります。それは彼が最後に述べた「成し遂げられた」です。ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσταιとあります。イエス様はこの言葉を口にした時はギリシャ語ではなくアラム語で言われたでしょう。それがどんな言葉だったかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の全記録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのです。

 

このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も成し遂げられた状態にある」です(後注)。つまり、「成し遂げられた」とは、罪の赦しの救いがイエス様の十字架で実現したのであるが、それはそれでハイ終わりましたではないということです。ヨハネが何十年か後にこの記録を書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いているということです。さらに彼の書物を手にして読む後世の者にとっても「成し遂げられた状態」が続いているということです。まさに時空を超えて私たちにとってもです。ヨハネの翻訳は真に的確でした。父なるみ神の御心に適うものです。なぜなら、神の御心は、彼が造った人間の誰もがひとり子を通して実現した救いを受け取ってほしいというものだからです。そしてこの御心は2000年前も今も変わらないのです。神の救いは現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮なものです。それなので、ゴルゴタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては新しい命を生きられるようにするものです。既に受け取った人たちには、かつて与えられた新しい命が今も変わらず新しいままでいることを忘れさせない原点です。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注)アオリストετελεσθηでなく現在完了τετελεσταιであることに注意

2022年4月14日木曜日

良いニュースと悪いニュース (アリ・ユーパルオマ)

良いニュースと悪いニュース

 

アリ・ユーパルオマ (フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

 

日本語版翻訳編集者 高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会)

 

聖書の引用は口語訳によるものです。

日本語編集版では日本語としてわかりやすくするために表現を修正してあります。

 

 

 

私たちはたくさんの悪いニュースに取り囲まれて生きています。

しかし聖金曜日とイースターのメッセージは

そのような私たちに与えられた良いニュースです。

 

自然災害、疫病、戦争などについて洪水のように押し寄せるニュースの大群は

今日では私たちの想像を遥かに超えるものとなっています。

しかも明日には

さらに何かもっと悪いことを見たり聞いたりすることになるかもしれないのです。

 

この世の動向や人々の生活がたやすいものであったことは

今まで一度もありませんでした。

「万事は今までと同じように続いていくので心配はいらない」

といった約束は私たちには与えられていません。

ところが私たちはさも当然であるかのように

「多くのことはこれからも変わらないままだろう」と考えがちです。

 

何気ない日常生活を送っている時に

私たちは人生がいかに脆いものであるか忘れていることがよくあります。

そして思いがけなく立ち止まるほかなくなるようなことが起きます。

 

他の多くの人々がすでに経験してきたのと同じような

痛みや憧憬や恐れや真実に私たちも向かい合うことになるのです。

 

誰も避けることができない真理が存在します。

この真理は目新しいニュースではありません。

しかし常に私たちを不意打ちして立ち止まらせるのです。

 

「そして、一度だけ死ぬことと、

死んだ後さばきを受けることとが、

人間に定まっているように」

(「ヘブライの信徒への手紙」9章27節、口語訳)

 

自分もいつかはこの世での人生を終えることになります。

また自分もいつかはこの世での生きかたについて

(最後の裁きの時に)責任を問われることになります。

これは私たちにとって悪いニュースです。

しかし避けることのできない真実です。

この真実において私たちは

自分にはあまりに強大で理解不能な事態に直面します。

 

だからこそ私たちにはもっと良いニュース、真に良いニュースが必要なのです。

このニュースは否定できない真実から目を逸らしません。

そしてこのニュースは恐れや絶望の只中にいる私たちを助けてくれるのです。

 

私たちの利己的な行動や怠慢さは

(私たちのうちにある)邪悪さ(原罪)に由来しています。

この邪悪さのせいで

私たちは恐れ絶望し苦々しく悲嘆に明け暮れるようになってしまうのです。

私たちはこの恐れや絶望を根こそぎ消してくれる

特別に良いニュースを必要としています。

 

さまざまなものに脅かされて幾度となく地面に叩きつけられてきた私たちは

聖金曜日とイースターの良いニュースを必要としています。

このニュースはあらゆる障害や敷居を乗り越える力をもっています。

 

「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、

その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。」

(「エフェソの信徒への手紙」1章7節、口語訳)

 

この世の動向や人々の生きかたは

主イエス様にとってもたやすいことではありませんでした。

イエス様はこの世の中にあるすべての悪と罪を

御自分で引き受けるほかありませんでした。

罪のないこのお方は他の人々の身代わりに

律法の要求する罰を死に至るまで苦しみ抜かれたのです。

 

主イエス様は私たちの抱えている罪深さという問題を

御自分のものとして引き受けて、

罪がもたらす死と裁きから私たちを解放するという決定を

私たちのためにあらかじめ用意してくださいました。

すべてがイエス様の血の力と価(あたい)によって

非の打ち所がない徹底さで成し遂げられたのです。

 

イエス・キリスト復活のニュースは

このお方が神様の律法の要求を御自身の生きかたを通して

完全に実現なさったことを伝えています。

(最後の裁きで)私たちのこの世での生きかたについて審議がなされる時には

キリストの御言葉と御業が決定的な重みをもちます。

そして(洗礼を受けイエス様を救い主として信じている)私たちには

罪の赦しの判決が下されるのです。

この世を去った後の私たちには素晴らしい未来が保証されています!

 

それゆえ今年のイースターでも

死からの贖いと罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

そして、それを実現してくださった主イエス様の

受苦と死と復活が賛美されているのです。

イエス様が王として支配なさる御国は素晴らしく永遠なるものです!

これに優るニュースを聞くことも想像することもできません。

 

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」

(「マルコによる福音書」1章15節、口語訳)

 

主イエス・キリストは十字架で死なれ

三日目によみがえり墓から外に出られました。

これは全人類にとって新たな時代が始まったことを意味しています。

死と裁きが打ち砕かれたのです!

 

良いニュースが悪いニュースに取って代わりました。

それにともない私たちは

「これからは新たな心構えで生きていくように」

という主からの招きを受けています。

これは私たちが真剣に取り組むべき課題です。

私たちは物事を根本的に評価し直し、

前代未聞の素晴らしいニュースを信じるようにと招かれているのです。

 

「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、

その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、

わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、

わたしたちはキリストの使者なのである。

そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

(「コリントの信徒への第二の手紙」5章19〜20節、口語訳)

 

喜びに満ちた十字架と復活のイースターを共にお祝いしましょう!