説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2019年10月27日(聖霊降臨後第20主日)スオミ教会
申命記10章12-22節
テモテへの第二の手紙4章6-18節
ルカによる福音書18章9-14節
説教題 創造主である神のもとに向かう道をひたすら歩め
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領された国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる近道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように言いました。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力をかさに不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。
ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上みてきたような実際に存在した徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの宣べ伝えを信じた大勢の人たちが、自分たちの悔い改めを確かなものにしてもらおうと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループがいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは神の裁きを恐れ、神に背を向けて生きていたことを認めて、それをやめて神のもとに立ち返らなければならないと思ったのです。それで、そのために何をすべきかと聞いたのです。本日の福音書の箇所の徴税人の場合は、何をすべきかと聞くどころか、ただ「赦して下さい」と神に憐れみを乞うだけです。どちらにしても、それまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。
もちろん本日の箇所の徴税人は、イエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような改心した徴税人が実際にいたことは、洗礼を受けにヨハネのもとを訪れた人たちの中に徴税人のグループがいたという事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場しますが、イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てたということです。
以上のように福音書の記述から当時、徴税人の間では、どれくらいの割合だったのかはわかりませんが、神に背を向けていた生き方をやめなければ、神のもとに立ち返らなければ、そういう気運があったことが読み取れます。
2.二つの対照的な祈り方
本日の福音書の箇所でイエス様は祈りについて教えています。二つの全く対照的な祈り方について述べられています。一方はファリサイ派という宗教エリートの人の祈りで、自分は神が定めた規定をちゃんと行っていると神に報告します。まるで神に対して念を押すような高慢さが見られます。自分が周りにいるような罪びとたちと同じでないことを感謝します、などと言うのは醜いエリート意識そのものです。他方は徴税人の祈りで、自分が罪びとであることを認めて神に憐れみを乞うだけです。それが祈りの全てです。胸を打つというのは、悲しみや悔恨を表わす行為です。悔恨や憐れみを乞うのが本当に心の底からの叫びだったことが窺われます。ファリサイ派の人の祈りは神に対して自分を高く見せる祈り、徴税人の祈りは低く見せる祈りと言って良いでしょう。
先週の福音書の箇所は本日の個所の直前でしたが、そこも祈りについての教えでした。それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこでのイエス様の教えの趣旨は以下のものでした。もしキリスト信仰者が不正や害悪を被ってしまったら、それが解決されるように働くと同時に神に助けを祈り求めなければならない。仮にこの世で解決に至らなくても最後の審判の時に神が不正義を全部清算してくれて、正義を完全に実現して下さる。それなので、信仰者はこの世で解決にあたる時は手段を選ばないなどと悪と同じ土俵に立ってはならず、あくまで神の意思に留まって行うのみ。その時、祈りを絶やさないというのは、まさに自分は神の正義実現を信じており、そこに全てを賭けている、だから神の意思に従うのだ、そういう信念を絶えない祈りは表明するのだ。以上がイエス様の教えの趣旨であると述べました。
そこで、先週と本日の教えには興味深い関連性があることに気づかされます。先週の「やもめと裁判官」のたとえが述べられたのは、弟子たちに対してでした。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは誰に対して述べられたかと言うと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)です。ここで「正しい」という言葉ですが、ギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)で「義」を意味する言葉です。「義」というのは「神の目に適う、神の目に相応しい」ということです。つまり、自分たちは神の前に立たされても全然問題ない、地獄の炎に焼き尽くされる心配はないと自信満々で、他の者は大丈夫ではないと見下している人たちです。誰のことを指すのでしょうか?ファリサイ派の人たちでしょうか?実はそうではないのです。
「やもめと裁判官」の最後のところでイエス様は尋ねました。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめのような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?この質問は、たとえを聞いていた弟子たちにされました。イエス様はこの質問の後すぐ、「ファリサイ派と徴税人」のたとえを今度は、自分は神に目に相応しいと自信満々な者たちに向けて話されました。つまり、このたとえが向けられた相手というのは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。果たして自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。
そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の教えを、さらに一歩踏み込んだものと言えます。たとえ信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしファリサイ派の人のように祈ってしまったら、せっかくの絶えざる祈りが何の意味もないものになってしまいます。
先ほど、洗礼者ヨハネのもとに集まった徴税人たちは神の罰を受けないためにヨハネの洗礼の他に何をしなければならないかと尋ねたことを述べました。そして、本日の箇所の徴税人の場合は「何をしなければならないか」という問いを通り越して、ただただ「神さま、罪びとの私を罰しないで下さい」と神に憐れみを乞うだけだったことも申しました。神から罰を受けるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとから永遠に引き裂かれてしまうことです。が、それは来世に限ったことではありません。この世で歩んでいる道が神のもとに向かう道でなければ、どんな道を歩んでも神から守りと導きは得られません。罰はたとえ将来のものであっても、既にこの世の段階で序章のように始まっているのです。
そこで、私は罪びとです、神に背を向けて生きてきました、と認めて、どうか神さま、罰しないで下さい、と憐れみを乞うた徴税人が神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者つまり義なる者とされた、というのがイエス様の教えです。これとは反対にファリサイ派の人は、宗教的な規定をしっかり守っているので自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよりません。憐れみを乞う必要もありません。しかし、その百点満点のはずの彼が神の前に立たされても大丈夫な者にならなかったのです。これは一体どういうことでしょうか?本日の個所の終わりでイエス様は、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる、と言われます。これだけ見ると、人間は神の前で偉そうにしてはいけない、謙虚でなければならない、と言っているように見えます。しかし、ここはそういう道徳教育みたいなことが問題になっているのではありません。ここには人間のあり方、でき方を根本から問い直さなければならないような大きな問題があるのです。このことがわからなければ、この個所はわかったことにはならないのです。
3.原罪を直視することから始まる救い
私たちは徴税人が「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」と、神に憐れみを乞う祈りをするのを聞いて、彼がそう祈るのはもっともなことだと思うでしょう。ところが私たちの場合は、そういう同胞を裏切ってまで私腹を肥やすようなことは縁遠いことなので自分には関係のない祈りに聞こえるでしょう。さらに、神の意思を表した十戒の掟に照らし合わせても、自分は盗みも偽証もしないし、ましてや不倫や殺人など思いもよらないことだ、というのが大方の思いでしょう。つまり、自分は聖書の神の意思を結構守れているのではないか?ところが、イエス様はこのことについて何と教えていましたか?たとえ行為で犯していなくても、心の中で兄弟を罵ったら第五の掟を破ったのも同然、異性を淫らな目で見たら第六の掟を破ったのも同然と、十戒の掟は心の有り様にまで関わっていると教えました。
以前にもお教えしましたが、スウェーデンやフィンランドには「罪」を言い表す時に、「行為として現れる罪」と「受け継がれる罪」の二つを言い表す言葉があります([ス]gärningsynd、arvsynd、[フィ]tekosynti、perisynti)。前者は行い、思い、言葉の形を取る具体的な罪、後者は具体的な形を取らずとも人間が最初の人間から遺伝して受け継いできた罪です。この罪があるから行為に現れる罪も起こる、言わば罪の罪、まさに原罪です。人間なら誰でも「生まれながらにして」持っている罪です。具体的な形の罪を犯さない人でも、置かれた環境や境遇が違っていたら犯していたかもしれないのです。
マルコ福音書7章を見るとイエス様とファリサイ派の人たちの有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れは除去できないので意味がない、というものでした。だから、本日の個所のファリサイ派の人が自分は週に二回断食してる、購入物の10分の1を神殿に捧げている、などと祈っても、それをすることで汚れは除去できておらず、神の目に罪のない相応しい者にもなっていないのです。本人はその気でいるので気の毒なのですが。それでは、人間は一体どうしたら神から切り離された状態に終止符を打てて、神の目に相応しい者となれるのでしょうか?
これを人間の力ではできないとわかっていた神は、それを神の方でしてあげようと、ひとり子イエス様をこの世に送られました。イエス様は人間の全ての罪を十字架の上にまで背負って運びそこで神の罰を受けられて、人間に代わって罪の償いを果たされました。つまり、神はイエス様の身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて永遠の命があることを人間に示し、その扉を人間のために開かれました。人間の目の前に神のもとに通じる道が開かれたのです。人間は、これらのことが全て自分のために整えられたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様がしてくれた罪の償いを頭から被されて、神の目から見て罪を赦された者と見なされます。こうして人間は、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされ、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになります。神との結びつきを持って生きられるのですから、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られます。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられるのです。
ここで一つ注意しなければならないことは、キリスト信仰者といえども、この世で肉を纏って生きている以上は罪や汚れた悪い思いを内に抱えているということです。この点は、信仰者も信仰者でない者も同じです。ところが、キリスト信仰者の場合は、神がイエス様を用いて成し遂げて下さった罪の赦しを、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して受け取ったので、神からそう見てもらえるということです。神との結びつきを回復してもらえ、神から守りと導きを得られて生きられることを感謝し、神の意思に沿うように生きようとします。その時、神の意思に沿うということが恐らく信仰に入る前よりも敏感になるのではないかと思います。そうなると、徴税人の「神様、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りはキリスト信仰者こそ祈らなければならないものになります。しかし、何も心配はありません。私たちはその度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、あのお方の肩の上に私たちの罪が重くのしかかっていることを確認できれば、あそこに私たちの罪の赦しがあることがわかります。父なるみ神はひとり子を犠牲にするのを厭わないくらいに私たちを愛して下さることがわかります。神は、罰するかわりに本当に赦しを与えて下さることを私たちがわかるようにと、イエス様をこの世に送られて十字架の死に引き渡したのです。
そういうわけで、信仰者になった後も「神さま、罪びとの私を憐れんで下さい」という祈りは終わることはないとは言っても、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがありません。それで、全て自分の力で赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。本日の個所のファリサイ派の人の祈りはまさにそのことを表わしています。自分を高くする者は低くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることがわからず、人間の知見と努力で解決できたと思った瞬間、その果てしなく大きなものに蹴散らされてしまうことです。自分を低くする者は高くされるというのは、罪の問題が果てしなく大きなものであることを知って茫然として身がすくんでしまった瞬間、神の御手が自分を離さずしっかり支えていることに気がつくことです。
4.創造主である神のもとに向かう道を祈りながらひたすら歩もう
先ほど、キリスト信仰者というのは、イエス様がして下さったこととその彼を救い主と信じる信仰のおかげで神の目に相応しい者とされた者であると申しました。そして、神のもとに通じる道の上に置かれてその道を歩むことになり、神との結びつきを持って生きられるので、絶えず神から助けと良い導きを得られる者であるとも。この世を去って神の前に立たされるまさにその時、洗礼の時に被せてもらった汚れなき衣を肌身離さず携えて歩んだことを覚えてもらい、永遠の労いの祝宴に迎え入れられる者であるとも申しました。本日の使徒書、第二テモテ4章6~8節のパウロの言葉は、この世を去る時が近づいたことを自覚した彼が、まさにそのような生き方を総括する言葉になっているので、それをもう一度お読みして本説教の結びとしたく思います。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」
兄弟姉妹の皆さん、パウロの言葉の次の部分が私たちにとって重要です。「しかし、わたしだけではなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます。」イエス様の再臨を待ち望む人、それは神の正義が完全に実現する日を待ち望み、それを絶やすことなく祈る人です。私たちも、その祈りを絶やさずにこの道をひたすら歩んでまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン