2013年12月30日月曜日

イエス・キリストは預言の終着点、新しい命の出発点 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2013年12月29日(降誕後主日)
スオミ・キリスト教会

イザヤ書63:7-9
ガラテアの信徒への手紙4:4-7
マタイによる福音書2:13-23

説教題 「イエス・キリストは預言の終着点、新しい命の出発点」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。そもそも、マタイ福音書の初めの部分というのは、預言の成就が多く記されていて、待降節第2主日に読まれた1章にはイザヤ7章のインマヌエル預言の成就がありました。来週の顕現主日に読まれる2章の初めには、マラキ5章のメシア到来の預言の成就があり、3章にはイザヤ40章の「荒野の叫び声」預言の成就など、旧約聖書の預言成就でひっきりなしです。

旧約聖書は難しい書物です。例えば、預言者の言葉を理解しようとする時、それが預言者の口から出た当時、どんな意図で述べられたのか、また当時の人々にどう理解されたのか、そういう歴史的理解をしようとすると、いろんな解釈や学説が出てきます。ところが、旧約聖書の神は実にイエス様をこの世に送られた同じ神であるということをしっかり踏まえて読めば、旧約聖書というのは、神がどんな方であるかを豊かに教えてくれる書物になります。それによれば、神とは御自分の意志を人間にはっきりお示しになられた方で、その意思にちゃんと聞き従うよう人間に求められる方である、それに反抗する者には容赦ない態度で臨む方であり、また、聞き従おうとするも外見上の見せかけはすぐ見抜ぬかれて忌み嫌われる方である、しかし、神の前で自分の非力さを認め悲しむ者には最大の憐れみをかけられる方である。そのような神が旧約聖書から浮かび上がってきます。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた神がどんな方であるかは、これからも説教等を通して学びを深めていきます。本説教では、まず、本日の福音書の箇所に出てくる3つの預言がどうイエス様にかかわっているのかを見ていきます。それから、これらの預言の成就が2000年後を生きる私たちにどんなかかわりがあるのかをみて、神の私たちに対する愛と恵みについて理解を深めていこうと思います。

2.

 まず、マタイ215節にある「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言書の言葉について。これは、ホセア書111節にある神の言葉です。赤子のイエス様の命を狙ったヘロデ王が死んでヨセフの家族は避難先のエジプトから帰還できるようになった。それで、この預言の言葉はそのまま当てはまるように見えます。しかし、もっと深い意味があることにも注意する必要があります。ホセアはイエス様が生まれる700年以上も前にイスラエル北王国で活躍した預言者ですが、問題の111節の言葉は、文字通りに読むと遥か昔に起きたイスラエルの民の出エジプトの出来事を指しています。つまり、神はイスラエルの民を一括して「わたしの子」と呼び、それを奴隷の国エジプトから連れ出したということです。しかしながら、その民は約束の地に入った後は神を忘れ、神の意志に背くことを繰り返して滅びの道に進んでしまう。実際に、イスラエル北王国は紀元前722年に滅んでしまいました。ところが神は、民を見捨てることはできないと言い、諸国に散り散りになった民を再び一つにして復興させ、そして民自身は神の意志に従って歩むようになると言います。

 一度滅んだ民の復興は、ホセアの時代には実現しませんでした。そのため、この「エジプトから呼び出す」という神の言葉は将来に起こる出来事を意味する、と理解されるようになります。そうなると、エジプトから子を連れ出すということは、過去の出エジプトの出来事を指す必要はなくなり、イスラエルの民の復興に先立つ出来事を指すようになります。さて、ホセアの700年後、イエス様を救世主と信じた人たちは、彼の十字架の死と復活こそ、神の民イスラエルを全く新しい仕方で復興させる神の業であったと理解しました。その人たちが、誕生間もないイエス様がエジプトに避難していたことがあると聞いて、あのホセアの言葉はこのことを指していたのだと理解したのであります。神の民の復興に先立つ神のひとり子のエジプトからの召還。まさにホセアの預言の成就なのであります。

次に、マタイ218節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」について。これは、エレミア3115節の引用ですが、この言葉とベツレヘムの幼児虐殺との結びつきははっきりしません。母親たちの嘆き声がするラマというのは、ベツレヘムよりずっと北に離れたところにあり、ベツレヘムではありません。ラケルというのはずっと昔の創世記にでてくるヤコブの妻で、ヨセフとベニヤミンの母です。彼女は難産がもとでベツレヘムで死にますが、子供を失って泣くということはありませんでした。ではエレミア書のこの言葉は何を指し、ベツレヘムで起きた虐殺とどう結びつくのか?エレミア書の言葉は字面通りには預言者エレミアの時代、つまりイエス様の誕生より約600年前に起きたユダ南王国のバビロン捕囚を指しています。ラマからベツレヘムに至る全地域で多くの人が戦火に倒れる。ラケルはイスラエルの民全体の母として描かれるシンボルでしたから、イスラエルの民の嘆き悲しみはラケルの嘆き悲しみであると象徴的に表現しているのであります。

ところでエレミア書31章をもっと広く前後を通して読むと、実は問題の言葉の前後にはイスラエルを復興させるという神の決意が述べられています。神に背を向けた罰として嘆きと悲しみと荒廃に満ちてしまったイスラエル。それを新しい契約をもって復興させ(3134節)、「疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(24)、と神自身が誓います。つまり、イスラエルの荒廃と嘆きの悲劇は新しい契約と復興にとってかわられるという預言なのであります。そういうわけで、600年後に、イエス様の十字架の死と復活こそが新しい神の民イスラエルを復興しようとする神の業であったと理解した人たちは、ベツレヘムの幼児虐殺を復興にとってかわられる前段階の出来事と理解したのであります。まさに、幼児虐殺の悲劇を預言の成就と理解したのです。

 3つ目の預言「彼はナザレの人と呼ばれる」について。旧約聖書にはこれと同じ預言の言葉は見当たらないので、どの預言書を指すのか定かでありません。ただ、明らかなことはナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉(נצר)と繋がっています。「若枝」というのはイザヤ書111節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には民が本来受けるべき神の裁きを自らかわりに引き受けて苦しみを受ける神の僕についての預言があります。イエス様の十字架の死はその預言の成就であったと理解した人たちは、彼が「ナザレの人」と呼ばれていたと聞いて、すぐ同じイザヤ書のエッサイの若枝(נצר)の預言を思い出さずにはいられなかったでしょう。(「ナザレ」については、民数記6121節や士師記1357節にある「ナジル人」との関係も考えることが可能ですが、これらは預言の言葉ではないので、本説教では立ち入りません。)

 以上みてきたように、旧約聖書の預言の言葉は、語られた当時の時代を超えて生き続け、イエス様をもって最終的に成就したことが明らかになりました。その意味で、イエス様は預言の終着点なのであります。ところで、イエス様の時代の後にもベツレヘムないしイスラエルの地で虐殺は繰り返されたし、イエス様の後にもナザレ出身の人は沢山いたでしょう。エジプトに避難してイスラエルの地に戻ったような人たちもいたでしょう。しかし、旧約聖書の預言はもはや、そういった人たちにはあてはめることはできません。なぜなら、それらの場合、神の民イスラエルを復興させるという神の計画や業と無関係だからです。イエス様のエジプトからの召還、ベツレヘムの幼児虐殺、「ナザレの人」という呼び名はみな、預言書が表している神の計画や業と結びついています。旧約聖書の預言の成就は、イエス・キリストの前にも後にも存在しないのです。

3.

 それでは今度は、イエス・キリストをもって旧約聖書の預言が2000年前に成就したということが、今を生きる私たちにどうかかわっているのか、を見てまいりましょう。この問いに答える取っ掛かりとして、本日の福音書の中で最も難しい箇所に的を絞ってみていきたいと思います。難しい箇所というのは、ベツレヘムの幼児虐殺です。なぜこれが難しいかというと、一人の赤子を救うために大勢の子供が犠牲になったことに納得しがたいものがあるからです。その赤子は将来救世主になる人だから、多少の犠牲はやむを得ないと言ったら、それは身勝手な論理ではないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちに危害が及ばないようにするのが筋ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつ勘違いしてはならないことは、幼児虐殺の責任者は神ではなくヘロデ王ということです。神は御子をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、東方の学者たちがヘロデのところに戻って報告しないように導きました。また、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこなかったのをみて、さては赤子を守るためだったなと悟ったヘロデが、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」というものでしたが、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙に出たのであります。

 そう言うと今度は、神の予想を超えるとはどういうことか、神は天地人間の造り主、全知全能と言っているのに、ヘロデの暴挙も予想できなかったのか、大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えられなかったのか、と反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の存在を許してきたのか、なぜ戦争や災害や疫病が起きるのを許してきたのか、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか、もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ただただ至福の状態にとどまることができるではないか等々の反論がでてくるでしょう。

 ここでひとつ注意しなければならないことがあります。それは、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいたということです。そして、それは創造の神の御心に沿うものであったということです。ところが、神の意図に反して人間はこの至福を失うこととなってしまった。この辺の事情は創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という蛇の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は取ってはならないと禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになる。つまり善いことだけでなく悪いこともできる存在になってしまう。そして、その実を食べた結果、神が警告したように人間は死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死する者になってしまったのです。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。天地創造の神への不従順がそれです。世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのであります。

 このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道を採ってしまった。それでは、人間から不従順をつきつけられた神は人間をどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか。いいえ、そうではありません。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すために、神は計画を、人間救済の計画を用意されたのです。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていきますが、イエス様の十字架の死と復活をもって成就し、そのことが新約聖書で明らかにされます。どんなことかというと、人間は皆、罪の呪いとしての死に定められている存在であるが、イエス様はその呪いを自ら請け負って、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれた。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、神が私たちに何か償いを求めずに、神の方から一方的に、御自分のひとり子の尊い血を代償として、私たちを罪の人質状態から解放したとか、買い戻したことを指します。しかし、それだけでは終わらなかった。神は今度は、イエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を私たちのために開かれたのです。このようにして、神はイエス様を用いて、人間の救済を全部整えてしまったのです。救済は神の方で完成させてしまったのであります。

しかしながら、イエスが十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのであります。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えられた救済を自分のものとしないと、この完成済み救済は人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら自分のものにできるのか。そのためには、まず、「2000年前に神がイエス様を用いて行われたことは、実は今を生きる自分にかかわっていたのだ、あれはこの私のためにもなされたのだ」と気づき、イエス様を自分の救い主と信じることです。そして洗礼を受けることでイエス様の神聖な白い衣を着せられ、天と地と人間の造り主である神の霊を受けることです。使徒パウロの言葉を借りれば、聖霊を受けるというのは、完成済み救済の所有者になったことの証明印を押してもらうようなことです。私たちは肉をまとってこの世に生まれ、死ぬときにこの肉は滅び腐敗していきます。しかし、洗礼を受けた時点で、肉の上に霊をまとって生きることが始まり、たとえ死んで肉が滅んでも、霊の命は死を超えてそのまま永遠の命につながっている。このように、洗礼とは、私たちをイエス様のもたらした救いの所有者にすることであり、永遠の命につながる新しい命の出発点ということになります。

 以上から明らかなように、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからというのは、事の本質から目を背ける見方です。悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を用意しそれを実現させた、そして人間一人一人が完成済み救済の所有者になるように手を差し伸べている、これが真理であります。このことがわかれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということは悩む問題ではなくなり、神がこの私にこんなにも大きなことを成し遂げて下さった、ということの方に目が向くようになります。

4.

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、遅くとも必ず次の世で償いが行われる。黙示録204節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らの場合は、神の書物に記された前世の行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの裁きを受けることになっています。特に、「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海です(黙示録2015節)。キリスト信仰を守る人たちを殺害したり、またキリストを阻止しようとして殺人を犯したヘロデ王のような者は間違いなくこちらの部類でしょう。

 人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われると言ってしまったら、この世での解決努力を軽視していると見られてしまうかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は、神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのであります。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったというものは何ひとつないのです。

 ところで、キリスト教信仰に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはなりません。キリスト信仰の罪の赦しとはどういうことかと言うと、まず、神に背を向けて生きていたことを間違いと認め、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと悔い改めること。そして、私にかわって神に対して償いをしてくれたイエス様にひれ伏す。そうすれば、神から罪の赦しが得られるということであります。そういうわけで、どんな極悪非道の悪人でも、まさにこのような神への立ち返りをすれば、たとえ世間が赦せないと言っても、神は赦し、受け入れて下さるのです。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2013年12月27日金曜日

天上の喜びの歌 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

降誕祭前夜礼拝説教 2013年12月24日
スオミ・キリスト教会

イザヤ書9章1-6節
ルカによる福音書2章1-20節

説教題 「天上の喜びの歌」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                               アーメン

1.

本日1224日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と一般に言われる日です。「降誕祭」すなわち「クリスマス」は明日の1225日なので、イエス様は1224日から25日の夜にかけて誕生したということが、キリスト教会の伝統として受け継がれてきました。

実は、イエス様がこの世に誕生した年月日というのは、歴史資料に限りがあるため、100パーセント正確に歴史学的に確定はできません。しかし、それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほど朗読されたルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデ王という王様はいましたが、独立国としての地位は失っていて、それはローマ帝国の統治下に置かれる属国でありました。ローマ帝国は、大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのであります。ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものについてはありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前67年という数字が有望になるのであります。

イエス様が誕生した日にちについては、西暦400年代にキリスト教会が1225日に降誕祭をお祝いし始めたことに由来します。他方で、もっと以前の西暦100年代には16日が顕現日に定められて、今日に至っています。顕現日というのは、当初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日、それにイエス様の誕生も祝う日でありました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の出来事の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の証言は、まだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。降誕祭に採用されたのが、なぜ16日でなくて1225日になったのかは明らかではありませんが、いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。

2.

ところで、降誕祭、クリスマスというのは、一見すると過去の出来事を記念する日のように見えます。しかし、キリスト信仰にあっては、そこには未来に結びつく意味もあります。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、降誕祭という日は、主の第一回目の降臨を思い起こして、イエス様という神の人間に対する大いなる贈り物に感謝しながら、実は未来の再臨にも心を向ける日なのであります。救い主の誕生記念にあやかって、今年もおいしいものをたくさん食べた、贈り物もたくさんもらった、めでたし、めでたし、と満足で終わってしまうのではなく、毎年、再臨の日は一歩一歩近づいていくのだから、私たちは身も心もそれに備えるようにしようと心を正す日でもあるのです。

イエス様の再臨の日とは、聖書に従えば、この世の終わりの日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様は、そのような再臨の日がいつであるかは、父なる神以外には誰にも知らされていない、と言われました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことであると教えられました。「目を覚ましている」とは、私たちが日々の人生をしっかり生き、各自が持つ課題とか、世話をしなければならない人とか、そういったものは神が私たちに与えたものだから、しっかり取り組んだり、世話したりする。そのように日々の人生をしっかり生き、同時に心のある部分は将来の主の再臨にも向けられていて、身も心もしっかり再臨に備えるようにする。これが、「目を覚ましている」ということです。イエス様の再臨が起きるのは、私たちが死んだ後になるかもしれません。経験から見て、その可能性が大きいように思われます。しかし、その場合でも、再臨の日が来れば、すでに死んだ者も復活させられるのですから、それで、この世の人生でしっかり生きること、しっかり「目を覚ましていること」は無意味でも無駄でもなんでもないのであります。

イエス様は、御自分が再臨する日について、神の栄光に包まれて、天使の軍勢を従えて、この世に到来すると約束されました。天使の軍勢とは、先ほど朗読されたルカ伝2章に登場した天使の軍勢を指します。この天使たちは声に出して「天には栄光、神に」と謳いました。まさにこの栄光に包まれて、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨されるのであります。イエス様の第一回目の降臨には、再臨の基本的な準備は既に出来ているのであります。

3.

ところが、イエス様の第一回目の降臨は、再臨の時のような壮大かつ威厳と畏怖に満ちたものではありませんでした。全く正反対に、惨めで貧しく憐れなものでした。神の栄光と天使の軍勢を伴ってしかるべき方が、家畜小屋で出産され、家畜の餌を入れる桶に寝かせられるのであります。家畜小屋がどういうところか、皆さんは想像がつくでしょうか?私は、妻の実家が酪農業を営んでいるので、休暇でそこに行くと子供と一緒に牛を見に行きます。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。10分位いるだけで、臭いは服にしみつき、後で周りの人にも、牛舎に行ってきたなとすぐ気づかれるほどです。

神のひとり子であり人間の救い主である方が、なぜこのような形で地上に誕生しなければならなかったのでしょうか?ここで、神が人間として誕生したということに目を向けてみましょう。聖書に従えば、神とは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える造り主です。この造り主とそのひとり子、そして神の霊である聖霊の三つを除いた全ての万物は、神に造られたもの、被造物であります。この造られたものには、私たちの目に見えるものも、また目に見えない霊的なものも全て含まれます。天使たちも被造物なのであります。

人間に命と人生を与える造り主が、なぜ、自ら被造物の姿となって誕生しなければならなかったのか?もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っているだけの存在です。しかし、それでは神と人間の間を支配していた敵対関係を終わらせることはできません。神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきのなかで生きられるようにしようとしました。そのためにひとり子をこの世に送り、敵対関係を終わらせるための犠牲の生け贄になってもらった。これがゴルガタの十字架の出来事です。さらに、神は、一度死んだイエス様を蘇らせることで、復活が実在することも示されました。これらのことを全て実現するためには、被造物の力はあまりにも無力でした。本物の犠牲が必要でした。それがイエス様だったのです。イエス様が本物の犠牲になれたのは、彼が通常の男女の性関係から生まれてくる全くの被造物でなかったからでした。聖霊の力が処女マリアに作用して受胎・妊娠が起きて生まれた。そのようにして、イエス様は、神としての性質は保ちながら、人間の肉体と魂を得たのでした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、まさに神自身が、人間との間に和解をもたらすために、自ら人間に歩み寄って自らを犠牲にしたということなのであります。

4.

それでは、神の御子イエス様が人間として生まれる時、なぜ家畜小屋での出産というような惨めな形をとらなければならなかったのか?聖書を読んでいくと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、限りある私たち人間に影響力を及ぼす時、人間界にある諸条件の中でそうしようとする傾向が強いと言えます。人間界の諸条件の枠をつき破るように影響力を及ぼそうとすると、奇跡が起きるのであります。人間界の諸条件の中で影響力を及ぼすというのはどういうことかと言いますと、イエス様の誕生に即していうと次のようになります。紀元前6年頃、現在パレスチナと呼ばれる地域にて、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡のために妊娠していた。その時、彼らユダヤ人を支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。以上をもって、救い主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という旧約聖書の預言が成就されたのであります。

出産場所が家畜小屋だったということも、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、天使は羊飼いたちに、生まれたばかりの救い主は飼い葉桶にいる、それが赤子が救い主であることの印であると知らせました。このヒントのおかげで、羊飼いたちは、家畜小屋を探せばよい、とわかったのであります。もし、救い主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤子は見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。

こうなると、家畜小屋での出産というのは、神が最初から仕組んだことのようにさえ見えます。最初から仕組んだとは言えなくとも、まず、ヨセフとマリアの動向をしばらく状況の荒波に委ねて、その結果、家畜小屋になってしまった。そこで神は、このことを天使を通して羊飼いたちに告げさせて、羊飼いたちにイエス様を探し当てさせた。そして、町の人たちやヨセフとマリアに、天使が言ったことを伝えさせた。人々は天使など見ていませんから、反応はただ驚くだけで、半信半疑だったでしょう。ところがマリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを既に知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのであります。羊飼いたちがやってきたことで、ヨセフとマリアは、家畜小屋においやられてしまったという不運は実は不運でもなんでもなかった、惨めな出産と夜明かしだったけれども、神は絶えず目を注いでいて下さっている、ということがはっきりしたのであります。

このように、神は、仮に私たちの人生の歩みをすっかり状況の荒波の中に委ねてしまって、何も助けてくれない、状況の改善のために何もしてくれないように見えても、実は私たちの手綱をしっかり握っていて離すことはないのであります。必ず、神の意思に沿うようなことが後で起きるのであります。

5.

 最後に、羊飼いたちの心の有り様の変化を見ていきたいと思います。天使が目の前に現れた時、羊飼いたちは大きな恐怖に襲われました。この天使の後に、今度は大勢の天使たちからなる天の軍勢が現れました。一人の天使の出現でさえ恐怖だったのに、天使の大軍勢はそうならなかったのであります。どうしてでしょうか?ひとつには、天使が生まれたばかりの救世主について教え、かつそれを見つけに行くように促したことがあります。羊飼いたちの目は、目前の光輝く天使から、生まれたばかりでまだ見たことのない赤子へと方向転換したのであります。

それから、天使の大軍勢が神への賛美として口にした文句も一役買っています。これは、不思議な文句です。原語のギリシャ語のテキストを見ると、名詞と前置詞と接続詞から成る文句です。動詞が全くないので、正確な文ではなく、何か詩のような形です。もともとは羊飼いたちが理解できる言葉だったので、天使の大軍勢はアラム語で賛美したのでしょう。あるいは、天上の言葉を使い、それを羊飼いが心で理解して、アラム語で周りに伝えたのかもしれません。いずれにしても、イエス様に関する記録は全て、最初アラム語で口伝えにされたり書き記されたりしましたが、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にことごとくギリシャ語に翻訳されてしまい、私たちの手元に残っているのはギリシャ語のテキストだけです。これを手掛かりにしてみていくしかありません。

この天使の大軍勢の文句は、2つの部分からなります。最初の部分は、神の栄光について。次の部分は平和についてです。私たちの日本語訳の聖書「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神に属するものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは、「天上の栄光は、神のものである」というのが正確でしょう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、まさに「神の御心に適う人」であります。「平和」は、普通、戦争がないとか、社会が平穏であるとか、そういう外的な平和を思い浮かべます。しかし、ここでは、先ほども述べましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現します。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちが、この平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」なのであります。この平和は、たとえ外的な平和が失われた時でも、また人生の歩みの中で困難や苦難に遭遇しても、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和であります。そういうわけで、天使の軍勢の賛美の詩は、次のようになります。「天上の栄光は神のもの。地上では平和は神の御心に適う人たちに。」

天使の大軍勢は、この賛美の詩をどのように唱えたのでしょうか?詩を朗読するように訥々と唱えたのでしょうか?それとも大規模なコーラスのように歌い上げたのでしょうか?確認の術はありません。少なくとも、人間ではない者たちの大軍勢であったにもかかわらず、羊飼いたちの恐れを吹き飛ばすものであったことは否定できません。ところで、日本では年末になるとベートーベンの第九が各地で響き渡ります。第九は、どんなに気持ちが沈んでいても、それを吹き飛ばして気持ちを喜びに満たす力がある曲だということは、誰しもが認めるでしょう。地上の一天才が生み出した音楽がそのような力があるならば、天上の創造主が天使の大軍勢に唱えさせた賛美の詩は、それを幾重にも上回る力があると言ってよいでしょう。皆様も、第九を聴いて深い感動と喜びに満たされたら、それは神が与えて下さる喜びのさわりの部分のようなものなのだと言い聞かせてみて、神の喜びのとてつもなさを予感してみて下さい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン