2012年6月20日水曜日

今の時から、そして永遠に (吉村博明)


説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士) 
 
日本福音ルーテル教会
横浜墓地春季墓前礼拝説教 2012415
  
説教題「今の時から、そして永遠に」
  
聖書の箇所 詩篇121篇

1.都に上る歌。
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
2.わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
   天地を造られた主のもとから。
3.どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように
4.見よ、イスラエルを見守る方は
    まどろむことなく、眠ることもない。
5.主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
6.昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
7.主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
    あなたの魂を見守って下さるように。
8.あなたの出で立つのも帰るのも
    主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。(新共同訳)





私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.詩篇121篇 - 聖地巡礼の旅路の歌から人生の旅路の歌へ

聖書の中で、祈祷書・讃美歌集のような書物として「詩篇」があります。全部で150篇の祈りや歌が収められていますが、120篇から134篇まではどれも冒頭に「都に上る歌」と題されております。都とはエルサレムを指しますが、原語のヘブライ語の正確な意味は、「エルサレムの神殿の祭事の時に都エルサレムに上るキャラバンの歌」という意味です。簡単に言うと、エルサレムの神殿の年中行事に参加する「聖地巡礼者たちの歌」ということです。
 
 エルサレムの神殿は、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちが紀元前500年代の終わりに再建した第二神殿が西暦70年にローマ帝国の大軍によってエルサレムの町ともども破壊されてしまいます。それ以後、神殿は存在していません。巡礼の本当の目的地である神殿がない以上、この詩篇121篇はもう意味がないのでしょうか?実は、この詩篇の歌は、イエス・キリストの出来事の後に新しい意味を持つようになりました。以下、そのことをみてみましょう。
 
エルサレムの神殿では、イスラエルの民が自分たちの罪を天地創造の神から赦してもらうために、夥しい数の羊や牛などの生け贄を捧げていました。ところが、イエス・キリストが来て、イスラエルの民だけでなく人間すべての罪が神から赦されるようにと、神の子でありながら自分自身を犠牲の生け贄として捧げ、十字架上の死に自らを委ねました。この犠牲をよしと見た神は、死んだイエス様を三日後に死から復活させて、人間のために永遠の命、復活の命への扉をも開かれました。
 
このようにして神は、イエス様を用いて人間の救いを全て整えられたのであります。救われるために人間がすることと言えば、この救いの福音を聞いて、これらのことが自分のためになされたのだとわかって、イエス・キリストを救い主と信じ洗礼を受けるだけです。そうすることで私たちは、神の整えられた救いを所有することができ、この世にいながら、永遠の命、復活の命に至る道を歩むようになるのであります。
 
こういうわけで、イエス・キリストの十字架と復活の出来事の後は、人間は、罪や不従順を神から赦してもらうために、また神から守りと平安をいただくために、もう何も犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったのであります。この世から死んだ後に永遠の命、復活の命を持って、自分の造り主である神のもとで永遠に暮らすことができるようになるために、何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったのです。神のひとり子にまさる犠牲の生け贄など存在しないからです。仮に今、神殿が存在したとしても、その年中行事の儀式に参加する必要はないのです。それならば、この詩篇の歌は、イエス・キリストを救い主と信じる者には無用なものなのでしょうか?
 
いいえ、そうではありません。たとえ、エルサレムの神殿が存在しなくても、また、イエス様が私たちを罪と不従順の奴隷状態から贖いだしたおかげで神殿など不要になったとしても、この「聖地巡礼者たちの歌」は依然として重要です。なぜでしょうか?この歌は、エルサレムの神殿が存在する時は、確かに神殿に巡礼する旅路についての歌でした。ところが、神殿が存在せず不要になった後では、この歌は、イエス・キリストを救い主と信じる者の人生の旅路についての歌になったのです。この詩篇121篇には、神の助けや見守りという言葉が繰り返されます。これも、神殿があった時には、巡礼の旅路で受ける神の助け、見守りでしたが、神殿がない今では、人生の旅路で受ける神の助け、見守りを意味します。従って、この歌で歌われる旅路の最終目的地も、神殿があった時には神殿とそこでの祭事への参加ということでしたが、イエス・キリストを救い主と信じる者にとっては、この世の人生を終えた後で造り主の神のもとで永遠に暮らすこと、これが最終目的地になったのです。「聖地巡礼」という冒頭の言葉も原語のヘブライ語のもともとの意味は「上に昇る」という意味です。この歌の最後の言葉は「今の時から、そして永遠に」です。つまり、この歌は、この世での聖地巡礼ということを超えて、天国での永遠の人生に向かう旅路という意味を持っているのです。

2.イエス・キリストを救い主と信じる者の人生の旅路

このように詩篇121篇は、イエス・キリストを救い主と信じる者にとっては、人生の旅路とそこで受ける神からの助けについて歌う歌になりました。それでは、この歌がどのように人生の旅路を歌っているのかを見てみましょう。
 
 1節で、「私は山に向かって目を上げる」と言います。「山」とは聖地巡礼者にとっては、エルサレムの神殿や町が横たわるシオンの山を意味しました。キリスト教徒なら、今の世の天と地が消え去って新しい天と地にとってかわられる時に現れる天上のエルサレム(黙示録21章)を瞼に思い浮かべるでしょう。ここで大切なことは、具体的に何か雄大な山を見て、「私の助けはどこから来るのだろう」とつぶやく時、助けは、その山も含めて天と地の一切のものを造られた神から来るということです(2節)。自然の荘厳さや雄大さに目を奪われすぎて、それ自体が助けをもたらすような神秘的な力を持っていると見なすのは本末転倒です。そうした荘厳で雄大な自然自体を造られた神がおられる、力と助けは彼からのみ来ると肝に銘じておかなければなりません。私たち自身も、天地創造の神に造られたのです。しかも、その同じ造り主が私たちの救いのために御子イエス様を送られ、私たちにかわって救いを整えて下さったのです。私たちは、造られた被造物ではなく造り主を信じ、より頼まなければなりません。
 
3節から6節までは、神が一時も休まずに私たちに目を注ぎ、私たちのこの世の人生の旅路を守って下さることが歌われます。「見よ、イスラエルを見守るかたはまどろむことなく、眠ることもない」(4節)。「イスラエル」というのは、もともとは神の民イスラエルですが、イエス・キリストの十字架と復活の後は、この神が送られたひとり子を信じる者が神の民になるので、キリスト教徒を指します。
 
ところで、神が不眠不休で私たちに目を注ぎ、私たちのこの世の人生の旅路を守って下さると言っても、そう思えない事態に私たちはしばしば遭遇します。苦難や不幸に見舞われた時など、神に見捨てられた、背を向けられた、と思いがちです。また、ひょっとしたら、全身全霊で神を愛さなかったことがあった、隣人を自分を愛するが如く愛することがなかったために、それで神は怒って罰を下したのだ、とも思うことがあります。ここで思い違いをしてはなりません。神は、イエス・キリストを救い主と信じる者が神の意志を満たせなかったことや、それに背いてしまったことを本当に悔やみ、どうか見離さないで下さいと祈る時、神は、イエス・キリストの身代わりの犠牲に免じて赦して下さり、新しい一歩を踏み出せるように助けて下さるのです。神に対して恥じ入り悔いる心を持つ者を、神は決して見捨てたり、背を向けたりはしません。神が絶えず見守っているということは、苦難や困難の最中にはなかなか実感できないものであります。しかし、これは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を持つ者にしてみれば、実感は難しくとも真理なのであります。このことは、苦難や困難をくぐり終えた後で事後的にわかるということがよくあります。この事後的にわかるということは、後で8節を見る時にでてきます。
 
6節で、昼は太陽があなたを傷つけることはなく、夜も月が傷つけることはない、と歌われています。中近東の強い日差しの中での巡礼旅行は、まさに太陽に傷つけられるという感じでしょう。しかし、月が傷つける、とはどういうことでしょうか?月が昼間の太陽と同じくらい灼熱を放つとは考えにくいことです。実は、これは、創世記で太陽と月が造られたことを振り返れば、意味がわかります。創世記11617節で、神は、日中を支配させるために太陽を造り、夜を支配させるために月を造ったとあります。太陽は日中を支配する力であり、月は夜を支配する力です。詩篇1216節の「昼は太陽があなたを傷つけることはなく、夜も月が傷つけることはない」というのは、日中を支配する力からも、夜を支配する力からも守られるという意味です。つまり、昼も夜も関係なく、私たちは一寸の隙もないくらい神から目を注がれて、始終守られているという意味です。
 
さて、最後の78節に来ました。新共同訳聖書では、二節共に「見守って下さるように」、「見守って下さるように」と祈り願うような形で訳されています。ヘブライ語の動詞の用法として、実は、「神は見守って下さる」とか「見守って下さる方である」と、神の未来の行為とか神の習性を言い表す意味にもなります。英語、ドイツ語の主要な聖書やスウェーデンやフィンランドのルター派国教会の聖書をみても、新共同訳のような祈り願う訳はしていません。それですので、本説教でも、「神は必ずそうして下さる方だ」という意味で訳します。そうすると、7節は「主はあなたをあらゆる悪から守られる方である。あなたの魂を守られる方である」となります。私たちは、「主の祈り」を祈る時、「私たちを悪より救いだして下さい」と祈り願いますが、もし神が私たちを悪より救い出して下さるかどうか不安を抱くときは、この詩篇1217節を思い出しましょう。続いて、8節は、新共同訳では「あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」となっていますが、ヘブライ語原文では「帰る」とは言っていません。「入っていくこと」です。英語、ドイツ語の主な聖書、フィンランドやスウェーデンの聖書をみても「帰る」という訳はありません。みな「入っていくこと」なっています。そうすると、8節は「主は、あなたが出ていくことと入っていくことを守られる。今の時から、そして永遠に」となります。それでは、「出ていくこと」とは何から出ていくことで、「入っていくこと」とはどこへ入っていくことでしょうか?
 
神殿が存在していた頃の聖地巡礼の歌であれば、「出ていくこと」とは巡礼への出発、「入っていくこと」とは、待望のエルサレムに到着し、祭事に参加するために神殿に入っていくことを意味します。これが、キリスト教徒の人生の旅路の歌ということになれば、「出ていくこと」とはこの世の人生を終えて、この世から死ぬということになり、「入っていくこと」とは、永遠の命、復活の命を持って、造り主である神のもとに永遠に一緒にいる永遠の人生に入っていくことになります。神が「あなたの出ていくことと入っていくことを守られる。今の時から、そして永遠に」というのは、まさにこの世から死んで永遠の人生に移行するという境目にいるという場面です。この境目まで来たとき、私たちは、この世の人生で数々の苦難や困難に遭遇したにもかかわらず、この地点まで来られたというのは、やはり神の導きや助けが途切れることなくずっと今に至るまであったということを思い知ることができる時なのであります。ああ、あの時、神に背を向けられたとか、神に見捨てられたなどと思ってしまっていたが、実はそうではなく、本当はそのような時も神はずっと目をかけていて下さっていたのだ。自分はただそれに気づかなかっただけなのだ、と。

3.

さあ、これでこの世から次の世に移行しよう。神はこの瞬間から永遠まで、私を守って下さる。そう思うや否や、一つの大きな問題にぶつかります。それは、復活はいつ起きるのかということです。もし、ちょうど私が移行しようとするこの瞬間に、イエス・キリストが再臨して、死者の復活が起きれば、私もすぐその復活の波に乗って、造り主である神のもとに運ばれる。ところが、キリストの再臨がまだ先のことだとすれば、私はこの世から離れた瞬間、どこにいることになるのだろうか?イエス様を救い主と信じてこの世から死んだ先達たちは、どこで主の再臨と死者の復活の日を待っているのだろうか?何十年、何百年も待っていて退屈しないのだろうか?その間、何をしているのだろうか?実は、この問題に対して、ルターが明快な答えを出しています。彼によれば、この世からの死は一時の眠りのようなものであり、眠った本人にすれば、それが何十年、何百年たっていても起きた瞬間に「あれ、いつ眠りこけたのかな」としか思えないくらい短く感じられるものだというのであります。以下に、ルターの教えを引用して本説教の締めとしたく思います。あわせて、本横浜墓地のこのお墓に名を記された先達の方々について皆様が抱かれる想い出に敬意を払いつつ、復活の日における彼らとの再会の希望を皆様とご確認できればと思う者でございます。
 
「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。
我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン




2012年6月11日月曜日

罪びとを生まれ変わらせるイエス様の招き (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年6月10日(聖霊降臨後第二主日)
  
日本福音ルーテル日吉教会にて
  
イザヤ書44:21-22、
コリントの信徒への第二の手紙1:18-22、
マルコによる福音書2:13-17
   
 
説教題 罪びとを生まれ変わらせるイエス様の招き


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン
 
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
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 本日の福音書の箇所は、イエス様が大勢の罪びとの間に入っていき、彼らと近い関係を持ったことが、当時のユダヤ教社会のなかで強い発言力を持っていたファリサイ派の人たちのひんしゅくを買うというところです。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民としての神聖さを保てるようにしようと非常にこだわったグループで、モーセ律法とそこから派生して出てきた清めに関する規則を厳格に守ることを唱えて自ら実践するという、ひとつの信徒運動でありました。
 
本日の福音書の箇所でイエス様を批判するのは、「ファリサイ派の律法学者」となっていますが、律法学者というのは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の研究者かつ専門家です。ユダヤ人の日常生活、家族生活、社会生活において様々な問題が起きた時に、モーセ律法に照らして、こう解決しなさい、と助言したり指導する立場にありました。その職業性の度合いについては説が定まっていないようで、律法学者を完全な職業集団とみる人もいれば、本業ないし副業に携わりながら法曹の仕事を行っていたとみる人もいます。
 
そこで、「ファリサイ派の律法学者」というのは、そうした律法学者のなかにはファリサイ派の理念に共鳴して、同派に属することになった者もいた、ということであります。律法の研究者かつ専門家、さらに当時のユダヤ教社会で強い発言力を持っていたグループの一員、そういう手強い相手からイエス様は批判を受けたのであります。
 
ところで、当時のユダヤ教社会のなかで、徴税人は罪びとの最たるものとみなされていました。イエス様はそのひとりのレビに弟子として従うよう命じ、レビはつき従って行きます。そして自分の家にイエス様とその弟子たちを招き、さらに他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも同じ食卓の席につくことになりました。そこをファリサイ派の律法学者たちに目撃され、批判されるのです。当時は、食事に招かれたり同席したりするというのは、親せき関係に入ったに等しいくらい近い関係になったことを示す出来事と考えられていました。
 
 徴税人がどうして罪びとの最たるものとみられていたかについて。彼らの主たる任務は、イスラエルを支配下に置いているローマ帝国に対して、住民から税を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ることが仕事でした。なぜ、占領された側の国の民から、占領した側に仕えるような職務につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道でもあったからです。各福音書からも、徴税人が認められている額以上の税や通行税を取りたてていたことがうかがい知れます。例えば、ルカ3章で、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけるところがあります。そこで「定められた以上に取り立ててはならない」と戒めます。同じルカの19章で改心した徴税人ザアカイは、イエス様にこう言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」占領国の利益になるように仕えるのみならず、自分たちの私腹も肥やすことをしたわけですから、徴税人が、自分の利益しか顧みない国の裏切り者と見なされ、憎まれていたことは想像に難くありません。
 
 ところで、マタイ福音書とルカ福音書にも同じ出来事が収録されていますが、マタイでは徴税人の名前はレビではなくマタイになっています。どっちが正しいのでしょうか?当時は二つの名前を持つ人も珍しくなかったので(例えばサウルとパウロ、トマスとディドゥムスとか)、マタイとレビもそれと同じことなのか、ということが考えられます。そうでなければ、一方の記述は正しくて、他方は誤りということになるのか?
 
福音書には、同じ出来事を扱っていても記述・描写にブレがあることが多くあります。この問題と聖書の信ぴょう性について、いつか機会があれば別にお話ししたく思いますが、結論だけ申し上げると、同じ出来事の記述・描写にブレがあっても、聖書の信ぴょう性にはなんら問題はないと言うことです。福音書の出発点として、まずイエス様の教えや行い、また彼に起こった出来事をつぶさに目撃し見聞きした直近の弟子たちがいる。こうした直接の目撃者の証言が伝承され始めます。最初は口伝えで、次第にパピルス紙に記述されたりし、それらをひとまとめにして出来たのが福音書であります(ルカ114節にそうしたプロセスの一端を垣間見ることができます)。イエス様にまつわる証言や記述は、伝承の過程で伝承する人たちの観点も働き、例えば、大事だと思われたものはより詳しくされたり、それほど大事と思われなかったら短くされたり削除されたりします。それで、同じ出来事を扱っていても、福音書のそれぞれの記述に違いが生じてくるのであります。しかし、忘れてはならないのは、出発点にあるもともとの出来事は否定できない事実として残るのであります。
 
2.

 本題に戻ります。イエス様の時代のユダヤ教社会では、徴税人が罪びとの最たるものと見なされていたことをみました。ところが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は、どうも勝手が違うのです。例えば、先ほども触れたルカ3章では、洗礼者ヨハネがヨルダン川の地域で神の裁きの到来について大々的に宣告し、大勢の人たちが悔い改めの洗礼を受けに来る。その中に徴税人たちの姿も見られる。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとへ立ち返る必要性を感じていたのであります。同じルカの18章にイエス様のたとえ話として、自分の罪を自覚し神に赦しを祈る徴税人の話があります。これは、たとえ話なので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨルダン川のヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人を思い起こせば、全く非現実的な話ではないのであります。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様に受け入れられるや否や、悪を持って蓄えた富を捨てる決心をしました。ルカ5章では、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人レビは、「全てを捨てて」つき従ったと記されています。つまり、イエス様につき従うのと同時に、それまでの生き方を捨てたのであります。このように、福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方を一変して神のもとに立ち返る必要性を感じていた人たちであり、また、イエス様の招きを受け入れて立ち返った人たちでありました。そういうわけで、イエス様と一緒に食卓についた徴税人やその他の罪びとは、イエス様に招かれたことがもとで、神のもとに立ち返った人たちなのであります。
 
 このように見ていくと、ひとつ疑問が生じます。もし、イエス様と一緒に食卓につく徴税人その他の罪びとが、神のもとに立ち返った人たちであるならば、なぜ、ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、それを見て満足したり喜ばなかったのか?どうしてショックを受けて怒り出したのか?それは、神のもとへの立ち返りが、指導者たちが考えていた伝統的な手続きや手順を一切無視して、イエスという一個人の招きだけで実現してしまったからです。その上、イエス様は、罪の赦しを与えることができる者としても御自分を現されました。罪の赦しを与えることができるというのは、つまり神の地位にあるということです。マルコ2章で、イエス様が、手足の動かない人を癒すことを通して、罪を赦す力を持っていることを示した出来事について記されています。(その箇所について、2月の本日吉教会の説教で教えたところです。)ユダヤ教社会の宗教指導者にとって、このように罪の赦しを現実に与えられる者、罪びとの神への立ち返りを実現できる者、このような者は、自分たちの権威への挑戦以外の何ものでもなかったのであります。
 
 以上のことから、私たちは次のことを学ぶことができます。イエス様は人々を御自分のもとに招きます。もし、招かれた人が、招きを受ける時点で、神へのもとに立ち返る必要性を感じていれば、その人の人生は、神の意志に適うものへと変わり始めるということです。私たちがよく耳にする言葉として、「イエス様はあなたをあるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」というのがあります。これが大きな誤解を生みだしています。つまり、「あるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」というのは、天地創造の神に背を向けて生きる生き方をそのまま続けてよいという意味ではありません。正確に言うならば、「イエス様は、神への立ち返りの必要性を感じているあなたをあるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」という意味です。神への立ち返りの必要性のない人は、イエス様の招きに応じることはしないでしょう。仮に、立ち返りの必要性を感ぜずにイエス様の招きに応じたにしても、その人の人生が神の意志に適ったものになっていく変化は生まれてこないでしょう。私たちが生まれ変われるかどうかは、天地創造の神であり私たちひとりひとりを造られた神へ立ち返る必要性を感じているかどうか、また感じた時にイエス様の招きに応じるかどうかにかかっていると言えます。
 
 今言ったことに関連して、キリスト信仰にまつわるもう一つの誤解があります。それは、「神は全人類のためにイエス様を用いて救いを整えられた」ということについて起きる誤解です。全人類のために整えたのだから、もう全ての人が救われたのだ、どんな宗教を信じようと何も信じまいと、もう救われたのだ、という理解です。これは、そうではありません。ルターもはっきり教えていることですが、神は全人類のためにイエス様を用いて救いを整えられた、ということは、その整えられた救いが全人類に向けて「どうぞ受け取って下さい」と提供されているにすぎない状態ということです。全人類みんなが、それを「はい、受け取ります」と言って受け取るわけではありません。提供されることと、それを受け取ることは別問題なのであります。神がイエス様を用いて整えた救いが、この自分のためになされたのだ、とわかり、イエス様を救い主として信じて洗礼を受けること、これが救いを受け取ることであります。

3.

 本日の福音書の箇所で、イエス様は「健康な人に医者は必要ない。あるのは病気の人だ」とおっしゃり、食卓を共にする徴税人その他の罪びとを病人、自分は彼らを癒す医者であるとたとえられます。罪びとたちは、神へ立ち返る必要性を感じている人たちなので、治りたい、癒されたいと希求する病人と同じと言ってよいでしょう。病人の方で症状を自覚し、治りたいと希求すれば、ドクター・イエスはすぐ治して下さるのです。それでは、イエス様は、私たちを何の病気から治してくれるのでしょうか。
 
 端的に言うならば、それは、永遠の死、永遠の滅びに至る病です。その病から癒されると、私たちは、死を超えた永遠の命、復活の命を持てるようになります。
 
 どういうことかと言うと、創世記3章に記されている堕罪の出来事を振り返ってみましょう。「これを食べたら神のようになれる」という蛇の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知り行えるようになってしまう。そして同時に死する存在になってしまいました。パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいるということのあらわれなのであります。確かに、人によっては、悪い行いを外に出さない真面目な人もいるし、悪いこともするが良い行いが上回っているという素敵な人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いているのであります。イエス様は、モーセ十戒の第五の掟について、たとえ人殺しをしなくても兄弟を見下したり忌々しく思ったり苛立ったりしただけで、殺人と同じ罪に値すると教えられました(マタイ52126節)。行為の重大さにかかわらず、神にとって人間が隣人をないがしろにすることはなんでも許せないことなのだと明らかにされるのです。また第六の掟について、たとえ結婚を裏切る性関係を持たなくても、みだらな思いで異性をみたらそういう関係を持ったも同然であると教えられました(マタイ52730節)。行為に出さなくても同じだと言うのは、性関係の無秩序化から人間を守るのが神の意志であると明らかにしたのです。その他にも、マタイ5章の山上の垂訓のところで、イエス様は、十戒から派生した様々な掟ひとつひとつについて、その根底にある神の意志を明らかにしますが、敵を愛せよとか、復讐してはいけないとか、どれも実現困難なものばかりです。これらを総じて神の律法と言いますが、それはもはや私たちがどれだけ神の意志から離れた存在であるかを明らかにするだけです。私たちの内に、神への反発、反抗や不従順が宿っていること、最初の人間アダムとエヴァ以来の罪を受け継いでいることを明らかにするだけです。
 
 しかし、神は、不従順や罪のゆえに私たちが受けなければならない裁きを、愛するひとり子に全てかわりに受けさせた。そうなると、不従順や罪を持つ私たちは、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで、不従順と罪をまだ持ったまま裁きを赦されているという奇妙な状態に置かれることとなった。神の目から見て、さもそれらがなかったかのような状態に置かれることとなった。本当はまだ持ったままなのに。イエス様を救い主と信じ洗礼を受け、イエス様の義という汚れなき衣を頭から被せられた私たちは、その衣の内側にはまだ不従順と罪の汚れを持っているのに、神はそれらがないかのように私たちに被せられた新しい衣だけを見て下さる。そしてそのようなものとして私たちを扱って下さり、永遠の命に至る道に入らせて下さった。ルター派では、キリスト教徒とは罪びとにして同時に赦されている者をいう、ということが強調されますが、まさにその通りであります。まだ不従順と罪をもっているのに、神の子としてもらったのです。
 
 それでは、そのようにイエス様の清さを被せられて、永遠の命への道を歩めるようになった私たちは、まだ自己に残っている不従順や罪に対してどうすればよいのでしょうか。これだけ私たちの人生と命を大きく方向転換して、私たちを新しく生まれ変わらせ、永遠の命に結び付けて下さった神を賛美し感謝して、そんな神の意志に我が命、我が生を委ねて生きようとするのがあるべき生き方だと思います。パウロは、コリント第二の手紙の中で次のように教えました。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(61920節)。ここで言う代価とは、神のみ子イエス・キリストが十字架で流された血です。そのようなとてつもなく大きなことを私にして下さった神を全身全霊で愛そうとすること、そしてその神が私に対して憐れみ深く振る舞って下さったように、私も隣人に対して同じように振る舞おうということ、このように心が方向付けられていくのが当然だと思います。もちろん今すぐ完全にはできません。日々失敗し挫けそうになりますが、日々神様は聖書の御言葉を通して赦して慰めて下さいます。一歩一歩成長していきましょう。大元のところでは、もう赦しを得ているのですから、神様が見放すなどと心配する必要は全くありません。道が見えなくなったとき聖霊が聖書の御言葉を通して光を照らして下さいます。道が険しくなったら、聖霊が後押しをして下さいます。イエス様は、この世の終わりまで毎日わたしたちと共にいると約束されました(マタイ2820節)。
 
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 そういうわけで、私たちキリスト信仰者は、この世の人生の段階にありながら永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、神の守りと支えを受けて日々歩んでいる者であります。そして、この世から死んだ後は、造り主である神のもとに永遠にいることができるようにと御許に引き上げられます。洗礼で築かれた神との堅い絆によって、イエス様が私たちをすぐ引き上げて下さるのです。これら全てのことは、神が聖書の中で、ある時は自らの言葉で、ある時は預言者を通して、ある時はイエス様を通して、またある時は使徒たちを通して、約束されていることです。神は自らを欺くことをしない方です。約束は必ず守られる方です。(本日の使徒書の日課である第二コリント11820節にも、そのことが述べられています。「神は真実な方です」というより「神は忠実な方」とか「信頼に値する方」と訳した方が正確だと思います。)
 
 東日本大震災を経験したにもかかわらず、次は南海トラフとか首都直下型かなどと考えなければならなくなり、同時に目に見えない放射能の危険に不安を抱きながら生きなければならなくなってしまった今の日本人には、今すべて地にあるものは震動し、揺らぎ、崩れ落ち、堅個なものはなにもないと感じられるでしょう。今崩れ落ちていなくても、「想定外」が来たら、それもダメなのではないかと不安でしょう。まさにそのような時に、決して揺らぐことのない確固としたものがある、それに結びついていれば不安を上回る希望を持ってこの世を生きることができる、そしてこの世から死んだ後は自分を造られた方のもとに永遠にいることができるようになる、以上のことを一人でも多くの人に知ってもらうことが今ほど緊急な時はないのではないでしょうか?その「決して揺らぐことのない確固としたもの」とは、神の愛 - イエス・キリストの十字架上の身代わりの死と死からの復活による永遠の命の扉の開放、このことにあらわされた神の愛です。神の愛と約束の言葉は、あらゆる「想定外」を超えたものであることを示す聖句を三つほど紹介して本説教を終わりにしたく思います。

詩編4624
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」

イザヤ書5410
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」

イザヤ書4068
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン