2021年11月29日月曜日

主の降誕と再臨の間で (吉村博明)

  

主日礼拝説教2021年11月28日 待降節第一主日

スオミ教会

 

エレミヤ書33章14節-16節

テサロニケの信徒への第一の手紙3章9-13節

ルカによる福音書21章25-36節

 

説教題 「主の降誕と再臨の間で」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。

 

 今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、今日初めて聞く方もいらっしゃるのでお話ししますと、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

 

 その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。今年は、一旦おさまっていたコロナがまた拡大してしまったので、今日の教会の人の入りはどうなるでしょうか?スオミ教会のホームページにエスポ大聖堂の6年前のホサナ斉唱のビデオを紹介していますので、ご覧になれる方は雰囲気を味わってみて下さい。

 

 さて、スオミ教会のホサナですが、昨年から日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年はマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。今日のルカ21章も同じ内容です。説教者としてちょっと戸惑います。以前ですと、聖霊降臨後の終わりの頃はイエス様の終末の預言や最後の審判に関するものが中心で、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わってイエス様の降誕に目が向くという流れになったものです。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマで続けなければならないというのは気が重くなります。パイヴィも、ホサナの日だからフィンランドと同じ聖書日課にしたら?などと言って、私も迷いました。しかし、やはり「郷に入っては郷に従え」だろうと思い、定められた日課に従うことにしました。

 

2.主の再臨は待ち望むことができる

 

 でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると思う人もいるのですが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、天の父なるみ神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前に今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間です。私たちもメシア・救世主が必要だろうか、なぜ必要だろうかと考えてみる期間です。

 

 ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えなければなりません。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。天使が羊飼いに知らせなかったら誰にも気づかれなかっただろうというものでした。次の再臨は、本日の福音書の個所やマタイとルカの個所でも言われるように、眩い程の神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。

 

 そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?イエス様は今度は赤ちゃんではなく、その時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうか判定する裁き主として来られるのです。

 

 天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約新約の両聖書を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されていると言ってよいでしょう。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、遠回りに聞こえるかもしれませんが、私たちの造り主である神について教えてくれる聖書を繙くのが手っ取り早いのです。

 

 このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。しかしながら、最後の審判は視点を変えると違って見えてくることも知らなければなりません。例えば、社会の中でいわれのない誤解や中傷を受けたとします。今のようなSNSが悪用される時代では名誉回復の可能性はどんどん難しくなっているような印象を受けます。それだけ悪い思いと力がITを駆使して巧妙、狡猾になっているからです。加害者なのに被害者を装ったり、被害者を加害者に仕立てるような倒錯がまかり通っています。残念なことに誤解を正すことや中傷からの名誉回復はますます至難の業になっているように思えます。しかし、たとえどんなに至難の業でも、聖書の神を信じる者にはまさに全知全能の神、真実や真相を全て把握している神がついていてくれます。その神が誤解や中傷を受けた人たちの名誉回復をどんなに遅くとも最終的に最後の審判で果たして下さいます。黙示録21章で神は全ての目から涙を拭い取られると言われる通りです。このように最後の審判の裁きというのは、人を有罪に定めるだけでなく、神が「お前は潔白であると私は認める」と言って無罪にすることも出来るのです。ところが、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っています。そんな人間が神から潔白だと言われることがあり得るでしょうか?

 

3.最後の審判はクリアーできる

 

 それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さいました。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けられて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命への道を人間に切り開いて下さいました。

 

 このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。先ほども申しましたように、どんな誤解や中傷を受けても、それは真実ではないと全てを知っている神がそばについていて下さいます。神はまた真実の側に立つ人間や天使も助っ人に送って下さいます。このように神と結びついている限り天涯孤独にはなりません。

 

 この世を去る時もキリスト信仰者は天涯孤独ではありません。その時も神との結びつきは途切れることなく保たれています。まず、復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠ることになります。そして、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会が待っている場所です。このように信仰と洗礼によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。

 

 ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ2128章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよ、と。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだ、と。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ823節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」ということで、肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ2128節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。

 

 そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。そのように神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者について回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?

 

 それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくことができます。

 

 このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していく時、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁き主の前でする申し開きは次のようになるでしょう。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれたときもありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。」これは誰も否定できない真実なので、裁き主は「間違いなくお前は罪を破綻させる側について生きた」と認めるでしょう。実に私たちがイエス様を自分の救い主にしている限りは、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで神の前で何も恐れる必要はないのです。

 

 本日のルカ2133節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が持つ言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が

管轄している言葉です。パウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しする聖書の言葉を持つ者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられます。聖書の言葉が滅ばないから、そうなるのです。

 

4.この世で倫理的に意味のある生き方ができる

 

 最後に、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてかと言うと、罪を圧し潰す生き方をする人は、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。

 

 このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることがあります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、とわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日です。

 

 イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気にかけることでしょうか?そんなことしていたらこの世で生活が出来なくなると言われてしまうでしょう。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返し人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取るということです。最後の審判のクリアーが視野に入っているので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ますことになっています。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、この世で倫理的に意味のある生き方をするということです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2021年11月22日月曜日

真理とは何か? (吉村博明)

 スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日

市ヶ谷教会(いずみ教会共同体講壇交換日礼拝)

 

ダニエル書7章9-10、13-14節

ヨハネの黙示録1章1b-8節

ヨハネによる福音書18章33-37節

 

説教題 「真理とは何か?」

 


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 真理とは何か?これは、本日の福音書の日課にあるイエス様とピラトの対話の終わりでピラトが口にした言葉です。38節です。本日の日課はその前の37節までなので、説教題にするのはどうかと思われる方もいるかもしれません。11月初めに浅野先生から今日の説教題何にしますかと聞かれて、電話口で慌てて聖書日課を見て、ああイエス様とピラトの対話か、じゃ「真理とは何か?」でいいやと思い、それでお願いしますと言ってしまいました。先週説教を準備し始めて、38節が入っていないことに気づき後の祭りでした。それでもイエス様自身37節で真理という言葉を口にします。これはきっとピラトだけでなく、この御言葉を聴く全ての人にとっても関心事になるだろうと、それでこの説教題で問題ないと思った次第です。

 

 真理とは何か?ごく一般的に言えば、それは時や場所を超えて普遍的に当てはまること普遍的に有効なこと、人間がどうあがいても変えられない、好むと好まざるにかかわらずその下で生きるしかない、そういう何か絶対的な法則というか有り様が真理です。光が1秒間に30万キロで進むというのは物理学上の真理です。三角形の内角の総和は180°というのは数学上の真理です。

 

 イエス様とピラトの対話の中で出てくる真理とは、そういう自然科学上の真理とは異なります。でも真理である以上は時や場所を超えて普遍的に有効な有り様について言われています。何のことでしょうか?イエス様は自分は王であると、しかもその国はこの世に属さない国だと言っています。そういう国があることとその国の王であることが真理に関係します。この世に属さない国とは、いうまでもなくイエス様が地上で一番よく教えた「神の国」のことです。ユダヤ民族に属さないピラトに神の国と言っても何のことかわからないので、それでその言葉は使わず「この世に属さない国」と言ったのです。

 

 神の国とイエス様がその王であることが真理に関係するのであれば、神の国とイエス様がその王であることがどういうことかわかると、イエス様の言われる真理もわかってきます。今日はこうしたことについてお話しします。今日の説教は二部構成になります。第一部では、イエス様とピラトの対話を歴史に忠実に見ていきます。何をするのかと言うと、二人の対話が記されているテキストを確実性の高い歴史的事実とかけ合わせて見るということです。第二部では、イエス様の言われる真理を聖書全体の観点から明らかにします。

 

2.歴史の中へ - イエス様とピラトの対話

 

 皆さんは、二人の対話を読んで、おやっと思ったことはありませんか?イエス様とピラトは何語で話をしていたのだろうと疑問に思ったことはありませんか?ピラトはローマ帝国から派遣された総督です。ローマの高官ということはラテン語か?じゃ、イエス様はラテン語を話したのか?イエス様は神の子だから、語学も奇跡の業であっという間にできたのだ、と言う人にはこの説教は意味がありません。聖書の神は具体的な歴史を通して自分の意思や計画を人間に示される方です。それなので、神の意思や計画を知ろうとするならば、歴史を飛躍せずにそれを足場にして知ろうとしなければなりません。

 

 福音書をよく見ると、イエス様はアラム語とギリシャ語のバイリンガルであることがわかります。アラム語というのは、文字はヘブライ語と同じですが文法や語彙はかなり違います。ユダヤ民族はもともとヘブライ語を話していましたが、バビロン捕囚で3世代くらい異国の地にいた時にその地のアラム語に同化してしまいます。エズラ-ネヘミア書をひも解くと祖国に帰還した民に指導者が律法を読んで聞かせそれを解説したとあります。ヘブライ語で読んでアラム語で解説したのです。イエス様の時代のシナゴーグの礼拝でも同じでした。専門家がヘブライ語で旧約聖書を朗読してそれをアラム語で解説したのです。ルカ4章でイエス様がナザレの会堂でイザヤ書の巻物を渡されて朗読し、会衆が彼の説き明かしを待ったことが記されています。その意味で彼はヘブライ語も出来たことになります。ただ、それは会話言葉ではありませんでした。

 

 イエス様がアラム語で話した肉声が福音書の中にあります。マルコ7章で耳が聞こえず舌が回らない人を癒す奇跡を行った時の言葉エッファタ、正確にはאפתהイップターです。おまじないの言葉と思う人もいるのですが、単にアラム語で、お前の閉じている部分は開かれよ、と言っているだけです。マルコ5章の会堂長の娘を生き返らせる奇跡を行った時の言葉タリタ、クム、少女よ、起きなさい、ですが、正確にはטליתא קומיテュリーター、クーミーです。そして有名な、イエス様が十字架の上で叫んだ言葉、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか?正確にはאלהי אלהי למא שבקתניエラヒー、エラヒー、レマー、シャバクタニーと言います。ご存じのように新約聖書はギリシャ語で書かれています。つまり、もともとアラム語だったイエス様の言葉はことごとくギリシャ語に翻訳されます。ただし、目撃者に強烈な印象を与えた言葉はギリシャ語に訳されずに音声のまま記されたのです。それが日本語訳の聖書ではカタカナになっているのです。私たちはイエス様の肉声と共に当時の人たちの驚きにも触れられるのです。

 

 イエス様がギリシャ語も出来たというのは、マルコ7章のシリア・フェニキア人の女性との会話から伺えます。ユダヤ人でない異邦人の女性です。ギリシャ語は当時地中世界の東側では公用語でしたから、アラム語が出来ない異邦人と話す場合はギリシャ語しかないでしょう。総督ピラトも任地が地中海東海岸であれば公用語のギリシャ語は必須だったでしょう。ギリシャ語が出来たからユダヤに送られたのかもしれません。そういうわけで今日の日課の二人の対話はギリシャ語でなされたと考えるのが妥当です。先に申したように、新約聖書はギリシャ語で書かれ、イエス様の言葉もギリシャ語に翻訳されていきました。そうすると今日の福音書のイエス様とピラトの対話はギリシャ語で書かれていても、これは翻訳されたのではない二人の生の会話のそのままの記録ということになります。ここでもイエス様の肉声に触れることができるのです。

 

 アラム語についてもう一言。本日の旧約の日課ダニエル7章もアラム語で書かれています。あれ、旧約聖書ってヘブライ語じゃないの、と思われるかもしれませんが、一部はアラム語で書かれています。ダニエル2章でバビロン王ネブカドネツァルが自分が見た夢の意味を賢者たちに説明させようとします。4節で「賢者たちは王にアラム語で答えた」とあり、そこまでヘブライ語だった文章はここでアラム語に転換します。ヘブライ語の知識しかない読者は文字は同じなのに全然理解できず面食らってしまいます。アラム語は7章の終わりまで続きます。本日の日課713節に出てくるあの有名な「人の子」もアラム語でבר אנשバル エナーシュと言います。これはもともとは単に人間を意味する言葉でした。それがダニエル書の預言で使われて以来、この世の終末の時に雲と共に現れて神から王権を与えられて神と共に裁きを行うという、終末の王という意味を持つようになります。イエス様がアラム語圏の世界で自分のことをバル エナシュであると呼び、将来自分は雲と共に再臨すると言った時、当時の人たちの驚きよう、特にユダヤ教社会の支配層の驚きはいかようだったか想像に難くありません。

 

3.歴史を超えて - 十字架と復活が真理をその通りであると公けにした

 

 ここでイエス様の言われる真理を見てみましょう。対話の終わりの方でイエス様は「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言います。「真理について証しする」という訳は少し頼りない訳です。「真理について証しする」と言うと、「真理がどういうものか公けにする」という意味になります。つまり、真理の内容を開示することです。イエス様の言いたいことはそれではありません。ギリシャ語の用法(dativus commodi)に忠実に訳すと「真理にとって利益となるように真理を公けにする」という意味です。つまり「真理がその通りであることを公けにする」ことです。イエス様の言いたいことは「私は真理がその通りであることを公けにするために生まれ、そのためにこの世に来た」です。真理の内容を開示するためでなく、真理がその通りであることを公けにするためです。イエス様が真理の内容は何も言わないで、真理がその通りであることを公けにするために来た、と言ったので、ピラトはじゃ真理とは何なのだ?と内容を聞き返したのです。それではイエス様の言われる真理とは何か?イエス様はどうやってそれがその通りだと公けにしたのでしょうか?これからそれを見ていきます。

 

 対話の中でイエス様はとても革命的なことを言われます。「私の国はこの世に属していない」という言葉です。原文を正確に訳すと「私の国はこの世に起源を持たない、この世に由来しない」です。革命という言葉は、1990年代に冷戦が終わってからあまり耳にしなくなりましたが、ある国の体制、統治の仕方が急激に別の体制に取って代わる変わられることを言います。そこでの国は皆、この世に起源を持ちこの世に属する国です。ところがイエス様の言われる国はこの世に起源を持たない、この世に属さない神の国です。そんな国が関わってくると通常の革命と全く異なる次元の大変動が起こるのです。通常の革命を超えた超革命と言ってもいいでしょう。

 

 どういうことかと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章で言われていることです。全ての被造物が激しく揺り動かされて取り除かれてしまう時が来る。その時、唯一揺り動かされないものとして神の国が現れるということです。まさに超革命の勝利者です。全ての被造物が揺り動かされて取り除かれるというのは、イザヤ書65章と66章で新しい天と地の創造について預言されています。その新しく創造される天と地の下に唯一の神の国が現れるのですが、その国に迎え入れられる者と迎え入れられない者の選別があることが先週の旧約の日課ダニエル書12章で言われていました。その選別は新約聖書では最後の審判としてイエス様や使徒たちがより明確に述べています。そう言うと、じゃ最後の審判というのは、その時点で生きている人たちが裁かれることでその前に死んでいれば関係ないのかと言われるかもしれません。しかし、先週のダニエル書12章では死者の復活の預言もありました。死者も審判にかけられるのです。そのことはキリスト教会の礼拝の信仰告白のところで私たちが唱える使徒信条やニケア信条の中で言われる通りです。再臨の主は生きている者と死んだ者とを裁かれるのです。

 

 本日のダニエル7章で先ほど見た「人の子」が神から王権を与えられ、神と共に審判を行うことが言われています。王であり裁きの主でもあるこの方は言うまでもなく再臨の主イエス・キリストです。そこで審判にあたって巻物が開かれると言います。「巻物」ספר’ןシフリーンというのは、辞書を見るとbook本、書物です。当時は本は基本的に巻物ですから、そう言っても間違った訳ではありません。ただ、素直に「書物」と訳すると旧約聖書と新約聖書の繋がりがより良く見えてきます。新旧聖書を通して神の手元に書物があることが言われます。命の書とも言われます。それが最後の審判の時に開かれることが黙示録で言われます。ダニエル書710節の「巻物」も同じです。この書物に記されているのは名前だけではありません。この世に存在した全ての人間、国籍・文化・宗教を問わず全ての人間について全てのことが記されています。他人のことばかりでなく自分自身のことでも気がつかないこと見えないこと全てが記され、それが神の国へ迎え入れていい者かよくない者かの根拠になっているのです。私たちが間違っていないと思っていたことでも全てを見ていた神の目から見て間違っていたということもあるのです。相手は私たちの髪の毛の数すらわかっている私たち人間の造り主です。何も隠し立てはできません。

 

 そうすると、自分は神の国に迎え入れられるのだろうかとすごく不安になります。そのような神の前に立たされた時、私は潔白ですと言えるだろうか?自信がなくなります。しかし、私たち人間を御国の御許に迎え入れてあげたいというのが、私たちの造り主である神の意思なのです。それだからひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。もし神が、神の意思に反する罪を持ってしまっている人間を片っ端から裁きたいだけだったら、ひとり子なんかわざわざ贈らなかったでしょう。逆に、もし罪を持っていてもそんなのどうでもいいよ、誰でも天国に入れてあげますよ、といういい加減な方だったら、そもそもひとり子を贈る理由なんかありません。神がイエス様を贈ったというのは、神が罪を罰せずにはおけない正義を体現する方であるということと、人間が神罰を受けないで御国に迎え入れられるようにしてあげようという愛をも体現する方であることを物語っているのです。神は愛と正義を両方兼ね備えた方なのです。

 

 イエス様は自分のことをこの世に起源を持たない神の国の王であると言われました。それは彼が神と共に審判を行い、神の国に迎え入れらえる者に復活の体を着せて迎え入れてあげる方ということです。復活の体についてはパウロが第一コリントの15章で詳しく述べています。イエス様が復活の日に死者を復活させて懐かしい人と再会させてくれることは、ヨハネ11章のマルタとの対話の中で述べています。

 

 新しい天地の下での神の国も、最後の審判も、復活も全て旧約聖書の中であちこちに断片的に知らされていました。しかし、旧約聖書自体を持たない異邦人のピラトには何のことか全くわからなかったでしょう。ところが旧約聖書を持っていた肝心のユダヤ民族もよくわかっていなかったのです。将来ダビデの家系から王が登場して神の力を受けて王国を建てるという預言が旧約聖書に見られますが、彼らにとってそれは、ローマ帝国の支配を打ち破ってかつての王国を復興させてくれるというような、この世に起源を持つこの世に属する国のことでした。それだから、ユダヤ教社会の指導層はイエス様のことでとても心配したのです。何が心配だったかというと、ローマ帝国に反乱の意図を疑われたら一巻の終わりだ、せっかく大きな神殿を持ててうまくやっているのに軍事介入など元も子もないと恐れたのです。それでイエス様を逮捕して総督のもとに引き出したのです。旧約聖書理解では民衆も指導者たちと同じ土俵に立っていました。彼らはイエス様に救国の英雄を期待しました。ところが彼が逮捕されて裁判にかけられると失望して背を向けてしまったのです。

 

 このように当時の人たちは旧約聖書を持ってはいても、視点は自民族中心でとても全世界的・全人類的とは言えませんでした。彼らは、今あるこの世を超えて次に到来する世というところにまで目が届いていなかったのです。旧約聖書の預言はそこまで踏み込んでいたにもかかわらず。それに気がつかなかったのは、ユダヤ民族が辿った歴史を考えればやむを得なかったのかもしれません。

 

 しかし、それだからこそ神はひとり子を贈って旧約聖書の正しい理解の仕方を教えさせたのでした。しかも、このひとり子は教えることだけに留まりませんでした。人間の歴史がこの神の計画の通りに進むようなことをしでかしたのです。もし、それをしなかったなら神の計画は実現しなかっただろうと言えるようなことをしでかしたのです。彼の十字架の死と死からの復活がそれです。

 

 イエス様の十字架と復活の出来事の後、人々の目が見開かれて旧約聖書を事後的に正確に理解できるようになったことが福音書の中に記されています。エマオの道で二人の弟子と復活の主との出会いは一つの例です。イエス様が神の想像を絶する力で復活させられたことで、彼が神の贈られしひとり子であることがわかるようになりました。そのひとり子ともあろう方が十字架にかけられて苦しみながら死ななければならなかったのは、これは、人間の罪を全て自ら背負い人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにする犠牲の業であることが明らかになりました。そのことも全て旧約聖書に預言されていたのです。神はひとり子を文字通り犠牲の生贄にして人間の罪の償いをさせたのです。神のひとり子の犠牲ですから、これ以上の犠牲はありません。まさに神聖な犠牲です。

 

 こうしたことが起きた以上は、今度は人間の方が、このようなことが歴史上起こったと知らされて、それは今の世を生きる自分のためになされたんだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様こそ真に自分の救い主だと信じて洗礼を受けます。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に覆いかぶさりその人は罪を償ってもらった人になります。罪を償ってもらったのだから、その人は神の目から見て罪を赦された者となります。罪を赦されたから神との強固な結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神はさらにイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開かれました。神との結びつきを持ってこの世を生きる者はその道を歩みます。その結びつきは順境の時も逆境の時も全く変わらずにある結びつきです。それなので常に神の守りと導きの中で歩むことが出来ます。たとえこの世から去ることになっても、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちの再会が待っているところです。

 

 イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることで、人間が神の国へ迎え入れられるようになるための道を用意して下さったのです。まさに十字架と復活の業が起こったことで、今の天と地に取って代わって新しい天と地が再創造されることや、そこに神の国が現れることや、最後の審判や死からの復活、神の国への迎え入れが起きるのです。これらのことがその通り起こるということが公けになったのです。イエス様を救い主と信じる者は、この真理の下に服してこの世を生き復活への道を進んでいます。しかし、世界にはこの真理に服さない人たちも沢山います。創造主の神の願いは、全ての人が今のこの世と次に到来する世の二つの世を生きる命を持てるようになることです。これ以上の救いはありません。だからイエス様の十字架と復活を宣べ伝え続けることは時代や国境を越えて普遍的に大事なのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

2021年11月15日月曜日

最後の審判の恐れを上回る勇気を持てたら この世もへっちゃらなのだ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教2021年11月14日 聖霊降臨後第25主日

スオミ教会

 

ダニエル書12章1-3節

ヘブライの信徒の手紙10章11-25節

マルコによる福音書13章1-8節

 

説教題 「最後の審判の恐れを上回る勇気を持てたら

この世もへっちゃらなのだ」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに - 最後の審判に心を向けよう!

 

 キリスト教会のカレンダーは聖霊降臨祭の後は聖霊降臨後第何主日と言って数え、次主日21日が今年の聖霊降臨後の最後の主日になります。28日からは待降節に変わりイエス様の降誕を祝うクリスマスの準備期間となります。

 

 毎年同じことの繰り返しですが、聖霊降臨後の季節も終わりに近づくと聖書の日課は最後の審判とか復活に関係するテーマが多くなります(考えてみたら本スオミ教会の説教は年がら年中そのテーマで話しているかもしれません)。北欧諸国のルター派教会では聖霊降臨後の最終主日は「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えて再臨する時に起こることです。私たちが礼拝の中で唱える使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」という最後の審判のことです。その時はまた、創造主の神が今ある天と地に代わって全く新しい天と地を創造するという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、審判の結果、神に義と認められた者は復活の体、神の栄光を映し出す朽ちない体を着せられて新しい天地のもとにある神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時点で生きている人と一緒に審判を受けるのです。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」のです。

 

 最後の審判がいつなのかは、マルコ13章の終わりの方でイエス様が言います。天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないと(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(3337節)。

 

 教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることは、最後の審判に今一度心を向けて、今自分は復活と永遠の命に至る道を歩んでいるのだろうかと自省する意味があります。これが心の準備をすることであり目を覚ますことです。しかしながら、最後の審判とか裁きとかいうのは、あまり景気のいい話ではありません。はっきり言って恐ろしいです。それででしょうか、「裁きの主日」を定めている肝心の北欧諸国をみても、自省なんかしないでさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人が大半ではないかと思います。しかし、忘れてはならない大事なことは、イエス・キリストの福音は、裁きの恐れを上回る勇気を与えてくれるということです。最後の審判は怖くないという勇気を与えられたら、今度は返す刀でこの世で怖いものもなくなります。理不尽な上司も権力者も脅しも祟りも誘惑もみんな空振り三振のバッターのようになります。イエス・キリストの福音とはそういう勇気を与えるものだということがわかるためにこそ、最後の審判に目を向けることは必要なのです。

 

2.マルコ13章のイエス様の預言について

 

 イエス・キリストの福音は最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれることを、今日の旧約の日課ダニエル12章と使徒書の日課ヘブライ10章をもとに見ていこうと思います。福音書の日課はどうしましょうか?マルコ13章の初めの部分ですが、福音の勇気を得るためにその部分だけでは少し足りないと思います。私としては13章全部を日課にしてほしかったです。そもそもマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれる、イエス様の預言の言葉です。預言の内容はとても複雑です。一方でイエス様の十字架と復活の後イスラエルの地で起こる直近の出来事の預言、他方ではもっと遠い将来全人類にかかわる出来事の預言、これら二つの異なる預言が入り交ざっています。それらを解きほぐすように読まなければなりません。それは容易ではありません。破茶滅茶な解釈が起きないように、かつ全てを昔の人のファンタジーと片付けてしまわないように熟達したバランス感覚が必要です(同じことは黙示録でも言えます)。

 

 マルコ13章を少しだけ見てみます。冒頭でイエス様は、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃が起きてその通りになりました。預言が気になった4人の弟子が、それはいつ起こるのか、その時どんな前兆があるのかと聞きます。それに対する答えとしてイエス様の詳しい預言が語られていきます。預言は語られるうちに、エルサレム神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。

 

 神殿破壊の前兆として、偽キリスト、戦争やその噂、地震、飢饉が起こると預言されます。西暦70年の前にこれらのことが実際に起こったことは歴史を細かく調べれば出てくると思います。一例として、14節の「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」というのを見てみます。これはダニエル書11章や12章の預言に出てくるものです。こういう歴史的事件がありました。イエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラがエルサレム神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちが必死の外交努力で撤回させたという事件がありました。しかし、これがきっかけとなってローマ帝国とユダヤ民族の相互不信が一気に高まってしまい、ついには西暦70年のエルサレム攻撃に至ってしまったのです。このように預言されたことは歴史的に突き止めることが可能です。

 

 319節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こるというあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていませんが、主がその期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである、と言うから凄まじいものです。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定したと言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、聖書の観点ではもちろんキリスト教徒ということになります。こう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まったと思われてしまうかもしれません。「選ばれた者」などと優越感に浸りやがって、と。ここで、キリスト教徒とはいかなる種族の者か考えてみましょう。まず、キリスト教徒とは洗礼を受けた者です。しかし、せっかく洗礼を受けても最後の審判の恐れを上回る勇気を得ていなかったら、この世で神以外のものを沢山恐れて生きていたことになります。それは、洗礼をただのアクセサリーにしてしまったことになります。アクセサリーでは最後の審判や天地の大変動の前に立ち往生してしまいます。洗礼から吹き付けてくる力をかわしたり逃げたりせず、それを全身全霊で受け止めて力を身につけないといけません。そうするキリスト教徒が「選ばれた者」なのです。詰まるところ、キリスト教徒とは最後の審判が怖くてビビっているから勇気をもらわないとダメな種族なのです。別に優越感になんか浸っていません。

 

 マルコ13章全体の詳しい説き明かしは別の機会に譲り、今日はダニエル12章とヘブライ10章をもとにイエス・キリストの福音が最後の審判の恐れを上回る勇気を与えることを見ていきましょう。

 

3.ダニエル書12章 - 最後の審判をクリアーする人たち

 

 先週の礼拝の説教で、キリスト信仰では死というのは復活までの眠りにしか過ぎず、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられるということを申しました。まさにキリスト信仰の死生観です。本日のダニエル書の日課はまさにその死生観をはっきり言い表しています。2節で「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」と、復活とはまさに死からの目覚めであることがはっきり言われています。

 

 2節ではまた、ある人たちは永遠の命に与り、別の人たちは永遠の恥と憎悪の的となると言われます。選別が行われるので最後の審判があることを示唆しています。永遠の恥と憎悪とは、創造主の神から見て恥ずべき者、神の憎悪を永遠に受けてしまう人たちのことです。恐ろしいことです。ひるがえって、永遠の命に与る人たちのことを3節で「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」と言っています。これらの人々が輝くというのは、使徒パウロが第一コリント15章で述べているように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられることを意味します。

 

 ここで、「目覚めた人たち」というのは正しい訳ではありません。「理解できる人たち」とか「見ることが出来る人たち」です(動詞שכלの動名詞形)。そう訳すとは、じゃ、理解できる人たちとは誰?ということを考えなければならなくなり話が難しくなります。それで、どうせ復活して目覚めさせられる人たちのことだから、目覚めた人でいいや、とやってしまったのではないかと思います。本当かどうかわかりませんが、もし本当なら情けない訳です。

 

 それでは「理解できる人たち」、「見ることが出来る人たち」は誰のことかわかるのかというと、これはダニエル書がどういう書物か考えればそんなに難しくはありません。ダニエル書というのは、神の秘められた計画を神の使者が人間に明らかにしてくれる事例集です。神の秘められた計画は人間の力では理解できず見えもしません。それで、神が遣わした者が人間に明らかにして理解できるようにしてくれる、見えるようにしてくれるのです。キリスト信仰の観点に立ってみると、理解できる人、見ることが出来る人というのは、イエス様のおかげで神の秘められた計画を理解できるようになった人、見ることが出来るようになった人のことです。その人たちが復活の体を着せられて永遠の命を持って生きることになるのです。最後の審判をクリアーしたのです。

 

 3節にはまた、最後の審判をクリアーする人たちとして「多くの者の救いとなった人々」というのもあります。これも原文を直訳すれば、「多くの人を神のみ前で無罪になるように導いてくれる人々」です。キリスト信仰の観点に立ってみれば、そういう導きをする人はイエス・キリストの福音を周囲に伝える人のことです。そして、福音を伝えられて受け入れた人は最後の審判で無罪扱いになる。これはまさに福音が福音である所以を言い表しているとても大事なことです。だから福音を伝えられて自分のものにすることが出来ると最後の審判の恐れを上回る勇気を得られるのです。このことを見ていきましょう。

 

4.福音と洗礼で最後の審判の恐れを上回る勇気を得よう!

 

 最後の審判の日、裁き主は一人一人を十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうか判断します。もし殺人姦淫その他行為によって人を傷つけた者は法律上の刑罰を受けたかどうか以上に問われることがあります。それは、神が与える罪の赦しを受け入れたかどうか、受け入れたらそれで神に背を向ける生き方をやめたかどうかが問われます。さらにイエス様は、行為に出さず法律上の問題にならなくても、心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに心の有り様まで問われたら、誰も神の前で、私は潔癖です、などと言えません。だから最後の審判は恐ろしいのです。

 

 しかしながら、神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことをご存じでした。堕罪の時から全て人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったので自分の力ではなれないのです。そこで神は、それならば私の力で適う者にしてあげよう、目に適う者になれて私と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて復活の体を着せて私の許に永遠に迎えてあげよう、そう決めてひとり子をこの世に送られたのです。そして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を負わせて、あたかも彼が全責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。自分のひとり子に人間の罪の償いを果たせたのです。しかも神はその後、想像を絶する力でイエス様を死から復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。この出来事の全容を知らせるのが福音です。

 

 あとは人間がこの福音の知らせを聞いて、イエス様の十字架と復活はまさに自分が神と結びつきを持ててこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにするためだったんだとわかって、それでその大役を引き受けたイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにできるのです。洗礼を受けるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを全身全霊に吹き付けられて償いに染められてしまうことです。罪を償ってもらったということは、神の目から見て罪を赦された者になったということです。

 

 神から罪を赦された者と見られるとどうなるのか?それは本日のヘブライ1117節で言われています。それはエレミヤ3134節の引用です。神はお前の罪を思い出さないと言われます。これが神の罪の赦しの本質です。罪を赦すと言うのは罪を許可することではありません。許可など断じて出来ないが、それで裁いてしまったらお前は永遠の恥と憎悪に投げ込まれてしまう。そうならないために、お前はこの世だけでなく次に到来する世も生きられる新しい命を得なければならない、そのために私はイエスを贈ったのだ。そのイエスをお前は救い主と信じ洗礼を受けて罪の償いを自分のものにしたのだ。だから、お前が犯した罪は、私はもうとやかく言わない。犯した事実は書き換えられないが、さもなかったかのようにする、だからお前は与えられた新しい命に相応しく生きよ。そう神はおっしゃられるのです。これが罪の赦しです。

 

 ところが、このように神の力によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながらも、実際にはこの世で生きる限り神の目に相応しくないことがどうしても起きてきてしまいます。行為に出さなくても心の中に現れてきてしまいます。どうしたらよいでしょうか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを願います。心に痛みを伴うかもしれませんが、神に背を向けずこのように神の方を向くことを怠らなければ神は約束通りイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうして復活と永遠の命に向かう道に留まりそれを歩み続けることが出来ます。このように罪の赦しを心の中に貫かせている人は十戒をもう体の外側に持っていません。心の中に持っています。まさにヘブライ1016節で引用されているエレミヤ3133節の御言葉、神は十戒を心に与え刻み付け給う、が実現しているのです。十戒を心の中にではなく外側に持っていたら外面的に守っていることで満足して心の有り様は問わなくなります。最後の審判では心の有り様まで問われるのです。

 

 やがてかの日が訪れ、神のみ前に立つことになる時、キリスト信仰者の申し開きはこうなります。確かに私には至らないことが沢山ありました。しかし、イエス様が果たしてくれた罪の償いにいつもしがみついて生きて参りました、いつもそこに戻るように生きてきました。それ以上のことはできませんでした。そう裁き主に言えばいいのです。神がそれで不十分と言うわけはありません。そんなことを言ったら、ひとり子の犠牲では不十分だったということになるからです。そんなことは絶対にあり得ません。ヘブライ1014節で言われるように、この方の唯一の犠牲によって罪を不問にしてもって罪から清められた者たちが完全な者、最後の審判をクリアーできる者にされたのです。この方の前にも後にもそのような犠牲はありません。この方のだけです。

 

 兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストの福音とはこのように最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれる知らせです。洗礼は私たちの人生をその勇気の中で生きる人生にするものです。最後の審判を恐れない心があるならば、この世で何か怖いものがあるでしょうか?理不尽な上司や権力者が怖い、脅しや祟りや誘惑が怖い、それで間違ったことを間違っていると言えなくなることがあります。しかし、よく考えてみて下さい。その怖いと言っているのは神ではないのです。日本語では神でないものを神と呼ぶことが多いので紛らわしいのですが、その恐れる人やものの正体は考えればわかります。その人やものがあなたを造って命と人生を与えたのですか?違うでしょう。その人やものはあなたがこの世から別れた後、あなたを復活させる力がありますか?ないでしょう。その人やものはあなたが言う通りにしないとあなたを地獄に落とすことが出来きますか?できません。その人たちこそ創造主の神の前で崩れ落ちる運命にあるのです。神を差し置いてそんな人たちを恐れるというのは話にならないとわかるでしょう。

 

 最後にもう一言。このように私たちがこの世で怖いものがなくなって間違っていることを間違っていると言えるようになった時、言い方にも注意しなければなりません。ローマ12章でパウロが教えるように、相手を自分より優れた者のように振る舞い、自分はヘリ下って、少なくとも自分の側からは平和を保つように話さなければなりません。パウロもルターも十戒の第4の掟に基づいて父母やこの世の権威には敬意を払わなければいけないと教えています。敬意を払いながら間違いは間違いと言うのです。この点は、熱くなりやすい性格の人は意識して振る舞わないといけないので訓練が必要でしょう。聖書にはそのための手引きが沢山あります。イエス様や使徒たちの教えがそれです。また実例集も豊富にあります。例えばヨセフやダニエルが理不尽な人たちに対してどう振る舞ったかを見るのは大いに参考になります。

 

 そういうわけで皆さん、これからも聖書をたくさん読んでいきましょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2021年11月8日月曜日

聖書は復活信仰で満ちている (吉村博明)

  

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2021年11月7日(全聖徒主日)スオミ教会

 

イザヤ書25章6-9節

ヨハネの黙示録21章1-6a

ヨハネによる福音書11章32-44節

 

説教題 「聖書は復活信仰で満ちている」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

(以下の1.は礼拝の導入部のところでお話しした部分です。内容的に説教の導入部になるので説教文に統合させました。ご了承ください。)

 

1. フィンランドの「全聖徒の日」について

 

 フィンランドでは11月の最初の土曜日は「全聖徒の日(Pyhien päivä)」という国の祝日です。キリスト教の伝統に基づく祝日です。キリスト教会では古くから111日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。ラテン語でFestum omnium sanctorumと言います。加えて112日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。これは、Commemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれます。フィンランドのルター派国教会では11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。今年は11月6日、昨日でした。

 

 その日フィンランド人は何をするかと言うと、大方は教会の墓地にロウソクを持って行って火を灯します。風で消えないようにガラスの瓶に入っているロウソクです。日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランドでも墓に花を飾るので、ああ、キリスト教徒も供え物をするんだな、と日本人は考えます。宗教は違っても人間の思いは同じなんだな、と。確かに表面上はそう見えますが、実はフィンランド人には「供える」という意識も感覚もありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、何かを唱えたり、または見えない誰かに何かを呟くこともしません。墓はあくまで家族の記念碑のようなものです。表面上の類似性の下には途方もない違いがあるのです。

 

 どうしてそうなのかについては後ほど本説教の中でお話しします。

「全聖徒の日」にフィンランド全国の教会墓地は全てと言っていいほど墓の前にロウソクが灯されます。白夜の季節が終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「白い衣を着けた大群衆」を思い起こさせます。これから歌います教会讃美歌496番「白雪おおえる」は、まさにその白く輝く大群衆について歌うものです。北欧ノルウェーの讃美歌で作曲家グリーグの編曲によるものです。

(教会讃美歌496番斉唱)

 

2.復活とは眠りからの目覚めである

 

 本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中でもシナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ71117節)の例は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。それじゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心細くなる人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。

 

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが先ほどの黙示録21章の中で言われるように、神に全て新しく造り直される時が来る。それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。

 

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは実は「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。使徒パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。ところが、イエス様が生き返らせた人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。加えて4日経ったとは言っても、実は3日だった可能性があります。というのは、当時の日数の数え方は出来事の最初の日も入れて数えるからです。イエス様は金曜日に十字架にかけられ日曜日に復活されたので私たちから見たら2日目ですが、聖書では3日目と言います。

 

 いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。

 

 本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を蘇生させる奇跡の業を行ったのか、それが復活信仰とどう関連するのかということを考えてみようと思います。

 

3.聖書は復活信仰で満ちている

 

 復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者たちは神の御許に迎え入れられます。その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天すなわち神の御許から神と共に下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。

 

 特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。キリスト教徒を冗談ではなく真面目にやっていたら、この世の不正や不正義を被るリスクが一気に高まります。創造主の神を唯一の神として祈り赦しを願い、神を大切なものとして礼拝など守っていたら、そうさせないようにする力が襲い掛かります。またイエス様やパウロが命じるように、害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、これらのことを行ったら、たちまち逆手に取られてどんどんつけ入れられます。

 

 しかし、創造主の神の御許に迎え入れられる日、この世で被った不正や不正義が大きければ大きいほど、清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。

 

 このため復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者たちはこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。これ以上の労いはありません。そこで本日の旧約の日課イザヤ書256節でも祝宴のことが言われています。この節はヘブライ語の原文で読むと韻を踏んでいる詩的な文章です(新共同訳では「酒」が提供されると言っていますが、ヘブライ語原文を見ると「ぶどう酒」です。取り違えてはいけません。こういう訳をするから大酒飲みの牧師が出てくるのです)。

 

 これは一見すると何の祝宴かわかりません。歴史的背景を考えて理解しようとすると、ユダヤ民族を虐げた国々が滅ぼされて、その後で催される勝利の祝宴を意味すると考えられるかもしれません。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、これは復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いないでしょう。

 

 そのように理解すると難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?と誰もが思うでしょう。頑張って理解しようとする人は想像力を駆使して自分なりの結論を見つけるでしょう。しかし、聖書は神の言葉です。自分の想像力にぴったりな意味が神の言わんとしていることだなどという思い込みは捨てなければなりません。そういうわけで、自分の思いは脇に置いて神が言わんとしていることに迫ってみましょう。

 

 7節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそう言えるのかというと、詩篇13913節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסךが使われているのに、新共同訳では「組み立てられる」に変えられてしまいました。イザヤ書257節でも同じ動詞(נסךが使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。

 

 人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩でしょう。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の幕屋が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに神からの幕屋が復活の日に現れることが今日の黙示録の日課の中ではっきり言われるのです。21章3節です。ギリシャ語原文をパウロの意図を汲んで訳すとこうなります。「見よ、神の幕屋が人々と共にある、神は人々の上に幕屋を張り共に住まわる。」つまり、復活の体を纏わらせてもらった人たちが神の御許に迎え入れられたということです。

 

 ここで余談ですが、なぜヘブライ語の原文ではこのように復活について言われているのに、翻訳ではそれが見えにくくなるように訳されてしまうかということについて。これは、旧約聖書を翻訳する人が、たとえ復活信仰を持つキリスト信仰者であっても、同時に聖書の学会の学説に縛られる研究者でもあるということによります。学会の定説では、復活信仰というのは紀元前2世紀頃に現れた思想ということになります。そうなると、それ以前からある旧約聖書の書物の中で復活を言っているように見える個所は実は復活信仰を言い表しているのではない、例えばユダヤ民族の復興を比喩的に言っているということになります。今ある天と地に代わって新しい天と地が創造される時に起きる、そういう全人類な出来事を言っているのではないのだと。それで、旧約聖書の中で復活を言っているように見える個所に出くわしても、復活を出さないように訳してしまうのです。

 

 ところが、パウロもペトロもヨハネも各々の手紙や使徒言行録の中で言っていることを見ると、みんな旧約聖書のそういう個所をことごとく復活を意味していると言うのです。現代の聖書の学者たちが見たら歴史認識が欠如していると呆れかえるでしょう。ところがイエス様も同罪なのです。イエス様は復活なんかないと主張するサドカイ派の人たちに対して、いや復活はある、その証拠に神はモーセに「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言ったではないか、と出エジプト記36節を根拠に掲げたのです。これは紀元前2世紀どころではない、かなり太古の時代の話です。

 

 こういうふうに旧約聖書から復活信仰をくみ取るというのは、イエス様と使徒たちがとったアプローチ法です。私たちが手にする翻訳からでは見えてこないことを、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語の原文を前にしてイエス様と使徒たちと同じ観点に立って見るといろんなことが見えてきます。人間の想像力など用いなくても神が言わんとすることに迫ることができるのです。学会の学説は一つの見識として片耳に挟む程度にして、私としては、これからもキリストと使徒の観点と原文を手掛かりにしてみ言葉の説き明かしに努めていきたく思います。そうやって説教を準備するといつも何か新しい発見があります。それで説教の業においては私もまだまだ発展途上なのです。

 

4.復活信仰の確認

 

 話が横道にそれました。イエス様が死んだ人たちを生き返らせる奇跡を行ったことが復活信仰とどう関連するか見ていきましょう。

 

 そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に信じる者を復活させ永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。実に興味深い答えです。というのは、マルタはメシアについて当時一般的だった考え方、ユダヤ民族を他民族の支配から解放する英雄の王がメシアという考え方ではなかったからです。マルタがメシアを復活や永遠の命を人間に与える全人類的な救世主と捉えていたことを伺わせる答えでした。

 

 マルタの答えで興味深いことがもう一つあります。それは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではこの動詞の意味は「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」という意味です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということなのです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。私たちにとっても大事なことです。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えだ、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。

 

しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。それでは、どうしたら復活があると信じることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子のイエス様を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。聖書の観点に立ってみると、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということが見えてきます。そうした罪は人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

 

神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからは神からの罪の赦しのお恵みの中で生きるこということです。頂いたお恵みに心と人生を方向づけられて歩んでいくことになります。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずその中に留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。

 

マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになっていました。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。

 

ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。これが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 

それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 

このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン