2016年6月6日月曜日

嵐が来ても大丈夫な家の中に (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2016年6月5日 聖霊降臨後第三主日 スオミ教会

エレミア書7章1-7節
コリントの信徒への第一の手紙15章12-20節
ルカによる福音書6章37-49節


説教題 嵐が来ても大丈夫な家の中に


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。                                                                                                                                               アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所の終わりのところで、イエス様は、二人の人を比較します。一人は、家を建てる時、最初に地面を掘って岩盤にあたったところで土台を置いてその上に柱を立てる建て方をする人。もう一人は、地面を掘ることをせず、土台も置かず、直接地面の上に柱を立てる建て方をする人。その後で何が起きたかと言うと、嵐になり川が氾濫して洪水が起きる。地中の岩盤の上に土台を置いた家は揺るがずしっかり立ち続けたが、ただ地面の上に土台もなく柱を立ててしまった家は倒れて流されてしまった。

作り方からみれば、なるべくしてなったとしか言いようがないのですが、ここで大事なのは、この二人の人は何かに例えられているということです。地面を掘って岩盤の上に土台を置いて建てた人、これはイエス様の教えを聞いてそれを実行する人です。地面に直接柱を立てて建てた人、これはイエス様の教えを聞くが実行しない人です。このたとえは何を意味しているのでしょうか?

まず、イエス様の教えを聞いてもそれを実行しない人についてみてみます。この人は、この世の人生でそこそこの「嵐」に何度か出会ったかもしれないが、その人の「家」は何事もなくみかけは立派に立ち続けた。ところが人生で最大かつ最後の「嵐」である死が来た時、その人はそれを乗り越える力はなく、無残にも倒れて流されてしまう家のようにその人の全ては終わりを告げ、全てが失われてしまう。翻って、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人は、この世の人生でいろんな「嵐」に出会って打ちのめされたかもしれないが、その人の「家」の土台や柱はしっかり建てられたままであった。そしてこの世の人生で最大で最後の「嵐」、死が来たとき、揺るぎもしなかった家のように、その人はそれを乗り越える力が与えられていて、終わりを告げるのはむしろ「嵐」と死の方で、その人は永遠の命を持って生き始める。

そうなると、ここで問題になって来るのは、イエス様の教えを聞いて、それを実行するというのはどういうことか、ということです。イエス様の教えを聞くだけでは足りない。それを実行しなければならない。そうしないと、土台を置かず地面に直接柱を立ててしまった人と同じように家ともども悲惨な運命を辿ってしまう。つまり永遠の命を持てず死を超えられない。ご存じのように、ルター派では、イエス様を救い主と信じる信仰によって神から「お前は私の目に適う者だ」みなされる、「よし」とみなされる、ということが強調されます。神に「よし」とみなされるというのは、罪を内に持ってはいるが、信仰によって罪を赦されて神の裁きを免れる。神の裁きを免れるというのは、永遠の命を得られるということです。信仰によって神から「よし」と認められる、「義」と認められるということで「信仰義認」と呼ばれます。人間は、律法に命じられた掟を守ることで神に「よし」と認められるのでなく、また善い行いを積み重ねて神に「よし」と認められるのでない。イエス様を救い主と信じる信仰によって「よし」と認められるというのです。そうすると、本日の箇所で、自分の教えを実行することが大事だと言うイエス様は、信仰義認ではなく、律法主義や善行義認を意味しているのでしょうか?この問題を考えてみましょう。

2.

 確かに、イエス様の教えには、「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちに命令するものが多くあります。こういうイエス様の命令は本当はどんなものかについてルターが解き明かしているところがあるので、それを見てみようと思います。それは、本日の福音書の箇所のはじめで、イエス様が「あなたがたは、自分の量る秤で量りかえされる」(638節)と教えているところです。キリスト信仰者は、他人を見下したり侮ったりすれば、自分も神から見下されたり侮られたりするということです。他人に情け容赦なく振る舞えば、神もその人に対して情け容赦なく振る舞うということです。ルターは、この箇所について、次のように教えます。

『これは、まことに奇妙な教えだ。神は、隣人に仕えることの方が神に仕えるよりも大事だと教えているようにみえるからだ。神は、御自分にかかわることでは我々の罪を全て赦し、我々の背きに復讐しないと言われる。ところが、隣人にかかわることとなると、そうではないのだ。もし我々が隣人に対して悪く振る舞えば、神はもう我々と平和な関係にはない、以前与えた赦しも全て無効にすると言われるのだ。

 実を言うと、この「量る、量りかえされる」というのが起こるのは、我々が信仰に入った後のことで、入る前のことではない。君は、信仰に入った時のことを覚えているだろうか?神は、業績や能力にもとづいて君を受け入れたのではなかった。一方的なお恵みによって君を受け入れてくれたのだ。そして今神は、信仰に入った君に次のように言われる。「私がお前にしてやったように、お前も他の人にせよ。さもないと、お前が他の人たちにしたのと同じことがお前にも起こる。お前は彼らを顧みて上げなかった。それゆえ私もお前を顧みない。お前は他の人たちを断罪したり見捨てたりした。それゆえ私もお前を断罪し見捨てる。お前は彼らから取り上げるだけで、何も与えなかった。それゆえ私もお前から取り上げ、何も与えないことにする」と。

信仰に入った後の「量ること、量りかえされる」というのは、このようにして起こる。神は、信仰者の我々が隣人に向ける行いにこれほどまでに大きな意味を与える。それで、もし我々が隣人に善いことをしようとしなければ、神も我々にお与えになった善いことを取り消されるのである。その時、我々は、自分に信仰がないことを表明し、誤ったキリスト教徒であることを示すのである。』

厳しい教えです。しかし、ルターが言わんとしていることは、次のことです。私たちは神から計り知れない恵みをいただいているのだから、そのことがわかっているならば、そのような計り知れないことをして下さった神を心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然という心になる。そして、そのいただいたものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることは実に取るに足らないものになる、ということです。つまり、キリスト信仰者にとって、イエス様の命令に聞き従うというのは、神に救われた結果として自然に生ってくる果実のようなものなのです。神から救いを勝ち取るための努力や修行ではないのです。

そうすると、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで救われて、そんなに自然にイエス様の命令が実行できるようになるのか、と訝しがる向きもでてくるかもしれません。実はそんな時こそ、自分が救われたことがどんなに大きなことであるか、立ち止まって振り返る必要があります。

3.

 人間の救いとは何か、何が救われていない状態で、そこからどのようにして救われた状態に入れるのか、それを明確に教えているのが聖書です。救いということがわかるためには、まず人間には造り主がいるということを認めなければなりません。造り主を認めず、人間なんてただ単に、いろんな化学物質の偶然の合成からできて勝手に進化して今ある姿かたちになったんだ、という見方をとれば、救いということはでてきません。そもそも必要もありません。なぜなら、死ねば、化学物質のように分解して姿かたちは消え去るだけだからです。救いとは、この世を去る時、最後の一線を越えた瞬間、自分の造り主が約束通りがっしりと自分を受け取ってくれるということです。このように聖書は、人間とは創造主の神に造られたものであり、神から命と人生を与えられたという立場に立っています。そして、その造り主である神と造られた人間がどんな関係にあるか、そこにどんな問題があって、それはどう解決されるのか、そういうことを明らかにしている書物です。救いとは、つまるところ、造り主の神と造られた人間の間の関係にかかわることなのです。

創世記の初めに記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反して、神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、造り主である神と造られた人間の間に深い溝ができてしまいました。死ねば永遠に造り主から切り離されて滅びの苦しみを受けるしかなくなった人間を、神は深く憐れみ、再び関係を回復して神のもとに戻れるようにしようと計画して、それで自分のひとり子をこの世に送り、彼を用いて計画を実現されました。それは、人間の罪から生じる神罰を全てこのひとり子イエスに請け負わせて十字架の上で私たちの身代わりとして死なせ、この身代わりの死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。さらに、イエス様を死から復活させることで、永遠の命への扉を人間に開かれました。

人間は、このイエス様の十字架の死と死からの復活が全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この神の整えた「罪の赦しの救い」を受け取ることができます。これを受け取った人間は、罪を赦された者として神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時にも逆境の時にもかわることなく絶えず神の守りと導きがあります。万が一、この世から死ぬことになっても、造り主である神の御許に引き上げてもらって永遠にそこに留まることができるようになりました。私たち人間にこれほどまでのことをして下さった神に、これ以上何を求める必要があるでしょうか?

こうした神の私たちに対する愛の大きさがわかれば、私たちは喜びと感謝のあまり、他人が自分に気にさわることをしたとか言ったとか、そういうことは全て些細なことになります。そして、そのようなとてつもなく大きなことを私のために成し遂げて下さった神を全身全霊で愛するのが当然と思うようになります。さらに、そこから出発して、神がしなさいと言われる隣人愛、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということもそうするのが当然となっていきます。

4.

以上から、イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たちキリスト信仰者に命じる時、それは同時に、「お前は、私が十字架と復活をもってもたらした救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれていることが明らかになりました。このことがわかると、本日の福音書の箇所のイエス様の教えもよくわかります。

まず、3738節。「裁いてはいけない、有罪としてはいけない」とイエス様は命じられます。ここで注意しなければならないのは、これは、悪や犯罪を放置しろ、悪や犯罪をし放題にさせろ、ということではありません。天地創造の神は、罪や不正義や不従順を激しく憎む方です。神は神聖な方ですから、罪の汚れを目の前にすれば、即座に焼き払われる方です。従って、私たちは、犯された罪を目の当たりにした時、うやむやにしたり曖昧にしたりすることなく、それは罪である、神の意思に反するものである、と態度と見解を明確にしなければなりません。

しかし、ここで忘れてはならないことがあります。それは、神は罪や不従順を断罪せずにはいられない方であるが、同時にその御心は、人間が罪と抱きかかえに裁きを受けて永遠の滅びの苦しみに落ちてしまうことではなく、「罪の赦しの救い」を受け取って神との関係を回復することにあるということです。それなので、キリスト信仰者が罪について明確な態度をとる時、どうするかと言うと、罪を犯した人を断罪してはいけないということです。「こんなことをしたお前は神との関係が断ちきれたままで、関係修復の見込みはない」などと言ってはならないということです。神と関係修復の見込みがないかどうかは、神が将来最終的に決めることです。ひょっとしたら、その人は、いつの日かイエス様を自分の救い主と受け入れるかもしれないのに、今断罪してしまったら、これは呪いをかけるも同然です。神の目的は出来るだけ多くの人が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることなのに、それを阻止したら神に反対する者になってしまいます。神の反対者であれば、それこそ神から呪われる者になってしまいます。罪を犯した人に対して、キリスト信仰者は、断罪するかどうかは神に任せて、自分としては、罪を犯した人がイエス様を救い主として信じ受け入れられるような働きかけをする、ということです。

もちろん、罪を犯した人の心がとても頑ななため、働きかけが効果を生まない場合もあります。その場合は、神に祈って祈ることから始めます。祈ることも大事な働きかけです。とにかく働きかけをするのが、神の目的に仕えるキリスト信仰者の任務です。罪びとが「罪の赦しの救い」を最後まで拒否し続ければ神の断罪は免れません。しかし、それを受け入れてイエス様を救い主と信じるならば、どんな大きな罪も赦されて神との関係が回復されるのです。もし罪が社会の法律的な処罰や償いを求められるような犯罪であればあるほど、「どんな大きな罪も赦される」と言っても、なかなか受け入れられないかもしれません。しかし、その人と神との関係が回復したら、法律上の処罰や償いということはあっても、神の目から見たら関係の回復はもうその通りなのです。

 3940節のイエス様のたとえの教え。盲目の人が盲目の人を道案内しようとすれば、二人とも穴に落ちてしまう。道案内をしようとする盲目の人とは、先に述べた、罪びとに「罪の赦しの救い」が及ぶのを邪魔する者、神の専権事項である断罪を自分の仕事にする者のことです。このような者の断罪を被ってしまう罪びとは、救いを受けることを妨げられ、気の毒です。断罪を行う者は行う者で、そのために神から断罪されかえされてしまい、憐れです。二人とも救いの可能性を失い、穴に落ちてしまう、これは悲劇です。

ここで、イエス様は、弟子は教師に優るものではないが、全ての弟子は、やがて必要な課程を修了して教師のようになる、と言われます。(ギリシャ語のκαταρτιζωが日本語訳では「十分に修行を積む」となっていますが、「必要な課程を修了する」です。どんな「課程」かは後で明らかになります。「修行」ではありません。)ここでは動詞の未来形(εσται)が使われ、将来そうなると約束されます。どういうことかと言うと、イエス様が、これらの教えを述べているのは、まだ十字架と復活が起きる前のことです。まだ「罪の赦しの救い」は実現されていません。そんな時に、罪びとを裁くな、赦せなどと教えられても、人々にはそれを実行するための土台がないのですから、途方にくれるしかありません。この時、弟子は教師であるイエス様に遠く及ばない存在です。しかし、イエス様の十字架と復活により「罪の赦しの救い」が実現して以降は、状況が一変します。自分は神のひとり子が十字架で流した尊い血を代償にして神に買い戻されたとわかって、この救いを受け取る者がでてくる。そして、その者が今度は他の人たちもその救いを受け取ることができるように働き始める。まさに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるという「課程を修了」して、イエス様の真の弟子になって、教師が始めた仕事を受け継いで救いを拡げていく。その意味で教師のようになるのです。イエス様は、この教えを述べた当時、今はまだ不可能だが将来可能になる、と約束しているのです。その約束は実現されたのです。

こうして、41節から後のイエス様の教えは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者とそれを妨げる者の対比となります。4142節に出てくる、他人の目にある小さなゴミには気がつくが、自分の目にある大木には気がつかない人とは、まさに他人を断罪して「罪の赦しの救い」を拡げることを妨害する盲目の信仰者のことです。4345節の良い実を実らせる良い木とは、「罪の赦しの救い」を拡げていく者であり、悪い実を実らせる悪い木とはそれを妨げる者です。そして、最後に4649節で、イエス様の教えを聞いて実行する者とは、まさに「罪の赦しの救い」を自ら受け取って、それを当然のように拡げていく者です。そのような人の建てた家は堅固な土台の上に立つ家で、死という嵐にもびくともしません。教えを聞いて実行しない者とは、赦しを受け取っていない人です。イエス様の教えを聞いたかもしれないが、「罪の赦しの救い」を受け取るまでには至らなかった。それで、イエス様を救い主とまだ信じていない。または、信じたつもりが、どこでどう間違えたか、断罪者になってしまって赦しを拡げることを妨げてしまった。このような人たちの建てた家は死という嵐に耐えられないのです。

5.

イエス様が「あれをしなさい、これを守りなさい」と私たち信仰者に教えられる時、それは、「お前は、私が十字架と復活をもって実現した救いを受け取ったことを忘れるな」という注意書きが含まれている、と前に申しました。そして、もし私たちが、イエス様の十字架と復活を通して神から計り知れない恵みを受けたことが自覚できるならば、そのような計り知れないことをして下さった神を私たちは心から愛して仕え、その方の言われることには従うのが当然だという心になる。また、その受け取ったものの計り知れなさを思いやれば、隣人に対して出し惜しみするとか恨みを持ち続けることが実に取るに足らないものになる、と申しました。まさに、神の私たちに対する愛と恵みのなんたるやを知った時に、私たちの心に愛が点火される、ということです。

ただ、そうは言っても、現実はなかなか甘くはありません。隣人を自分を愛するが如く、と言っても、いつも壁にぶつかるし、ましてや神を全身全霊で愛していると言えるかどうか。そこで、ルターは、キリスト信仰者のこの世の人生とは、洗礼の時に植えつけられた聖霊に結びつく新しい人と以前からある肉に結びついた古い人との間の内的な戦いであると教えます。古い人を日々死に引き渡し、新しい人を日々育てていく戦いであると。キリスト信仰者は、この世から死ぬ時に古い人は肉と共に滅びて、完全なキリスト信仰者になると言っています。この戦いは、本当に一進一退の戦いです。しかし、しっかり聖書の神の御言葉に聞き聖餐式にちゃんと与っていれば、罪と死と地獄と悪魔に対して完全勝利を収めたイエス様としっかり結びついていますから、大丈夫です。何も心配はありません。

最後に、イエス様の教えを聞いてそれを実行する人、つまり「罪の赦しの救い」を受け取って、それを他の人にも拡げていく信仰者の人生について一言。残念ながらイエス様は、救いを受け取った信仰者に安逸な人生が保障されるとは教えません。しっかりした地盤の上に建てられた家も、土台なくして建てられた家となんら変わりなく、嵐や洪水に見舞われると言われます。つまり、人生の歩みの中では、信仰者であるかないかにかかわらず、同じように苦難や災難に遭遇するということです。いくら土台の上に建てられたと言っても、家が激しく揺れたら、さすがに恐れや心配を抱いてしまうでしょう。いくら神との結びつきが回復して、日々守りと導きを受けていると言われても、苦難や災難に遭遇したら、立ち向かっていけるか心配になるでしょう。しかし、イエス様は、「罪の赦しの救い」を受け取って神との結びつきが回復した者、そしてそこから生まれる喜びと感謝をもって自分の生き方を神の意思に沿うものにしようと志向する者、そういう者は倒壊しない家にいるのと同じなのだ、だから、恐れる必要はないのだ、と教えられるのです。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れずに共に歩んでまいりましょう。

それから、今はまだイエス様を救い主として信じていない人、信じているつもりが断罪者になってしまった人は、最後まで倒れる家に留まるしかないということではありません。神のもとに立ち返ることができれば、彼らは倒れない家にいることになります。ですから、兄弟姉妹の皆さん、彼らも嵐が来ても大丈夫な家に引っ越すことができるように働きかけていきましょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン