2022年4月21日木曜日

復活した者たちが相まみえるところ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2022年4月17日 復活祭

 

イザヤ書65章17~25節

コリントの信徒への第一の手紙15章19~26節

ヨハネによる福音書20章1~18節

 

説教題 「復活した者たちが相まみえるところ」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

  今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 

 復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。復活祭では何をお祝いするのでしょうか?十字架刑という惨い殺され方をしたイエス様が死から復活して本当に良かったという、イエス様のハッピーエンドのお祝いでしょうか?そうではありません。それでは復活祭は何をお祝いするのでしょうか?それがわかるために、まず「復活」とはそもそも何なんのかがわからないといけません。それと、なぜイエス様は復活を遂げる前に十字架の死を遂げなければならなかったかもわからないといけません。

 

 そういうわけで今日の説教は、初めに復活とは何なのかについて考えます。その次にイエス様がなぜ復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったかをわかるようにします。そして最後に、イエス様が復活したことは私たちに何の関係があるのかをみていきます。

 

2.復活とは何か?

 

 復活とは何か?復活とは、よく混同されますが、ただ単に死んだ人が少したって生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 

 復活の体について、使徒パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」15章で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(4243節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(5254節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ1225節)。

 

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それは、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 

 復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象があります。目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流した出来事があります。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

 

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前の説教でもお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのは、天にいるのが相応しい神聖な体を持つイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様とすがりつく地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」とはどういうことでしょうか?マリアはイエス様だと気づく前ずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上に遺体までなくなってしまって喪失感と言ったらありません。そこでイエス様に気づいた時どんな反応だったでしょうか?私たちの経験でも例えば、最愛の人が何か事故に巻き込まれて、もう死んでしまったとあきらめたか、まだあきらめきれないという時、突然その人が無事に戻ってきて目の前に現れたらどうなるでしょうか?たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめるでしょう。マリアもそうしたのでしょう。ただ相手が崇拝する人の場合は、「すがりつく」というのはひれ伏して両足を抱きしめることだったかもしれません。

 

 イエス様が「すがりつくな」と言ったということについて少し注意します。以前にもお教えしたことですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)と言っています。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 

 以前もお教えしましたが、イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様自身、この言葉の後で触れてはならない理由を言っています。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は自分に触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。そういうことになります(後注)。

 

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これは、この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 

 本当なら危険極まりないことなのになぜイエス様は許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちた方だから、という常套句を使えばそれまでですが、私はそれだけではないと思います。イエス様がマリアのことを、今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上は彼女も復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたからだと思います。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」これと同じことはパウロも本日の使徒書の日課でも述べていました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

3.私たちの復活のための十字架の死

 

 次に、なぜイエス様は復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったのでしょうか?

 

 イエス様の十字架の死というのは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしてくれたということでした。「罪」と聞くと普通は何か犯罪行為とか、そこまでいかなくとも何かとても悪い行いを思い浮かべる人が多いです。聖書ではそれは、人間に備わってしまっているもので神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。旧約聖書の創世記に記されているように罪は、神に一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。しかし神は、罪の引き離す力から人間を解放して結びつきを回復してあげよう、人間が自分と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことをしてあげようと決めたのです。

 

 それでは、そのように人間を救おうという神の御心とイエス様の十字架と復活とはどう結びつくでしょうか?それは、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部引き受けてくれたことになり、そのようにしてイエス様が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さったのでした。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たした償いが完璧なものだったからです。その意味で罪は本当は破綻してしまったのです。

 

 さらに神は、想像を絶する力でイエス様を死から復活させました。これで死を超える永遠の命があることがこの世に示されました。そこに至る道が人間の前に開かれました。そこで人間は、これらのことは全て自分のために起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人に入り込んで、その人の中にある罪を圧し潰していきます。自分で償ったのではなく他人が償ったというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であればちっぽけな人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方が神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもので決して軽んじてはならないものとわかります。なにしろ罪が償われたというのは、神が、お前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さることなのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

 

 罪の償いをしてもらったということは、神から罪を赦されたと見なしてもらえることになります。その時、神との結びつきは回復しています。そうなると人生は神の御心に従って進むことになります。どんな御心かと言うと、神との結びつきは人がどう感じようが順境の時でも逆境の時でも変わらずにあり、それで人生は神の守りと導きの中で復活の日を目指して進むものなるということです。そして、この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられるということです。まさに罪と死の支配から解放された人生を持つようになるということです。

 

 このように罪と死の支配から人間を解放するという神の御心がイエス様の十字架と復活によって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った者はイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活の可能性が開かれたことを覚える日でもあるのです。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身のためだけでなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

 

4.復活した者たちが相まみえるところ

 

 最後に、復活というのは自分自身が復活させられるというだけでなく、復活の日に同じように復活させられた人たちと懐かしい再会を遂げるという希望があることも見ておこうと思います。

 

 キリスト信仰の復活というのは、聖書によれば、将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる日に起こることです。新しい世になる前に今ある世が終わるのでよく終末論と言われますが、新しい天と地、新しい世ということも言っているのでそれを忘れてはいけません。死者の復活というのも、その時に一斉に起こることです。それなので、一人ひとりがこの世を去って各々が何年したら復活するということではありません。ここのところがキリスト信仰の死生観が他の宗教と大きく違う点の一つではないかと思います。一人ひとりがこの世を去った後はパウロもイエス様も言うように、復活の日まではみんな静かに眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。ただし、その時に起こるべきこととしてイエス様の再臨とか最後の審判ということがあります。それらについては別の機会にお話しします。

 

 本日の旧約聖書の日課イザヤ書65章は復活を遂げた者たちが迎え入れられるところはどんなところかについて述べています。初めに新しい天と地が創造されることが言われています。この箇所で使われている言葉はこの世に関係するものばかりなので、新しい世のことを言っているように聞こえないかもしれません。しかし、聖書をよく知っている人ならこれは黙示録の終わりの部分の先取りだとわかるでしょう。この個所を見てみましょう。

 

17「見よ、わたしは新しい天と地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」

 

 「初めからのこと」はヘブライ語(הרשנות)を見ると「以前のこと」と訳したほうがいいです。その意味は、以前の天と地の時にあったこと、そこで神の意思に反したことがあったこと、それらは新しい天と地の下ではもう神にも神のもとに迎え入れられた者にも関係なくなるということです。

 

1819節前半「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。」

 

 エルサレムとは今のイスラエル国のエルサレムではなく、新しい天と地の下で復活した者たちが迎え入れられるところを聖書ではそう呼んでいます。

 

19節後半~20「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。」

 

 これは黙示録21章で言われていることと同じです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」「最初のもの」とは、旧い天と地の下にあったことです。それらはもう神にも復活を遂げた者にも関係なくなるということです。

 

2123節前半「彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。」

 

 新しい天と地の下で何が変わるかについて、復活した者の有り様が永遠のものに変わるだけではありません。そこは完全な正義が実現されているところであることをこの個所は言い表しています。「他国人」は、ヘブライ語(אחר)を素直に訳すと「他人」です。外国から侵略されるという意味でなく、隣人関係において奪ったり奪われたりということがなくなるということです。「私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる」も、正確な訳は「私の選ばれた者らは自分たちの手の業を享受する」です。このように新しい世は正当な権利が侵されない正義が蔓延する世であることを言っているのです。

 

23節後半「彼らは、その子孫と共に主に祝福された者の一族となる。」

 

ここの正確な訳は「彼らは、主に祝福された者の子孫である。彼らの子孫は彼らと共にある」です。ずばり、復活の日に復活した者たちみんなが相まみえることを言っているのです。

 

24「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。」

 

神がそれくらい復活した者たちの近くにおられるということは黙示録213節でも言われています。「見よ、神が住まわるところは人々の間にある。神は彼らのもとに住まわれる。彼らは神の民となる」

 

25「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」

 

イザヤ書11章にも同じような預言があります。狼やライオンのような獰猛な獣が草やわらを食べているというのは信じられない光景ですが、実はこれは天地が創造された時の状態でした。創世記130節に創造の業を終えた神がこう言われます。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草をたべさせよう。」いつから動物たちのあるものが他の動物たちを食べるようになったのでしょうか?やはり堕罪の出来事が天地創造の安全で安心な秩序を壊してしまったのでしょうか?そうだとすると、新しい天と地の再創造というのは堕罪の前の全てが良い状態に戻すということになります。そのようなところに私たちは招かれ、その招きを受けたキリスト信仰者たちはそこを目指して今この世を進んでいるのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

 


 

後注 

 

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ2027節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ2039節の「触りなさい」とヨハネ2027節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατεβαλε)であることに注意します。ヨハネ2017節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いているのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。