2014年10月27日月曜日

神に選ばれた者とは誰か (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年10月16日 聖霊降臨後第20主日

エレミア書31章1-6節
フィリピの信徒への手紙3章12-16節
マタイによる福音書22章1-14節

説教題 「神に選ばれた者とは誰か」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(2214節)。イエス様は、本日の福音書の箇所である婚宴のたとえを、このように結びました。「選ばれる」というのは、天地創造の神に相応しい、神の目に適う者として神自身によって選ばれることを意味します。「神に選ばれる人」ないし「神に選ばれた人」という言葉、ギリシャ語ではエクレクトスεκλεκτοςと言いますが、これには二つの厄介な問題が付きまといます。

第一の問題は、誰が神に選ばれた人なのか、そしてこの自分は神に選ばれた者なのか、という疑問を生み出します。そうすると今度は、では神が選ぶ基準は何か、何を満たせばそのような者であると言えるのか、という疑問がついてきます。選ぶ主体は、天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた創造の神です。それで、造られた人間があたかも神の考えがわかったように基準を論じるのは、ちょっと僭越ではないかと思われるのですが、いずれにしてもこれらの疑問はそう簡単に解きほぐせるものではないでしょう。

 第二の問題は、今述べた疑問を解明できたと思った時に出てくるものです。「選ばれた者」の基準を解明したぞ、それによると自分こそは神に選ばれた者だ、とか、我々こそは神に選ばれた民族だ、という具合に、選民思想が生まれてくるのであります。自分ないし自民族を神に選ばれたものとしてみると、自分以外、自民族以外は選ばれたものではなくなる。神に選ばれた自分たちは神に近く、他の者たちは遠いことになる。そうなると、上下の見方で自分と他者を分けることになる。神に選ばれ、神に近い以上、自分たちこそが正しさを代表し、他の者には正しさはない。そういうふうに善悪の見方でも自分と他者を分けることになる。こうした優越意識と独善性が結びつく選民思想は、人類の歴史にしばしば悲劇をもたらしてきたことは、私たちもよく知るところです。

 ところで、婚宴のたとえでのイエス様の主眼は、私たちが「神に選ばれた者」であれ、ということです。そうしないと、たとえの中で礼服を着ていなかった人のように神の国から追い出されてしまうことになるぞ、と警告しているのであります。それでは、「神に選ばれし者」たれと教えるイエス様は、私たちが選民思想を持つようにしろ、そして、キリスト教徒でない者を見下して、自分たちこそが正しさの権化であるかのように振る舞え、と教えているのでしょうか?いいえ、全くそういうことではないのです。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰にあっては、「神に選ばれし者」というのは、いわゆる選民思想とは全く無縁のものです。本質的に見てキリスト信仰は、自分を他の者よりも高くすることをしない信仰です。もし誰か、イエス・キリストの名前や天地創造の神の名前に依拠して自分を高くしたり他の者を低くする者がいたら、その人は、神の名をみだりに唱えたことになり、十戒の第二の掟を破ることになります。

 それでは、キリスト信仰者にとって、「神に選ばれし者」とは何を意味するのでしょうか?本説教では、まずそれを明らかにしていきます。それができたら今度は、私たちは果たして、その意味で「神に選ばれし者」であるのかどうか?そのことを考えてみたく思います。

2.

 本日の福音書にある婚宴のたとえは、イエス様がエルサレムの神殿で敵対者である大祭司や長老たちを相手に語った三つのたとえのうち最後のものです。初めの二つのたとえでは、イエス様は解き明かしをしますが、この最後のものにはしません。それが、このたとえを難しいものにしています。最初の「二人の息子」のたとえ(212832節)では、父親にブドウ園で仕事をしなさいと言われた息子が二人いて、一人は最初は「行かない」と言ったのに「思い直して」行った、もう一人は「行く」と言ったのに行かなかった、という話でした。イエス様はこれを解き明かして、「思い直して」ブドウ園に行った息子というのは、洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をした罪びとである、これに対してブドウ園に行かなかった息子は、洗礼者ヨハネを信じず「思い直し」もしなかった大祭司や長老たちである、と解き明かします。

二番目のたとえは、「ブドウ園と雇われ農夫」です。これは先週の主日の福音書の箇所でした。イエス様はたとえの結びで、神の国はイスラエルの指導者たちから取り上げられて異教徒に引き渡される、と解き明かしました。これをもって、たとえのなかにでてくるブドウ園は神の国、ブドウ園の所有者は神、所有者が送り続けた僕は神が送った預言者、所有者の息子は神のひとり子イエス様、邪悪な雇われ農夫こそは大祭司や長老たち、イスラエルの指導者たちを指すことが一気に明らかになったのでした。

ところが、本日の婚宴のたとえには、そのような解き明かしがありません。もちろん、聖書を何度も読んだり、注釈書を読んだりした人は、たとえに出てくる人物や出来事が何を指すか、もう知識があるでしょう。それでも、このたとえには細心の注意を払ってみなければ理解が難しいことが多くあります。そういうわけで、細心の注意を払ってこのたとえをみてみましょう。

イエス様はたとえの冒頭で「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(2節)と言います。ギリシャ語原文は少し違っていて、「天の国は、王子のために婚宴を催した王に似ている」とあります。つまり、天の国と王が似ているもの同士になっています。これはわかりにくい表現ですので、少しわかりやすくしますと、次のようになります。「天の国は、私がこれから話をする王の行動様式や思考様式に沿ったところである。だから、たとえの中で王が何をし、何を言うか、よく聞きなさい。そうすれば、天の国がどんな国かわかるだろう」ということになります。「天の国」は「神の国」と同義語です。マタイにとって「神」と言う言葉は畏れ多すぎるので、しばしば「天」という言葉に置き換えます。

たとえに出てくる王は、神を指します。王子は、神の御子ということになります。このたとえで読者の注目を引き付けることは、この神の御子は何もしないということです。影のような存在です。先週の「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえでは、所有者の一人息子がブドウ園に派遣されて殺されてしまいますが、すぐに神のひとり子が十字架に架けられる出来事を指すとわかりました。ところが、婚宴のたとえでは、神のひとり子にまつわる出来事は何もありません。それが、このたとえの理解を難しくする原因となっています。

しかしながら、目をよく見開いて読んでいくと、神の御子の働きはちゃんとたとえの中にあることがわかります。王は招待客への伝言として「食事の用意が整った。牛や肥えた家畜を屠って、全て用意ができた」(4節)と言います。最初の招待が頓挫した後、王は家来に「婚宴は用意できているのだが」とこぼします。このように「用意できている」という言葉が繰り返されます。これは、神の人間救済計画が実現したということ、人間の救いは神の側で全て整えて準備できているということを指します。イエス様は、十字架の上で息を引き取られる直前に「全てのことが成し遂げられた」(ヨハネ1930節)と言われました。成し遂げられた「全てのこと」とは、神の人間救済計画の全部を指します。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活によって全て実現された。人間の救いは神の側で全部用意して下さった、整えて下さった、ということになります。つまり、婚宴のたとえの中では、人間の救済がイエス様の十字架と復活によって実現している、用意されているのです。そういうわけで、神のひとり子の存在は婚宴のたとえの中にも重々しくあるわけです。

ここで、神がイエス様を用いて人間救済計画を全部実現して下さった、ということについて、それはどういうことか、簡単に振り返ってみましょう。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたことに示されるように、代々神に対する不従順と罪を受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、この赦しを受けることで、罪と死の支配から自由の身とされることとなりました。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さいました。こうして人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、神の用意した「罪の赦しの救い」を受け取ることになるのです。受け取った後は、その救いを所有する者として、罪と死の支配から解放された者となって、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。神との結びつきが回復したので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

3.

 以上のような次第で、婚宴のたとえの中で言われている「用意ができたもの」とは、神がイエス様を用いて実現した救いであることが明らかになりました。次に、招待された者たちは誰を指すのかを見てみましょう。

招待された者たちは、二つのグループに分けられています。最初のグループは招待されたにもかかわらず出席を拒否した者です。王が出席を促すために家来を送っても、無視したり暴力をふるったり、果ては殺してしまう人たちです。このひどい招待客は誰を指すのか。また気の毒な家来たちは誰を指すのか。先にもみたように、人間の救いはイエス様の十字架によって神が全て用意して下さいました。それで、家来が来て神の用意されたものにどうぞ来てください、と言うのは、人々に十字架の福音を説いて神の国の一員に招くということです。つまり、無視されたり殺されたりしてしまう家来というのは、福音の伝道者、宣教者であります。招きに応じなかった者とは、福音を拒否した者であります。この福音の拒否者は、もともと神の国への招待を受けていた人たちなので、ユダヤ人を指します。(正確に言うと、最初のキリスト教徒はユダヤ人であったことから、ユダヤ人のある部分は招待を受け入れたのに対して、受け入れないで拒否したユダヤ人たちもいたということです。)さらに拒否した者たちの町、というよりは都市というのがギリシャ語の言葉ポリスπολις正確な訳ですが、それが罰として焼き払われます。この都市は単数形(定冠詞付き)なので、エルサレムを指すことは明らかです。実際に歴史上起こったこととして、紀元70年にエルサレムは神殿もろともローマ帝国の大軍によって焼き払われてしまいました。つまり、イエス様はたとえの中で、エルサレムの破壊を預言しているのであります。皆様もご存じのように、イエス様はこれ以外にも、エルサレムやその神殿の破壊について、事あるごとに預言しました(マタイ2338節、併行箇所ルカ1335節、マルコ1312節および併行箇所)。本日のたとえでは、外国ではなく、神自身が大軍を送って都市を滅ぼしますが、これは預言が的確でなかったということではありません。旧約聖書に伝統的な考え方は、神は自分の民を罰する際に他国の軍隊を仕向けてかわりに罰させるというものがあり、イエス様はその伝統の上にたっているということです。

次に招待者の第二のグループ。最初のグループはもうだめだから、誰でもいいから呼んできなさい、という時、ユダヤ人ではない異教徒を指します。異教徒に十字架の福音を説いて神の国に招待しなさい、ということになりました。これも歴史上に実際に起こったことです。ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは、「罪の赦しの救い」を受け取って神の国の一員になりなさい、と招待されたのは善人だけでなく悪人も一緒でした。しかし、悪人は悪人のままで、神の意志に反する生き方のままでは婚宴会場には入れないということです。先ほど述べた三つのたとえの最初のもの、「二人の息子」のたとえ(212832節)のところで、イエス様は当時のユダヤ教社会で最大級の罪びとであった娼婦と取税人を評価しましたが、これは彼らが洗礼者ヨハネを信じて「思い直し」をしたからです。従って、悪人であってももちろん婚宴には招待されますが、その悪人は婚宴の席に着くときには、既に「思い直し」を経て、元悪人でなければならないのです。悪人が「思い直し」のプロセスを経ることができるかどうかは、神の実現した救いをしっかり所有できているかどうかにかかっているのです。

4.

 以上から、いろんなことが明らかになってきました。ここで、本日の最大の問題に入っていきましょう。新しい招待客のグループで宴会場は一杯になります。王が招待客を接見しはじめると、一人礼服を着ていない者がいた。ギリシャ語に忠実に訳すと「婚宴用の服」です。王は尋ねます。「どのようにして、婚宴用の服をつけずにここに入って来れたのか。」(日本語では「どうして」という理由を聞く訳ですが、「どのようにして」とか「いかにして」が原文の正確な意味です。)答えられない客は手足を縛られて外の暗闇の世界に投げ出されてしまいます。ここで起きる疑問は、この婚宴用の服をつけなかった者は誰を指すか、ということ、それから、婚宴用の服とは何を指すか、ということの二つです。イエス様は、その服がない者は招かれただけで選ばれた者ではない、と言われます。「神に選ばれし者」がいかなる者であるかをわかるためにも、この婚宴の服が何を指すのかを突き止めることは重要です。

 そこでまず、招待客で一杯になって王が接見を始めるこの婚宴が何を指すのか、それから見てみましょう。黙示録1979節に、この世の終わりの日に神の国で小羊の婚宴が始まることが預言されています。つまり、本日の婚宴のたとえで王が招待客の接見をする場面は、まさにこの世の終わりの日、今ある全てのものが消え去って天と地も新しくされて神の国だけが残る日です。その日に全てのものが消え去って神の国だけが残るということは、「ヘブライ人への手紙」122728節、「ペトロの手紙二」3101213節に預言されています。婚宴に招待されるというのは、終末の後に始まる神の国の大祝宴に招待されるということであります。神がイエス様を用いて人間の救いを実現したことは、先ほど見た通りです。神はこの実現済みの救いを、どうぞ受け取って下さい、と全人類に提供しているのです。つまり、神の国の一員となって祝宴にどうぞと人類全てを招待しているのです。もし人間がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この救いを受け取ったことになり、それは祝宴の招待を受諾したことになります。つまるところ、キリスト信仰者というのは、神がどうぞと言って差し出しているものを、はい、ありがとうございます、と言って受け取った人であると言うことができます。

 そういうわけで、神に招待されてそれを受諾した人というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の実現した救いを所有する者となった人、そして永遠の命に至る道を歩み始めた人ということが明らかになりました。そこで、婚宴の席につけるというのは、その道を歩み終えて永遠の命を持つに至って、神の国の一員以外の何者でもなくなったことを意味します。その時、婚宴用の服をつけていない者のエピソードが示すように、婚宴の席に着くにはその服は絶対条件であります。洗礼を受けて神の実現した救いを所有するようになったのに、婚宴用の服などとまた何か新しいものを獲得しなければいけないのか?この婚宴用の服とは一体何なのか?そのことを見てみましょう。

 まず、ルターがキリスト信仰者とはどのような者を言うのかについて、次のように教えてあるところから見ていきます。

「キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者たちということである。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、神の守りを信用せずに心配事に身を委ねること、その他もろもろの欠点に出くわすのである。使徒パウロは、これら全てを「隣人が背負っている重荷」と呼び、我々は相手の内にそれがあると認めて忍耐しなければならない、と教えた。キリストもかつて弟子たちのなかに欠点があることを認め、忍耐し、背負って下さった。そして、今もキリストは、私たちの内にある全く同じ欠点を毎日、背負って下さっているのである。」

 これを読むと、キリスト信仰者であることは、信仰者以外の者に対しても、また信仰者同士においても、自分を高くし他の者を低くするような優越意識からほど遠い存在であることがわかります。もともと選民思想など抱けない存在なのであります。洗礼を受けて神の実現された救いを所有する者となったのに、どうしてこんな情けない存在なのかというと、それは、救いを所有するとは言っても、私たちはまだこの世を生きている間は肉をまとっているからであります。肉をまとっているという点については、キリスト信仰者もそうでない者も全く同じであります。肉をまとっている以上、神への不従順や罪、さまざまな欲望やねたみや憎しみ等々を信仰者でない者と同じように持っています。

それじゃ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と言われそうですが、キリスト信仰者とそうでない者の間には大きな違いがあります。それは、信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けたことです。神の霊はまず、わたしたちの肉から生じる神への不従順、罪をつきとめ、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に教えてくれます。そんなに汚れた存在であることを暴露されてしまい、神から引き裂かれてしまったショックを受けていると、聖霊はすかさず「それでは、目をあちらにだけ向けなさい」と命じます。あちらにあるものとは、十字架にかかったイエス様です。そこに目を向け、さらに目を凝らしてみると、彼の両肩、頭の上にはなんと私の不従順と罪が覆いかぶさっている。私の不従順と罪は私から取り去られて、彼の上に覆い被せられた。そして、私は、なぜ彼があそこで死んだのかがわかる。このようにして、彼は私が受けるべき罰を私に代わって受けられたのだ、と。この時、イエス様は私の救い主となり、これらのことをひとり子を犠牲にしてまでも私のために行われた神に感謝し賛美しようという心が生まれる。そして、私が感謝して止まない神の御心を、私は知ろうとし、それに従って生きよう、という心が生まれる。それは、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するということである。自分もそうしよう。これだけの愛を受けたのだから、ということになる。

しかしながら、また現実の世界に一歩踏み入れて、いろんな人や出来事に遭遇し、いろんな問題や悩みに直面すると、また不従順や罪が頭をもたげてくる。妬んだり、嫉妬したり、陰で悪口言ったり、それを喜んで聞いたり、神が与えて下さったり結び付けて下さったものから別のものへ目移りしてしまったり等々、無数です。しかし、それでも神のもとに戻れる可能性はしっかりあります。ゴルゴタの丘の十字架に架けられた主に心の目を据えつつ、礼拝の時に行う罪の告白で、また牧師や信頼できる信徒と個別に行う罪の告白で、私たちは神から赦しを得ることが出来ます。神から得られる赦しは、また、聖餐式の時には、主の血と肉を受けるという具体的な形を取ります。

 このようにキリスト信仰者とは、現実世界をしっかり生きながら内面の戦いを戦う者たちです。絶えず十字架の主のもとに立ち返ってそれに依拠しながら生きていくことで、肉に繋がる古い人間を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた新しい人間を日々育てていくのであります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、瞬き程の一瞬のうちに復活の命を持つ存在に変えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時に「完全なキリスト教徒」になるのであります。

 そこで、婚宴用の服とは、洗礼の時に私たちの肉を覆うように被せられた目には見えない純白の服を指します。不従順と罪を宿す肉は内側に残っていますが、神は洗礼の日からは私たちを純白な者として見て下さいます。本当は、まだ不従順と罪を宿しているのに。聖霊の導きに従順に従って、自己の不従順と罪と向き合い、絶えず十字架の主に目を据えるという内面の戦いをしっかり戦い抜いた時、私たちは婚宴の席についているのです。その時、洗礼の時に着せられた純白の服が失われていなかったことに気づくでしょう。それが、選ばれた者の印なのであります。婚宴用の服をつけていない者とは、洗礼後の人生において、自己の不従順や罪と向き合わなくなったり、十字架の主に目を据えることがなくなってしまって、内面の戦いを放棄してしまった人たち、そうして洗礼の時に被せられた純白の服が失われてしまった人たちであります。彼らは招かれて招待を受け入れた者ではあったが、選ばれた者にはならなかったのであります。

 終わりに、内面の戦いと言っても、それは人間関係が渦巻く現実世界を生きることから生じる戦いなので、たいていは外面の戦いと連動しています。それゆえ、時として自己の能力の限界を試されるような試練も来ます。そうした時、この戦いは孤独な戦いで誰にもわかってもらえないと意気消沈する必要はありません。周りには信仰と志を同じくする兄弟姉妹たちがいます。それから、常に私たちの側に立って戦ってくれる無敵の同士がいます。復活によって死を滅ぼされた主イエス様です。主は、世の終わりまで毎日毎日私たちと共にいる、と約束されました(マタイ2820節)。主が約束されたことを、私たちが疑うことは許されません。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2014年10月20日月曜日

キリスト信仰者の歴史観 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年10月19日 聖霊降臨後第19主日

イザヤ書5章1-7節
フィリピの信徒への手紙2章12-18節
マタイによる福音書21章33-44節

説教題 「キリスト信仰者の歴史観」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

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 本日は、「キリスト信仰者の歴史観」という説教題でお話をいたします。最近は歴史観とか歴史認識ということが、とかく近隣諸国との外交問題を引き起こす火種のようになってしまったりするのですが、本説教では、父なるみ神が与えようとしている平和が皆様の心の中に到達できるようにすることを目指していきたいと思います。

さて、本日の福音書の箇所は「ブドウ園と農夫」のたとえですが、正確に言うと、農夫は自作農ではなく雇われ身分ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」ということになります。キリスト信仰者は言うに及ばず、信仰者でなくても聖書を読んだことのある人やキリスト教について知識のある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は神を指し、雇われ農夫は当時のイスラエルの指導層の人たち、所有者が送って殺されてしまう僕たちは神が遣わした預言者、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に、たとえに出てくる人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 ところで、イエス様が面と向かい合って話をしていた当時の人たちは、このたとえをどう理解したでしょうか?彼らは、このたとえを歴史上、一番最初に聞いた人たちです。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中で大祭司や長老たちを相手に論争している時に話されました(2123節)。彼らは、このたとえを私たちと同じように理解したでしょうか?私たちの理解はというと、実はイエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きたことを前提としています。その出来事が起きたと知っているので、ブドウ園の所有者の息子の殺害は、神のひとり子が十字架にかけられたことを意味すると分かるのです。ところが、十字架の出来事が起きる以前では、同じような理解はおそらく得られないでしょう。所有者の息子の殺害と重ね合わせて見られる出来事がまだ起きていないからです。そういうわけで、はじめてこのたとえを聞いた人たちは、私たちと正反対にとても難しかったと思います。以下、このことを念頭に入れて、本日の福音書の箇所を解き明ししていこうと思います。

2.

 最初に、213339節までを見てみます。ブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞アポデーメオーαποδημεωは、「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして旅先が外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の金持ち層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、38節で、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがよくわかります。普通だったら、そんなことをしたらブドウ園は自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまうでしょう。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということであります。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これら一連の出来事の意味は、私たちには明らかです。初めにも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はイスラエルの指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前、まだイエス様が本当に神の子なのかはっきりせず疑いがもたれていた時、「これは誰それを指す」とすぐには判明できなかったでしょう。彼らのたとえの理解の仕方は、単に哀れな所有者と邪悪な雇われ農夫との間に起きた事件にしか聞こえないのであります。文字通り額面通りの理解にしかならないのであります。

たとえを話し終えたイエス様は40節で、聞き手の大祭司と長老たち、つまりユダヤ教社会の指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」大祭司たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。」この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すか全く知らないで、たとえをただ額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても文字通り想定外のことだったでしょう。

大祭司たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になった。これは詩編1182223節からの引用ですが、これも、私たちの目から見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのであります。ところが、十字架と復活の出来事が起きる以前に初めてこの引用を聞いた人たちは、一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。彼らは、「ブドウ園と雇われ農夫」のたとえを額面通りに理解しました。その理解に基づいてイエス様の質問に答えました。そこで突然、彼らも知っている詩編の聖句が引用されたのです。一体、この三つの事柄はどう結びついて何を意味しているのか、当時の人たちには全く意味不明以外の何ものでもありません。

そこでイエス様は、初めてこれらを聞いた人たちに対して、全ての謎の解き明かしをします。43節です。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」日本語「民族」と訳されているギリシャ語の言葉エスノスεθνοςは、たいていユダヤ人以外の「異教徒」を指す言葉です。ここにきてやっとイエス様の教えの全貌が大祭司たちにはっきりします。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者は神ではないか!所有者が送って殺されたり迫害された僕たちとは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫というのは自分たちのことだったのか!この時点に至って大祭司たちがたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまでたとえを額面通りにしか理解できず、外国人ブドウ園所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事にしか聞こえていなかったのが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異教徒に渡されてしまうというようなことを、自分たちの口を通して言わさせるとは!怒りが燃え上がった大祭司たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

たとえを使って聞き手に本当の姿を思い知らせるというイエス様の手法は、実はかつて預言者ナタンがダビデ王に対して使ったものと同じです(サムエル記下1112章)。ダビデ王は一目ぼれした人妻ベト・シェバを手に入れようとして、その夫ウリヤを戦争の最前線に送って戦死するように罠をかけて目的を達成する。その時、神は預言者ナタンを遣わして、ダビデに対して次のようなたとえを話させる。二人の男がいて、一人は金持ちで多くの羊や牛を所有していた。もう一人は貧しくて一匹の小羊しか持っていなかった。貧しい男はその小羊を自分の子供のように大事に育てていた。ところが、ある日、金持ちのところに来客があり、男は客をもてなさなければならなくなった。しかし、自分の羊や牛は出し惜しみ、貧しい男の小羊を奪って、客に振る舞った、という話です。

さて、ダビデ王はたとえの本当の意味を理解せず、額面通りに受け取りました。そして、その金持ちに怒りを燃やし、そんな男は死刑だとまで言う。それくらい王は、何が正しく何が悪かはわかっている。しかしながら、それは、問題が自分をさしおいて他人に関わる時だけでした。まさにその時、ナタンは、その金持ちとはお前のことだ、神から不足なく与えられていながら、不正を働いてまで欲望を満たすとは何事か、神が与えて下さるものでは足りないと言うのか、そのように神を軽んじる者は厳しい罰を受けてしまえ、と鉄槌を下します。一気に目を覚ませられたダビデは、自分がしたことは大罪であったと認めます。

「ブドウ園の雇われ農夫」のたとえで、イエス様は、実にこのナタンのたとえの手法を踏襲していることがわかります。まさに、雇われ農夫とはお前たちのことだ、というのであります。たとえを用いて、聞く者の真の姿を思い知らせるのであります。ところが、イエス様の場合、ナタンのたとえと一つ大きな違いがあります。ナタンの場合、たとえを聞いて、自分の真の姿を思い知らされたダビデは罪を認めて悔い改めますが、イエス様のたとえを聞いた大祭司たちは悔い改めるどころか、自分たちの真の姿を知らされて逆上し、心を一層かたくなにしてしまいました。全く逆の効果を生み出してしまいました。神の意思というものが、もし、人間が神に対して罪と不従順を認めて悔い改めるものであるならば、ナタンのたとえは目的を果たしたことになります。しかし、イエス様のたとえはそれを果たしませんでした。イエス様のたとえは失敗だったのでしょうか?この疑問に対しては、次のように考えることができます。イエス様のたとえのせいで敵対者の心が一層かたくなになり、イエス様が十字架にかけられるのを確実にしていったとみれば、それは神の計画を実現に導いたのだから、大きな意味では目的を果たしすぎるほど果たしたと言えます。ただそれでも、別の大きな疑問が残ります。それは、神は御自分の計画を実現させるためには、信じない人たちの心を一層かたくなにしてしまうのか、という疑問です。どうして、信じない者を信じるように導かれないのか?神が人の心をかたくなにしてしまうということは、旧約新約聖書全体を通してあり、これは神を信じ神に信頼しようとする者にとって大きな問題です。この問題に対して、神の意図はこうこうですと言って安易に説明を下すことはできません。それくらい奥の深い問題だからです。ここで、神を信じる者が考えるべきことは、自分は神の意思をそっちのけにして自分の意思を優先させて生きていないかどうかを、たえず自己吟味することです。そこではっきり言えることは、神はそのような者に対しては、心をかたくなにすることはしないということです。

3.

 イエス様のたとえを聞いてその意味をわかった人たちが、なぜ一層心をかたくなにしてしまったのか?それは、神が御自分の計画の実現のためなら、信じない人の心を一層かたくなにすることも辞さない方だから、ということが明らかになりました。それならば、なぜ大祭司たちは一層かたくなにされてしまう前に、そもそも信じることができなかったのか?このことについて見ていこうと思います。何が彼らにとって正しい信仰の妨げだったのでしょうか?それは、彼らが、自分たちの行っている礼拝や崇拝は旧約聖書の律法や預言を全うしたものであると思い込んでいた、そうした己に対する無批判性、自己満足性にあったことでした。

当時のエルサレムの神殿はヘロデ大王が大増築したもので、縦横約400メートル、700メートル位の敷地をもち、外門をくぐって最初に出くわす広い前庭は「異教徒たちの前庭」と呼ばれていました。そこからソロモンの柱廊を通っていくと「女性の前庭」があり、これはユダヤ人の女性が到達できる場所、その先は「イスラエル人の前庭」で、ユダヤ人の男性が入れるところ、その次には祭司だけが入れる幕屋があり、垂れ幕の後ろには大祭司しか入れない最も神聖な場所、至聖所がありました。「異教徒たちの前庭」は興味深い場所です。ユダヤ人でない異教徒でも、ここまでなら神殿に入れて生け贄を捧げることができたからです。これは、神殿を運営する側としては、イザヤ書2章にある預言、世界の歴史が終わる日に諸国民が天地創造の神にひれ伏してその律法を学ぼうと「大河のように」こぞってエルサレムにやってくるという預言、それが実現したという雰囲気を与えたことは容易に想像できます。

しかしながら、当時のエルサレムの神殿が神の約束の実現とみなすのは自己欺瞞でありました。ご存じのように当時イスラエルはローマ帝国の占領下にあり、神の民は少なくとも外面上は解放された民族とは言えませんでした。さらに、異教徒が生け贄を神殿に捧げに来るとは言っても、ふたを開ければ、確かに天地創造の神に畏れを抱いている異教徒もいるが、他方ではなにも天地創造の神ひとりだけを信じているわけではない多神教の者もいる。そういう人からすれば世界各地の神を拝んでいればそれだけおめでたいことになるというだけですから、これは天地創造の神が命じる「私以外に神があってはならない」という掟からほど遠いわけです。このように地中海世界全域のユダヤ人及び異教徒たちの吸引力となったエルサレムの神殿は、ユダヤ教社会の指導者たちにとって自己満足を満たす以外の何ものでもなかったのでした。

それが神の御心からかけ離れていると見破ったのがイエス様でした。本日の福音書の箇所の前の211213節で、エルサレムに入城したイエス様はすぐ神殿に乗り込み、そこにずらっと並んであった両替商や生け贄用の鳩を売る出店をことごとくひっくり返して、即座にイザヤ書567節とエレミア書711節にある神の言葉に訴えて、神殿の礼拝・崇拝の欺瞞性を暴露します。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところがおまえたちはそれを強盗の巣にしている。」

イエス様が、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝が神の御心とは別物であるとみなしたのは、それは彼が神のひとり子として神の御心を知っていたからにほかなりません。ユダヤ教社会の指導層から見れば、現存の神殿で行われている礼拝・崇拝をもって、律法や預言が一応完結したということなのですが、そもそも律法や預言の本当の目的は何かと言うと、それは神の人間救済の計画とその実現の仕方について教え、知らせることでした。イエス様はそのことを一番ご存じでした。そして、自分を犠牲にしてその計画を実現したのでした。神の人間救済の計画と実現とは以下のことです。

創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァの犯した神への不従順と罪がもとで人間は死する存在となってしまい、それまであった人間と神の結びつきは壊れてしまいました。そして、人間は代々死んできたように、神に対する不従順と罪を代々受け継いできました。そこで人間を造られた神は、人間との結びつきを回復させよう、人間がこの世から死んでも永遠の命を持てて再び造り主である自分のもとに戻ることができるようにしようと計画を立てて、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、人間と神との関係を壊してしまった原因である罪の力を無力化するために、本来人間が受けるべき罪の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間の罪を赦すことにしたのであります。この赦しを受けることで、人間は罪と死の支配から自由の身とされることとなったのであります。罪と死の支配から人間が贖われるために支払われた代償は、まさに神のひとり子が十字架で流した血でありました。詩篇4989節に記されているように、死する存在の人間は、命を買い戻す身代金を払うことはできません。なぜならそれはあまりにも高額だからです。それを神は、み子の血を代価にして人間を罪と死の支配から買い戻して下さったのです。

しかし、それだけで終わりませんでした。神は一度死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を人間に開いて下さったのです。人間は、この2000年前の彼の地で起きた出来事が、現代を生きる自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、そのまま罪と死の支配から解放された者とされて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになるのであります。神との結びつきが回復した者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神が御手を差し出して御許に引き上げて下さり、永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのであります。

神との結びつきが回復したということは、神との戦争状態がなくなって神との間に平和が打ち立てられたということです。イエス様がヨハネ1427節で言っている平和、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言うところの平和なのであります。ルターが教えているように、この世が与える平和とは外面的に嵐や動乱がない状態にすぎません。嵐や動乱が起きれば失われてしまうものです。しかし、イエス様が与える平和とは、外面的に嵐や動乱があっても保たれる平和です。つまり、神がイエス様を用いて実現して自分が受け取った神との結びつきは、いくら嵐や動乱が外面上は荒れ狂っていても、自分から手離さない限りはしっかり保たれているという、心と魂の平和です。この世が与える平和を肉による平和とすると、イエス様が与える平和は霊的な平和ということになります。

4.

 イエス様は、旧約聖書の律法と預言書の真の目的を正確に把握していました。つまり真理を把握していたのです。当時のユダヤ教社会の自己満足的な指導層の律法・預言書理解は、真理とはかけ離れたものでした。もし彼らがイエス様の教えを認めたら、現存の神殿の礼拝・崇拝は存立の根拠を失ってしまいます。それゆえ、指導層の抱いた反感や危機感は相当なものだったと言えます。イエス様が律法と預言書の目的を正確に把握していたということは、彼が神の人間救済計画を知っていたということです。神の民イスラエルの辿ってきた歴史はこの計画の実現に向かう歴史で、自分はその計画が最終的に実現するためにこの世に送られたのだということもわかっていました。

イエス様の十字架と復活をもって救済計画が実現した後は、人類の歴史は今度は、イエス様が再臨する日、つまり終末の日に向かう歴史となります。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取ることができるようにするというのが神の意思ですので、神の人間救済の歴史は十字架と復活の後も続きます。このように人類の歴史は、神の人間救済の歴史であります。

 しかしながら、学校で教える歴史、歴史学で研究される歴史は、これとは全く別ものです。そこでは歴史を神の人間救済計画が実現する場とか時間とは考えません。学校で教えられる歴史や歴史学で研究される歴史は、神とかこの世を超えたものは一切切り離して、この世の中の範囲内で人間が認識できるもの確認できるものだけを見ていき、それ以外のものは見ません。そのような歴史は、キリスト教の誕生についてだいたい次のように説明します。

「ナザレ出身のイエスは、自分を神の子とかユダヤの王と称して、神の愛や隣人愛についてユダヤ教に顕著な自民族中心主義を超える教えを説いたため、ユダヤ教社会の指導層と激しく対立し、最後は占領者ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された。その後、イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ、彼こそは旧約聖書に約束された救世主メシアだったと説き始め、使徒ペテロはユダヤ人を中心に、使徒パウロは異教徒を中心に伝道し、そこからキリスト教が形成されていった」という具合です。

お気づきのように、こうした歴史では「イエスにつき従った弟子たちの間で、彼が死から蘇ったとする信仰が生まれ」とは言いますが、「彼が死から蘇った」とは言いません。学校教育や研究者の歴史からすれば、そういうこの世を離れたもの、五感や理性で把握できないものは、歴史学の領域ではなく、信仰に属するものである、ということになります。

イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者は歴史観を二つ携えてこの世を生きています。ひとつは、以上みた学校教育上や研究者の歴史です。歴史を見る時、この世の範囲内だけを見、天国とか地獄とかこの世を超えたものには一切立ち入らない、五感と理性で認識できるものだけを相手にするという歴史です。もうひとつは、この世を超えたところで神が人間救済を計画し、律法や預言書を通して神の意図を随時明らかにし、最終的にひとり子をこの世に送って計画を実現した、というまさに頭脳では収まりきれない、心でしか把握できない歴史です。たとえ心ででも把握できれば、それは真理です。頭脳に収まる真理より、深く広い真理です。

このようにイエス様を救い主として信じるキリスト信仰者は、この世中心の狭い歴史観とこの世を超えた広い歴史観の双方を持っており、広い歴史観に命を託している者です。先ほども申し上げましたが、神の人間救済の歴史は、イエス様の十字架と復活の出来事の後は今度は、イエス様が再臨する復活の日、終末の日に向かう歴史です。その日が来るまでに出来るだけ多くの人が神の実現された救いを受け取って所有できるように働いていくための歴史です。その意味でキリスト信仰者は、使徒言行録の続編を生きているということになります。そのことを自覚してこの世を生きていきましょう。果たして自分は使徒言行録の続編を担って生きているかどうか自問してみることは大事です。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン