2012年6月11日月曜日

罪びとを生まれ変わらせるイエス様の招き (吉村博明)



説教者 吉村博明 (フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学博士)
 
主日礼拝説教 2012年6月10日(聖霊降臨後第二主日)
  
日本福音ルーテル日吉教会にて
  
イザヤ書44:21-22、
コリントの信徒への第二の手紙1:18-22、
マルコによる福音書2:13-17
   
 
説教題 罪びとを生まれ変わらせるイエス様の招き


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                                                                                                 アーメン
 
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
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 本日の福音書の箇所は、イエス様が大勢の罪びとの間に入っていき、彼らと近い関係を持ったことが、当時のユダヤ教社会のなかで強い発言力を持っていたファリサイ派の人たちのひんしゅくを買うというところです。ファリサイ派というのは、ユダヤ民族が神の民としての神聖さを保てるようにしようと非常にこだわったグループで、モーセ律法とそこから派生して出てきた清めに関する規則を厳格に守ることを唱えて自ら実践するという、ひとつの信徒運動でありました。
 
本日の福音書の箇所でイエス様を批判するのは、「ファリサイ派の律法学者」となっていますが、律法学者というのは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の研究者かつ専門家です。ユダヤ人の日常生活、家族生活、社会生活において様々な問題が起きた時に、モーセ律法に照らして、こう解決しなさい、と助言したり指導する立場にありました。その職業性の度合いについては説が定まっていないようで、律法学者を完全な職業集団とみる人もいれば、本業ないし副業に携わりながら法曹の仕事を行っていたとみる人もいます。
 
そこで、「ファリサイ派の律法学者」というのは、そうした律法学者のなかにはファリサイ派の理念に共鳴して、同派に属することになった者もいた、ということであります。律法の研究者かつ専門家、さらに当時のユダヤ教社会で強い発言力を持っていたグループの一員、そういう手強い相手からイエス様は批判を受けたのであります。
 
ところで、当時のユダヤ教社会のなかで、徴税人は罪びとの最たるものとみなされていました。イエス様はそのひとりのレビに弟子として従うよう命じ、レビはつき従って行きます。そして自分の家にイエス様とその弟子たちを招き、さらに他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも同じ食卓の席につくことになりました。そこをファリサイ派の律法学者たちに目撃され、批判されるのです。当時は、食事に招かれたり同席したりするというのは、親せき関係に入ったに等しいくらい近い関係になったことを示す出来事と考えられていました。
 
 徴税人がどうして罪びとの最たるものとみられていたかについて。彼らの主たる任務は、イスラエルを支配下に置いているローマ帝国に対して、住民から税を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ることが仕事でした。なぜ、占領された側の国の民から、占領した側に仕えるような職務につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道でもあったからです。各福音書からも、徴税人が認められている額以上の税や通行税を取りたてていたことがうかがい知れます。例えば、ルカ3章で、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけるところがあります。そこで「定められた以上に取り立ててはならない」と戒めます。同じルカの19章で改心した徴税人ザアカイは、イエス様にこう言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」占領国の利益になるように仕えるのみならず、自分たちの私腹も肥やすことをしたわけですから、徴税人が、自分の利益しか顧みない国の裏切り者と見なされ、憎まれていたことは想像に難くありません。
 
 ところで、マタイ福音書とルカ福音書にも同じ出来事が収録されていますが、マタイでは徴税人の名前はレビではなくマタイになっています。どっちが正しいのでしょうか?当時は二つの名前を持つ人も珍しくなかったので(例えばサウルとパウロ、トマスとディドゥムスとか)、マタイとレビもそれと同じことなのか、ということが考えられます。そうでなければ、一方の記述は正しくて、他方は誤りということになるのか?
 
福音書には、同じ出来事を扱っていても記述・描写にブレがあることが多くあります。この問題と聖書の信ぴょう性について、いつか機会があれば別にお話ししたく思いますが、結論だけ申し上げると、同じ出来事の記述・描写にブレがあっても、聖書の信ぴょう性にはなんら問題はないと言うことです。福音書の出発点として、まずイエス様の教えや行い、また彼に起こった出来事をつぶさに目撃し見聞きした直近の弟子たちがいる。こうした直接の目撃者の証言が伝承され始めます。最初は口伝えで、次第にパピルス紙に記述されたりし、それらをひとまとめにして出来たのが福音書であります(ルカ114節にそうしたプロセスの一端を垣間見ることができます)。イエス様にまつわる証言や記述は、伝承の過程で伝承する人たちの観点も働き、例えば、大事だと思われたものはより詳しくされたり、それほど大事と思われなかったら短くされたり削除されたりします。それで、同じ出来事を扱っていても、福音書のそれぞれの記述に違いが生じてくるのであります。しかし、忘れてはならないのは、出発点にあるもともとの出来事は否定できない事実として残るのであります。
 
2.

 本題に戻ります。イエス様の時代のユダヤ教社会では、徴税人が罪びとの最たるものと見なされていたことをみました。ところが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は、どうも勝手が違うのです。例えば、先ほども触れたルカ3章では、洗礼者ヨハネがヨルダン川の地域で神の裁きの到来について大々的に宣告し、大勢の人たちが悔い改めの洗礼を受けに来る。その中に徴税人たちの姿も見られる。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとへ立ち返る必要性を感じていたのであります。同じルカの18章にイエス様のたとえ話として、自分の罪を自覚し神に赦しを祈る徴税人の話があります。これは、たとえ話なので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨルダン川のヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人を思い起こせば、全く非現実的な話ではないのであります。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様に受け入れられるや否や、悪を持って蓄えた富を捨てる決心をしました。ルカ5章では、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人レビは、「全てを捨てて」つき従ったと記されています。つまり、イエス様につき従うのと同時に、それまでの生き方を捨てたのであります。このように、福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方を一変して神のもとに立ち返る必要性を感じていた人たちであり、また、イエス様の招きを受け入れて立ち返った人たちでありました。そういうわけで、イエス様と一緒に食卓についた徴税人やその他の罪びとは、イエス様に招かれたことがもとで、神のもとに立ち返った人たちなのであります。
 
 このように見ていくと、ひとつ疑問が生じます。もし、イエス様と一緒に食卓につく徴税人その他の罪びとが、神のもとに立ち返った人たちであるならば、なぜ、ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、それを見て満足したり喜ばなかったのか?どうしてショックを受けて怒り出したのか?それは、神のもとへの立ち返りが、指導者たちが考えていた伝統的な手続きや手順を一切無視して、イエスという一個人の招きだけで実現してしまったからです。その上、イエス様は、罪の赦しを与えることができる者としても御自分を現されました。罪の赦しを与えることができるというのは、つまり神の地位にあるということです。マルコ2章で、イエス様が、手足の動かない人を癒すことを通して、罪を赦す力を持っていることを示した出来事について記されています。(その箇所について、2月の本日吉教会の説教で教えたところです。)ユダヤ教社会の宗教指導者にとって、このように罪の赦しを現実に与えられる者、罪びとの神への立ち返りを実現できる者、このような者は、自分たちの権威への挑戦以外の何ものでもなかったのであります。
 
 以上のことから、私たちは次のことを学ぶことができます。イエス様は人々を御自分のもとに招きます。もし、招かれた人が、招きを受ける時点で、神へのもとに立ち返る必要性を感じていれば、その人の人生は、神の意志に適うものへと変わり始めるということです。私たちがよく耳にする言葉として、「イエス様はあなたをあるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」というのがあります。これが大きな誤解を生みだしています。つまり、「あるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」というのは、天地創造の神に背を向けて生きる生き方をそのまま続けてよいという意味ではありません。正確に言うならば、「イエス様は、神への立ち返りの必要性を感じているあなたをあるがままの姿で今のままの自分を受け入れて下さる」という意味です。神への立ち返りの必要性のない人は、イエス様の招きに応じることはしないでしょう。仮に、立ち返りの必要性を感ぜずにイエス様の招きに応じたにしても、その人の人生が神の意志に適ったものになっていく変化は生まれてこないでしょう。私たちが生まれ変われるかどうかは、天地創造の神であり私たちひとりひとりを造られた神へ立ち返る必要性を感じているかどうか、また感じた時にイエス様の招きに応じるかどうかにかかっていると言えます。
 
 今言ったことに関連して、キリスト信仰にまつわるもう一つの誤解があります。それは、「神は全人類のためにイエス様を用いて救いを整えられた」ということについて起きる誤解です。全人類のために整えたのだから、もう全ての人が救われたのだ、どんな宗教を信じようと何も信じまいと、もう救われたのだ、という理解です。これは、そうではありません。ルターもはっきり教えていることですが、神は全人類のためにイエス様を用いて救いを整えられた、ということは、その整えられた救いが全人類に向けて「どうぞ受け取って下さい」と提供されているにすぎない状態ということです。全人類みんなが、それを「はい、受け取ります」と言って受け取るわけではありません。提供されることと、それを受け取ることは別問題なのであります。神がイエス様を用いて整えた救いが、この自分のためになされたのだ、とわかり、イエス様を救い主として信じて洗礼を受けること、これが救いを受け取ることであります。

3.

 本日の福音書の箇所で、イエス様は「健康な人に医者は必要ない。あるのは病気の人だ」とおっしゃり、食卓を共にする徴税人その他の罪びとを病人、自分は彼らを癒す医者であるとたとえられます。罪びとたちは、神へ立ち返る必要性を感じている人たちなので、治りたい、癒されたいと希求する病人と同じと言ってよいでしょう。病人の方で症状を自覚し、治りたいと希求すれば、ドクター・イエスはすぐ治して下さるのです。それでは、イエス様は、私たちを何の病気から治してくれるのでしょうか。
 
 端的に言うならば、それは、永遠の死、永遠の滅びに至る病です。その病から癒されると、私たちは、死を超えた永遠の命、復活の命を持てるようになります。
 
 どういうことかと言うと、創世記3章に記されている堕罪の出来事を振り返ってみましょう。「これを食べたら神のようになれる」という蛇の誘惑の言葉が決め手となって最初の人間たちは禁じられていた実を食べてしまい、善だけでなく悪をも知り行えるようになってしまう。そして同時に死する存在になってしまいました。パウロが「ローマの信徒への手紙」5章で明らかにしているように、死ぬということは、人間は誰でも神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいるということのあらわれなのであります。確かに、人によっては、悪い行いを外に出さない真面目な人もいるし、悪いこともするが良い行いが上回っているという素敵な人もいます。それでも、全ての人間の根底には、神への不従順と罪が脈々と続いているのであります。イエス様は、モーセ十戒の第五の掟について、たとえ人殺しをしなくても兄弟を見下したり忌々しく思ったり苛立ったりしただけで、殺人と同じ罪に値すると教えられました(マタイ52126節)。行為の重大さにかかわらず、神にとって人間が隣人をないがしろにすることはなんでも許せないことなのだと明らかにされるのです。また第六の掟について、たとえ結婚を裏切る性関係を持たなくても、みだらな思いで異性をみたらそういう関係を持ったも同然であると教えられました(マタイ52730節)。行為に出さなくても同じだと言うのは、性関係の無秩序化から人間を守るのが神の意志であると明らかにしたのです。その他にも、マタイ5章の山上の垂訓のところで、イエス様は、十戒から派生した様々な掟ひとつひとつについて、その根底にある神の意志を明らかにしますが、敵を愛せよとか、復讐してはいけないとか、どれも実現困難なものばかりです。これらを総じて神の律法と言いますが、それはもはや私たちがどれだけ神の意志から離れた存在であるかを明らかにするだけです。私たちの内に、神への反発、反抗や不従順が宿っていること、最初の人間アダムとエヴァ以来の罪を受け継いでいることを明らかにするだけです。
 
 しかし、神は、不従順や罪のゆえに私たちが受けなければならない裁きを、愛するひとり子に全てかわりに受けさせた。そうなると、不従順や罪を持つ私たちは、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで、不従順と罪をまだ持ったまま裁きを赦されているという奇妙な状態に置かれることとなった。神の目から見て、さもそれらがなかったかのような状態に置かれることとなった。本当はまだ持ったままなのに。イエス様を救い主と信じ洗礼を受け、イエス様の義という汚れなき衣を頭から被せられた私たちは、その衣の内側にはまだ不従順と罪の汚れを持っているのに、神はそれらがないかのように私たちに被せられた新しい衣だけを見て下さる。そしてそのようなものとして私たちを扱って下さり、永遠の命に至る道に入らせて下さった。ルター派では、キリスト教徒とは罪びとにして同時に赦されている者をいう、ということが強調されますが、まさにその通りであります。まだ不従順と罪をもっているのに、神の子としてもらったのです。
 
 それでは、そのようにイエス様の清さを被せられて、永遠の命への道を歩めるようになった私たちは、まだ自己に残っている不従順や罪に対してどうすればよいのでしょうか。これだけ私たちの人生と命を大きく方向転換して、私たちを新しく生まれ変わらせ、永遠の命に結び付けて下さった神を賛美し感謝して、そんな神の意志に我が命、我が生を委ねて生きようとするのがあるべき生き方だと思います。パウロは、コリント第二の手紙の中で次のように教えました。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(61920節)。ここで言う代価とは、神のみ子イエス・キリストが十字架で流された血です。そのようなとてつもなく大きなことを私にして下さった神を全身全霊で愛そうとすること、そしてその神が私に対して憐れみ深く振る舞って下さったように、私も隣人に対して同じように振る舞おうということ、このように心が方向付けられていくのが当然だと思います。もちろん今すぐ完全にはできません。日々失敗し挫けそうになりますが、日々神様は聖書の御言葉を通して赦して慰めて下さいます。一歩一歩成長していきましょう。大元のところでは、もう赦しを得ているのですから、神様が見放すなどと心配する必要は全くありません。道が見えなくなったとき聖霊が聖書の御言葉を通して光を照らして下さいます。道が険しくなったら、聖霊が後押しをして下さいます。イエス様は、この世の終わりまで毎日わたしたちと共にいると約束されました(マタイ2820節)。
 
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 そういうわけで、私たちキリスト信仰者は、この世の人生の段階にありながら永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、神の守りと支えを受けて日々歩んでいる者であります。そして、この世から死んだ後は、造り主である神のもとに永遠にいることができるようにと御許に引き上げられます。洗礼で築かれた神との堅い絆によって、イエス様が私たちをすぐ引き上げて下さるのです。これら全てのことは、神が聖書の中で、ある時は自らの言葉で、ある時は預言者を通して、ある時はイエス様を通して、またある時は使徒たちを通して、約束されていることです。神は自らを欺くことをしない方です。約束は必ず守られる方です。(本日の使徒書の日課である第二コリント11820節にも、そのことが述べられています。「神は真実な方です」というより「神は忠実な方」とか「信頼に値する方」と訳した方が正確だと思います。)
 
 東日本大震災を経験したにもかかわらず、次は南海トラフとか首都直下型かなどと考えなければならなくなり、同時に目に見えない放射能の危険に不安を抱きながら生きなければならなくなってしまった今の日本人には、今すべて地にあるものは震動し、揺らぎ、崩れ落ち、堅個なものはなにもないと感じられるでしょう。今崩れ落ちていなくても、「想定外」が来たら、それもダメなのではないかと不安でしょう。まさにそのような時に、決して揺らぐことのない確固としたものがある、それに結びついていれば不安を上回る希望を持ってこの世を生きることができる、そしてこの世から死んだ後は自分を造られた方のもとに永遠にいることができるようになる、以上のことを一人でも多くの人に知ってもらうことが今ほど緊急な時はないのではないでしょうか?その「決して揺らぐことのない確固としたもの」とは、神の愛 - イエス・キリストの十字架上の身代わりの死と死からの復活による永遠の命の扉の開放、このことにあらわされた神の愛です。神の愛と約束の言葉は、あらゆる「想定外」を超えたものであることを示す聖句を三つほど紹介して本説教を終わりにしたく思います。

詩編4624
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」

イザヤ書5410
「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」

イザヤ書4068
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン