説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)
主日礼拝説教 2022年12月25日降誕祭
スオミ・キリスト教会
イザヤ書52章7-10節
ヘブライの信徒への手紙1章1-12節
ヨハネによる福音書1章1-14節
説教題 「キリスト教徒は光を目指す」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.天地創造の前からいた神のひとり子
はじめにことばありき - 聖書の文句のなかで、これほど有名なものはないでしょう。キリスト信仰者でなくても、この聖句を知っている人なら誰でも、この「ことば」というのはイエス・キリストを指すと知っているのではないでしょうか。ヨハネ福音書の1章1節から18節までは、イエス様とは本質的にどんな方であるのかを述べているところです。皆様もご存知のようにマタイ福音書とルカ福音書では、イエス様が乙女マリアから生まれる出来事が最初にあります。父、御子、御霊の三位一体を構成する神の御霊、つまり聖霊が力を及ぼして乙女が身ごもってイエス様を産む。その意味ではイエス様誕生の記述も、イエス様が本質的にどんな方であるかを示しています。ヨハネ福音書では、イエス様が本質的にどんな方であるかということについて、著者ヨハネがイエス様と共にいた日々を振り返って自分の目で見、耳で聞いたことをもとに分析・総括して、その結論を冒頭に述べているわけです。
「初めに言があった」。この「はじめ」とはいつのことを指すのでしょうか?多くの人は、聖書全体の出だしにある創世記1章1節の聖句「初めに、神は天地を創造された」を思い起こすでしょう。それで、神が天地を創造された太古の大昔のことが「はじめ」であると思われるのではないでしょうか?実はそうではないのです。ヨハネ福音書の出だしにある「はじめ」というのは、天地が創造される時ではなくてその前のこと、まだ時間が始まっていない状態のことを指すのです(後注1)。時間というのは、天地が創造されてから刻み始めました。それで、創造の前の、時間が始まる前の状態というのは、はじめと終わりがない永遠の状態のところです。時間をずっとずっと過去に遡って行って、ついに時間の出発点にたどり着いて、今度はそれを通り越してみると、そこにはもう果てしない永遠のところがあって、そこに「ことば」と称される神のひとり子がいたのです。とても気が遠くなるような話です。
この永遠のところにいた神のひとり子が「イエス」という名前を付けられるのは、今から約2000年少し前に彼がこの世に贈られてからです。しかし、ひとり子そのものは、既に天地創造の前の永遠のところに父なるみ神と共にいたのです。そして、天地が創造されて時間が始まった後もまだしばらくは父のいる永遠の御国にいたのです。そして、父が定めた時、つまり今から約2000年少し前の時にひとり子はこの世に贈られたのでした。人間の姿かたちを持つ者として人間の母親から生まれて、「イエス」の名がつけられたのです。
それでは、天地創造の前の永遠のところにいた神のひとり子は人間の肉体を持ってこの世に生まれ出る前は一体どんな風だったのでしょうか?ヨハネ福音書の著者ヨハネは、ひとり子を「ことば」、ギリシャ語でロゴスと呼びました。ギリシャ語のロゴスという言葉はとても広い意味を持っています。紙に書き記して文字になる「言葉」や、口で話して音になる「言葉」を意味するのは言うまでもありません。これは私たちが普段日本語で「言葉」と言っているものと同じです。他にも、何か内容のある「話」や「スピーチ」を意味したり、また「教え」とか「噂」とか「申し開き」、「弁明」とか「問題点」とか「根拠」とか「理に適ったこと」などなど、日本語だったら別々の言葉で言い表す事柄が全部ロゴス一語に収まります。さらに、古代のギリシャ語の文化圏では、哲学のある一派の考え方として、世界の事象の全て、森羅万象を背後で司っている力というか頭脳というか、そういうものがあると想定して、それをロゴスと言っていた派もありました。日本語で「世界理性」と訳されたりします。
ただ、こういう森羅万象を背後で司るロゴスというのは古代ギリシャの哲学の話です。ユダヤ教キリスト教とは何の縁もゆかりもない、人間の頭で考えて生み出された概念です。翻って、聖書に依拠するユダヤ教とキリスト教は、天地創造の神が人間に物事を伝えたり明らかにする、それを人間はただ受け取るという立場です。生み出す大元はあくまで神という立場です。哲学では、生み出す大元は人間の頭です。
一見すると、ヨハネ福音書の著者ヨハネは、神のひとり子のイエス様のことを、森羅万象を背後で司るロゴスが人間の形をとったものと考えたように見えます。ここで注意しなければならないのは、ヨハネはギリシャ哲学の内容をイエス様に当てはめたのではないということです。そうではなくて、旧約聖書の伝統とイエス様自身が教え行ったことに基づいてイエス様を捉えたのです。そこで、このとてつもないお方を、ギリシャ語の世界の人々の頭にすっと入るコンセプトはないものか、と考えたところ、ああ、ロゴスがぴったりだ、ということになったのです。土台にあるのはあくまで、旧約聖書の伝統とイエス様の教えと業です。哲学のいろんな理論や議論ではありません。
では、旧約聖書のどんな伝統が、イエス様をロゴスと呼ぶに相応しいと思わせたかというと、それは箴言の中に登場する「神の知恵」です。箴言の8章22-31節をみると、この「知恵」は実に人格を持つものとして登場します。まさに天地創造の前の永遠のところに既に父なるみ神のところにいて、天地創造の時にも父と同席していたと言われています。しかし、ひとり子の役割は同席だけではありません。ヨハネ1章3節をみると、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言われています。つまり、ひとり子も父と一緒に創造の業を行ったのです。どうやってでしょうか?創世記の天地創造の出来事はどのようにして起こったかを思い出してみましょう。「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった(創世記1章3節)」。つまり、神が言葉を発すると、光からはじまって天も地も太陽も月も星も海も植物も動物も人間も次々と出来てくる。このように、ひとり子は「神の言葉」という側面を持つとわかれば、彼も天地創造になくてはならないアクターだったことがわかります。先にも見たように、ロゴスは直接的に「言葉」という意味を持ちますから、ひとり子をロゴスと呼ぶことで彼が創造の役割を果たす「神の言葉」であることも示せるのです。
このようにひとり子は「神の知恵」、「神の言葉」であり、彼は天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられました。興味深いことにイエス様は地上で活動されていた時、自分のことをまさに「神の知恵」であるとおっしゃっていたのです。ルカ11章49節、マタイ11章19節にあります(後注2)。イエス様は本当に、天地創造の前から父なるみ神と共にいて、父と一緒に創造の業を成し遂げられた方だったのです!ヨハネ福音書8章を見ると、イエス様が自分のことをそういう果てしないところから来た者であると言っているのに、ユダヤ教社会のエリートたちときたら全く理解できず、「お前は50歳にもなっていないのに、アブラハムを見たと言うのか」などととんちんかんな反論をします。50年どころか50億年位のスケールの話なのに。しかし、こうしたことはイエス様の十字架の死と死からの復活が起きる前は、とても人知では理解できることではなかったのです。
2.ことばは肉となったが神の栄光を映し出していた
父なるみ神と共に永遠のところにいて、天地創造の時には父と共に働かれたロゴス、神の知恵、神の言葉なるひとり子は、父なるみ神のもとから人間のいるこの世に贈られてきました。人間の女性マリアから肉体を持つ人間として生まれました。ただ、聖霊の力が働いたため処女から生まれたという生まれ方をしました。なぜ神のひとり子はこのような仕方でこの世に贈られたのでしょうか?そもそも、なぜ神のひとり子はこの世に贈られなければならなかったのでしょうか?天の父なるみ神のもとで神の栄光に包まれてのんびりしていればよかったのに。
それは、天地創造の後に堕罪の出来事が起きて、人間が神の意志に反する性向、罪を持つようになってしまったためでした。そのために人間と神の結びつきが失われて、人間は神との結びつきがないままこの世を生きることになり、この世を去った後も結びつきがないまま、神のもとに戻って生きることができなくなってしまいました。そこで神は人間が自分との結びつきを持ってこの世を生きられるように、この世の人生を終えた後は復活の日に復活させて永遠に自分のもとに迎え入れることができるように、それでひとり子をこの世に贈ったのです。ひとり子を贈って何をさせたかというと、人間の罪を全部引き受けさせて人間に代わって神罰を受けさせて人間が受けないで済むように代わりに全ての罪を神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。今から2000年位前の世界の中で起こった出来事です。
なぜ神はこの大役を他の誰でもなくご自分のひとり子に担わせたのでしょうか?それは、人間の全ての罪を全部引き受けて未来永劫に神に対して償うことが出来るためには、神のひとり子が本当に神罰を神罰として純粋に本気で受けられないといけません。どうせ神なんだからと、受けた罰が痛くもかゆくもなかったら話になりません。本当に罰の名に値する苦しい痛いものであるためには、受ける者はそれを身に沁みて受ける生身の人間でなければなりません。しかし、普通の人間が全ての人間の罪を背負って神罰を受けて全ての人間の罪を神に対して償うことなどは不可能です。自分の分が精一杯で、しかも受けたらそれで滅んで終わってしまい新しい出発も何もありません。そこで、人間を救うのに他に手立てがないと見た神は、それを全部自分のひとり子に引き受けさせることにしたのです。通常の生殖作用を通してではなく聖霊の力で処女から生まれさせたので神聖さを持っています。神聖な神のひとり子の犠牲なので犠牲としてはこれ以上のものはありません。また、人間の肉体を持っているので人間として神罰を受けられます。これが、神聖な神のひとり子が人間の姿かたちを持って生まれたことの意味です。まさに、ヨハネ福音書1章14節に言われるように「言ロゴスは肉となった」のです。この何気ない一言に神の人間に対する大いなる愛と恵みが凝縮されています。聖書の神の本質について大いなる真理がここにあります。まさにキリスト信仰の核がここにあります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1章14節)。
「わたしたちの間に宿られた」と言いますが、「私たちと共に生き生活した」と言った方がはっきりします。当時の人々はイエス様を通して天地創造の神の知恵と力を見ました。神の栄光を見たのです。正確には垣間見たのです。罪ある人間は神の栄光を直視することはできないからです。神の栄光は被造物の太陽の光よりも強い光です。イエス様がそのような栄光を現わした出来事もありました。現在のレバノンとシリアの国境にあるヘルモン山と推定される高い山の上でした。さらに弟子たちをはじめ大勢の人たちが死から復活したイエス様を目撃しました。復活の主を通して神の栄光を垣間見たのです。私たちが神の栄光を直視できる日がやがて来ます。それが復活の日です。その日、復活させられる者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を持って神の御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は罪を償ってもらい神との結びつきを持ってこの世を生きることになり、結びつきを持ってこの世から別れ、神と結びついた者として復活の日を迎えることになります。
3.永遠の命に導く光
ヨハネ1章4節と5節をみると、命と光と闇について言われています。「命」は、ヨハネ福音書ではたいてい、死で終わってしまう限りある命ではなく死を超える永遠の命を意味します。神のことばなるお方は乙女マリアから生まれる前に永遠の命がある方だったと。永遠の命は「人間の光」であったと(4節)。新共同訳では「人間を照らす光」と訳していますが、ギリシャ語原文では「照らす」とは言っていません。ただの「人間の光」です。「人間の光」とは、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにする光、この世を去った後は永遠の命が待っている神の国に迎え入れられるようにする光、まさに「人間のための光」、イエス様そのものです。
どうして「人間を照らす」と訳したかと言うと、9節に「全ての人を照らす」と言っているので、そうしたのではないかと思います。ここで「人を照らす」とはどういうことかに注意します。これは人間に光を照射するような照明器具のような意味ではありません。フォティゾーというギリシャ語の言葉は、見えない状態を光の力で見える状態にするという意味があります。神との結びつきを失い罪を持つ状態に甘んじて生き神の愛も恵みも見えない状態の人間が見えるようになるという意味です。キリスト信仰者はそのような光を持っているのです。ヨハネ8章12節でイエス様が言われる通りです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」先ほど申しましたように、ヨハネ福音書では「命」は「永遠の命」を意味するので、「命の光」は「永遠の命に導く光」です。
さらに5節を見ると、「人間の光」つまり「永遠の命に導く光」が闇の中で輝いていると言います。闇とは、神と人間の結びつきを失わせ人間が永遠の命を持てないようにしようとする力が働いているこの世のことです。その中で輝く光とはその反対の力、神との結びつきを人間に持たせて強めてあげようとする力です。まさにイエス様のことです。
5節はさらに「暗闇は光を理解しなかった」と言います。これはいろんな意味を持つギリシャ語の動詞カタランバノーが元にあり、訳仕方がわかれるところです。前にもお話したことがありますが、この個所は他の国の言葉ではどう訳されているか見てみました。フィンランド語、スウェーデン語、ルターのドイツ語訳の聖書では「暗闇は光を支配下に置けなかった」です。英語NIVとドイツ語の別の訳(Einheitsübersetzung)は、日本語と同じで「暗闇は光を理解しなかった」です。前にも言ったことがありますが、原文がどう訳されているかいろいろ比べてみると、日本語と英語の聖書が一致して、フィンランド語とスウェーデン語とルターのドイツ語が一致するということが多いです。それで、聖書の翻訳には日米同盟と欧州連合の対決があるようだなどと言ったことがありますが、よく考えるとそういうことではないことがわかりました。フィンランド語とスウェーデン語の訳というのはそれぞれの国のルター派教会が訳したものです。それに対して、日本語と英語の聖書はキリスト教のいろんな教派が合同で訳したものです。それなので、ルター派以外の考えも反映されてくるのではないかと思います。(とは言っても、スウェーデンの最新訳はルター派の伝統から離れてしまったところがあるので、ルター派の考えが反映されていると言えなくなってしまいました。)
話が横道にそれましたが、「暗闇は光を理解しなかった」がいいのか「支配下に置けなかった」がいいのか。どっちでしょうか?一つの考え方として、悪魔は人間を永遠の命に導く光がどれだけの力を持つか理解できなかった、身の程知らずだったというふうに解することができます。それで日本語や英語のように訳していいかもしれません。しかし、悪魔は人間を罪の支配下に置こうとして人間から神との結びつきを失わせようとしても、その企みはイエス様の十字架と復活によって完全に破綻してしまったのだから、やはり暗闇は光を支配下に置けなかったと理解するのがいいのではないかと思います。
イエス様は人間のための光、これがあるおかげで暗闇の中でも消えない光を私たちは持つことが出来ます。肉眼の目では見えないけれども心の目でいつも見ることが出来る光です。それは私たちがいつも見続けることができるようにと消えることなく絶えず輝いています。しかし、光の方はこのように輝き続けているのに私たちの方でそれを見失うことがあります。自分の内に神の意志に反する罪があることに気づいて神との結びつきが大丈夫かどうか不安になる時がそうです。また、どうしようもない困難や苦難に陥って神との結びつきがあるなどと思えなくなってしまう時がそうです。
しかし、私たちキリスト信仰者は聖書を繙くたびに、み言葉に聞くたびに光は消えていないこと、光は輝き続けていることを確認できます。そして罪の赦しの祈りと赦しの宣言を受けることで神との結びつきには何の変更もないことを確信できます。さらに聖餐式のパンとぶどう酒を通して主の血と肉を受けることで神の方で結びつきを維持して下さっていることを知ることが出来ます。何があっても神との結びつきは失われないのです。それがわかれば目はまた開き光が見えます。永遠の命に導く光です。
このように、人間のための光は私たちの方で見えなくなる時があっても、それは光の方が消えたのではなく、私たちの目が見えなくなっただけのことです。再び光が見えるように、そのために聖書の御言葉と聖餐が与えられているのです。御言葉と聖餐を唯一の確かな手掛かりにして神のもとに立ち返ることで光はまた見えるようになります。キリスト信仰者は光を目指して進むのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)「あった」ηνが過去形なのに注意。もし「はじめ」が天地創造の時を指して、その時点で「ことば」が出てきたということならば、過去形のηνではなくて、アオリストのεγενομην/εγενηθηνにすべきでしょう。
(後注2)。もちろんイエス様が実際に口にした言葉は、ギリシャ語のソフィアσοφιαでなくて、ヘブライ語のחכמהか、アラム語のそれに近い語だったでしょう。