2019年9月30日月曜日

イエス様は復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年9月29日(聖霊降臨後第十九主日)スオミ教会

アモス書6章1-7節
テモテへの第一の手紙6章2C-19節
ルカによる福音書16章19-31節

説教題 イエス様は復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。

まず、話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזרという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けをずっと求めている人がいたことに気づいていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。

さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。

 金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富に対しては主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだ不十分です。本日の箇所は次の3つのことも教えています。まず天国や地獄というものについて、それから神の正義ということについて。これらは以前の説教でもお話ししましたが、3つ目のものは今回見えてきたものでして、それは何かと言うと、イエス様の死からの復活の出来事は信じる者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。少しわかりにくいですが、どういうことが後ほど見ていきます。最初に2つのことを少しおさらいします。

2.キリスト信仰の天国と地獄について

天国や地獄などと言うと、人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だ、などと思う方がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかどうか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。

そこで万物の創造主である神とそのひとり子のイエス様は、天国と地獄についてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、本日の福音書の箇所を見るだけでもいろいろなことがわかってきます。

 実は本日の箇所は、よーく見ると、あれちょっとおかしいなと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着くというように理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。

 「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみましょう。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(46節)。これが最後の審判です。これに続いて、天と地が新しく創造されて古いものに取って代わり(211節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。復活を遂げた者たちが一堂に会する神の国、これが天の国、天国です。

こうしてみると、天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる時になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところとなります。そういうわけで「陰府」というのは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われる反面、でもそうなると、復活や最後の審判が起きていなければなりません。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判の日は来ていません。そうすると「陰府」でなければならないのですが、金持ちは眠りについておらず、まさに地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?

この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVはハーデースαδης hell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見るとこんなことを言っています。ギリシャ語原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、そう断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で、「地獄」とは区別されています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、地獄とはしっかり区別されています。

どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。その時はじめて全人類が対象となる天国への迎え入れと地獄への落し入れが起きます。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、と頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。その場合、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかったのでしょう。

それでは、その大事なこととは何か?それは、冒頭でも申し上げましたように、一つは神の正義についてで、もう一つはイエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これからこれらについて見ていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。

 聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記345節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。ルター派の信条であるアウグスブルグ信条も同じです。

 日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。

3.神の正義

以上、天国と地獄について見てきました。ここから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになるのは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。

黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さいます。倍返しどころではありません。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。

4.旧約聖書の精神

もうひとつ大事な事は、イエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これについて見ていきましょう。

イエス様はアブラハムの口を借りて言います。「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」モーセと預言者というのは旧約聖書のことを意味します。これを読むと、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、耳を傾けないままである」というように捉えられます(耳を傾けないのは旧約聖書のこと?蘇った死者のこと?)。これはちょっと違います。ギリシャ語原文では、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、確信には至らない、納得には至らない」です。英語訳、ドイツ語訳、スウェーデン語訳の聖書もそう訳しています(フィンランド語訳はちょっと変わっていて「信じるには至らない」です)。

「死者の復活を目の当たりにしても確信、納得には至らない」と言う時の「確信、納得には至らない」とはどういうことか?金持ちはアブラハムにラザロを兄弟のところに送って下さいとお願いしました。死者が生き返ったのを見たら、兄弟は悔い改める、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになる、そういう効果を期待したのでした。ところが、アブラハムの返答は厳しかった。彼らに関しては死者の復活を目の当たりにしてもそんな効果はない、自分たちの生き方の間違いを確信、納得するには至らない、というものでした。そうなので、期待するような悔い改めは起こらないということです。旧約聖書に耳を傾けない者は、寝ぼけているのと同じ状態なので、死者の復活を目の当たりにしても寝ぼけ眼で見るだけです。

ところが、旧約聖書に耳を傾ける者が死者の復活を目の当たりにすると効果は甚大で、自分の生き方の間違いを確信、納得する。しっかり神の方を向いて生きる。旧約聖書に耳を傾ける者にどうしてそのような効果があるのでしょうか?

旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように耳を傾けようとすると罪の問題を心の奥底まで見なければならなくなります。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うと、もう自分には神の意思に沿えるものが何もなくなってしまいます。そうなると神の御前に立たされる日がとても恐ろしいものになります。ところが旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを約束します。どんな約束か?人間が神の御前に立たされて恐れたり委縮しないで済むようにと、人間の罪を人間に代わって神罰を受けて償って下さる方が来られると約束します(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、自分の罪深さが神の御言葉によって暴露されてしまい悲しみに陥るということです。しかし同時に、神の力と計らいで人間は罪から贖われるという約束に希望を託することです。旧約聖書に耳を傾けるというのは、このような悲しみと希望の精神に立つことです。

さて、この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。十字架の死を遂げることでイエス様は私たちの罪の償いを果たして下さり、さらに死から復活されることで、人々に復活の新しい体と死を超えた永遠の命も本当にあるということを示されました。それだけではありません。私たち人間が、これらのことは本当に歴史上起こったと信じて洗礼を受けると、即イエス様の罪の償いを頭からすっぽり被せられて、神からは罪を赦された者と見なされるようになります。同時に永遠の命に至る道に置かれ、今後はその道を歩むことになります。

このように旧約聖書に耳を傾ける人とは、自分には神の意思に反するものがあるという不都合な真実に目を向けられる人です。同時にその人は旧約聖書には罪からの贖いが実現するという慰めの約束があると知っている。不都合な真実に目を向けると同時に慰めの約束が果たされる日を忍耐して待っています。これが旧約聖書の精神です。イエス様の十字架と復活を耳にした時、約束が果たされたことを知ります。そしてそれからは、不都合な真実に直面しても約束の実現が既にあるので、真実から逃げなくとも慰めを得られます。イエス様の復活が信仰者の心に旧約聖書の精神を一層根付かせるのです。

創造主である神の目に至らない自分の真実に目を向け、
罪から贖われるという神の約束を思い出そう。
神はひとり子を犠牲にしてその約束を果たして下さったのだ!
イエス様は死から復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2019年9月24日火曜日

神に従属することで得られる自由 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年9月22日(聖霊降臨後第15主日)スオミ教会
       
コヘレトの言葉8章10-17節
テモテへの第一の手紙2章1-7節
ルカによる福音書16章1-13節

説教題 「神に従属することで得られる自由」

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.説教者泣かせの聖句

本日の旧約聖書の日課コヘレト81017節と福音書の日課ルカ16113節は両方ともとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことは何もなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られるような内容です。聖書たるものがこんなことでいいのか、と言いたくなります。

ルカの方を見ると、イエス様がある出来事について話して、それをもとに教えを述べます。どんな出来事かと言うと、ある金持ちの財産を管理する人が主人の財産を「無駄遣い」していた、というより、ギリシャ語の動詞(ディアスコルピゾーδιασκορπιζω)は「使いまくっていた」と言っていいでしょう。それはやがて、主人に知られることとなり、主人は彼を解雇することに決め、その前に会計報告を出すよう命じます。報告書をまとめている間、管理人は身の振り方を考えます。困ったことになったぞ、これを主人に提出したら即、解雇だ。転職といっても肉体労働する力はないし、乞食になるのは嫌だ。そうだ、主人に負債がある人たちを呼んで、彼らの借金を主人に内緒で減額してしまおう。そうすれば、僕が失業した時、借金を減らしてもらった者たちは僕を家に迎え入れてくれるだろう。管理人は借用証書も管理しているので次のような芸当をやってのけます。油100バトスの負債がある人に、証書を新しいものに取り換えてやるから、ここに50バトスと記載しろ、と命じる。1バトスは39リットル位と言いますから、油3,900リットルの半分1,950リットルが帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルが975本分の油です。負債者は喜んだでしょう。次に小麦100コロスの負債がある人を呼んで、80コロスと書かせる。1コロスは、393リットルということで、半分ではないにしても、小麦7,860リットル分が帳消しになりました。2リットル入りのペットボトルで3,930本分の小麦です。負債者は喜んだでしょう。

このように管理人は会計文書を偽造するわけですが、驚いたことに、イエス様は、この管理人が「賢く立ち振る舞った」などと褒めるのです。主人の財産を使い込むという不正を働いた者がさらに文書偽造までする、そういうさらなる不正があったのにイエス様が褒めるというのは一体どういうことか?こんなことでは、国会で公文書偽造で追及された関係者たちが喜んでしまうではありませんか!それ見ろ、あのイエス・キリストもいいと言っているじゃないか、と。

この話は、イエス様がよく使うたとえの話なのか、実際にあった話なのか、はっきりしません。たとえの話ならば作り話ですので、自分で作った話の登場人物を褒めるというのは少し変な感じがします。恐らく、これに類する事件があったのではないかと思われます。ただ、作り話にしろ、実際にあった話にしろ、この話と後に続くイエス様の教えの部分がどう結びつくのかとてもわかりにくいです。

教えの部分を見ますとイエス様は「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値のあるものを任せられるだろうか」と言います(11節)。あれっ、管理人が借用証書を偽造したのは、富について忠実では無かったんじゃないのか?なぜイエス様は管理人を褒めたのか?と言いたくなります。さらに最後の13節では、神と富の両方に仕えることはできない、と教えています。その趣旨は明らかに、人は神のみに仕えなければならない、ということです。そうすると、富に対して忠実たれ、と教えていたこととかみ合わないではないか?なんだか本日の箇所は支離滅裂に見えてきます。

このように、本日のコヘレトの個所とルカの個所は説教者泣かせの聖句で、そんなのが二つもあってダブルパンチです。しかしながら、どんなに難しい個所でもイエス様を救い主と信じる信仰の目をもってこの何度も何度も読み返し、あわせて聖書の他の箇所で何が言われていたかということも思い出しながら読んでいくとだんだん理解できてきます。もちろん父なるみ神に知恵をお願いしながらですが。ヘブライ語やギリシャ語の知識も理解に役立ちますが、理解を助けるのはあくまでも信仰の目を持って読むかどうかにかかっています。

6年前はルカの個所を中心に解き明かししました。3年前はコヘレトを中心にしました。その時、「コヘレトの言葉」は神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではない、全く逆のことを言っているのだ、ということを明らかにしました。どうしてそんなことが言えるのか驚かれる方は教会HPで以前の説教(2016918日)をご覧くださればと思います(当ブログ「ルター派の説教」では次のリンクになりますhttps://kentakaki2.blogspot.com/2016/09/blog-post_19.html)。今回はルカを中心に見ていきます。

イエス様は恐らく現実にあった出来事をもとに何かそこに弟子たちが学び取るべきものがあると考えて、それを取り上げたと考えられます。富について弟子たちに何かまだ考えが足りないことがあって、それをわからせるためにそうした。では、その考えが足りなかったこととは何か?そのように見ていくと、管理人が文書を書き換えたことは本質的なことではなくなってきます。イエス様がそれについてとやかく言わなかったのは、恐らく金持ちの主人が言われている位の借金減額ではびくともしない大金持ちだったからと考えられます。それで弟子たちに学び取ってもらうことを教えるのに都合がよい題材として選んだのでしょう。それでは弟子たちが学び取るべきものとは何だったのか?以下に見てまいりましょう。

2.神から救いを頂いて神に従属する者になり富の主人となる

 本日のルカの箇所をよく理解できるためには、この箇所で一番重要なポイントになっていることを見つけて、そこから箇所全体を見渡して理解するようにするとよいでしょう。本日の箇所の一番重要なポイントとは、最後の13節です。聖書を読む時に、たいていの場合、ひとつのまとまった箇所のポイントは終わりの部分にあると覚えておくとよいでしょう。

「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 ここでイエス様は、神と富の両方に仕えることはできないと教えます。「仕える」という動詞は、ギリシャ語で見ると、正確には「奴隷として仕える」(δουλευω)という意味です。奴隷は主人の所有物ですから、所有物である奴隷には二人の所有者がつくことは不可能なわけです。イエス様は、人間と神と富の関係も同じだと言います。どっちか一つにしか従属できない。どっちかに従属したら他方とは無関係になる。

 ここでひとつ注意したいのは、イエス様は、神に仕える者は財産を持ってはいけない、とは教えていないことです。イエス様が言っていることは、神と富の双方にお仕えする、従属することはできない、ということです。富には従属しないで神に従属することが出来れば、富を持つことは問題ないのです。富を持つことがそのまま従属することになってしまい神への従属がなくなってしまえば、その時は持つべきではないということです。人間が富に従属せず神に従属して富を持つというのは一体どういうことか?ルターが次のように明らかにしています。

「神は、我々が出し惜しみしたり欲張ったり、減ったら困るなどと心配して、お金や財産にお仕えする者にならないようにと望んでおられる。神が我々に望んでおられるのは、心配事は全部、神に心配してもらえばいいという心意気で、自分はただ与えられた課題に取り組んでいくということだ。財産に仕える者はその奴隷であり、その時、彼は財産を所有するというよりは、財産に所有されているのである。そういう人は、財産を使うのが必要な時が来ても、使う勇気を持てず、財産を使って他の人に仕えることもできない。つまり、お金に旅立たせる勇気がないのである。ところが、もし人が財産の主人であれば、財産はその人に仕えることとなり、その人はもう財産には仕えない。例えば、君が着る物に困っている人を目にしたとする。すると君はお金に向かって次のように言う。『敬愛する金貨君!あそこに貧しくて上着がなく震えている人がいる。さあ、ここから出て行って、彼に仕えなさい!』また、次のようにも言う。『価値あるお金君、あそこに病人が助けも慰めも与えられないでいる。ここから出て行って、急いで彼を助けに行きなさい!』財産の主人とは、このように財産を扱うことが出来る者のことを言う。
キリスト信仰者とは、このように考えて行動する者を言うのである。使徒パウロは、欲張りや出し惜しみは偶像崇拝とまで言った。キリストは、それを富に従属することと言った。君が主人を選ぶ時、何もできない死んだも同然の金属のかけらに仕えるのか?それとも、生きて君を見守り導いてくれる神に仕えるのか?生ける神は、君のために喜んで用いられる心の方である。主は言われる。全身全霊で私のものになるか、さもなければ、私と全く関係のない者にとどまっていなさい、と。」

以上ルターの教えから、キリスト信仰者というのは、本当は神以外に従属するものがなく、他のものに対しては自由で束縛されていない者であり、それは富に対してもそうなのだ、富に対してはまさに主人なのだ、ということが明らかになったと思います。それでは、そのようなことはどのようにして可能なのでしょうか?それは、人間が神からとてつもなく高価なものをいただいたので、もうそれに比べたら他のものはみんな、どんな多額の財産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。それでは、その神から頂いた高価なものとは何か?それは、神のひとり子イエス様が本当なら人間が受けてしかるべき神罰を自ら引き受けて十字架の上で死なれたこと。そして一度死なれたが神の力で復活させられて永遠の命が本当にあることを示されたこと。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、断ち切れていた神との関係を回復させることができ、それからは神との結びつきの中で生きられるようになること。そしてこの世を去ることになっても、神は御手をもって御許に引き上げて下さること。これらが何ものにも代えがたい高価なものとわかればわかるほど、神以外のものに従属しなくなって他のものに対しては自由になっていきます。他のものに対しては人間の物差しで計るのではなく、神の物差しで計るようになっていきます。富に従属するというのは、要するに、人間の物差しで計って生きるということなのでしょう。

3.人間を神から引き離す富、それを神に従属する者が用いる

本日の箇所のポイントである13節を要約するとこうなります。キリスト信仰者は神から計り知れない高価なものをいただいたので、神に従属して仕える者であり、富に対しては自由で束縛されず主人としてふるまう者であるということ。富を手にしている者は、それを人間の物差しで計らず神の物差しで計るので、「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛と、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛のために用いるようになる。そうすれば、富を持っていても、神に従属して仕えることは出来るということです。このポイントを念頭に置いて本日の箇所を眺めていくといろいろなことがわかってきます。

まず、11節「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せられるだろうか」。「不正にまみれた富について忠実たれ」という教えには戸惑います。この「不正にまみれた富」は、9節にも出てきます。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」。これにも戸惑います。ギリシャ語の言葉はアディコスαδικος(形容詞)、アディキアαδικια(名詞)ですが、「不正な」という意味は辞書にある代表的な意味です。ところが、言葉の使い方は、「不正な」という意味から派生していろいろあります。ルカ18章に、やもめにしつこく訴えられる裁判官のたとえがあります。イエス様はこの裁判官を「不正な裁判官」と呼びますが(6節)、同じ言葉(アディキアαδικια)が使われています。しかし、この裁判官の何が不正なのかは明らかでありません。明らかなのは、この裁判官が「神をも畏れず、人を人とも思わない」ということだけです。つまり、「不正な」と言っているのは、本当は「神からかけ離れた」とか「神を顧みない」という意味です。本日の個所の「不正にまみれた富」の「不正」も同じように理解するといろいろわかってきます。

先ほど13節のポイントで見たように、富には人間の心を従属させ、神への従属を妨げる力があります。「不正にまみれた富」というのは、まさに富というものが人を神からかけ離れたものにする、神を顧みないものにする、という意味です。要するに、「性質上、人間を神から遠ざける力を持つ富」ということです。そのような富に「忠実」であれ、というのはどういうことか?「忠実」というのは「神から遠ざかる」ことの反対のことを意味します。それで、神に対して忠実、神に従属して仕えるという意味になります(「忠実な」ピストスπιστοςは「信仰を持った」という意味もあります)。こうして見ると、「不正な富に忠実たれ」というのは、「人間の心を支配して神から遠ざける力を持つ富(不正な富)を、神に従属してお仕えする者として用いる」ことになります。これはまさに先ほどのルターの教え、神に従属して富の主人となってそれを隣人の必要に用いる、という教えと見事に一致します。そうなると神が「本当に価値あるものを任せる」というのは、神に従属する者は、神がイエス様を用いて実現した高価な救いを持つに値する者になっているということです。

12節「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがた自身のものを与えてくれるだろうか」。これも、富・財産は自分の私有物のようでありながら、実は神という他人から預かっているものなので神の御心に従って取り扱わなければならない、と考えればよいでしょう。神に従属している時、「あなたがたのもの」が与えられるというのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるあなたは神に従属しているので、神が実現した救いを自分のものにしているということです。

10節「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。「ごく小さな事」(ελαχιστοςとは、別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われる言葉ですので、「ささいなこと、取るに足らない事」です。つまり、「人を神から引き離す力を持つ不正な富」を指します。その富に対して、神の御心に従うように立ち振る舞う者は、より価値あることにも同じように立ち振る舞う。しかし、富に対して、「不忠実に」立ち振る舞う者、つまり神の御心に従わないで立ち振る舞う者は、より価値あることに対しても同じである、ということです。(日本語で「不忠実」と言っているのは、ギリシャ語でアディコスαδικος、つまり先ほども見たところですが、神を顧みないという意味です。)

 次に9節。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「不正にまみれた富」というのは、先ほど見ましたように、「性質上、人間を神から引き離して従属させようとする力を持っている不正な富」ということです。ここで問題になるのは、永遠の住まいに迎え入れてくれる友達とは誰か、ということです。永遠の住まいに迎え入れるというのは、この世の人生を歩み終えて、復活の日に復活させられて父なるみ神のもとに迎え入れられることです。そうなると、この友達はもう人間ではありません。復活の日、今の天と地が新しい天と地にとってかわられる最後の審判の日に主イエス様と共に到来する天使たちを指します。富は人間を神から引き離そうとする力を持っているが、神に従属する者はそれを神の物差しで計って用いる。先ほどルターの教えに見たように、富の主人として立ち振る舞い、神への愛と隣人愛の手段として富を用いる。天使というものは、当時のユダヤ教社会の考えでは、人間の行ったことや人間に起きたことを全て詳細に記録して神に報告する役割を持つ存在でした。このようにして、「人間を神から引き離す力を持つ富」を神の物差しで計って用いて、人間には別に見られなくても注目されなくても、「いいね!」をたくさん押してもらわなくても、天使たちがちゃんと記録してくれて、「永遠の住まい」に迎え入れられるその日、神から「全部ちゃんと知っていたよ」と言われるのです。

ところで、本日の箇所は全て、弟子たちを相手にして話されています(1節)。従って、この「永遠の住みかに迎え入れられる」ことについての教えも弟子たちに言われています。なぜイエス様は、弟子たちにこのようなことを教えなければならなかったのでしょうか?それは、弟子たちの間には、神に仕える者は財産を持ってはならない、富と関係を持ってはならない、という雰囲気が支配的だったからです。イエス様自身、富が人間の心を神から引き離す力を持っている危険をよく知っていたので、金持ちに対してはとても厳しい意見を持っていました。金持ちが神の国に入れることは、駱駝が針の穴を通るよりも難しいとさえ言いました。その時、ペトロは、自分たちは何もかも捨てて主に従って来ました、と強調しました(マルコ102331節、マタイ192330節、ルカ182430節)。ペテロの発言には、財産を捨てることが神の国に入れる条件という考えが見え隠れしています。しかし、イエス様は本日の箇所で、神を唯一の主人として従属して仕えることは、財産を持っていても可能であるということを教えようとしたのです。8節でイエス様は、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言います。「この世の子ら」とは、神よりも富に仕えてしまう人たち、「光の子ら」とは、富よりも神に仕える人たちです。「光の子ら」は、すぐ財産を遠ざけようとする傾向がある。しかし、財産を持っていても、神を唯一の主人として従属して仕え、財産に対しては主人となることができるのだ。それを神への愛と隣人愛の手段として用いて、永遠の住まいに向って歩むことは可能なのだ、と。このことを教えるために、身近に起きた出来事を題材にして具体的に教えたのです。

イエス様がこの出来事で着目したのは、もう後がない状況に陥った管理人が自分を受け入れてくれるところを確保するために主人の財産をどう用いたかということでした。その例にならえば、富を持つ「光の子」が将来の受け入れ先、神の国という永遠の住まいを確保するには、まず、自分が所有している財産は神からの預かりものと考え、自分は管理人と考えなければならない。次に、神から預かった財産の管理を任されたというのは、財産を神の御心に沿うように用いなければならない。神への愛と隣人愛の手段として用いなければならない。管理人の事例では、主人の財産を用いて負債者の負担を軽減しました。それが結果として、彼の将来の受け入れ先を決めました。「光の子」の管理人も、神から預かった財産を神への愛と隣人愛の手段として用い、重荷に喘ぐ人の負担を軽くすることに用いれば、それが神の国という永遠の住まいへの受け入れ準備になるというわけです。まさに天に宝を積むということです。ただし、それが出来るためには、まず神に従属していなければ出来ません。そして、神に従属できるためには、神がイエス様を用いて実現した救いを先に受け取っていなければなりません。

もう一つ付け加えますと、管理人が負債ある人たちの負債を彼らに代わって軽減してやったというのは、イエス様が罪という人間が神に対して負っている負債を人間に代わって帳消しにしたことを暗示しています。人間の救いを人間の努力や業や修行に基づかせる諸々の宗教から見たら、キリスト教はずるい宗教に見えるかもしれません。

4.高価な救いを頂くことが全ての出発点

以上みてきましたように、神を主人とし富を奴隷にすることは、神からとてつもなく高価なものをいただいたので、それに比したら他のものはどんな多額の財産であっても色あせてしまう、それくらい高価なものをいただいた、そういうことがあって可能になります。エイっと、かけ声の下、財産を丸投げして、さぁ、神は見返りに何をくれるか、と言うことではありません。こちらからそんなことする前に私たちは神から非常に高価なものを頂いたのです。私たちのために十字架上の贖いの業と死からの復活を成し遂げて下さったイエス様を超える頂きものはありません。この高価なものが色あせてしまわないために、主日の礼拝があることを忘れないようにしましょう。その高価なものは自分から色あせることはありません。ボーっとしていると私たちの方で色あせてしまうのです。私たちの方でも色あせないために、本来の高価さを私たちの内で保てるように、兄弟姉妹の皆さん、主日の礼拝を大切にして守ってまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2019年9月16日月曜日

「心の耳を澄ましてごらん。天上の歓声が聞こえてくるから。」 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2019年9月15日(聖霊降臨後第14主日)スオミ教会

出エジプト記32章7-14節
テモテへの第一の手紙1章12-17節
ルカによる福音書15章1-10節

説教題 「心の耳を澄ましてごらん。天上の歓声が聞こえてくるから。」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、イエス様の二つのたとえの教え、「見失った一匹の子羊」と「無くした一枚の銀貨」の話です。子羊のたとえでは、100匹の羊のうち1匹がはぐれてしまって、持ち主が探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は衰弱していたかケガをしていたでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。銀貨の方は、持ち主の女性が10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話でした。

二つの話は、状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びはとても大きいので多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであると。そこで大事なことは、この二つのたとえは何についてのたとえなのかをわかることです。二つのたとえの終わりに同じ結論で結ばれていることに注目しましょう。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こる。「罪びと」というのは、天地創造の神の目に相応しくない者をいいます。「悔い改め」というのは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の意思に沿うように生きようとすることです。イエス様がこの二つのたとえで伝えようとしているのは次のことです。罪びとがそういう方向転換をして神の許に立ち返る生き方をし始めた時、神のおられる天上では大きな喜びが沸き起こる。天使たちも歓声をあげる。罪びとというのは、たとえの羊や銀貨のように見失われてしまったもの無くなってしまったものと同じなのだ。しかし、方向転換をしたら神に見つけてもらった者となって、その時天上では大きな喜びの歓声が沸き起こるということです。

実は、この二つのたとえはその次に来る、有名な「放蕩息子」のたとえの伏線して語られます。つまり、イエス様は「放蕩息子」のたとえが理解できるためにこの二つのたとえを先に話したのです。従って、「放蕩息子」のたとえが正確に理解できるためには最初の二つのたとえと一緒にみなければなりません。一般的に言って、イエス様の教えを正確に理解しようとしたら、その教えが言われているテキスト上のコンテクストと歴史的時代的コンテクストの両方を見なければなりません。教えをそれらのコンテクストから切り離して、いろんな人間的な分析を加えて解釈しようとすることも行われますが、そうやって出てきた解釈は、人間的には感動を与えるものでも、本当にイエス様が伝えたかったものと同じかどうか判断、評価できないといけません。ひょっとしたら全然関係ないものになっているかもしれません。もちろん、教えをコンテクストから切り離したら、絶対イエス様と無関係な理解になるとは申しません。関係あるかどうか判断、評価できるため、まずイエス様が本当に伝えたかったことをコンテクストに基づいて理解することから始めなければならないでしょう。

2.コンテクストに密着してイエス様の教えをみる

それでは、羊、銀貨、放蕩息子の3つのたとえが一緒に語られたコンテクストはどんなものだったかを見てみましょう。ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動をみて度肝を抜かれました。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもと交流し一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として3つのたとえを話します。つまり、羊、銀貨、放蕩息子の話は自分の行動を正当化するために話されたのです。これが、テキスト上のコンテクスト、出来事上のコンテクストです。

さらに時代的歴史的コンテクストに踏み込んでいきましょう。一つの手がかりとして、E.P.サンダースという歴史聖書学者が1986年に出した「Jesus and Judaism」という有名な研究書があります。タイトルを日本語に訳したら「イエスと第二神殿期ユダヤ教社会」ということでしょうか。何がこの書物を有名にしたかというと、ナザレのイエスの思想と行動を当時のユダヤ教社会のコンテクストにどっぷりつけて分析したからです。それまでは、とかくイエス様をユダヤ教から切り離す仕方で理解することが主流でしたから、この書物は歴史的イエス研究の方向を大きく変えるのに一石を投じました。

ただし、画期的な書物ではありますが、問題もいろいろあります。外国の有名な影響力ある本だからと言って、なんでもハイハイと言って無批判そのまま受け売りする必要はありません。本日の個所に即してみますと、イエス様が罪びとと交流したことが宗教エリートの反感を買って、それが後の十字架刑の一因になったなどと言っています。サンダースの主旨はこうです。イエス様が悔い改めも何もしない、罪びとをそのまんま受け入れて一緒に飲めや歌えやの大騒ぎをしていた。つまり、イエス様というのは、反体制の姿勢を示すやり方としてわざとエリートに嫌悪感を引き起こすようなことをしたということです。

ほんとうにそうでしょうか?悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者たちをイエス様はそのまま受け入れて交流したのでしょうか?羊と銀貨のたとえの結論を見て下さい。一人の罪びとが悔い改めれば、天上では大きな喜びが沸き起こる、と言っています。つまり、イエス様が罪びとたちと食事を共にしているのは、実にこの天上の喜びを体現するお祝いとして行っていたのです。つまり、イエス様のまわりの席についている罪びとは、悔い改めて方向転換した「元罪びと」なのです。

イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。罪びとを方向転換なしで受け入れたということはありません。ヨハネ8章でイエス様は、姦淫の罪のために石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは、もう罪を犯してはならない、と言っています。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。姦淫くらいいいんだよ、などと罪を許可したのではありません。そうではなくて犯した罪については不問に付してこれから方向転換して生きる可能性を与えたのです。

それでは、イエス様の周りに集まったのが元罪びとならば、なぜ宗教エリートたちは彼らの方向転換を一緒に喜んであげられなかったのでしょうか?そういう疑問が起きると思います。そこで、神の目に相応しくあるということについて、イエス様とエリートたちの考えには180度の違いがあったことに気づく必要があります。エリートたちからすれば、律法の掟をしっかり守って、その守っていることを行為行動でしっかり示さないと神の目に相応しくない。この点に関して、イエス様の教えと行動には私たちの理解と常識を超えたものがありました。まず、十戒の掟は外面的な行為行動で守ってもだめだ、心の中でも守れていなければならないと言います。女性をみだらな目で見たら、もう第七の掟「汝、姦淫するなかれ」を破ったことになると言うのです。全ての掟についてそうならば、神の意思に沿える者など誰もいなくなるでしょう。。神の許に立ち返るなんて無理だと誰もが思うでしょう。人によっては馬鹿馬鹿しいと思うかもしれません。でも、そんなこと言ったら、#MeToo運動はいつまでたってもなくなりません。人間には方向転換が必要なのです。でも、どうやってそれは可能でしょうか?

そこで、イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたことに気づきましょう。ルカ19章のザアカイの話を覚えていますか?イエス様が受け入れるや否や、ザアカイは不正で蓄えた富を捨てる決心をしました。イエス様が罪びとを受け入れて食事を共にしたのは、彼らの神の意思に反する生き方をよしとしたのではありません。また、気高く留まったエリートたちの鼻を明かす乱暴なパフォーマンスでもありません。罪びとに方向転換を生み出す行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。

3.イエス様の受け入れが持つ力

イエス様が受け入れると方向転換が生まれる、そんな受け入れ方をイエス様はされたのだということは、三つ目のたとえの放蕩息子の話にも暗示されています。放蕩息子は、異国の地で飢え死にしそうになり、故国の父親のもとに帰る決心をする。そこには食べ物が豊富にあるというのが帰る動機になっています。もちろん父親に迷惑をかけた以上は、以前のようにたらふく食べさせてもらうというのは虫が良すぎる。そこで自分の愚行は神に対する罪であったと告白して、雇い人にしてもらうことを条件に愚行を赦してもらおう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせずお仕置きもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れます。息子は考えていた言葉を、罪の告白まで言ったところで遮られます。父親はその後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じます。その言葉とは、雇い人にして下さいという条件でした。息子は条件付きで受け入れられることを期待していましたが、父親は無条件で受け入れると言ったのです。息子が帰国を決めた時、またたらふく食べられたらいいがそれでは虫が良さすぎる、だから条件を示そう、そういうふうに後悔と方向転換の心にはいろんな動機や打算が混じっていました。ところが、父親に無条件で受け入れられた瞬間、後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて、後悔と方向転換は純粋なものに変えられたのです。受け入れることにそのような力があったのです。

もちろん、イエス様に無条件で受け入れられることがそのような力の発揮に結びつくためには、受け入れられる側でも何かがなければなりません。それは何か?ザアカイの場合は、一目イエス様を見なければならないという思いがありました。なぜそんな思いがあったかは記されていませんが、不正に貯えた富が関係していたことは間違いないでしょう。というのは、イエス様に受け入れられてそれを捨てる決心をしたからです。放蕩息子の場合は、お腹が空いた、自分は愚かだった、雇い人にしてもらうことで家に入れてもらおう、と純粋ではなかったかもしれないが後悔と方向転換の心がありました。それが、無条件で受け入れられて、後悔と方向転換から不純物が取り除かれました。イエス様の周りに集まった元罪びとたちも同じだったでしょう。自分は神の意思に沿う生き方ができないでいる、宗教エリートの言うやり方で外面的な行為行動で神の目に適う者になれる力はない、なぜなら心に弱さと汚れがあるからそんな力は生まれてこない。そういう思いがあった。まさにそんな時に「あなたの罪は赦される」と教えるイエス様が登場した。それは一体なんなのか、それが今の自分を変えられるのか、わけもわからずとにかくイエス様のところに行く。そしてイエス様に受け入れられると、純粋な方向転換が生まれたのです。

放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに純粋な方向転換が生まれたことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。彼は、弟の方向転換を不十分としたのです。無条件の受け入れには純粋な方向転換を生む力なんかないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちを元罪びとと見なさず現役の罪びととみなしたのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。この時、彼らのうち誰がこれに気がついたでしょうか?

4.イエス様に受け入れられた者は天上の歓声を聞く

このように当時の人たちは、自分の状態を変える力があると期待してイエス様のもとに行き、イエス様に受け入れられて、本当に神の方を向いて生きる生き方に方向転換することが起こりました。それでは今を生きる私たちは、自分の内に同じような方向転換が生まれて神の意思に沿うような者になっていくことができるでしょうか?そういう受け入れをする肝心のイエス様が身近にいないので無理ではないか?だから、自分を変えるためには何か別の手段方法を考えて、それを実行しなければならないのか、それとも変える必要なんてない、このままの生き方でいいということになるのか?

実は、全ての人間はもう少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ受け入れが完結していないので、方向転換が生まれていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられるにまかせて死なれました。これによって、人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければならない神罰を、イエス様は全部自分に吸収されるように受けられたのです。イエス様は罪の重荷を私たちに代わって担われ、自分を犠牲にして本当は受ける必要のない神罰を受けられたのです。全ては、人間が神に背を向けた生き方を方向転換をして神の意思に沿うように生きようと、そういう心を生み出すためになされたのでした。

どういうことかと言うと、償いのために私たちは何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で果たされました。あとは私たち人間が、あのゴルゴタでの償いは本当に起こったのだ、自分の罪の償いもそこで果たされたのだ、と観念して、イエス様こそ自分の救い主と信じたら、イエス様が受け入れるよと言って両手を差し出している中に飛び込むことになります。ただし、飛び込んでもイエス様の両腕の中にしっかり留まることが出来なければなりません。この世には、こっちの腕は甘いぞ、と言って誘いをかけてくるものが沢山あります。洗礼が大事なのはこのためです。洗礼は、イエス様に受け入れられたことを神の目に焼き付けます。そうなると神は、洗礼を受けた者が道を踏み外さないように常時見守り、支えて助けて下さらないではいられません。このように、イエス様の十字架の業は、来なさい、お前たちを受け入れるよ、という掛け声のようなもので、信じて洗礼を受けるというのは、その声に応えてイエス様の受け入れに飛び込んでそこに居を構えることです。このようにイエス様の受け入れが完結した人は、あの女性のように、罪を不問にされてこれからは神の意思に沿うように生きなければと志向して生き始めます。一過性ではない大規模な方向転換が起きるのです。この時、天上で喜びの歓声が上がります。

ただ、洗礼を受けたと言っても、この世にはイエス様の受け入れから引き離してやろうという力が沢山働いていますから、信仰者は苦しい戦いを強いられます。神は常時見守り支え助けてくれるなどと言いながら、全然そう感じられないということが起きてきます。しかし、そのような時は心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けます。そこには罪の償いが果たされたので自分の罪は確実に赦されているということが微動だにせずしっかりあります。それを確認できたら、神と自分の間には何も問題はない、だから、神は今のこの時も見守って下さっているとわかります。詩篇23篇で言われるように、「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、災いを恐れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」という心境でトンネルの出口を信じて進んでいきます。

キリスト信仰者のこのような歩みにとって聖餐式は重要です。というのは、聖餐式には霊的に弱い私たちを強める栄養があるからです。神の意思に沿うように生きねばと思っても自分の力ではダメだと思い知らされる。十字架に目を向けてもなんだかかすんでしまう。どうか私に力を与えて下さい、澄んだ目を与えて下さい、と唱えて聖餐式に臨むと、主は「よく来たね。しっかり食べて行きなさい」と言って与えて下さいます。聖餐は力と澄んだ目を与えてくれるものと信じて受ける時、その者に本当に与えるものになって受けた者は力と目を与えられます。その時、天上では歓声が沸き起こります。

そのようにしてキリスト信仰者は、罪を償ってもらい赦してもらいながらも、弱さのゆえに何度も立ち止まりくじけそうになりながらこの世の道を神に守られ支えられて進んでいきます。洗礼の時に大きな方向転換をしたのですが、道を踏み外しそうになって軌道修正をしなければならないことも沢山あります。ただこれらは最初の方向転換を上回るものではありません。最初に比べたら小さな方向転換です。このように、大きな方向転換が打ち立てられても、小さなものが繰り返されるというのは、まだ罪が残っていて、それと戦わなければならないからです。キリスト信仰者は「罪びとにして義人」ですから仕方ありません。しかし、打ち立てられた大きな方向転換は自分から捨てない限り、なくなることはありません。心の目を常にゴルゴタの十字架に見据えている限り、方角を誤らないように神が手を取って導いて下さいます(後注)。

5.そして、天の御国に歓呼の声で迎えられて凱旋する!

やがて、この世を去り、眠りから目覚めさせられる復活の日が来ると、どうでしょう、この世では心の耳をすまして遠くから響いてきたあの天上の歓声が、今まさに目の前で天使たちが手を振って歓呼の声をあげているではありませんか!その情景がイザヤ書35章で次のように描かれています。

「主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え
嘆きと悲しみは逃げ去る。」

 兄弟姉妹の皆さん、私たちはまるで凱旋する者のように天の御国に迎え入れられるのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)羊と銀貨のたとえの結論のところで、悔い改める(=方向転換する)罪びとに関して天上では大きな喜びがある、という時、「悔い改める(方向転換する)」の原文ギリシャ語はμετανοουντιで分詞の現在形です。つまり、方向転換がなにか一回限りで、これからはしないで済むというような完璧なものではなく、日々繰り返されるものであることを示しています。そうすると、そういう方向転換を日々繰り返すような生き方に入ることを「大きな方向転換」と言っていいと思います。