説教者 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年9月29日(聖霊降臨後第十七主日)スオミ教会
ハバクク書2章1-4節
テモテへの第二の手紙1章3-14節
ルカによる福音書17章1-10節
説教題 キリスト信仰者の自己肯定感
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所は、イエス様が弟子たちを相手に教えを述べているところです。4つの教えがありますが、それぞれどう関連しあっているか、わかりにくくバラバラな感じがします。
最初の教えは、信仰をつまずかせることが起きるのは避けられない、そして信仰をつまずかせる者は不幸である、と言います。ここでイエス様は面白い言い方をします。他人の信仰をつまずかせる者にとって有益なことは、人をつまずかせることではなくて、首に碾き臼をかけられて海に投げ込まれることである、と言います(後注1)。碾き臼とは穀物などを挽いて粉にする臼で石で出来ています。とても重いです。「投げ込む」はギリシャ語原文の動詞は現在完了ですので、投げ込まれてそのままの状態です。海底に沈められてそのまま出てこない方がその者にとって有益である、と言うのです。なぜ有益なのかと考えると、その者が沈められないで出てきたら他人の信仰をつまずかせたという汚名を自ら着せることになります。それで最後の審判の時に創造主の神の前に立たされたら、もう一巻の終わりです。そういう汚名を自ら着せる位なら、海底にひっそり沈んでいた方がその者のためであるというわけです。
信仰をつまずかせるとはどういうことか?まず信仰とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。それをつまずかせると言うのは、イエス様が救い主でなくしてしまうことです。信仰者が信仰者でなくなるようにすること、そういうことをする者は海底に沈められた方が良いと言う位に重大なことだと言うのです。イエス様を一度救い主と信じた後でそうなくなること、またなくなるようにすることがなぜそんなに重大なことなのか?現代に生きる人たちには不可解かもしれません。宗教の自由というものがあります。何を信じようが信じまいが、個人の自由である、勝手である、と。かつて若気の至りでイエス・キリストを救い主などと言ってしまった時期があったが、その後の人生でいろいろあって、信じても良いことはそんなになかった、とか、別の何かを信じたらそっちの方が良かった等々、そんなふうにイエス様が過去の人物になってしまったという人もいます。そういう人たちは、何が何でもイエス一筋というのは自分を縛り付ける不自由だと考えているでしょう。しかし、イエス一筋をやめるというのは本当は、自由を手にしてもそれはそんなに大したものではなかったと気づいて悔やまれるくらいの大損なのだ、ということを後ほど見ていきます。
信仰をつまずかせるものについて教えた後に、信仰を同じくする者が罪を犯したら、ちゃんと戒めなさい、それで赦しを乞うたら赦してあげなさい、という赦しについての教えが来ます。7度罪を犯しても、7度赦しを乞うたら、そのたびに赦してあげなければならない。マタイ18章を見ますと、ペトロがイエス様に、赦すのは7回までいいのか、つまり8回目以降はないということか、などと確認するところがあります。それに対してイエス様は7の70倍までだと答えます。つまり、赦しは際限なく与えられなければならないと言うのです。現実に490回も悪さを繰り返す人はいないと思いますが、こちらは痛いつらい思いをして、相手は以後気をつけます、赦して下さい、と言って、それで赦してあげても、そんなことの繰り返しだったらいい加減あきれてしまいます。謝罪に重みが感じられなくなって、もう赦す気がなくなってしまうでしょう。しかし、イエス様は赦しを乞われたら赦しなさいと言うのです。なんだかキリスト信仰者はお人好しの馬鹿みたいな感じがしてきます。どうしてイエス様はそんなことを教えるのでしょうか?このことも後で見ていきます。
次に来る教えは、弟子たちが「信仰を増して下さい」とお願いしたことに対して、イエス様が不可解な答えをします。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。イエス様の答えから推測するに、弟子たちの質問の趣旨は、大きな業が出来るようになるのが信仰の大きさの証しになるので、そんな大きな信仰を与えて下さいということです。それに対するイエス様の答えは、お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、目の前の桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。からし種というのは、諸説ありますが、1ミリに満たない極小の種でそれが3~4メートル位にまで育つと言われています。そこでイエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、極々小だ、と言っていることになります。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、これでは、お前たちの信仰は小さすぎて救いようがないと言ってることになってしまいます。イエス様は何か勇気づける話はできなかったのでしょうか?イエス様の真意は一体なんだったのでしょうか?これも後で見ていきます。
そして4番目の教えです。召使いを労わない主人についてです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか、企業だったらブラックと同じではないか?そんな疑問が生まれます。本当にそうなのか、これも見ていきます。
2.キリスト信仰者の自己肯定感
わかりそうで実は難しい4つの教えの4番目のものから見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで言われている「命じられたこと」というのは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、本日の個所の4つの教えは全部、信仰について弟子たちに教えるものだからです。この4番目の教えもそうです。それで、「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇い主と雇われ者、親と子、先生と教え子の関係のことではありません。
神が人間に命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、言うまでもなく、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということにつきます。信仰者はそういうことが出来ても、神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないで当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても、顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。自分がいても意味がないということになれば、自己肯定感なんか生まれないでしょう。
ところが、神は、私たちへの労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても全然平気と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、まず御自分のひとり子イエス様をこの世に送られました。そこで、私たちが持っている罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていたのですが、それを神はイエス様を使って回復して下さったのです。どのようにして結びつきを回復したかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超える永遠の命があることを示され、そこに至る扉を私たちに開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、この完璧な罪の償いを頭から被せてもらって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。神のひとり子が果たして下さった罪の償いを手放さずしっかり身につけてこの世を生きていくと、創造主の神の前に立つかの日には、何もやましいところはない者として堂々と立つことができる。本当は失敗だらけで至らないことが沢山あったのだが、その度に心の目をいつもゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを乞うた。そうすると、一度打ち立てられた罪の赦しはびくともせずそこにあるとわかり、神への感謝に満たされて再び命の道に戻ることが出来た。命の道とはまさに、繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道の歩みを神は義と見て下さり、かの日に神の前に堂々と立つことが出来るのです。
まさに、ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰の中で歩んだおかげで、神の前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神に注目されるようなことを仕出かす前に。逆にそれどころか、神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はイエス様を贈って下さったのだ。
これらのことがわかると、やるべきことをして労われて誉められたというのとは全く逆に、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになります。だからキリスト信仰者は、後は神に命じられたことをただするだけ、別に神から労われたり誉められなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を使ってして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さった、これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しなくても平気でいられる位の自己肯定感です。
もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることも、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の間から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところに創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。だから、人間同士のすることで神の意思に沿わないことが出てきた時も、別に人間からほめられなくてもいいや、と言って、神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、先ほども申しましたように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。
そのように考えると、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の間から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価される注目されるということを見極めて、それに自分を一生懸命あわせなければなりません。自己肯定感のためにやっていたはずのことが窮屈な思いをさせることにならないでしょうか?
イエス様の4つの教えの2番目のもの、何度も罪を犯す兄弟を何度でも赦すこともキリスト信仰者の自己肯定感と関係してきます。私たちは、父なるみ神から、ひとり子を犠牲に供しなければならない程の罪を赦してもらった。そこまでしないと、私たちは創造主の神の前に立たされて大丈夫ではいられないのです。神がひとり子を犠牲にする位の罪の償いと赦しを得ることが出来たら、もう兄弟の罪は色あせます。赦しを乞われたら、何度でも赦してあげなければなりません。先ほども申しましたように、キリスト信仰者自身、それこそ毎日罪の赦しを確認してもらわなければならない位、神に対してやましいところがまだあるのです。神から毎日赦してもらいながら、自分は他人を赦せないというはなしです。
ここで一つ難しいことがあります。それは、もし相手が赦しを乞わなかったらどうするか、その場合は、赦さなくていいのか、ということです。ここで思い出さなければならないことは、使徒パウロがローマ12章で「復讐は神のすること」と言っていることです。私たちとしては、悪を行った者が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませなければならないということです。ざまあみろ、飢えて死ね、は神が私たちに求めていることではないということです。私たちとしては、悪を行った者が神のもとに立ち返る生き方に入れるように手立てを考えなければならない、これが神の意思です。それがどんな結果に至るかは、神に任せて、私たちとしては神の意思に沿うことをするだけということです。
以上、4番目と2番目の教えを見ましたが、ここから、1番目の教え、信仰をつまずかせることがどうして重大なことかということは、これはもう明らかでしょう。イエス様を救い主と信じる者からその信仰を引き離してしまうというのは、神の前に立たされる日に堂々と立つことができなくなるようにしてしまうことです。神からやましいところはないと見なしてもらえる術を失わせてしまうことです。キリスト信仰者から根本的な自己肯定感を奪い去ることです。これを重大ではないと言ったら、何が重大と言えるでしょうか?信仰者をそのような状態にしようとする者は海底に沈んだままで表に出てこない方が、その者のためにもよいのです。
3.からし種のように成長する信仰
最後に3つ目の教えを見てみます。信仰の成長についてです。初めにも申しましたように、イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうものに思えます。
ここは次のように考えたらよいと思います。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」となっています。それを続く文と一緒に考えると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示していることになります。それで、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、実際にはないことを前提に言っているので、高校の英文法式に言えば、事実に反することを意味する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去は使われておらず、素直な仮定法現在です(後注2)。つまり、ここのところは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことが起きるだろうし、もし持っていなければ起きないだろう」という、中立的なことを言っているだけです。どんなことが起きるかというと、ここの部分は仮定法過去になっているので、「(そんなことは誰も命じないだろうが)目の前の桑の木に命じるようなことを仕出かして、木の方も素直に言うことを聞くであろう」です。
それではイエス様の趣旨は何だったのか?少し整理してみましょう。からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。さて、弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種のことを思い出しなさい、極小なものから立派な木が育つではないか、お前たちの信仰も同じだ、極小のものが立派なものに育つのだ、大きくして下さいと言って一挙にハイ大きくしてあげました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注3)。
このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から立派な木に育つからし種と同じなのだ、成長するものなのだということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように信仰も成長すると勇気づけているのです。それでは、信仰が成長して、不思議な業を行えるようになるのか、行えなければ成長したことにならないのか?奇跡の業は、神の恵みの賜物(χαρισμαカリスマ)の領域ですので、みんながみんな行えるものではありません。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。奇跡の業を行える者が持たないような恵みの賜物も当然あります。だから、人目を引く業があるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけません。人目を引かない業もあるからです。残念ながら、信仰者といえども人目を引くものに基づいて判断しがちです。
それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神の前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところは何もないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。恵みの賜物は異なっていても、これだけは全員同じです。
最後に、「信仰が成長する」と言いましたが、正確には「信仰にあって私たちが成長する」ということでしょう。信仰はイエス様を救い主と信じる信仰で、それ自体は大きくなったり小さくなったりしません。誰にとっても同じ内容、大きさです。問題はそれを受け取った私たちが、それを手放さずにしっかり携えてこの世を生きられるかです。私たちの成長が試されるのです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出す。その繰り返しです。その繰り返しをすることが、信仰にあって成長することです。信仰に自分を適合させて成長することです。適合すればするほど成長し、最後はからし種の立派な木のようになります。その時が復活の日なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)日本語訳では「投げ込まれる方がましである」ですが、ギリシャ語原文のλυσιτελει αυτωは「彼にとって有益である」です(ηが後にあるので「より有益である」)。
(後注2)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。
(後注3)εχετε - ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk-SvenskOrdbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。