説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
スオミ・キリスト教会
主日礼拝説教 2014年4月18日 聖金曜日
イザヤ書52章13節-53章12節
ヘブライの信徒への手紙4章14節-5章10節
ヨハネによる福音書19章17-30節
説教題 「イエス様が十字架で成し遂げたこと」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は、当時最も残酷な処刑方法の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の面前に晒すというものでした。イエス様は、十字架に掛けられる前に既に、ローマ帝国軍の兵隊たちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十字架の木材を自ら運ばされることになり、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担いで歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで無残な釘打ちが始ったのでした。この一連の出来事は、一般に言う「受難」という短い言葉では言い尽くせない多くの苦痛や激痛で満ちています。
イエス様の両脇には二人の本当の犯罪人が十字架に掛けられました。人間の痛み苦しみに全く無関心な兵隊たちは、処刑された者が息を引き取るのを待っています。こともあろうに、彼らはイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始めました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどの者はイエス様に嘲笑を浴びせかけました。イスラエルの解放者のように振る舞いながら、なんだあのざまは、なんという期待外れな男だったか、と。群衆の中には、かつて付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。これらが、苦痛と激痛の中でイエス様がかすれていく意識の中で目にした光景でした。
息を引き取る寸前、イエス様は「成し遂げられた」と一言を述べます。そして、息を引き取りました。とても象徴的な言葉です。もともとはアラム語で述べられた言葉だったでしょうが、ヨハネ福音書が書かれたギリシャ語では、テテレスタイτετελεσθαι、「完了した」とか「完結した」とか終わりを告げるという意味です。これまでプロセスにあったことが完了、完結したということなので、「成し遂げられた」と訳しても問題ないでしょう。それでは、イエス様が十字架で死ぬということは、何が「成し遂げられた」ことになるのでしょうか?
この福音書を書いたヨハネはイエス様の母マリアとともに十字架の近くに立って一部始終を目撃した人です(21章24節)。彼はこの時のイエス様の気持ちを読み取って、こう書いています。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」(28節)。ヨハネは、イエス様がすべてのことが成し遂げられのを知ったのだ、と書きました。ところで、イエス様が「渇く」と言われたことが旧約聖書の預言が実現するというのは、詩篇69篇22節に次にように記されていることによります。「人はわたしに苦いものを食べさせようとし渇く私に酢を飲ませようとします」(他に63篇2節も)。しかしながら、イエス様の受難と死によって実現した旧約聖書の言葉とは、このことだけに限りません。本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書の箇所は、イエス様の受難と死の出来事だけでなく、その目的についてもかなり詳しく預言しています。この預言の言葉が紀元前700年代に由来するのか500年代に由来するかについては、聖書の専門家の間で議論がされるところではありますが、いずれにしてもイエス様の時代の数百年前に彼の受難と死について見事に言い表していることは否定できないのであります。以下、イザヤ書52章13節から53章12節までの箇所から、イエス様の受難と死の目的がなんであったかを見てみましょう。
イエス様が「担ったのはわたしたちの病」であり、「彼が負ったのはわたしたちの痛み」でした。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のため」でした。どうしてこのようなことが起きたかと言うと、それは、イエス様の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ」るためでした。神は、私たち人間の罪をすべて彼に負わたのであり、人間の神に対する背きのゆえに、イエス様は神の手にかかり、命ある者の地から断たれたのであります。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかった。それなのに、その墓は神に逆らう者と共にされた。苦しむイエス様を打ち砕こうと主である神は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。神の僕であるイエス様は、「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」。イエス様は、自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたが、実は、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのであった。
以上から、イエス様が私たち人間のかわりに神から罰を受けて、苦しみ死んだことが明らかになります。それではなぜイエス様はそのような身代わりの死を遂げなければならなかったのか?私たちに人間に一体、何が神に対して落ち度があったというのか?「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」と言うが、私たちのどこが正しくないというのか?余計なお世話ではないか?また、イエス様の受けた傷によって、私たちが癒されるというのは、私たちが何か特別な病気を持っているということなのか?それは一体どんな病気なのか?いろんな疑問が生じてきます。結論から申し上げますと、聖書は、私たち人間が天と地と人間を造られた神の前に正しい者ではありえず、落ち度だらけの者であると明らかにしています。しかも、イエス様の犠牲がなければ癒されない病気があるということも明らかにしています。どういうことか、以下に見ていきましょう。
人間はもともとは神聖な神の意思に沿う良いものとして神の手で造られました。しかし、創世記3章にあるように、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、禁じられていた行為をしてしまう。このように、造り主である神と張り合いたいと傲慢さをもったことが、人間が神に対して不従順となり、人間内部に罪が入り込む原因となったのであります。この結果、人間は死ぬ存在となってしまいました。こうして、人間と造り主である神との結びつきが壊れてしまいました。神との平和な関係が失われてしまったのであります。しかし、神は、人間に対して、身から出た錆だ、勝手にしろ、と冷たく見捨てることはせず、正反対に、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えたのであります。
ところが、人間と神の結びつきを回復出来るためには、人間を縛りつけて死ぬ存在にしている罪の力を無力にして、人間を罪の奴隷状態から解放しなければならない。しかし、罪を内在化させている人間は、自分の力で罪を除去することはできず、罪の支配力を無力化する力もない。そこで、神が編み出した解決策は次の如くでした。誰かに人間の罪を全部請け負ってもらい、その者を諸悪の根源にして、人間の全ての罪の罰を全部受けさせる。償いは全部済んだと言える位に罰をその者に下し尽くす。そして人間は、この身代わりの犠牲を本当だと信じる時に、文字通りこの犠牲に免じて罪を赦された者となれる。そのようにして、神との結びつきを回復することが出来る。このような解決策を神は立てたのです。
それでは、誰がこの身代わりの犠牲を引き受けるのか?一人の人間に内在している罪はその人を死なせるに十分な力がある。それゆえ、人間の誰かに全ての人間の罪を請け負わせること自体は不可能である。自分の分さえ背負いきれないのだから。そうなれば、罪の重荷を持たない、神のひとり子しか適役はいない。それで、この重い役目を引き受ける者としてイエス様に白羽の矢が当たったのでした。
ところで、この身代わりの犠牲の役目は、人間の具体的な歴史状況の中で実行されなければならない。そうしないと、目撃者も証言者も記録も生まれず、同時代の人々も後世の人々も神の救いの業を信じる手がかりがなくなってしまうからです。
さて、神のひとり子が人間の歴史状況に入って行くというのは、彼が人間の形を取るということになります。いくら、罪を持たない者とはいえ、人間の体と心を持てば、痛みも苦しみも人間と同じように感じることになります。しかし、彼が全ての人間の罪を請け負い、罰を受けなければ、人間は神との結びつきを回復するチャンスを持てないのであります。
以上のように、神のひとり子であるイエス様は、おとめマリアから肉体を受けて人となって、天の父なるみ神のもとから人間の具体的な歴史状況のなかに飛び込んできました。時は約2千年前、場所は現在パレスチナと呼ばれる地域、そして同地域に住むユダヤ民族がローマ帝国の支配に服しているという歴史状況の中でした。ところで、他でもないこのユダヤ民族が、天地創造の神の意思を記した神聖な書物、旧約聖書を託されていました。この神聖な書物の趣旨は全人類の救いということでしたが、ユダヤ民族は長い歴史の経験から、書物の趣旨を自民族の解放という利害関心に結びつけて考えていました。まさにそのような時、イエス様が歴史の舞台に登場し、神の意思について正しく教え始めました。また、無数の奇跡の業を行って、世の終わりに出現する神の国がどんな世界であるか、その一端を人々に垣間見せました。イエス様の活動は、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの反発を生み出し、それがやがて彼の十字架刑をもたらしてしまうこととなりました。しかし、まさにそれが起こったおかげで、神のひとり子が全ての人間の罪を請け負ってその罰を全て身代わりに引き受けることが具体的な形を取ったのでした。
このようなわけで、十字架に掛けられたイエス様というのは、神が人間との結びつきを回復しようとした計画が成就したことを示しているのです。私たちに向けられるべき神の怒りや罰は全てイエス様に投げつけられました。また、人間を死ぬ存在に陥れていた罪は、これも神がイエス様ともども刺し貫いてしまったので、人間を牛耳る力も粉砕されてしまったのです。このようにして、神の人間救済計画はひとり子イエス様を用いて実現されました。あと、人間の方ですることと言えば、この救いの実現が、起きた時から2000年たった現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けた者は、この救いを所有する者となります。こうしてその人は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩み始め、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと助けを得られるようになり、万が一この世から死んでも、すぐ御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにいることができるようになります。神がイエス様を用いて整えた救いは、全ての人間にどうぞと提供されていますが、救いはこれを受け取った者に効力を発するのであります。
2.
終わりに、このイエス様が最後に述べた言葉「成し遂げられた」について、一つ不思議なことをお話しします。初めにも申しましたように、ギリシャ語で書かれたヨハネ福音書ではこの言葉はテテレスタイτετελεσθαιと書かれています。イエス様はこの言葉を口にした時はもちろんギリシャ語のではなく、アラム語の言葉でした。それがどんな言葉なのかは記録がないのでわかりません。アラム語の言葉を十字架の近くにいて耳で聞いたヨハネが後に、イエス様の言行録をギリシャ語で書いた時に翻訳したのであります。このギリシャ語の言葉の正確な意味は、「かつて成し遂げられたことが現在も効力を持っている、現在も成し遂げられた状態にある」という意味です(ギリシャ語の現在完了形による)。つまり、「成し遂げられた」とは、神の救いの計画がイエス様の十字架の時に完了してそれで全てが終わったと言うだけでなく、ヨハネが何十年後にこれを書いている時にも「成し遂げられた」状態が続いている、さらに彼の書物を手にして読む者にとっても、「成し遂げられた状態」が続いている、という意味であります。この翻訳は、真に的確であり、父なるみ神の意思に適うものです。なぜなら、神の意思は、彼の手で造られた人間の誰もが、御自分の完成した救いを受け取ってほしいというものであり、これは2000年前も今も変わらないからであります。神の救いは、現在も「成し遂げられた状態」にあるのです。今も新鮮そのものなのであります。従って、ゴルガタの十字架上のイエス様というのは、まだ救いを受け取っていない人たちにとっては、目指すべき目的地であります。また、イエス様を自分の救い主と信じて既に救いを受け取っている者にとっては、それは、絶えず立ち返るべき原点なのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン