説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2013年12月8日待降節第2主日
スオミ・キリスト教会
イザヤ書11章1-10節
ローマの信徒への手紙15章4-13節
マタイによる福音書3章1-12節
説教題 「造り主のもとに立ち返る者が結ぶ“良い実”とは?」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン。
アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
待降節は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世の終わりにあたる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なる神以外には知らされていないのであります。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。
それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものであるとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは取り組むために神が与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。
さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。
2.
本日の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝え始めます。大勢の人々が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この洗礼者ヨハネの登場がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤ地域の総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方の領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、そしてアンナスとカイアファとがエルサレムの神殿の大祭司であった時でありました。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、ティベリウスは西暦14年の9月に即位したので、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事だったということになります。
洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われているものと同義です。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えています。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章に記されていますが、この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまう終わりの日に、唯一揺り動かされずに残る国であります。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地を取り除いて新しい天と地にとって替えるということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で出現することが記されています。
そんな国が2000年前に「近づいた」と言われたのは、一体どういうことか?神の国というものが、今ある天と地がなくなってこの世の終わる時に出現するのであれば、今ある天と地は当時も今も変わっていないではないか?新しい天と地はまだ創造されていないではないか?2000年前に「神の国」が近づいたというのは、イエス様が不治の病の人々を完治したとか、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたとか、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたとか、悪霊に憑りつかれた人を救ったとか、そういう無数の奇跡の業に関係があります。黙示録21章4節に言われていますが、将来出現することになる神の国とは、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところであります。2000年前のイエス様の存在と活動は、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で、人々に味あわせる、人々にその存在を体験させる、そういう意味がありました。そういうわけで、神の国が本格的に出現するのは、あくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって変わられる日なのであります。
それでは、今私たちは「神の国」と無関係なのかというと、そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の国と既に結び付けられているのであります。もし、イエス様の再臨が私たちが生きている時代に起きれば、私たちはそのままそこに迎え入れられるのであり、また、再臨の前に死んでいたのであれば、私たちは主の再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられるということであります。
洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが来て神の国が本格的に出現すると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのであります。
洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に数多く出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになるのです。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。
そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現なさる方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。
3.
さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知らないので、彼のスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来る、今ある天と地が預言の言った通りに新しい天と地に取って替われる日がすぐ来る、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは、斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際しては罪を告白したのです(6節)。
どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びついたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています(マルコ7章4節)。つまり、これらの清めの儀式も洗礼の一種なのであります。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒をはじめとする律法と呼ばれる様々な掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思の実現・体現には程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのであります。
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができます。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を衣のように着せられるのであります(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。
ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものです。神が人間に与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神のもとへの立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これに対して、人間が神の国に迎え入れられることを確実にするような完璧な罪の赦しが必要です。それが、前述したイエス様の身代わりの死がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言します。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させていますが、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限り、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されているのであります。
こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことがあっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。このようなはかりしれない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。
完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではなかったけれども、ヨハネが人々に自分の洗礼を呼びかけたというのは、ファリサイ派が唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのであります。人間の掟で汚れが無くなると言うなら、もう神が実現する救いはいらなくなってしまう。それでは、道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。
4.
以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事をもって、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得ることができました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に内在し罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことであります。これが、ヨハネが結びなさいと言った「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」であります。「悔い改め」とは本説教では「神のもとに立ち返ること」でありますから、「神のもとへの立ち返りにふさわしい実」であります。
もう少し具体的に言うと、あるキリスト信仰者が、一生懸命の努力とお祈りをもって何か事業に成功して、お金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。この人が、この成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することとに沿うように用いようとすること、これが「良い実」であります。ある信仰者は、別に事業も起こさず、お金持ちにも有名にもならない、とします。もしその人に伴侶がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが満ち溢れるような家庭を築いて行こうとすること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうとすること。これが「良い実」であります。また、不運にも病の床について、事業も起こせず、家庭も通常通りに築いていけない場合、このような境遇にあっても、大勢の方の気遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さると感謝すること。そして、自分も、自分自身のことに加えて、出来るだけ多くの人たちのためにお祈りをすること。これが「良い実」であります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン