2023年7月5日水曜日

神の真理を礎にして歩む人生 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2023年7月2日(聖霊降臨後第五主日)スオミ教会

 

エレミア書28章5-9節

ローマの信徒への手紙6章12-23節

マタイによる福音書10章40-42節

 

説教題 「神の真理を礎にして歩む人生」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 本日の聖書日課は、旧約聖書はエレミヤ書、新約聖書は使徒書のローマとマタイ福音書からですが、この3つには共通のテーマがあります。それは、神の真理です。真理とは、時や場所に関係なく、いつどこででも本当であるという事柄です。いつどこででも当てはまる法則も真理です。それでは、神の真理とは何か?それを、まずエレミア書の日課から明らかにします。その次に、神の真理を土台にして生きるとどんな生き方になるのかを、ローマの日課をもとに見てみます。そして終わりに、そのような生き方をするとこの世の歴史と社会の中でどんなことに遭遇することになるか、どんな目に遭うか、それに対してキリスト信仰者はいかに立ち振る舞うべきかということについて、マタイ福音書の日課をもとに考えて行こうと思います。

 

 そういうわけで本日の説教は三部構成です。第一部は神の真理とは何か?第二部は神の真理を土台にする生き方、第三部は神の真理を土台にして生きるとどんなことに遭遇し、それに対してどう立ち振る舞うか?

 

2.神の真理

 

 本日の旧約の日課エレミア28章の個所は紀元前7世紀から6世紀の変わり目の頃の出来事です。ユダ王国にハナンヤという預言者が現われて、国民の耳に心地よい預言をした、それに対して預言者エレミアが反論するところです。

 

 この辺の歴史的背景を超特急でおさらいしておきましょう。太古の昔イスラエルの民は天地創造の神に導かれて奴隷の国エジプトから脱出して約束の地カナンの地に定住します。紀元前11世紀に国は王制をとり、ダビデ王ソロモン王の時に最盛期を迎えます。ところがその後、王国は南北に分裂、国全体が神の意思に反する生き方を繰り返し、まず北王国が紀元前8世紀にアッシュリア帝国の攻撃を受けて滅亡します。南のユダ王国は寸でのところで危機を脱しますが、その後も神の意思に反する生き方が一時を除いて続き、神は罰としてバビロン帝国の攻撃を仕向けます。紀元前598年ヨヤキン王の時に大きな攻撃があり、エルサレムは陥落してしまいます。この辺の事情は列王記下の24章に詳しく記されています。それと照らし合わせながらエレミア書を読むと預言者エレミアがまさに激動の歴史の中で活動したことが手に取るようにわかります。エルサレム陥落の後、ヨヤキン王はじめ王国の主だった人たちがバビロンに連行されて行きます。バビロンの王はヨヤキンの叔父ゼデキアを王に立てて引き上げます。もうユダ王国は独立国とは言えませんでした。

 

 このゼデキア王の治世4年目に預言者ハナンヤが現れて国民の前で、あと2年したら神はバビロンの軛を打ち砕き、ユダ王国から持ち去った物や連れ去った人たちは祖国に戻ると預言します。他方エレミアはハナンヤが現れる前、国民に対して、ユダ王国はバビロンによって徹底的に破壊される、その軛を受け入れなければならないと宣べ伝えていました。エレミアはそれが神の計画であることを象徴して自分の首に軛をかけることもしていました。丁度その時にハナンヤが現れて、エレミアと正反対のことを預言したのでした。国民は既にエレミアの預言にあきあきしていました。ハナンヤの預言を聞いた時、こっちの水は甘いぞと心が動かされたことは容易に想像がつきます。本日の個所の後になりますが、ハナンヤはエレミアが首にかけていた軛を打ち砕くというパフォーマンスもします。これを見たら誰でも、説得力があると思ったでしょう。

 

 ところが実際には歴史はハナンヤが言った通りには進みませんでした。ゼデキア王は治世9年目にバビロン帝国に反旗を翻します。それがもとで王国は再度の大攻撃を受けます。エルサレムは2年間兵糧攻めにあい、最後は敵の大軍に蹂躙され王国は完全に滅亡します。エルサレムの神殿も完全に破壊され、残りの市民もバビロンに連行されてしまいます。紀元前587年のことでした。全てエレミアが預言した通りになったのです。

 

 神はエレミアに国の滅亡を預言させたわけですが、その意図は一体なんだったのでしょうか?神は天地万物を創造し人間を造られた全知全能の方です。人間に罪を犯すなと命じ十戒を与えた神聖な方です。神はそうした自分の意思を表す十戒やその他の掟をイスラエルの民に授けました。世界中の数ある民族の中から自分たちが選ばれてこのような神聖なものを授けられたと、イスラエルの民が自負心を強く持ったとしても不思議ではありません。ところが、民は次第に神の意思に反する生き方を繰り返すようになり、神が遣わした預言者の警告にも耳を貸さないようになってしまいました。そうなると、神は自分の意思に反する者、罪を犯す者を完膚なきまで滅ぼす裁きの主という姿が明らかになります。

 

 ところが、エレミア書を見るとイスラエルの民の復興についても預言されています。民が連行された異国の地で心から神に立ち返って神の名を呼び求め祈りを捧げるならば神は民を祖国に帰還させると言うのです。神の計画は災いの計画ではなく将来と希望を与える計画であると言われるのです(291114節)。実際、歴史もそのように進みました。紀元前6世紀の終わりにペルシャ帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の新しい覇者になります。イスラエルの民はこのペルシャ王の勅令によって祖国帰還が認められ、紀元前538年から帰還が始まります。これもエレミアが預言した通りでした。

 

 神の計画は災いではなく将来と希望を与えるものであるならば、なぜ自分の民にバビロン捕囚のような大きな苦難を与えられたのか?それは、やはり神は罪を見過ごせない方、罪をはっきり罪と言い、それを焼き尽くさずにはいられない神聖な方だからです。しかし、人間が罪の罰を受けて焼き尽くされてしまえばいいということではありませんでした。罪は神の神聖さと相いれないためそれを持つ者を滅びに陥れてしまうという呪いがあります。神は人間をその呪いから救い出して、罪は滅びても人間は滅ばないようにしたかったのでした。それはどのようにして可能でしょうか?とりあえず神は、イスラエルの民の祖国帰還を可能にすることで、罪を赦して、赦された者が新しく生きることを始められるようにするという例を示したのです。

 

 このように神は罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主です。それと同時に、人間が罪のゆえに神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもあります。これが神の真理です。私たちは旧約聖書の遥か昔の遠い国の出来事の歴史を見る時、天地創造の神は本当に罪を忌み嫌い罰せずにはおかない方であることをわからなければなりません。しかし、そこで終わってはいけません。神は同時に罪のある人間をなんとかして自分のもとに立ち返らせよう、人間が罪を忌み嫌うようになって罪から離れて生きようとする者に変えてあげようとされる方であることもわからなければなりません。

 

 バビロン捕囚と祖国帰還という歴史的出来事から、神は二つの大きな目的を持っていることが明らかになります。罪に対する裁きと罪の赦しという目的です。ところで歴史的には、罪の赦しの目的は実はまだ民の祖国帰還の時には実現していませんでした。当時の人たちの中には実現したと考えた人もいましたが、事はユダヤ民族に属する人の罪が問題だったのではありません。そうではなく、神に造られた全ての人間の罪が問題だったのです。そういうわけで、ユダヤ民族の祖国帰還というのは実は、そういう一つの歴史的出来事を通して、全ての人間に及ぶ罪の赦しの救いを前もって予感させるものでした。そして、全ての人間に及ぶ救いはイエス・キリストの十字架の死と死からの復活で歴史的に実現したのです。

 

3.神の真理を土台にして生きる生き方

 

 神は、罪を忌み嫌いそれに対しては神罰を下さずにはいられない裁きの主であると同時に、人間が神罰を受けて永遠に滅びてしまうことから助けたい憐みの主でもある、これが神の真理でした。この神の真理が如実に現れたのが、ご自分のひとり子イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の出来事だったのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上であたかも彼が人間の罪の責任者であるかのように断罪して人間の罪の償いをさせました。そして、死なれたイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させ、神の御許に迎え入れられる道を人間のために切り開いて下さいました。神の真理は、イエス様の十字架と復活の出来事で不動のものになったのです。それでは、この神の真理を土台にして生きる生き方はどのようなものになるのでしょうか?このことがローマ6章によく記されています。

 

 使徒パウロは教えます。キリスト信仰者は洗礼を受けたことでイエス様の死と復活に結びつけられていると。イエス様の死に結びつけられると「罪に対して死んでいる」と言われます。わかりにくい言い方です。ギリシャ語の用法で、死ぬことが罪にとって不利益になるということで、要は罪がキリスト信仰者にちょっかい出そうにも出せない、影響力を行使しようにもできない、従わせようとしても従ってくれない、全て肩透かしをくらってしまう、それ位にキリスト信仰者は罪に対して冷たく死んでしまっているということです。

 

 しかも、洗礼を受けることで結びつけられるのはイエス様の死だけではありません。彼の復活にも結びつけられます。パウロは、この結びつけられるということはキリスト信仰者の有り様や生き方を根本から変えるものである、だから信仰者はそれに気づくべきであると教えます。どう根本から変えるのか?罪に対して冷たく死んだ者は、今度は神に対して生きるだけだと言います。神に対して生きるというのと罪に対して死ぬというのは同じコインの裏と表です。人が罪に対して死ぬと、罪はその人を指図できず、その人は罪から自由になっている、罪と無関係になっている。その時、その人が関係を持つのは神になる。これが神に対して生きることになることです。罪から離れ神を向いて生きることです。洗礼を受けた者は、そういう状態に入ったというのです。もちろん、イエス様の死と復活に結びつけられたと言われても、自分はまだ死んで葬られてもいないし復活も遂げていないので、そうなったという実感は起きません。しかし、洗礼はイエス様の死と復活に結びつけるものなので、一度受けたらが最後、罪に対して死に、神に対して生きるという状態に入ってしまうのです。後は、いつの日か本当に死んで葬られて復活の日に復活を遂げるという形式的なことが残っているだけで、実質的なことはもう起きたことになります。

 

 それなので、神の真理を土台にしてこの世を生きるというのは、実質的に新しくされた命を持って生きるということになります。古いものは全てイエス様と一緒に十字架につけられてしまったからです。

 

 それでは、新しくされた命を持ってこの世を生きるというのはどんな生き方になるでしょうか?12節で大きな命題が掲げられます。「あなた方の体は罪と結託してしまいがちな死の体である。その体の中で罪が支配者として君臨しないようにしなさい。君臨してしまえばあなた方は体の欲望に聞き従ってしまうだけだ。あなた方はそうした状況に陥ってはならない。」「体の欲望」と言うと何か性的なことが頭に浮かぶかもしれません。それも含みますが、もっと広い意味です。神聖な神の意思に反するとはわかっていてもやらずにはいられない、口にしないではいられない、そういう何か抗しがたい、本当に「肉の思い」としか言いようがないもの、それが欲望です。具体的に考えるならば、十戒の第四から第十の掟を逆に考えればいいと思います。両親を大切にしないこと、人を傷つけるようなことを口にしたり行ったりしてしまうこと、異性を淫らな目で見たり不倫すること、他人のものを自分のものにしてしまうこと、自分のものを他人のために役立てようとしないこと、偽証したり他人を貶めるようなことを言うこと、他人を妬んだり、その持っているものを自分のものにできないかと思い描くこと等々、これらが「体の欲望」、肉の思いです。

 

 こうした欲望、肉の思いに従ってしまうのは罪が支配者になっているからです。しかし、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられたら罪に対して死に神に対して生きることになるので本当は罪は支配者でなくなっている筈です。しかし、キリスト信仰者もまだ肉の体を纏っているので、行いや言葉が自然に自動的に神の意思に沿うものにならないもどかしさがあります。でもそれは復活の体を着せられる前のことなので仕方のないことです。それなので、自分は洗礼によって本当はどんな状態にあるかを知って自覚して生きることが大事になります。それでパウロは、自分の肢体を神の義のための道具、武器にして肉の思いに対して戦えと言うのです。「神の義」とは、神聖な神の前に立たせられても大丈夫だと見てもらえ、焼き尽くされない状態を意味します。イエス様に罪の償いをしてもらったことを本当にそうなんだと信じて受け取った人は神の義を持てます。

 

 ところでパウロにとって、神の義の武器になりなさい、というような「~しなさい」と命じる教え方は本意ではなかったと思います。というのは、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されたら、その解放は神のお恵みです。人間が律法を守り抜いて勝ち取ったものではありません(そもそも、そんなことは不可能です)。それで「私たちは律法の下にではなく恵みの下にいる」と言うのです。しかし、「~しなさい」と言うと律法的になっていきます。本当はそういうふうに命令されないで自然に自動的に肉の思いを消すことが出来ればいいのですが、肉の体を纏っている以上は出来ません。やはり自覚して戦うしかないのです。19節で「あなたがたの肉の弱さのゆえに人間的な言い方で言っているのです」と言っているのはまさにこのことです。本当は罪に対して死に神に対して生きている状態にあるのだから「~しなさい」などと言う必要はないのに、肉の弱さのために言わなければならない。実にもどかしいことですが、神の真理を土台にして生きるとそうならざるを得ないのです。この「~しなさい」は、律法的に捉えず、自分たちが本当はどんな素晴らしい状態にいるのかを自覚させる注意喚起と捉えるのが良いのではないかと思います。

 

4.神の真理を土台として生きる者の立ち振る舞い方

 

 福音書の日課マタイ104042節のイエス様の教えは、預言者を預言者という理由で受け入れる人は預言者の報酬を得る、義人を義人という理由で受け入れる人は義人の報酬を得る(日本語訳では「正しい人」ですが、ギリシャ語のδικαιοςはずばり「義なる人」、義人です)、そしてイエス様の弟子を弟子であるという理由で冷たい水一杯でも与える人は弟子の報酬を得るということです。これは一体何を意味するのでしょうか?まず「預言者」というのは、神から告げられた言葉を宣べ伝える役目を持つ人です。言葉の内容は将来の出来事の預言に限られません。神の意思や計画を伝える言葉は皆預言になります。「義人」というのは、イエス様を救い主と信じて神の真理に立って生きる者です。キリスト信仰者のことです。そして「弟子」というのは、神の真理を宣べ伝える者です。ここでひと言、預言者について、神の言葉が私に下ったなどと言う人がみんな預言者にはならないことに注意しましょう。神の意思に沿っていないといけないからです。神の意思は聖書にあります。聖書にある神の意思に沿っているかどうかを判断するカギとして、キリスト教会の伝統的な信仰告白があります。使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条です。また、それらを正確に理解できるようにと、ルター派は一致信条集もあります。

 

 マタイ10章はキリスト信仰者が受ける迫害について述べています。それで今日の個所も迫害の文脈で理解します。そうすると、迫害のさ中に預言者や義人や伝道者を追い払ったりせず受け入れて世話をする人は、預言者や義人や伝道者が神から将来受ける報酬と同じものを受けるということになります。パウロを初めとする使徒たちやローマ帝国の迫害期にそのように世話をした人たちがいたことは想像に難くありません。世話をした人が世話を受けた人と同じ報酬を受けるというのは、世話した人たちにも危険が及ぶことを意味します。使徒言行録17章を見ると、テサロニケでパウロをかくまったヤソンとその兄弟が当局に引っ張られていく場面があります。日本のキリシタン迫害の時がまさにそうでした。帚木蓬生の「守教」の中で密告に対する報奨金制度が出てきます。この制度のもとでは聖職者や信者を世話したり匿った者もキリシタンと見なされて拷問を受けました。まさに世話する人がされる人とこの世の権力から同じ報いを受ける事態になったのでした。しかし、次に到来する世では神から同じ報酬を受けられるのです。

 

 幸いなことに、現代の日本ではこのような迫害状況はありません。日本には数多くのキリスト教系の社会事業あり、学校あり、著名な文化人も多くいて、社会の中でキリスト教が果たす役割や存在は無視できないものがあり、一目置かれるようになりました。それでは、もう同じ報酬を受けるという極限的な状況はないと言えるのか?キリスト教会にとってそんな安泰な状況があるのか?少し考えてみましょう。日本ではキリスト教徒の割合が全人口の1パーセントというのは、日本人の中にはまだキリスト教に距離を置く何かがあります。

 

 それについては宗教学や社会学、文化人類学からいろいろな説明の仕方があると思いますが、一つには、キリスト教は欧米の宗教で日本人の風土と精神には合わないというような議論です。遠藤周作の有名な「沈黙」の中で、棄教して仏教徒になった宣教師フェレイラが、日本はキリスト教が根を下ろさない沼地だと言っているところがあります。その言い方はいかがなものか。暴力と武力で教会を壊滅させた後で、根を下ろさない沼地だなどと言うのは問題のすげ替えではないか?いずれにしても、キリシタンを壊滅したことが日本人のキリスト教に対する態度に遺伝子的な痕跡を残したのではないかと思います。キリスト信仰者になると欧米に魂を売り渡したと見なす人もいる位です。果たしてキリシタンの時代の信仰者は自分たちは何か日本人に合わないことをしていると思って信仰していたでしょうか?

 

 しかも、明治維新や敗戦直後の頃と違って、今、キリスト教を信じることは欧米化することと同じとは言えなくなってきているのではないでしょうか?当時は欧米の圧倒的な力を見せつけられましたが、今はそのような力の差はあるのか?ただし、この2030年の間の日本の国力は物凄い落ち込みようで、また欧米に差をつけられるようになってしまったかもしれません。欧米どころか、お隣の韓国にも平均賃金や一人当たりのGDPで抜かれてしまいました。かつての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は見る影もない時代になってしまいました。

 

 ところが、欧米にまた差を付けられるようになってしまったとは言っても、その肝心の欧米ではキリスト教、特に伝統的なキリスト教は人々の教会離れ聖書離れが進んでいるというのが現状です。フィンランドを見ても、90年代まではルター派国教会の所属率は全国民の90%以上でしたが、以後どんどん低下して今では65%、ヘルシンキでは過半数を割っています。そんな時代なのです。もちろん、そういう時代だからこそ踏みとどまる信仰者も大勢います。フィンランド・ルーテル福音協会も、海外伝道だけでなく国内伝道にも力を入れているのです。

 

 こういう時代だからこそ、キリスト教は欧米の宗教という見方から自由になれるチャンスなのです。もちろん、キリスト教は欧米を経由して入ってきたことは否定できません。しかし、聖書の内容は欧米の文物の紹介なんかではありません。それは、天地創造の神が古代オリエント世界を舞台にして人間の救いの意思と計画を明らかにしたということ、それをその舞台の人たちが一生懸命、後世の世界に伝えようとしたものが聖書です。私たち人間の命がどこから来てどこに向かい、その間にあるこの世ではいかに生きるべきかという道を示してくれるものです。神の真理を礎にして、先ほど申し上げた体の欲望、肉の思いと戦いながら生きることがその道です。一体これのどこが悪いのか?一体これのどこが欧米化なのか?今の時代は、こういう態度でいいと思います。神がキリスト信仰者のことを誰よりもわかっていて下さる、だから、何もわかっていない者から何を言われても、どう見られても関係ない、そういう姿勢でいればいいのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン