説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教2021年10月31日 聖霊降臨後第31主日
申命記6章1-9節
ヘブライの信徒への手紙9章11-14節
マルコによる福音書12章28-34節
説教題 「神への愛、隣人への愛、自分自身への愛」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
律法学者がイエス様に聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。
律法学者というのはユダヤ教社会の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。神の掟とは、まず私たちが手にする旧約聖書の中にモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒があります。その他にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。これだけでもずいぶんな量なのに、この他にも文書化されずに口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派というグループはこれらも文書化された掟同様に守るべきと主張していました。
これだけ膨大な量の掟があると、信仰生活や社会生活の中で解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用したらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題が頻繁に起きたでしょう。そればかりか、膨大な掟に埋もれていくうちに、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きました。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実でした。現代というのは創造主の神など持ち出さなくていいという時代ですが、こういう問いかけは自分の生き方の方向を考え直す時に大事な視点になるのではないかと思います。
2.最も重要な掟
イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。本日の旧約の日課、申命記6章からの引用でした。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様はそれに続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。これはレビ記19章18節からの引用でした。イエス様は実に旧約聖書の上に立っているのです。
さて、二番目だから少し重要度が低いかというと、そういうわけでもなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟ということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。
この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。皆様もご存知のように十戒の初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。
このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということに行きつく。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということに行きつくというのです。
さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿に参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者がこの真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」
これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、そうではありませんでした。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」。「神の国に入れた」とは言っていないのがミソです。「神の国に入れる」というのはどういうことでしょうか?それは、人間がこの世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体という朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。そのようにして、今のこの世の人生と次に到来する新しい世の人生の二つを合わせたとてつもなく大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらを土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。
それでは人間はどうすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それを次に見てみましょう。
3.神を全身全霊で愛する愛
まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきます。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、ひとり子イエス様をこの世に送られた父なる神。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?
その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても「唯一の主」として保たれるように心や力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないことです。嬉しい時にはこの神に感謝し、苦しい時にはこの神に助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないということです。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったり言葉にした時は、すぐこの神に赦しを願うことです。こうしたことが神を唯一の主として保つことです。
実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然に備わっていません。私たちに備わっているのは、神の意思に反しようとする罪です。それでは、どうしたら神への愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで持てます。それを知れば知るほど神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが残念なことに、人間が悪魔に隙を見せてしまったために神の意思に反しようとする罪が備わってしまいました。それで最初にあった神との結びつきは失われてしまったのです。しかし、神は失われた結びつきを人間に取り戻して人間が自分との結びつきを持って生きられるようにしようと決意されました。まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして本当なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を切り開かれました。そこで人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しを受け取ることになります。神から罪の赦しを受けたことになるので、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に自分の造り主のもとに迎え入れられるのです。
このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかると、この神にのみ願いをかけ祈るようになり、この神にのみ自分の運命を委ねるようになり、この神にのみ感謝し助けを求めるようになり、この神にのみ赦しを願うようになるのです。まさに神を全身全霊で愛するようになるのです。
4.隣人を自分を愛するが如く愛する愛、自分自身を愛する愛
次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?
隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべます。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできます。そのことは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたように、神への全身全霊の愛の上に立っているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。仮に創造主の神は唯一なんかではない、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。
イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っていることです。自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないのです。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。
イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がつかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の誰かが良からぬことをしたり迫害することも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者は愛さなければならないとはどういうことなのでしょうか?
イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と教えました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったら、彼らは一気に滅びてしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が神に背を向けた生き方を方向転換して神のもとに立ち返ることを望んでいて、それを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わるのを待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。
ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配状態から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて罪の赦しというお恵みを受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられます。一体全体、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。
このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかをわかればわかるほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心になります。その神が実は敵や反対者に対しても罪の赦しというお恵みをどうぞ受け取りなさいと差し出しているのです。それがわかると敵や反対者というものは神のお恵みを受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになり、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。
こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかります。神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった、神はそれくらい私のことを愛するに値する者として扱って下さっている、それなので私はこの神の愛に留まり、これから離れたり外れたりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことです。神の愛が自分に注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人が既にキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中に留まれるように助けてあげることです。
このように、神を全身全霊で愛する愛、隣人を自分を愛するがごとく愛する愛、自分自身を愛する愛、これらの愛は、神がひとり子を用いて私たち人間に大いなる救いをもたらして下さったという愛があってこそ起こってくる愛です。そして、その神の愛の中に留まり続けることで強まっていく愛です。このことに立ってヨハネの次の言葉を心に刻んでおきましょう。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、
わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(第一ヨハネ4章10~11節)
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン