2016年4月27日水曜日

隣人愛の試練とこの世の挑戦 (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

主日礼拝説教 2016年4月24日復活後第四主日 スオミ教会

使徒言行録13章44-52節
ヨハネの黙示録21章1-5節
ヨハネによる福音書13章31-35節

説教題 隣人愛の試練とこの世の挑戦


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                           アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日の福音書の箇所でイエス様は、十字架にかけられる前日、弟子たちに新しい掟を与えると言って、「互いに愛し合いなさい」と命じました。キリスト教で「愛」とか「愛する」と言えば、すぐイエス様の教え「神を全身全霊で愛せよ。隣人を自分を愛するが如く愛せよ」が頭に思い浮かぶと思います。イエス様は十戒の掟を、神に対する愛と隣人に対する愛の二つの愛の掟に要約したのです。皆様もご存知のように、十戒の掟は一見すると「~するな、~するな」と、人を禁止条項で縛りつけるように見えます。ところがイエス様は、最初の三つの掟は神に対する愛、残りの七つは隣人に対する愛、そういう神と隣人に対する愛を実践するものであると教えるのです。本日の箇所でイエス様が「互いに愛し合いなさい」と言っているのは、神に対する愛ではなくて隣人愛に関わります。

隣人愛はキリスト教の専売特許のように言われますが、そもそも、どんな愛のことを言うのでしょうか?困難や苦難に陥った人を助けることを意味するのでしょうか?阪神淡路大震災や東日本大震災の時には、大勢の人が被災地に赴いて支援活動に参加しました。今次の熊本地震では地震活動が活発に続いたため当初はボランティア募集は見合わせていたようですが、先週から募集が始まったとニュースで聞きました。きっとまた大勢の人たちが被災地に向かうでしょう。こうしたボランティアの中には、キリスト教徒もいることは言うまでもないのですが、総数でみたら、きっとキリスト教徒でない方の方が圧倒的に多いでしょう。つまり、困難や苦難に陥っている人を助けるというのは、別にキリスト教徒でなくてもできるのであります。こんなことは、支援活動に参加した仏教徒や無宗教の人たちからみたら当たり前すぎて、言うこと自体がキリスト教徒の傲慢ととらえられてしまうかもしれません。

しかしながら、キリスト信仰者が困難や苦難に陥った人を助ける場合、外見はキリスト教以外の人たちの活動と変わりがないようでも、実は隣人愛の土台にあるものが決定的に違っています。それは、イエス様が「神を全身全霊で愛せよ」と教えたように、神に対する愛とセットになっているということです。マルコ12章で律法学者から「一番重要な」(πρωτη)掟は何か、と聞かれて、イエス様は「一番重要な」(πρωτη)ものは、と言って次のように答えました。「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(30節)」。つまり、神に対する愛とは、この天地創造の神を唯一の主として、その御言葉に聞き従い、全身全霊で愛せよ、ということです。

「一番重要な」掟を聞かれたのに、イエス様は続けて、「二番目に重要な」(δευτερα)掟についても述べます。それが、「隣人を自分のように愛しなさい(31節)」という隣人愛でした。

イエス様は、この二つの愛の掟をもって、「この二つにまさる掟はほかにない(31節)」と言われますが、この二つの最も重要な掟の中でも一番目と二番目の序列があることは今見てきたように明らかです。先に神に対する愛があって、次に隣人愛がきます。隣人愛はしなければならない愛であるが、それは神に対する愛が先にあってすべきもの、神に対する愛を土台としてすべきものであり、もし神に対する愛と切り離して行ったり、それに反するように行ったりしたら、それはイエス様の教える隣人愛ではなくなるのです。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛は神に対する愛と不可分な関係にあります。それで、ひょっとしたら、キリスト教以外の隣人愛で行えることがキリスト信仰では神に対する愛のゆえに行えないことがあるかもしれません。また逆に、キリスト教以外の隣人愛で行えないことが行えるということもあるかもしれません。そうしたことを具体的に一つ一つ明らかにすることは本日の説教の目的ではありませんが、キリスト信仰にとって隣人愛は何かを考える材料の一つになるかと思います。

2.

初めに見ましたように、本日の箇所の「互いに愛し合いなさい」という掟は、イエス様が十字架につけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしていた時に述べられました。最後の晩餐の時です。これから人間の救いのために自分の命を捧げようとする方が「しなさい」と命じる掟です。とても重みがある掟だと思います。

ところで、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去った後で、イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われました。裏切る者がこれから目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことでしょうか?

それは、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定した、ということです。それでは、どうして死ぬことが栄光を受けることになるのか?しかも、それで、神も栄光を受けることになるのか?

イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。どんな意味かというと、最初の人間アダムとエヴァの時以来、全ての人間が先祖代々受け継いできてしまった神への不従順と罪というものがあって、イエス様はこの罪の支配状態から人間を解放するために犠牲になったということです。ここで、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われるかもしれません。特に生まれたばかり赤ちゃんなどは無垢そのもので、どうして罪を持っているなどと言えるのか納得いかないと言われてしまうかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の事件の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間は罪の力の下に服しているということなのです。使徒パウロが、死とは罪が支払う報酬である、と教えている通りです(ローマ623節)。

この人間が受け継いでしまった罪をそのままにしておけば、人間はいつまでたっても自分の造り主である神との関係が断ちきれたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻ることはできません。神としては、人間がこの世の人生を自分との結びつきの中で生きられ、この世から死んだ後は造り主である自分のもとに永遠に戻ることができよう望まれたのです。それで、ひとり子イエス様をこの世に送り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方をとったのです。少し法律的な言葉を交えて言うと、本当は神に対して有罪なのは人間の方でしたが、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実の方に負わせて、有罪の者が背負わないですむようにしたのです。有罪の者は、気がついたら無罪となっていたのです。

そのようにして、人間の罪の支配からの解放は、神のひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという形で実現しました。そこで人間は、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業だったのだということがわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いた者として生きることになります。こうして信仰者は、神との結びつきが再興されて永遠の命に至る道に置かれてそこを歩んでいきます。そのような人に対しては、罪はもはや人を死の永遠の滅びに追いやる力を失っています。そもそもイエス様が死から復活させられたことで、死を超える永遠の命に至る扉が開かれました。死は支配者の地位から引きずり降ろされたのです。

3.

以上から、神のひとり子であるイエス様が死ぬことになるというのは、神の人間救済計画が実現することであり、それゆえイエス様が栄光を受けることになり、それはまた計画者であり実行者である神が栄光を受けることになるということが明らになりました。私たち人間は、こうしたこと全てを神の意思に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、罪を赦された者として罪の支配から脱せられる。そして神との結びつきをもって永遠の命に至る道を歩めるようになる。その道ではいろんなことが起きるが、神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時もいつもかわらぬ導きと力添えを頂ける。もし万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主の許に戻ることができる。

これだけの途轍もないことを父なるみ神とみ子イエス様が自分のために成し遂げて下さったのだとわかった人は、大きな感謝の気持ちで一杯になり、これからは神の御心に沿う生き方をしようと志向します。神に対する愛はここから生まれます。掟を守ることも自由な気持ちで行えます。反対に、神が自分にどれだけ大きなことをしてくれたかもわからず、感謝の気持ちもなくて掟を守ろうとすると単なる束縛になってしまいます。

このように、神が過去にどれだけ大きなことを成し遂げて下さったかをわかると感謝と自由な気持ちが生まれます。加えて、神は将来何をしてくれるのかということも知っておくと心に平安が得られます。本日の黙示録21章の箇所で、死者の復活が起きる日、今の天と地にとってかわって新しい天と地が創造される日、神が御許に集められた者をどうするかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しいみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(34節)」。

目から「全ての涙」(παν δακρυον)をぬぐわれるというのは、この世の人生の段階で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできましょう。それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、また正義は努力しても実現に至らないこともあります。いろんなことがこの世の段階で残ってしまい、それを背負い続けたり、未解決のままこの世を去らねばならないことが多いと思います。ところでキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると、神の正義の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されると信じられます。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。そういう時が来ると知っているので、キリスト信仰者はこの世で、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、または信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の随所に「命の書」という最後の審判の時に開かれる、全ての人間に関する神の記録書が登場しますが、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたかについて全てご存知で、何も見落としてはいないのです。誰も自分のことをわかってくれない、と嘆き悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っています。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人本人以上よりもその人のことを知っています。

復活の日、天の御国で全てのことが清算されて報われることの他に、天の御国は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録1959節、マタイ22114節、黙示録212節も参照)。つまり、この世での労苦が労われるということです。

以上のように、キリスト信仰者というのは、過去に父なるみ神がイエス様を用いて「罪の赦しの救い」を実現してくれたということを知っているだけでなく、将来自分が死から復活する時にこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれるとも知っているので、神に大きな感謝、心に深い平安を持つことが出来、それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

4.

このような神に対する愛と一体にある隣人愛とはどんな愛でしょうか?ここで、イエス様が互いに愛し合いなさいと命じた時、「私があなたがたを愛したように」と言っていることが重要です。イエス様がわたしたちを愛したように、わたしたちも互いに愛し合う。確かにイエス様も、不治の病の人たちを完治したり、食べる物がなくて困った群衆の腹を満たしたりして困難や苦難に陥った人々を助けました。

しかしながら、イエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると、それは、人間とその造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、その障害となっていた罪の力を私たちから除去すべく罪から来る神罰を全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰にあって隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いを準備したということがその出発点であり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールなのであります。そういうわけで、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、この出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になります。

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛は、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人の場合と、まだ信じていなくて受け取っていない人の場合とでは現れ方が異なって来ると思います。既に受け取った人の場合だと、隣人愛はその人が受け取った救いにしっかり留まれるようにすることが大事になり、まだ受け取っていない人の場合は受け取れるようにすることが大事になるからです。

 本日の箇所ではイエス様は互いに愛し合いなさい、と弟子たちに言っているので、信仰者同士の隣人愛が問題になっています。キリスト信仰者といえども、罪に陥ったり、また罪と関係はないのに苦難や困難に陥ってしまうことがあります。そのような時、神との結びつきを疑うことが起きてきます。この世にはそうした疑いを引き起こす力が満ち溢れています。見回しただけで気が重くなることだらけです。神の目から見れば、信仰者はどんな状況にあっても結びつきはちゃんと保たれているのに、それを信じられなくなって自分から結びつきから離れてしまうことも起きます。そのような時、どうしたら、その人が疑いに打ち勝って、再び神との結びつきを信じて命の道を歩んで行けるようになれるために、キリスト信仰者の隣人はそのような兄弟姉妹たちのためによく祈り、考えて行動しなければなりません。

 ところでルターも言うように、キリスト信仰者とは、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者です。つまり、皆が皆、多かれ少なかれ霊的な支援を必要としています。そこをわきまえていないと、完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのために使徒パウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です(27節)。このことについてルターは次のように教えています。

 「この御言葉は、我々が信仰の兄弟姉妹に対する愛を実践するように、また、言い争いや不和が教会内に生まれるのを阻止するように勧めるものである。もし、誰かが信仰の兄弟姉妹から不愉快な思いをさせられた時、それがその人にとって重荷とならないためにも、これは大切な教えである。まず、我々がわきまえていなければならないことは、信仰の兄弟姉妹とは言っても、実際には我々の間には、弱さや道を誤ることは頻繁にあり、避けられないということである。そのことに立腹しても仕方のないことである。誰だって、誤って舌を噛んでしまった時とか、目にひっかき傷を造ってしまった時とか、転んで足にけがをしてしまった時、痛んでいる舌や目や足にいちいち腹を立てることはないだろう。それと同じことである。
 次のように考えてみるとよい。一つの体全体を君自身とすると、兄弟姉妹であり隣人でもあるその人はその一部分である。体が部分から成っていることには何もなしえない。さて、その人が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。またそれを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたというのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って、自分の体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうであろう。その時はもう手遅れで、どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

 もしキリスト信仰者が、神はイエス様を通して自分にどれだけ大きなことをして下さったかをちゃんとわかっていれば、隣人がもたらした不愉快なことなど、本当に唾を吐きかけていいような取るに足らないものになるのです。

5.

最後に、隣人愛の対象がキリスト信仰者でない場合をみてみます。相手の方は、まだ神の整えた救いを受け取っていないので、その人が受け取ることができるようにしていくのが隣人愛となります。しかし、これはたやすいことではありません。もし相手の人がキリスト信仰に興味関心を持っているなら、信仰者としては、心から教えたり証ししたりすることができます。しかし、相手の人に興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それはまず不可能です。それでも、信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。祈りの内容としては「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるようにして下さい」という具合に一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近なことにして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン




2016年4月18日月曜日

汚れた衣を小羊の血で白くされて (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2016年4月17日 復活後第三主日

使徒言行録13章26節-39節
ヨハネの黙示録7章9節-17節
ヨハネによる福音書10章22-30節

説教題 「汚れた衣を小羊の血で白くされて」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の聖書の日課の一つは黙示録の7章です。黙示録は、今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時、そして死者の復活が起こって今ある天と地が消え去り新しい天と地が創造される時に何が起きるかについて記された預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、つまり復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。そこに集う白い衣を身に着けた大群衆とは誰のことでしょうか?いろんな国民や民族の中から集まった、というのでとても国際的な集団です。彼らが誰であるか、天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことでしょうか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか、赤くなってしまい、ちょっとまともなことを言っているようには聞こえません。

イエス様が流された血で衣が白くされる、というのはどういうことかと言うと、次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにとご自分が身代わりの犠牲の生け贄となって血を流して死なれた。だから私たちは、彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、私たちは神から罪の赦しを頂いて罪の汚れを洗い落とされる、ということです。

汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩は旧約聖書の中にも出て来ます。ゼカリア3章に、天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせる場面があります。天使はそれでヨシュアから罪を取り去った、と言います(イザヤ118節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトから脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト248節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、ユダヤ人が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということは普通に行われていました(レビ記1711節)。

しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の面前でやましいところがない、潔癖な者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの掟にせよ、それらは神が命じたものであるにもかかわらず、実は本当の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ償いや清めの本番ではなかったのです。先週の聖書研究会のテーマは「ヘブライ人への手紙」9章でしたが、そこで、エルサレムの神殿やそこで行われている礼拝や儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われていました。「まことのもの」が来たら無用になるものだったのです。つまり神殿では、罪の償いのために生け贄を捧げることを繰り返し、繰り返し行わなければなりませんでした。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償えるという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。私や皆さんの罪も含めて全ての人間の罪がイエス様の犠牲によって償われて帳消しにされた、それでイエス様は私にとって救い主なのだと信じて洗礼を受けると誰でも神から罪の赦しを受けられる。こうして神から罪の赦しを受けた人は、神の裁きや罰を受けなくて済むようになるので、本当に罪の支配から脱した新しい命を生きられるようになります。

こうしてイエス様の犠牲のゆえに神から罪の赦しをいただいた人は、いつか神聖な神の面前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じています、神聖なあなたのみ前でこの至らない私が頼れるのはイエス様しかいません、イエス様をこんな私のためにお与え下さったことを感謝します、そう言えば、神はその人にやましいところはない、と認めて下さるのです。人間が神聖な神の面前に立っても大丈夫でいられるようになるのは、神の目に相応しい者として扱ってもらっているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が成し遂げた業のおかげで、そしてそれを本当のことと信じて受け入れる信仰のおかげで、相応しい者にしてもらったということです。第一ペトロ12節に、キリスト信仰者はイエス様の血をかけてもらうために選ばれた者、と言われています。ヘブライ9章では、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜい外面的な部分での清めにすぎない、イエス様の血が人間の良心を死んだ業から清めた、と言われています(91014節)。ガラテア327節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者はみな、キリストを着ている、と言われ、ローマ1314節では、罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われています。

このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。 

そうすると、先ほどの黙示録7章の白い衣を着た群衆というのはキリスト信仰者ということになります。キリスト信仰者は、いろんな国民、民族、言語集団の中にいるのであります。彼らは、「大きな苦難を通って来た者」とも言われています(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録全体と黙示録が書かれた頃の歴史的背景をあわせて考えると、一義的にはキリスト信仰者に対する迫害を指すと考えられます。しかし私は、迫害以外にも「大きな苦難」を考えてもよいのではないかと思います。いずれにしても、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、殉教にしろ、何か他の苦難のために命を落としたにしろ、天の御国の神のみ前に行けるのは、自分が流した血のおかげではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。そうなると、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分でそれを手放さない限りはみな同じように神のみ前に立つことができるのです。

2.

さて、天の長老はヨハネに群衆の正体を教え、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。私たちが用いる新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています。はて、群衆は苦難を通って来た後で今、天のみ神のみ前に立っているのだから、今は過去を振り返って「通って来た」と言った方が正確ではないのか?(13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。)なぜ、神のみ前というゴールに到達した今でも、「苦難の中から来る者」と現在の形で言うのか?

これは、天の長老とヨハネの視点が天の御国から今のこの世に移動して、今この世で苦難を通っている者を指しているからです。最終的には天のみ神のみ前に到達するのだが、この世の今のところは苦難を通っている者を指しているのです。もちろん、ヨハネが目の前で見せられている終末の時は遠い将来のことで、その時から振り返って見れば「苦難を通って来た者」と言えます。ところが「苦難の中から来る者」と現在形で言うと、ヨハネの同時代の時に苦難を通っている人を指すことができます。さらに、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことができます。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通っている苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に立つゴールが用意されていて、そっちの現実とこっちの現実が繋がっていることに気づくのです。

「衣を小羊の血で洗って白くした」というのは、過去の形です(ギリシャ語原文もそう)。つまり、ゴールに到着する前のこの世の人生の段階で一度、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神から罪の赦しを頂いて、衣を小羊の血で洗って白くしたということです。そういうわけで、天のみ神のみ前というゴールに到着するというのは、衣を最後まで肌身離さずしっかり纏い続けたということになります。この世というところは、この着せて頂いた白い衣を罪の汚れで汚そうとしたり、さらには衣自体を脱ぎ捨てさせようとする力がたくさん働くところです。そうした力に抗して衣を白く保ち、しっかり纏い続けることが苦難をもたらします。迫害の形をとることもあるし、それ以外にもいろいろあります。そこで、次に、この衣を白く保ち、しっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えて見たく思います。

3.

 何が白い衣を汚そうとするのか、それを脱がそうとするのか、それには二つのことが考えられます。一つは、罪を犯してしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

まず、白い衣を汚そうとしたり脱がそうとさせる力として罪の問題を考えてみます。私たちは、イエス様の成し遂げた業と彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され、罪の支配から救い出されたにもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを神や隣人に対して抱いてしまうことがあります。また言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。

これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。神は私たちが纏っている白い衣をみて、よしとされるのですが、私たちに残っている罪はその衣を汚したり捨てさせることに活路を見いだそうとします。本当は罪は、十字架の上でイエス様と一緒に神罰を下されて人間を支配する力を失っているのですが、それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪を罪として認め、本気で忌み嫌い、それを遠ざけよう避けようとするしかありません。その時、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで力を失ったのだ、と思い出します。その時、私たちは白い衣をしっかりつかんで引き剥がされないようにしています。神は私たちが衣をしっかり離さないようにしているのを見て、よしとされます。その時、汚れがついてしまったと思っていた衣は前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気がつくでしょう。

そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能なもので、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がない、と私たちをあきらめさせて脱がせようとさせているのです。

イエス様が成し遂げた贖いの業と被せて下さった白い衣は、私たちが罪に堕ちようがどうなろうが、全く無関係に同じ力強さ、同じ輝きを保っています。それゆえ、その力強さと輝きから一度離れてしまった私たちがまたそこに戻れるかどうかが、問題の核心となります。罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、先ほども申しましたように、神に罪を罪として認めて、イエス様を救い主として信じますから赦して下さいと願い求めることです。そうすれば神は、我が子イエスの犠牲の死に免じて赦そう、もう罪を犯さないようにしなさい、と言って赦して下さるのです。その時、イエス様の十字架と復活に現れた神の恵みと愛は、私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って、私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者は、いつも立ち返って、やり直しを始める原点があります。

もう一つ、白い衣を汚し脱ぎ捨てさせようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。この問題はどう解決を見いだしたらよいか、とても難しいのですが、一つ言えることは、そのような時でも、イエス様の成し遂げた贖いの業と被せてくれた衣に力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。

「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが自分で捨てない限り、いかなる状況にあってもしっかり保たれているのです。それから、聖餐式でパンとぶどう酒を通して受ける主の血と肉は、私たちと神との結びつきを一層強めるものです。イエス様の血は罪の汚れを洗い落とすもの、と先ほど申し上げました。イエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまって聖餐式を受ければ受けるほど、内側に潜んでいる罪に重圧をかけて押し潰していくことになります。

パンとぶどう酒を受けて、天地創造の神との結びつきが強められるなどと言われても、そう見えないし感じることはできません。洗礼の水をかけられて神との結びつきが築かれたなどと言われても、そう見えないし感じられもしません。しかし、神の目から見れば、結びつきは築かれ強められているのです。人間は限られた存在ですから、神との結びつきを信じられるために、どうしても見えるものに頼ってしまいます。例えば、病気が治るとか、何か欲しいものが手に入るとか、自分だけは苦難や困難に陥らないとか、陥りそうになっても見事にかわせるとか。しかし、たとえ人間が五感と理性を使って見ることも感じることもできなくても、神が、これで築かれた、強められた、と言えば、そうとしか言えないのです。信仰とは、つまるところ、私たちの限りある目から見てどうなんだ、ということではなく、神の目から見てどうなんだ、ということです。その神の目で見ることができる事柄というのは、聖書を通してでなければ知ることができません。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、日々聖書を繙いて、自分自身でまたは信仰の兄弟姉妹たちと一緒に御言葉に触れる時を持つことは大事です。もちろん、礼拝の説教を通して触れることも大事であることは言うまでもありません。

最後に、ルターが罪の汚れを持つ人間が清くされるということはどういうことかについて教えているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、詩篇519節でダビデ王が神に「私を洗い清めて下さい。雪よりも白くなれるように」と嘆願しているところです。

 「罪を持つ人間はどのようにして雪よりも白くなれるだろうか?答えは以下の通りである。人間には霊的な部分と肉的な部分がある。聖パウロが教えたように、人間には肉的な汚れと霊的な汚れがとどまり続ける。霊的な汚れとは何か?それは、罪の赦しを与えて下さる神の恵み深さを疑うこと、信仰の弱さ、神に対して不平不満を抱き、苦々しい思いに自分から留まってしまうこと、以上まとめて言えば、神が我々にどれだけ良くしようとしてくれているかという御心を知ろうともせず理解しようともしないということ、これが霊的な汚れである。肉的な汚れとは、悪い欲望、敵意殺意、盗もうとする心、憎む心、妬みや羨望の眼差し、その他同類のもの全てがそうである。
 キリスト信仰者とはどんな者かを正しく評価する際には、信仰者が自然の状態ではどんな者かを見てはならない。なぜなら、その場合、信仰者の中に何も清いものは見いだせないからだ。そうではなくて、キリスト信仰者というのは、聖霊の力で新しく誕生した者として観察しなければならない。この新しい誕生は、人間の力では成しえないものである。それを成し遂げて下さるのは、神をおいて他にはいない。
 この新しい誕生が起きる時、人間は雪よりも白くなるのであり、その時、罪を受け継いでしまった最初の誕生はもはやキリスト信仰者を損なうことはない。たとえ信仰者にはまだ汚れが残っているにしても、損なうことはない。主なる神はただ、洗礼の時に信仰者に着せられた白い衣にしか目を留められないのである。白い衣とは、新しく誕生した者の信仰であり、その者を清く飾りつけるために流された神の愛するひとり子の清く神聖な血である。このようにして洗礼の時に着せられる衣は雪よりも白いのである。
そういうわけで、キリスト信仰者とは、自然の状態ではまだ汚れを持つものであるが、洗礼と聖霊がもたらした新しい誕生を経て、イエス様を救い主と信じる信仰にあって、まさに主を衣のように着せられた、雪よりも白い者なのである。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン