2022年12月29日木曜日

キリスト教徒は光を目指す (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

主日礼拝説教 2022年12月25日降誕祭

スオミ・キリスト教会

 

イザヤ書52章7-10節

ヘブライの信徒への手紙1章1-12節

ヨハネによる福音書1章1-14節

 

説教題 「キリスト教徒は光を目指す」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.天地創造の前からいた神のひとり子

 

 はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の11節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところです。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にあります。父、御子、御霊の三位一体を構成する神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味ではイエス様誕生の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者ヨハネがイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括して、その結論を冒頭に述べているわけです。

 

「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記11節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注1)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いて、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。

 

 この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」という名前を付けられるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に贈られてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地が創造されて時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られたのでした。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。

 

 それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子は人間の肉体を持ってこの世に生まれ出る前は一体どんな風だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味を持っています。紙に書き記して文字になる「言葉」や、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を背後で司っている力というか頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語で「世界理性」と訳されたりします。

 

 ただ、こういう森羅万象を背後で司るロゴスというのは古代ギリシャの哲学の話です。ユダヤ教キリスト教とは何の縁もゆかりもない、人間の頭で考えて生み出された概念です。翻って、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにする、それを人間はただ受け取るという立場です。生み出す大元はあくまで神という立場です。哲学では、生み出す大元は人間の頭です。

 

 一見すると、ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様のことを、森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたように見えます。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいてイエス様を捉えたのです。そこで、このとてつもないお方を、ギリシャ語の世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。

 

 では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の82231節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたと言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありません。ヨハネ13節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記13節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的に「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せるのです。

 

 このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。興味深いことにイエス様は地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ1149節、マタイ1119節にあります(後注2イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来た者であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。

 

2.ことばは肉となったが神の栄光を映し出していた

 

 父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、父なるみ神のもとから人間のいるこの世に贈られてきました。人間の女性マリアから肉体を持つ人間として生まれました。ただ、聖霊の力が働いたため処女から生まれたという生まれ方をしました。なぜ神のひとり子はこのような仕方でこの世に贈られたのでしょうか?そもそも、なぜ神のひとり子はこの世に贈られなければならなかったのでしょうか?天の父なるみ神のもとで神の栄光に包まれてのんびりしていればよかったのに。

 

 それは、天地創造の後に堕罪の出来事が起きて、人間が神の意志に反する性向、罪を持つようになってしまったためでした。そのために人間と神の結びつきが失われて、人間は神との結びつきがないままこの世を生きることになり、この世を去った後も結びつきがないまま、神のもとに戻って生きることができなくなってしまいました。そこで神は人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるように、この世の人生を終えた後は復活の日に復活させて永遠に自分のもとに迎え入れることができるように、それでひとり子をこの世に贈ったのです。ひとり子を贈って何をさせたかというと、人間の罪を全部引き受けさせて人間に代わって神罰を受けさせて人間が受けないで済むように代わりに全ての罪を神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。今から2000年位前の世界の中で起こった出来事です。

 

 なぜ神はこの大役を他の誰でもなくご自分のひとり子に担わせたのでしょうか?それは、人間の全ての罪を全部引き受けて未来永劫に神に対して償うことが出来るためには、神のひとり子が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。どうせ神なんだからと、受けた罰が痛くもかゆくもなかったら話になりません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。自分の分が精一杯で、しかも受けたらそれで滅んで終わってしまい新しい出発も何もありません。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に引き受けさせることにしたのです。通常の生殖作用を通してではなく聖霊の力で処女から生まれさせたので神聖さを持っています。神聖な神のひとり子の犠牲なので犠牲としてはこれ以上のものはありません。また、人間の肉体を持っているので人間として神罰を受けられます。これが、神聖な神のひとり子が人間の姿かたちを持って生まれたことの意味です。まさに、ヨハネ福音書114節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。聖書の神の本質について大いなる真理がここにあります。まさにキリスト信仰の核がここにあります。

 

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(114節)。

 

「わたしたちの間に宿られた」と言いますが、「私たちと共に生き生活した」と言った方がはっきりします。当時の人々はイエス様を通して天地創造の神の知恵と力を見ました。神の栄光を見たのです。正確には垣間見たのです。罪ある人間は神の栄光を直視することはできないからです。神の栄光は被造物の太陽の光よりも強い光です。イエス様がそのような栄光を現わした出来事もありました。現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山と推定される高い山の上でした。さらに弟子たちをはじめ大勢の人たちが死から復活したイエス様を目撃しました。復活の主を通して神の栄光を垣間見たのです。私たちが神の栄光を直視できる日がやがて来ます。それが復活の日です。その日、復活させられる者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は罪を償ってもらい神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、結びつきを持ってこの世から別れ、神と結びついた者として復活の日を迎えることになります。

 

3.永遠の命に導く光

 

 ヨハネ14節と5節をみると、命と光と闇について言われています。「命」は、ヨハネ福音書ではたいてい、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神のことばなるお方は乙女マリアから生まれる前に永遠の命がある方だったと。永遠の命は「人間の光」であったと(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文では「照らす」とは言っていません。ただの「人間の光」です。「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」、イエス様そのものです。

 

 どうして「人間を照らす」と訳したかと言うと、9節に「全ての人を照らす」と言っているので、そうしたのではないかと思います。ここで「人を照らす」とはどういうことかに注意します。これは人間に光を照射するような照明器具のような意味ではありません。フォティゾーというギリシャ語の言葉は、見えない状態を光の力で見える状態にするという意味があります。神との結びつきを失い罪を持つ状態に甘んじて生き神の愛も恵みも見えない状態の人間が見えるようになるという意味です。キリスト信仰者はそのような光を持っているのです。ヨハネ812節でイエス様が言われる通りです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」先ほど申しましたように、ヨハネ福音書では「命」は「永遠の命」を意味するので、「命の光」は「永遠の命に導く光」です。

 

 さらに5節を見ると、「人間の光」つまり「永遠の命に導く光」が闇の中で輝いていると言います。闇とは、神と人間の結びつきを失わせ人間が永遠の命を持てないようにしようとする力が働いているこの世のことです。その中で輝く光とはその反対の力、神との結びつきを人間に持たせて強めてあげようとする力です。まさにイエス様のことです。

 

 5節はさらに「暗闇は光を理解しなかった」と言います。これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞カタランバノーが元にあり、訳仕方がわかれるところです。前にもお話したことがありますが、この個所は他の国の言葉ではどう訳されているか見てみました。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は、日本語と同じで「暗闇は光を理解しなかった」です。前にも言ったことがありますが、原文がどう訳されているかいろいろ比べてみると、日本語と英語の聖書が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とルターのドイツ語が一致するということが多いです。それで、聖書の翻訳には日米同盟と欧州連合の対決があるようだなどと言ったことがありますが、よく考えるとそういうことではないことがわかりました。フィンランド語とスウェーデン語の訳というのはそれぞれの国のルター派教会が訳したものです。それに対して、日本語と英語の聖書はキリスト教のいろんな教派が合同で訳したものです。それなので、ルター派以外の考えも反映されてくるのではないかと思います。(とは言っても、スウェーデンの最新訳はルター派の伝統から離れてしまったところがあるので、ルター派の考えが反映されていると言えなくなってしまいました。)

 

 話が横道にそれましたが、「暗闇は光を理解しなかった」がいいのか「支配下に置けなかった」がいいのか。どっちでしょうか?一つの考え方として、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。それで日本語や英語のように訳していいかもしれません。しかし、悪魔は人間を罪の支配下に置こうとして人間から神との結びつきを失わせようとしても、その企みはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。

 

 イエス様は人間のための光、これがあるおかげで暗闇の中でも消えない光を私たちは持つことが出来ます。肉眼の目では見えないけれども心の目でいつも見ることが出来る光です。それは私たちがいつも見続けることができるようにと消えることなく絶えず輝いています。しかし、光の方はこのように輝き続けているのに私たちの方でそれを見失うことがあります。自分の内に神の意志に反する罪があることに気づいて神との結びつきが大丈夫かどうか不安になる時がそうです。また、どうしようもない困難や苦難に陥って神との結びつきがあるなどと思えなくなってしまう時がそうです。

 

 しかし、私たちキリスト信仰者は聖書を繙くたびに、み言葉に聞くたびに光は消えていないこと、光は輝き続けていることを確認できます。そして罪の赦しの祈りと赦しの宣言を受けることで神との結びつきには何の変更もないことを確信できます。さらに聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受けることで神の方で結びつきを維持して下さっていることを知ることが出来ます。何があっても神との結びつきは失われないのです。それがわかれば目はまた開き光が見えます。永遠の命に導く光です。

 

 このように、人間のための光は私たちの方で見えなくなる時があっても、それは光の方が消えたのではなく、私たちの目が見えなくなっただけのことです。再び光が見えるように、そのために聖書の御言葉と聖餐が与えられているのです。御言葉と聖餐を唯一の確かな手掛かりにして神のもとに立ち返ることで光はまた見えるようになります。キリスト信仰者は光を目指して進むのです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(後注1)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομηνεγενηθηνにすべきでしょう。


(後注2もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。

 

2022年12月27日火曜日

神ともにませば激動恐れるに足らず (吉村博明)

  

降誕祭前夜礼拝説教 2022年12月24日

スオミ・キリスト教会

 

ルカ2章1-20節

 

説教題 「神ともにませば激動恐れるに足らず」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

1.今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれ、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

 

ところでフィンランドでは、ちゃんと教会に通う家族なら、クリスマス・イブの晩は御馳走が並ぶテーブルに家族全員がついて、まず家族の誰かが「クリスマス福音」を朗読するのをみんなで聞いて、それから食べ始めたものです。我が家はそうしていますが、現在教会離れが急速に進むフィンランドで果たしてどのくらいの家庭がこの伝統を続けているでしょうか?

 

御馳走を頂く前に「クリスマス福音」を読み聞かるというのは、誰のおかげでこのようなお祝いが出来るのか、そもそもクリスマスとは誰の栄誉を称えるお祝いなのかをはっきりさせます。それは言うまでもなく、今から約2000年前に起きたイエス・キリストの誕生を記念するお祝いです。そのイエス様を私たち人間に贈って下さった天地創造の神の栄誉を称えるお祝いです。それでは、どうしてそんな昔の遥か遠い国で生まれた人物のことでお祝いをするのか?それは聖書に従えば、彼が天地創造の神のひとり子でありながら、全ての人間の救い主となるべく天上の神のもとからこの地上に送られて、マリアを通して人間として生まれたからです。話が昔の遠い国の人たちだけでなく、国と時代を超えて現代の日本に生きる私たちにとっても救い主となるために生まれたからです。そのような方のために祝われるお祝いなので、御馳走の前にお祝いするわけを思い返すためにクリスマス福音の読み聞かせをするのです。そして、イエス様を贈って下さった神に感謝して御馳走を頂きます。神がそんな贈り物をして下さったからには、私たちもそれにならって誰かに何かプレゼンする。また、神がひとり子を贈って下さったのは、国と時代を超えて全ての人間一人ひとりのことを気に留めて下さっているからです。それで私たちもカードに「良いクリスマスと新年を迎えて下さい」と書いて、あなたのこと忘れていませんよ、と伝える。そういうのが、本来の趣旨にそうクリスマスの祝い方です。もちろん、教会の礼拝に行って、神に賛美の歌を歌い、聖書の朗読と説教者のメッセージに耳を傾け、神に祈りを捧げることも忘れてはいけません。ちょうど今しているようにです。

 

近年はどこでも、クリスマスのお祝いの栄誉を称える面がどんどん脇に追いやられて、お楽しみの面が肥大化する傾向があります。そちらの方がお祝いの目的になっているのがほとんどかもしれません。しかし、いくらそういうふうになっていっても、イエス様の誕生がなかったらクリスマス自体も存在しなかったという事実は誰も否定することは出来ません。

 

2.「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。真っ暗な夜に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。電気や照明などありません。空に輝く無数の星と地上の一つの小さなたき火が頼りの明かりです。そこに突然、神の栄光を受けて輝く天使が現われ、闇が一気に光に変わる。天使が救い主の誕生を告げ、それに続いて、さらに多くの天使たちが現れて一斉に神を賛美し、その声は天空に響き渡る。簡潔で詩のような賛美の言葉は次のことを言っていました。「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」

 

賛美し終えた天使たちは姿を消し、あたりはまた闇に覆われる。しかし、羊飼いたちの心には何かともし火が灯されていました。もう外側の暗闇は目に入りません。彼らは何も躊躇せず何も疑わず、生まれたばかりの救い主を見つけようとベツレヘムに向かいました。そして、一つの馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つけます。

 

この話を聞いた人は、闇を光に変える神の栄光、天使の告げ知らせと賛美の合唱、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

 

3.ところが、この「クリスマス福音」はよく注意して読むと、そんな淡い甘い期待を踏みにじるような非情さがあることに気づかされます。それは、その当時の政治状況がこの出来事の上に重い暗い影を落としているということです。人の人生や運命は権力を持つ者が牛耳ってもてあそび、普通の人はそれに対して何もなしえないということです。民主主義の時代になっても権力に抑制を効かせることはなかなか難しいのに、ましては民主主義のない昔だったらなおさらです。権力の言われるままになり、もてあそばれてしまいます。そういうことを「クリスマス福音」は明らかにしているのです。

 

それがわかるために、ヨセフとマリアはなぜ自分たちが住むナザレの町でイエス様を出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのかを考えてみるとよいでしょう。答えはクリスマス福音書から明らかです。ローマ帝国の初代皇帝(在位紀元前27年から紀元14年)アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。出産間近のマリアを連れて行くのはリスクを伴うものでしたが、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったと思われます。皇帝のお触れが出たということで大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

 

やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはまた不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフは宿屋の主人に必死にお願いしたことでしょう。馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろ、と。生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれていました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷いたでしょう。以上がイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた真相です。

 

子供向けの絵本聖書を見ると、この場面の挿絵は大抵、嬉しそうにすやすや眠る赤ちゃんを幸せそうに見つめるマリアとヨセフがいて、その周りをロバや馬や牛たちが可愛らしく微笑み顔で見つめているというものです。羊飼いたちも馬小屋の近くまで来ています。東の国の博士たちももうすぐ貢物を持ってやってきます。ああ、なんとロマンチックな場面なんだろう!でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋か家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、妻の実家が酪農をやっているので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので、全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に包まれていた方、そして全ての人間の救い主になる方はこの地上に贈られた時、こういう不潔で不衛生きわまりない環境の中で、まさに辱められたような状態で人間としてお生まれになったのでした。

 

このようにイエス様の誕生の出来事は実はロマンチックなおとぎ話なんかではないのです。クリスマス福音書に書いてあることを注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に影響力を行使する者たちがいて、人々の人生や運命を牛耳ってもてあそんだことに翻弄されたことだったのです。

 

4.しかしながら、聖書を本当に読み込める人はこれよりももっと深く広い視点を持って読むことが出来ます。どんな視点かと言うと、普通の人の上に影響力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に影響力を行使する方がおられるという視点です。その上の上におられる方がその下にいる影響力の行使者の運命を牛耳っているという視点です。この究極の影響力の行使者こそ、天地創造の神、天の父なるみ神です。神は既に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であり、処女から生まれることも全て前もって宣言していました。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、この約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません。神はその当時存在していたいろんな要素を自分で組み合わせて、約束実現の条件を自分で整備したのかもしれません。いずれにしても、この世の影響力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を牛耳ってやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らを目的達成の道具か小細工にしていたのです。

 

人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ影響力行使者に引きずり回されもてあそばれたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。引きずりまわされるとか、もてあそばれるとかいうことは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。そういうわけで、イエス様誕生にまつわる惨めさは、実は神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の影響力行使者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の影響力行使者たちの上に立つ立場にあったのです。

 

実は私たちもまた、マリアとヨセフと同じように、究極の影響力行使者の神がついて神に一緒に歩んでもらえる者になることが出来ます。どういうふうにして出来るかと言うと、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることによってです。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、彼が十字架の死を引き受けることで私たちの罪を全て神に対して償って下さったからです。それに加えて、死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神の愛する子となり神の守りと導きの中で生きることになります。究極の影響力行使者の神が共におられる者になるので、この世の影響力行使者たちの上に立つ立場になります。しかしながら、この世の影響力行使者はローマの皇帝のような目に見える具体的な行使者だけではありません。使徒パウロが教えるように、影響力行使者には目には見えない霊的なものもあります。それらは、人間が罪の償いがされない状態に留まることを望んで、人間と神との間を引き裂こうと躍起になるものです。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、彼がして下さった罪の償いを自分の内に取り込んでしまったので、見えない影響力行使者はもう何もなしえません。

 

そのように神の愛する子となり神が共におられる人は、目に見える影響力行使者と目に見えない行使者双方の上に立つ者となります。それなので、人間的な目では惨めな状態にあっても、心が騒いだり慌てふためくことはありません。なぜならそのような者の目は遮られないので、この世の影響力行使者の上に本物の影響力行使者をいつも見ることができます。この世の影響力行使者と戦争状態にあっても、究極の影響力行使者とは永遠の平和があります。それでキリスト信仰者の心は人間の理解を超えた平安を持てるのです。世界で一番最初のクリスマスの夜に神を賛美した天使たちの言葉は信仰者にとって真理です。

 

「神は天上で永遠の栄光に満ちておられる。神の御心に適う人たちは地上で神と平和な関係に入れる。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

 

2022年12月5日月曜日

神への立ち返りに相応しい実を結べ (吉村博明)

  

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)


主日礼拝説教 2022年12月4日待降節第2主日

スオミ・キリスト教会

 

イザヤ書11章1-10節

ローマの信徒への手紙15章4-13節

マタイによる福音書3章1-12節

 

説教題 「神への立ち返りに相応しい実を結べ」


 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.洗礼者ヨハネのスローガン その1「悔い改めよ」

 

 本日の福音書の日課の箇所は洗礼者ヨハネの活動開始についてです。これは旧約の日課イザヤ書11章と使徒書の日課ローマ15章と結びつけて見ると内容がとても深くなります。限られた時間で全部をお話しすることはできませんが、特に今日大事と思われることをお話ししようと思います。

 

 洗礼者ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのだから」(マタイ32節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年です。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その年を数え入れて15年目なのかどうかは定かではありませんが、いずれにしても西暦28年か29年の出来事です。このように洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。

 

 洗礼者ヨハネのスローガンには二つのことがありました。一つは「悔い改めなさい」、もう一つは、悔い改めなければならない理由として「天の国が近づいたのだから」でした。まず「悔い改め」とはどういうことか見ていきます。「悔い改め」と聞くと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、もとのギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)にはもっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改める、生き方を方向転換して神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。それなので、この説教ではこれからは「悔い改め」という言い方はしないで、「神のもとに立ち返る」という言い方をしますのでご了承ください。

 

2.洗礼者ヨハネのスローガン その2「神の国が近づいたのだから」

 

 次に悔い改めなければならない理由としてある「天の国が近づいたのだから」を見ていきます。「天の国が近づいた」ということは何のことでしょうか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が「天国」と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地のいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

 

 「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国でしょうか?「ヘブライ人への手紙」12章に次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされないものとして現れるのが「神の国」です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時、神の国が見える形で現れることが預言されています。

 

 このようにキリスト信仰はこの世には終わりがあるという立場をとります。しかし、終わっても終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が到来する、それで今のは終わるということです。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。この壮大な天地大変動の時にイエス様が再臨して審判を執り行うのです。イエス様が行う審判のことが今日の洗礼者ヨハネの言葉、麦の殻は永久に消えない火に投げ込まれるという言い方で言われています。これとは逆に神の国に迎え入れられる者はパウロが第一コリント15章で言うように「復活の体」という創造主の神の栄光を映し出す体を与えられて迎え入れられます。黙示録214節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。

 

 この将来到来する神の国と審判を行う者については今日の旧約の日課イザヤ11章でも預言されています。どのように預言されているか見てみましょう。

 

 まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡したことを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒廃し民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できました。しかし、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、それがダビデ家系に属する者として生まれたイエス様だったのです。

 

 そのイエス様が最後の審判で裁きを行う時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も助言も力も知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。

 

 「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」というのは、旧い世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされるということです。「「この地の貧しい人」というのはヘブライ語の辞書を見ると、貧乏な人たちでなく「神の前にへりくだった人たち」のことです。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢い」というのは辞書を見ると、「口から吐かれる息(ברוח)」で、それが強風のように神に逆らう者たちを永遠の死に吹き飛ばすという意味になるでしょう。

 

 最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼できること、頼れること」という意味です。最後の審判者はいでたちからして、文字通り正義を体現して信頼しきって大丈夫な方だということです。

 

 6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩のような美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。それはあたかも水が海を覆い満たしているのと同じであると。このように「神の国」では、神を知らないことが存在しないので、神の意志に反する罪も存在しません。ここで野獣や猛獣が草食動物のようになっていますが、新しい世の有り様がかつての天地創造の最初の状態に戻ったことを表しています。創世記130節を見ると、堕罪が起きる前、獣もみな草を食べていたことが言われています。

 

 10節「その日」、つまり新しい世が到来する時です。それは、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時です。その時、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言っていますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、ユダヤ民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。(この10節をパウロが本日の使徒書の日課ローマ1512節で引用しています。双方をよく比べて見るといろいろ違いがあることに気づかされます。これは、パウロが引用しているのはギリシャ語版の旧約聖書だからです。ヘブライ語の方は諸民族の動きに焦点が置かれていますが、ギリシャ語の方はエッサイの芽つまりメシアのイエス様の動きに焦点が置かれています。)

 

 最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。

 

 さて、そんな夢のような国が2000年前に洗礼者ヨハネが「近づいた」と言ったのです。これは一体どういうことなのでしょうか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?ヨハネの時代から今までを振り返ってもそんなことは起きなかったではないか?

 

 実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それなので、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が終わって新しい天と地が再創造される日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、神の国を人々に体験させられる方が来られる、その方が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。

 

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主である神に背を向けていた生き方をいい加減やめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

 

3.洗礼と神の国への迎え入れの関係

 

 ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書242122節、262021節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、神の怒りと裁きから助かるためには、神の意思に反する罪を犯してしまったと正直に認めて赦してもらわなければ、と人々が考えたのは無理もありません。皆こぞってヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 

 人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、ヨハネの意図は全く別のところにありました。彼が言うように、罪の問題の解決のために自分よりも強力な方がもうすぐ来られると。つまり、神の国に迎え入れられるために神の怒りと裁きから助けられるのはその方である、自分はその方が成し遂げる解決を人間が受け取ることが出来るように、そのために人間を罪の自覚と告白に導く役割を果たすということだったのです。それがイエス様の到来に備えて道を整えるということだったのです。

 

 それでは、イエス様はどのように罪の問題を解決して下さったのでしょうか?それは、彼が神から贈られた神聖なひとり子でありながら、否、神聖なひとり子であるがゆえに、これ以上のものはないという位の神聖な犠牲の生贄になって私たち人間の持っている神の意志に反する罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。イエス様は私たちに代わって罪の神罰を受けられたのです。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦し神罰を受けないで済むようにするという手法を取ったのでした。そこで人間が、このことはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いを自分のものにすることができます。それでその人は罪を赦された者と神から見なされるようになります。

 

 しかしながら、洗礼を受けたとは言っても、人間はまだ肉を纏っているので神の意志に反する罪を内に持っています。それでは、洗礼の後はどうしたらいいのでしょうか?それは、罪の自覚を持ち、神に対してそれを告白して、神から罪の赦しを頂く、これを繰り返していくことです。自覚と告白のたびに神は洗礼の時に与えた聖霊を通してゴルゴタの十字架にかけられたイエス様を私たちに示して下さいます。そこに罪の赦しが確実にあることを教えて下さいます。この時人間は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに満たされて罪の言いなりにならないようになる力を頂きます。これを繰り返していくのです。繰り返しをすることで神は、あなたが罪に反抗する生き方をしていると認めて下さいます。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ139節、イザヤ125節、マラキ323節)、罪からの浄化を意味します。先ほど申したように人間は洗礼を受けても罪を内に持っています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの中で生きることになり、罪の自覚と告白と赦しの繰り返しの人生が始まります。罪から浄化されるプロセスに入るのです。やがて、このプロセスが終結する日が来ます。肉の体に代わる、神の栄光を映し出す体を着せられる復活の日がそれです。

 

4.神への立ち返りに相応しい実を結べ

 

 終わりに、ヨハネが結びなさいと命じている「悔い改めに相応しい実」とは何かについて述べておきます。この説教では「悔い改め」とは「神への立ち返り」のことだとしたので、「神への立ち返りに相応しい実」です。これはいろいろな内容を含みますが、何にしても、この「実」を考える際に忘れてはならないことがあります。それは、「神への立ち返り」とは何かを覚えていることです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の罪の赦しのお恵みの中で生きることがそれです。その中で生きるとは、罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることを繰り返して生きることです。これが神への立ち返りです。ここからどういう「実」が実るのかを考えるのです。

 

 私は、ローマ12章から後に書いてあることにその具体的な内容があると思います。今日の日課はその15章ですので、今日はそれに限定して「実」の内容を見てみます。日課は4節からですが、この区切りは良くなく、1節から見るべきです。「実」を理解するカギは7節にあります。パウロの言葉を借りると、次のことが「実」であることがわかります。

 

 キリストは、もともと神の民・ユダヤ民族に属さない異邦人であるあなたがたを受け入れた。それは、神の栄光がこの世で一層明らかにするためであった。だから、あなたがたもキリストに倣ってお互いを受け入れなさい。そうすることで神の栄光がこの世で一層明らかにされるのだ。このように、キリストに倣ってお互いを受け入れることで神の栄光をこの世に現わすことが「実」なのです。

 

 そこでキリスト信仰者がお互いを受け入れるというのはどういうことかが1節からの箇所にあります。

 

 力ある者は、ない者の弱さを辛抱してあげること、自分のことだけを考えないこと、隣人にとって何が良いかを考えて隣人を強めてあげられるようにすること、隣人が蔑みを受けたら代わりに受けてあげること。つまり、キリストがあなたにしてくれたことを思い起こして、相手にも同じようにしてあげること。このようにキリストのことを思い起こして、仲たがいなどせず、皆で思いを一つにすること。これが「実」です。

 

 「思いを一つにしている」は、次のように出来ていれば、そうなっていることになります。お互い同じ復活の希望を持っているのだ、それでお互い同じ喜びと平安を持っているのだとわかって、それで一緒に、この罪の赦しのお恵みの神に感謝し、一緒に神を賛美すること。これが「実」です。そうすると、今まさに皆さんがしているように、心から礼拝に参加することが実を結ぶことになるとわかるでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン