2014年4月25日金曜日

復活の体 (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年4月20日 復活祭

使徒言行録10章39-43節
コロサイの信徒への手紙3章1-4節
ヨハネによる福音書20章1-18節

説教題 「復活の体」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 十字架に掛けられて苦痛と激痛の中で息を引き取られたイエス様は、三日目に死者の中から復活されました。復活とは何なのでしょうか?それは、単に息を引き取った人が息を吹き返すということなのでしょうか?一度死んだと見なされた人が生き返ると、その時までの状態は仮死状態と見なされます。実用日本語表現辞典によりますと、仮死状態とは「呼吸や心拍の一方または両方が停止し、意識もなく、外見死んだかのように見えるが、自然にまたは適切な処置により蘇生する余地のある状態」とありました。キリスト信仰の復活とは、仮死状態から生き返ることとは全く違います。仮死状態からの生き返りでは、肉体がまだちゃんと残っていることが前提となります。肉体が腐敗してしまったり燃やされて灰になってしまったら、蘇生などもう不可能です。しかし、キリスト信仰の復活とは、蘇生が完全に不可能になった時とか、さらには肉体自体が消滅してしまった後に起きる生き返りなのです。つまり、復活した者は、今この世で持っているのとは全く別の体を持って生きることになるのです。この復活の体について、使徒パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」の中で次のように詩的に表現しています。

「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(154243節)。

今この世で私たちが有しているこの体は朽ちるもの、それゆえ卑しく弱いものであるが、復活すると朽ちない体、輝かしく力強い体を持つことになる、とパウロは教えます。本日の使徒書簡である「コロサイの信徒への手紙」の箇所でパウロが「あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」と言っているのは、復活して神の国に迎えられる者は神の栄光を体現するような体を持っているということです。イエス様自身もかつて、復活について教えられました。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と述べています(マルコ1225節)。

キリスト信仰の復活という信仰の形はとても特殊なもので、なかなか理解されにくいものです。本教会の説教や聖書の学びでも、その都度教えてきたところですが、理解を助ける上で重要な点をいくつかまとめておきますと、まず、復活とは将来のいつの日にか起きる出来事であるということ。復活の日というのは、聖書によれば、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる天変地異の大変動の日であること。今ある天と地がなくなってしまうので、今のこの世の終わりの日でもあるということ。その時、神の国が目に見える形で現れ、創造主である神の意思に適う者がそこに迎え入れられる。その関係で最後の審判というものが起こる。その時点で生きている人たちは復活の体と命に変えられるが、既に死んでいて跡形もなくなっている人たちは復活の体と命を与えられる。大体以上のようなものです。

これらから明らかなことは、キリスト信仰者であるかないかにかかわらず広く共有されている考えですが、人は死んだらすぐ羽が生えて天使のようになって天国に行って、そこから地上にいる私たちを見守っているということはないということであります。キリスト信仰にあっては、人は死んだら、ルターも教えているように、また教会讃美歌366番「愛の泉」の4節と5節でも歌われているように、将来の復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているのであります。眠っているだけだから、お腹が空いたり喉が渇くこともないし見守りもしません。こう言うと、大抵の日本人はギョッとしてしまうでしょう。というのは、亡くなった人の霊とか魂が見守ってくれているから今の自分があると考える人が多いからです。しかし、キリスト信仰では、私たちを見守るのは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える創造主の神しかいないのです。この父と子と聖霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て造られたものにしかすぎず、神は、造り主こそが見守り主であることを忘れるなと言っているのであります。

2.

 以上、復活というキリスト信仰の特殊な信仰の形について駆け足で見てみました。本日の福音書の箇所に戻りましょう。イエス様は死から三日目に復活されましたが、この場合、まだ肉体はちゃんと残っており、復活というよりは、仮死状態からの生き返りではないかという疑いが出るかもしれません。そうなると、イエス様は、神の栄光を体現する朽ちない復活の体を持っていなかったことになります。三日ではまだ日が浅すぎるでしょうか?

イエス様は仮死状態と言うには程遠い位に本当に死んでいました。ヨハネ福音書19章に記されていますが、まず兵隊たちが、イエス様が死んでいるのを確認しました(33節)。さらに、それでも不足と言わんばかりにイエス様のわき腹を槍で貫き刺しました(34節)。このことを書き記したヨハネ自身が、自分は目撃した通りのことを書いている、これはこの通り真実であると強調します(35節)。肉体は腐敗したり灰にされなかったけれども、イエス様の肉体は蘇生の可能性がないくらい完膚なきまで死んでいたのでした。

 それでは復活したイエス様は、私たちがこの世で有する体と異なる体を持っていたのでしょうか?ルカ24章やヨハネ20章を見ると、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それで、その体はもう今私たちが有している体とは全く異なるものです。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象があります。それは、復活したイエス様は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か特別なことがある。死ぬ前のイエス様と何かが違うが、何がどう違うかということについては、自由な空間移動ができるようになったことと、一目ではすぐ確認できないということ以外は、聖書には具体的に記されていません。それなので、ここではこれ以上のことは言えません。いずれにしても、復活後のイエス様の体は死ぬ前の体とは全く異なるものであるということは明らかでしょう。

2.

復活したイエス様の体がどのようなものであったかについて、本日の福音書の箇所にはもう一つ興味深い出来事が記されています。それは、イエス様がマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われたことです。後ろに立っていた人がイエス様だと分かった時、マリアはイエス様にすがりつきました。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。それに対してイエス様が「すがりつくな」と言ったことになっています。ところが、この「私にすがりつくな」と言っているギリシャ語の元の文μη μου απτουは、「私に触れるな」と訳すことも可能なのです。実際に、ドイツ語のルター訳の聖書を見ると、「私に触れるな!Rühre mich nicht an!と訳されています。スウェーデンのルター派教会が用いている聖書も同じです(Rör inte vid mig)。フィンランドのルター派国教会が用いている聖書も「私に触れるな」です(Älä koske minuun)。それでは、私たちの新共同訳が間違っているかと言うと、そうでもなく、英語のNIV訳をみると、Do not hold on to meなので、「私にすがりつくな」です。ドイツ語のルター訳とは別のEinheitsübersetzung訳をみると、Halte mich nicht fest「私にすがりつくな」です。さて、足にしがみついているマリアに対してイエス様は、「私にすがりつくな」と言っているのでしょうか?「私に触れるな」と言っているのでしょうか?

この問題の解決には、イエス様の次の言葉が鍵となります。「まだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、マリアに対して、自分にすがりつくな、ないしは、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。父なるみ神のもとに上げられていないことが、どうしてすがりつくこと、ないし触れることの禁止の理由になるのか、わかりにくく感じられますが、次のように考えればよいでしょう。復活したイエス様は、この世の我々が有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ存在となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。しかし、自分は存在的には天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

神の神聖さを欠いた被造物である人間が神聖さそのものである神と接触するということは危険なことであるということが、聖書には記されています。例えば、出エジプト記2章で、モーセが燃える柴に近づこうとした時、神は、近づくな、お前の立っている所は神聖な土地だから汚い履物は脱いであがれ、と命じます(5節)。イザヤ書6章で、預言者イザヤがエルサレムの神殿で神を目にしてしまい絶望の声をあげます。ああ、この目で神を見てしまった自分は呪われてしまえ!なぜなら、自分は汚れた唇を持つ者であり、汚れた唇を持つ民の中で暮らす者だからだ。そのような汚れた存在である自分が神聖な神を目にしてしまったのだ。その直後に神の御使いが神殿の祭壇から燃え盛る炭火を取って、イザヤの唇に塗りつけます。イザヤは火傷一つ負わず、お前は罪の汚れから清められたと宣言されます。このように神聖さというものはそうでないものを焼き尽くす力を持っているのであります。罪の汚れを持つ人間が不用心にも神聖な神の前に立つならば、焼き尽くされてしまう危険があるのです。十戒をはじめとする掟を直接神から授かったモーセは、近くに来てもよいと神に認められた稀なケースです。しかし、彼が神と対峙したシナイ山の山頂から降りてくると、彼の顔の肌は光を放っていて覆いをかけなければならなかったほどでした(出エジプト342935節)。これなど、神聖な神がどれだけ栄光を放っていたかを示すものでしょう。

神の神聖さというものがこのようなものだとすると、神のもとにいて当然な復活の体というものも、同じ神聖さを備えていると言うことができます。そうなると、イエス様がマリアに言った言葉は「すがりつくな」ではなく、「触れるな」が正しい、ということになります。ここで、ルターの訳やスウェーデンやフィンランドの訳に軍配があがるかと思いきや、実はこれもそう単純ではないのです。他の訳が「触れるな」ではなく、「すがりつくな」と訳しているのには理由があります。ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と命じます(39節)。また、再来週の福音書の箇所であるヨハネ2027節で、目で見ないと主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスに対して、イエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。そうなると、なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになってしまい、本日の箇所を「触れるな」と訳したら矛盾が生じてしまいます。それで、「すがりつくな」という訳にしたのだと考えられます。しかし、ここは福音書の原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」とイエス様が命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατεβαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου 現在形の命令)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶が原因の接触禁止ということなのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。もちろん、このことをしっかり踏まえていれば「すがりつくな」と訳してもいいのですが、ただそれでは、うっとうしいからすがりつくな、とか、もういい加減早く歩き出したいから、すがりつきをやめろ、と言っているように受け取られてしまいます。そういうことではないのです。

3.

復活したイエス様は神聖な復活の体をもって、もうすぐにでも天の父なるみ神のもとに戻らなければならない。罪の汚れを持つがゆえに神聖さを欠いている人間は、イエス様に触れることも許されず、彼が天に上げられてこの地上から去って行くことを見守るしかない。それで全ては終わりなのでしょうか?復活とは、もともと神のもとにいて神聖な存在であったイエス様が、わざわざこの世に人間の体を持ってやって来て、十字架の上で完膚なきまで死んで、復活してまたもとの神聖さを回復して天の父なるみ神のもとに戻る、そういうサイクルの一循環なのでしょうか?復活とは、イエス様がもとに戻ってめでたし、めでたし、というハッピーエンドなのでしょうか?

いいえ、復活はイエス様自身のためのハッピーエンドでは全くありません。復活とは実は、私たち人間がハッピーエンドを持てるために起きた出来事なのです。このことがわかるためには、復活の前に起きた十字架の出来事をふり返ってみなければなりません。十字架の出来事があったがために復活の出来事も起きた以上、十字架の出来事がなければ復活の出来事もなかった以上、両者はあわせてみなければなりません。別々にしてはいけません。

先週の主日礼拝でも、この間の聖金曜日礼拝の説教でもことさら強調しましたが、十字架に掛けられたイエス様というのは、神の人間救済計画が実現したことを示しています。神の人間救済計画とは、かつて失われてしまった神と人間の結びつきを今一度回復させようとする神の計画です。人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られたものですが、それが堕罪の出来事のゆえに死ぬ存在になってしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」の中で教えているように、死とは罪の報酬であります(623節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教では、いつも罪が強調されるので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる。悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのであります。

さて、罪が人間に入り込んでしまったために、人間は死すべき存在になってしまいました。神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまったのです。しかし、神は、身から出た錆だ、もう勝手にするがいい、と見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようにしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を請け負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしたのであります。人間は、このことがまさに自分のために行われたのだと分かって、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いをそのまま受け取ることが出来るのです。この時、神の罪の赦しがその人に対して効力を発揮し始めます。こうしてイエス様の犠牲の死に免じて罪を赦された人は、神との結びつきが回復した者となって、この世の人生を歩み始めることとなります。神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むとは具体的にはどういうことか?それに答えを与えるのが、イエス様の死からの復活でありました。

一度死んだイエス様を復活させることで神は、旧約聖書に預言されている復活の命が実在することを、まだ復活の日が来ていない段階で、示したのであります。従って、イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩むようになるというのは、復活の命に至る道に置かれて歩むようになったということであります。これが、神はイエス様の復活によって人間に復活の命への扉を開かれた、と言われるゆえんです。こうして神との結びつきの中で生きることとなった者は、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得てこの世の人生を歩むようになります。万が一この世から死ぬことになっても、まず復活の日までは、神の知る所にて安らかに眠り、復活の日が来ると、神の御許に引き上げられて、復活の命と体を与えられて、永遠に自分の造り主のもとにいることができるのであります。

以上、イエス様の十字架の死と死からの復活というものは、イエス様自身の体験のために起きたのではなく、私たちが生まれ変わって新しい命を持てるために起きたということが明らかになったと思います。そういうわけで、兄弟姉妹の皆様、私たちのためにイエス様を送られてこのような計り知れないことをして下さった天の父なるみ神は、誉め讃えても誉め讃えし尽くすことはなく、感謝しても感謝し尽くすことはない方であるということを忘れないようにしましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2014年4月22日火曜日

イエス様が十字架で成し遂げたこと (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)


スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2014年4月18日 聖金曜日

イザヤ書52章13節-53章12節
ヘブライの信徒への手紙4章14節-5章10節
ヨハネによる福音書19章17-30節

説教題 「イエス様が十字架で成し遂げたこと」




私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の木材を自ら運ばされることになり、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで無残な釘打ちが始ったのでした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。

イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられました。人間の痛み苦しみに全く無関心な兵隊たちは、処刑された者が息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。イスラエルの解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、かつて付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。

息を引き取る寸前、イエス様は「成し遂げられた」と一言を述べます。そして、息を引き取りました。とても象徴的な言葉です。もともとはアラム語で述べられた言葉だったでしょうが、ヨハネ福音書が書かれたギリシャ語では、テテレスタイτετελεσθαι、「完了した」とか「完結した」とか終わりを告げるという意味です。これまでプロセスにあったことが完了、完結したということなので、「成し遂げられた」と訳しても問題ないでしょう。それでは、イエス様が十字架で死ぬということは、何が「成し遂げられた」ことになるのでしょうか?

この福音書を書いたヨハネはイエス様の母マリアとともに十字架の近くに立って一部始終を目撃した人です(2124節)。彼はこの時のイエス様の気持ちを読み取って、こう書いています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」(28節)。ヨハネは、イエス様がすべてのことが成し遂げられのを知ったのだ、と書きました。ところで、イエス様が「渇く」と言われたことが旧約聖書の預言が実現するというのは、詩篇6922節に次にように記されていることによります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇く私に酢を飲ませようとします」(他に632節も)。しかしながら、イエス様の受難と死によって実現した旧約聖書の言葉とは、このことだけに限りません。本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所は、イエス様の受難と死の出来事だけでなく、その目的についてもかなり詳しく預言しています。この預言の言葉が紀元前700年代に由来するのか500年代に由来するかについては、聖書の専門家の間で議論がされるところではありますが、いずれにしてもイエス様の時代の数百年前に彼の受難と死について見事に言い表していることは否定できないのであります。以下、イザヤ書5213節から5312節までの箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。

イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。どうしてこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わたのであり、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのであります。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった。

以上から、イエス様が私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たちに人間に一体、何が神に対して落ち度があったというのか?「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申し上げますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、以下に見ていきましょう。

人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていた行為をしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいと傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのであります。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。

ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦された者となれる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は立てたのです。

それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてイエス様に白羽の矢が当たったのでした。

ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録も生まれず、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからです。

さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じることになります。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのであります。

以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。

このようなわけで、十字架に掛けられたイエス様というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力も粉砕されてしまったのです。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。あと、人間の方ですることと言えば、この救いの実現が、起きた時から2000年たった現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けた者は、この救いを所有する者となります。こうしてその人は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、すぐ御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにいることができるようになります。神がイエス様を用いて整えた救いは、全ての人間にどうぞと提供されていますが、救いはこれを受け取った者に効力を発するのであります。

2.

終わりに、このイエス様が最後に述べた言葉「成し遂げられた」について、一つ不思議なことをお話しします。初めにも申しましたように、ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσθαιと書かれています。イエス様はこの言葉を口にした時はもちろんギリシャ語のではなく、アラム語の言葉でした。それがどんな言葉なのかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の言行録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのであります。このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も効力を持っている、現在も成し遂げられた状態にある」という意味です(ギリシャ語の現在完了形による)。つまり、「成し遂げられた」とは、神の救いの計画がイエス様の十字架の時に完了してそれで全てが終わったと言うだけでなく、ヨハネが何十年後にこれを書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いている、さらに彼の書物を手にして読む者にとっても、「成し遂げられた状態」が続いている、という意味であります。この翻訳は、真に的確であり、父なるみ神の意思に適うものです。なぜなら、神の意思は、彼の手で造られた人間の誰もが、御自分の完成した救いを受け取ってほしいというものであり、これは2000年前も今も変わらないからであります。神の救いは、現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮そのものなのであります。従って、ゴルガタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、目指すべき目的地であります。また、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取っている者にとっては、それは、絶えず立ち返るべき原点なのであります。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン