説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年9月29日(聖霊降臨後第十九主日)スオミ教会
アモス書6章1-7節
テモテへの第一の手紙6章2C-19節
ルカによる福音書16章19-31節
説教題 イエス様は復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。
まず、話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזרという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けをずっと求めている人がいたことに気づいていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事はほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。
金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富に対しては主人になって、それを神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだ不十分です。本日の箇所は次の3つのことも教えています。まず天国や地獄というものについて、それから神の正義ということについて。これらは以前の説教でもお話ししましたが、3つ目のものは今回見えてきたものでして、それは何かと言うと、イエス様の死からの復活の出来事は信じる者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。少しわかりにくいですが、どういうことが後ほど見ていきます。最初に2つのことを少しおさらいします。
2.キリスト信仰の天国と地獄について
天国や地獄などと言うと、人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だ、などと思う方がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかどうか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。
そこで万物の創造主である神とそのひとり子のイエス様は、天国と地獄についてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、本日の福音書の箇所を見るだけでもいろいろなことがわかってきます。
実は本日の箇所は、よーく見ると、あれちょっとおかしいなと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着くというように理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。
「陰府」と「地獄」の関係について少し見てみましょう。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。その次に、それ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4-6節)。これが最後の審判です。これに続いて、天と地が新しく創造されて古いものに取って代わり(21章1節)、神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。復活を遂げた者たちが一堂に会する神の国、これが天の国、天国です。
こうしてみると、天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる時になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところとなります。そういうわけで「陰府」というのは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と教えています。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。
そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地が存在する今の段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われる反面、でもそうなると、復活や最後の審判が起きていなければなりません。ところが、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判の日は来ていません。そうすると「陰府」でなければならないのですが、金持ちは眠りについておらず、まさに地獄の火で焼かれています。まだ最後の審判は起きていないのに。一体これはどういうことでしょうか?
この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVはハーデースαδης をhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見るとこんなことを言っています。ギリシャ語原文では地獄ではなく陰府を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、そう断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltという訳で、「地獄」とは区別されています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、地獄とはしっかり区別されています。
どうしてイエス様はこの個所で、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。その時はじめて全人類が対象となる天国への迎え入れと地獄への落し入れが起きます。ところが、金持ちはアブラハムにラザロを父親の家にいる兄弟のもとに送って下さい、そうすれば彼らは悔い改めますから、と頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまったら、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。その場合、今の天も地も父親の家もなくなって、兄弟たちも裁きの座に引き渡されて、ラザロを送ってあげるどころではなくなります。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。それでイエス様は火の海を地獄ではなく陰府と言ったと考えられます。こうしたことは、自由な創作をすれば起きると思います。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかったのでしょう。
それでは、その大事なこととは何か?それは、冒頭でも申し上げましたように、一つは神の正義についてで、もう一つはイエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これからこれらについて見ていきますが、その前に天国と地獄についてもう一つだけ述べておきます。
聖書の立場では人間は死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということも覚えてよいかと思います。つまり、復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人たちがいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記下2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうか?これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。ルター派の信条であるアウグスブルグ信条も同じです。
日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった人が今天国から見守ってくれているという言い方をよくします。「天国」というキリスト教的な言葉を使うのですが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。その日まで眠りについているという考えもありません。亡くなった方が安らかに眠ってしまったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。でも、キリスト信仰では天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。
3.神の正義
以上、天国と地獄について見てきました。ここから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになるのは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上の全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われ、清算すべきものがあれば完璧にされるのです。
黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在することが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。
この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。たとえ解決が結果的には来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神に感謝!ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神は最後の総決算のために全てのことを全部記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神がかわりに全てを正確に完璧に把握してくれています。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さいます。倍返しどころではありません。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿おうとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないようにと、神の秩序は出来ているのです。
4.旧約聖書の精神
もうひとつ大事な事は、イエス様の復活の出来事は信仰者の心に旧約聖書の精神を根付かせるということです。これについて見ていきましょう。
イエス様はアブラハムの口を借りて言います。「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」モーセと預言者というのは旧約聖書のことを意味します。これを読むと、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、耳を傾けないままである」というように捉えられます(耳を傾けないのは旧約聖書のこと?蘇った死者のこと?)。これはちょっと違います。ギリシャ語原文では、「旧約聖書に耳を傾けない人は、死者の復活を目の当たりにしても、確信には至らない、納得には至らない」です。英語訳、ドイツ語訳、スウェーデン語訳の聖書もそう訳しています(フィンランド語訳はちょっと変わっていて「信じるには至らない」です)。
「死者の復活を目の当たりにしても確信、納得には至らない」と言う時の「確信、納得には至らない」とはどういうことか?金持ちはアブラハムにラザロを兄弟のところに送って下さいとお願いしました。死者が生き返ったのを見たら、兄弟は悔い改める、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになる、そういう効果を期待したのでした。ところが、アブラハムの返答は厳しかった。彼らに関しては死者の復活を目の当たりにしてもそんな効果はない、自分たちの生き方の間違いを確信、納得するには至らない、というものでした。そうなので、期待するような悔い改めは起こらないということです。旧約聖書に耳を傾けない者は、寝ぼけているのと同じ状態なので、死者の復活を目の当たりにしても寝ぼけ眼で見るだけです。
ところが、旧約聖書に耳を傾ける者が死者の復活を目の当たりにすると効果は甚大で、自分の生き方の間違いを確信、納得する。しっかり神の方を向いて生きる。旧約聖書に耳を傾ける者にどうしてそのような効果があるのでしょうか?
旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように耳を傾けようとすると罪の問題を心の奥底まで見なければならなくなります。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うと、もう自分には神の意思に沿えるものが何もなくなってしまいます。そうなると神の御前に立たされる日がとても恐ろしいものになります。ところが旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを約束します。どんな約束か?人間が神の御前に立たされて恐れたり委縮しないで済むようにと、人間の罪を人間に代わって神罰を受けて償って下さる方が来られると約束します(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、自分の罪深さが神の御言葉によって暴露されてしまい悲しみに陥るということです。しかし同時に、神の力と計らいで人間は罪から贖われるという約束に希望を託することです。旧約聖書に耳を傾けるというのは、このような悲しみと希望の精神に立つことです。
さて、この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。十字架の死を遂げることでイエス様は私たちの罪の償いを果たして下さり、さらに死から復活されることで、人々に復活の新しい体と死を超えた永遠の命も本当にあるということを示されました。それだけではありません。私たち人間が、これらのことは本当に歴史上起こったと信じて洗礼を受けると、即イエス様の罪の償いを頭からすっぽり被せられて、神からは罪を赦された者と見なされるようになります。同時に永遠の命に至る道に置かれ、今後はその道を歩むことになります。
このように旧約聖書に耳を傾ける人とは、自分には神の意思に反するものがあるという不都合な真実に目を向けられる人です。同時にその人は旧約聖書には罪からの贖いが実現するという慰めの約束があると知っている。不都合な真実に目を向けると同時に慰めの約束が果たされる日を忍耐して待っています。これが旧約聖書の精神です。イエス様の十字架と復活を耳にした時、約束が果たされたことを知ります。そしてそれからは、不都合な真実に直面しても約束の実現が既にあるので、真実から逃げなくとも慰めを得られます。イエス様の復活が信仰者の心に旧約聖書の精神を一層根付かせるのです。
創造主である神の目に至らない自分の真実に目を向け、
罪から贖われるという神の約束を思い出そう。
神はひとり子を犠牲にしてその約束を果たして下さったのだ!
イエス様は死から復活された。今こそ旧約聖書の精神に立ち返る時。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン