主日礼拝説教2021年11月28日 待降節第一主日
スオミ教会
エレミヤ書33章14節-16節
テサロニケの信徒への第一の手紙3章9-13節
ルカによる福音書21章25-36節
説教題 「主の降誕と再臨の間で」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。
今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、今日初めて聞く方もいらっしゃるのでお話ししますと、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。今年は、一旦おさまっていたコロナがまた拡大してしまったので、今日の教会の人の入りはどうなるでしょうか?スオミ教会のホームページにエスポ―大聖堂の6年前のホサナ斉唱のビデオを紹介していますので、ご覧になれる方は雰囲気を味わってみて下さい。
さて、スオミ教会のホサナですが、昨年から日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年はマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。今日のルカ21章も同じ内容です。説教者としてちょっと戸惑います。以前ですと、聖霊降臨後の終わりの頃はイエス様の終末の預言や最後の審判に関するものが中心で、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わってイエス様の降誕に目が向くという流れになったものです。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマで続けなければならないというのは気が重くなります。パイヴィも、ホサナの日だからフィンランドと同じ聖書日課にしたら?などと言って、私も迷いました。しかし、やはり「郷に入っては郷に従え」だろうと思い、定められた日課に従うことにしました。
2.主の再臨は待ち望むことができる
でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると思う人もいるのですが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、天の父なるみ神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前に今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間です。私たちもメシア・救世主が必要だろうか、なぜ必要だろうかと考えてみる期間です。
ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えなければなりません。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。天使が羊飼いに知らせなかったら誰にも気づかれなかっただろうというものでした。次の再臨は、本日の福音書の個所やマタイとルカの個所でも言われるように、眩い程の神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。
そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?イエス様は今度は赤ちゃんではなく、その時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうか判定する裁き主として来られるのです。
天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約新約の両聖書を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されていると言ってよいでしょう。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、遠回りに聞こえるかもしれませんが、私たちの造り主である神について教えてくれる聖書を繙くのが手っ取り早いのです。
このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。しかしながら、最後の審判は視点を変えると違って見えてくることも知らなければなりません。例えば、社会の中でいわれのない誤解や中傷を受けたとします。今のようなSNSが悪用される時代では名誉回復の可能性はどんどん難しくなっているような印象を受けます。それだけ悪い思いと力がITを駆使して巧妙、狡猾になっているからです。加害者なのに被害者を装ったり、被害者を加害者に仕立てるような倒錯がまかり通っています。残念なことに誤解を正すことや中傷からの名誉回復はますます至難の業になっているように思えます。しかし、たとえどんなに至難の業でも、聖書の神を信じる者にはまさに全知全能の神、真実や真相を全て把握している神がついていてくれます。その神が誤解や中傷を受けた人たちの名誉回復をどんなに遅くとも最終的に最後の審判で果たして下さいます。黙示録21章で神は全ての目から涙を拭い取られると言われる通りです。このように最後の審判の裁きというのは、人を有罪に定めるだけでなく、神が「お前は潔白であると私は認める」と言って無罪にすることも出来るのです。ところが、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っています。そんな人間が神から潔白だと言われることがあり得るでしょうか?
3.最後の審判はクリアーできる
それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さいました。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けられて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命への道を人間に切り開いて下さいました。
このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。先ほども申しましたように、どんな誤解や中傷を受けても、それは真実ではないと全てを知っている神がそばについていて下さいます。神はまた真実の側に立つ人間や天使も助っ人に送って下さいます。このように神と結びついている限り天涯孤独にはなりません。
この世を去る時もキリスト信仰者は天涯孤独ではありません。その時も神との結びつきは途切れることなく保たれています。まず、復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠ることになります。そして、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会が待っている場所です。このように信仰と洗礼によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。
ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ21章28章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよ、と。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだ、と。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ8章23節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」ということで、肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ21章28節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。
そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。そのように神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者について回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?
それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくことができます。
このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していく時、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁き主の前でする申し開きは次のようになるでしょう。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれたときもありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。」これは誰も否定できない真実なので、裁き主は「間違いなくお前は罪を破綻させる側について生きた」と認めるでしょう。実に私たちがイエス様を自分の救い主にしている限りは、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで神の前で何も恐れる必要はないのです。
本日のルカ21章33節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が持つ言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が
管轄している言葉です。パウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しする聖書の言葉を持つ者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられます。聖書の言葉が滅ばないから、そうなるのです。
4.この世で倫理的に意味のある生き方ができる
最後に、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてかと言うと、罪を圧し潰す生き方をする人は、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。
このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることがあります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、とわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日です。
イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気にかけることでしょうか?そんなことしていたらこの世で生活が出来なくなると言われてしまうでしょう。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返し人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取るということです。最後の審判のクリアーが視野に入っているので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ますことになっています。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、この世で倫理的に意味のある生き方をするということです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン