2020年10月26日月曜日

神の最も重要な掟と愛 (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2020年10月25日 聖霊降臨後第21主日

 

レビ記19章1-2、15-18節

テサロニケの信徒への第一の手紙2章1-8節

マタイによる福音書22章34-46節

 

説教題 「神の最も重要な掟と愛」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 エルサレムでのイエス様と彼に反対する人たちの間の論争が続きます。本日の福音書の箇所の直前に、サドカイ派と呼ばれる党派とイエス様の間で論争がありました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿祭司やユダヤ教社会の上流階層を構成員とする党派です。論争の的となったのは、死からの復活はあるかどうかということでした。サドカイ派は復活などないと主張する派で、これをイエス様は旧約聖書の御言葉に基づいて見事に論破します。その一部始終を見ていたファリサイ派と呼ばれる別のグループ、これはユダヤ教の伝統的な戒律を幅広くできるだけ多く守ろうとする信徒運動です。そのファリサイ派の人たちが集まって、サドカイ派は言い負かされてしまったぞ、自分たちはどうやってあの生意気なイエスを言い負かそうかと相談を始めます。

 

 そこで、彼らの一人で律法学者も務める者がファリサイ派を代表してイエス様のところにやってきて質問します。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか?」原語のギリシャ語を直訳すると、最も偉大な掟、最大級の掟はどれかと聞いています。つまり最も重要な掟ということです。サドカイ派は、復活という死生観の問題でイエス様に挑戦してあっけなく敗れ去りました。ファリサイ派はユダヤ教の根幹とも言える律法の問題で挑戦してきました。

 

 なぜこのような質問が出たかというと、律法学者というのは職業柄、ユダヤ教社会の社会生活の中で生じる様々な問題を律法に基づいて解決する役割を担っていました。それで、律法の各掟やその解釈を熟知していなければなりません。その知識を活かして弟子を集めて教えることもしていました。神の掟である律法は、まず旧約聖書に収められているモーセ五書と言われる律法があります。それだけでもずいぶんな量ですが、他にもモーセ五書のように文書化されずに、口承で伝えられた掟も数多くありました。サドカイ派は文書化された掟しか重んじませんでしたが、ファリサイ派は両方とも大事と考えていました。そういうわけでファリサイ派の律法学者となると、膨大な神の掟を適用することになるので、どっちを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、という問題によく直面したのです。

 

 「どの掟が最も重要ですか、最大級の掟ですか?」という質問は、そのような背景から出てきました。もし、これが重要だ、と答えたら、きっと、それじゃ他のは重要ではないのですか?掟は全て神が与えたものではないのですか?これが重要で、あれは重要でないという根拠はなんですか?あれだってこれこれの理由で重要ではないのですか?そういう具合に、相手は法律の専門家ですので、答えようによっては反論の山が押し寄せてくるのは火を見るより明らかです。

 

2.第一の掟

 

 イエス様の答えは以下のものでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは、申命記645節で神がモーセを通してイスラエルの民に伝えた掟です。その部分を振り返ってみましょう。

 

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 

 神を愛するという時、このように全身全霊で愛するということはどういうことでしょうか?全身全霊で愛するなどと言うと熱烈な恋愛みたいですが、ここでは相手は万物の創造主の神です。天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えられ、御子イエス・キリストをこの世に送られた父なる神が相手です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 

 その答えは、今みた申命記の掟の最初の部分にあります。「我らの神、主は唯一の主である。」これは命令形でないので掟にはみえません。しかし、神を全身全霊で愛せよ、というのは実は、神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにしなさい、ということなのです。言い換えると、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねたり、また委ねられているなどと考えてはならない、自分が人生の中で経験する喜びを感謝し、また苦難の時には助けを求めて祈り助けを待つ、そうする相手はこの神以外にあってはならないということです。もしそれでは物足りないと言って、神以外のものに祈りや願いを捧げてしまうと心移りしたことになり、神を全身全霊で愛さなくなってしまったことになります。

 

 祈りや感謝をささげ願い事や悲しみを打ち明ける相手はこの神しかいないという位に神一筋になることが神を唯一の神としてしっかり保たれるようにすること、それが神を全身全霊で愛することであるとわかりました。このような愛をどうしたら私たちは持てるのでしょうか?このような愛は何もないところから自然には生まれてきません。どこから生まれてくるかと言うと、この神が私たちに何をして下さったかを知ることで生まれてきます。それではこの神は私たちに何をして下さったかのでしょうか?

 

 神はまず、今私たちが存在している場所である天と地とその中にあるものを造られました。そして私たち人間をも造られ、私たちに命と人生を与えて下さいました。もともと人間は神の目から見てよいものとして造られたのですが、創世記3章にあるように、人間が神に対して不従順になって神の意思に反する罪を持つようになってしまったために神の創造の世界は様変わりしてしまいました。光で満ちた世界は影が覆うようになり、光は垣間見ることが出来るものになってしまいました。様変わりした世界で人間は神との結びつきが失われて死ぬ存在になってしまいました。人間は代々死んできたように、代々神の意思に反する罪をも受け継ぐ存在となってしまったのです。

 

 神は人間が自分との結びつきを失ってしまったことを悲しみ、それを復興させるべくひとり子のイエス様をこの世に贈られました。神がイエス様にさせたことは次のことでした。本当だったら人間が受けなければならない罪の神罰を全てイエス様に受けさせて十字架の上で死なせました。まさにその時、神のひとり子が人間に代わって罪の償いを神に対してして下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることを世に示し、そこに至る扉を人間のために開かれました。人間は、これらのことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、その人は罪が償われたのだから神から罪を赦された者として扱われるようになります。神が罪を赦した者ですから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この結びつきは順境の時も逆境の時も変わることなく絶えず続きます。万が一この世から別れることになっても、復活の日までの眠りの後で目覚めさせられて、朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。

 

 このように万物の創造主であり人間の造り主である神は、ひとり子を犠牲の生け贄に供することで人間を罪と死の支配から救い出して下さった「贖い主」でもあります。このように神が私たち人間にして下さったことがこの世で生きることと次の世で生きることとの双方にまたがる大きなことだとわかると、この方以外に頼れる方はいない、神が唯一の神であるという心になります。これが神を全身全霊で愛そうという心です。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていきます。

 

3.第二の掟

 

 以上、天と地と人間を造られた神を全身全霊で愛するとは、この神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることだと申しました。この神に対する愛の掟をイエス様は最も重要な掟であり、「第一の掟」であるとも言いました。これに続けて「第二の掟」もあると言って、「隣人を自分のように愛しなさい」がそれであると述べました。そして、「律法全体と預言者たちはこの二つの掟に基づいている」と言われました。この「基づいている」ということですが、もとのギリシャ語の動詞κρεμαννυμιは「つるす」とか「かける」という意味で、普通はドアの片側に留め具をつけて壁ないし柱にドアを取り付けることを意味します。そういうわけで律法と預言はドアのようなもの、二つの掟はドアが取り付けられる壁ないし柱、これに取り付けられていることでドアはドアの役目を果たします。取り付けられていないとドアはただの木の板にしかすぎません。律法や預言も二つの掟に結びつけられていないと意味をなさないということです。

 

 イエス様はこの二つの掟は神の掟中の掟である、山のようにある掟の集大成の頂点にこの二つがある、この二つの掟に結びつけられていないと他のものは意味をなさないと言うのです。それでも、二つの頂点にも序列があると言います。まず、神を全身全霊で愛すること、これが最も重要な第一の掟。それに続いて隣人を自分のように愛することが第二の掟としてある。これから明らかなようにキリスト信仰においては、隣人愛というものは神への全身全霊の愛としっかり結びついていなければならない、この神への全身全霊の愛に隣人愛は基づいていなければならないのです。

 

 普通、隣人愛という言葉を聞くと、苦難困難にある人を助ける支援活動を思い浮かべるでしょう。ところが、苦難困難にある人を支援するという形の隣人愛は、これはキリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていてもまたは無信仰者・無神論者にも出来るものです。このことは日本でも災害の時にボランティアの支援活動が積極的に行われることから明らかです。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛にはないものがあります。それは、キリスト信仰の隣人愛は神への全身全霊の愛に基づき、それに結びついているということです。神への全身全霊の愛とは先ほど申し上げましたように、天地創造の神以外に神はないとし、この神が私たちにとって唯一の神としてしっかり保たれるようにすることです。そのような愛が持てるのは、これも申し上げたように、この神が自分にどれだけのことをして下さったかをわかるようになった時です。そういうわけで隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の行いが神を全身全霊で愛する愛に即しているかどうかを吟味する必要があります。もし、別に神なんかいろいろあったっていいんだとか、聖書の神も数多くあるものの一つだと言った場合、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということにはなりませんが、しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別のものになります。

 

 それから、隣人愛は人道支援に尽きてしまわないということも大事です。イエス様は、重要な掟の二番目に隣人愛があると教えた時、それを本日の旧約の日課レビ記1918節から引用しました。そこでは、法律的な問題ではえこひいきをしてはいけない、正しい決定をしなければならないという正義の問題に加えて(15節)、人間関係の在り方についての神の命令が言われていました。相手を誹謗中傷してはいけない、生命に危険を及ぼすようなことをしてはいけない(16節)、心の中で罵ってはいけない、相手の罪は罪としてたださなければならない(17節)、たとえ害を被っても復讐をしてはならない、怒りや憎しみを燃やしてはいけない(18節)、そういったことを全部ひっくるめて「隣人を自分のように愛せよ」と神は命じます。つまり、隣人を自分のように愛せよと言う時の愛の内容がここで具体的に言われているのです。

 

 ここで一つ目に留まることがあります。それは、心の中で罵ってはいけないということは、イエス様が山上の説教でも教えているということです(マタイ522節)。このことからもわかるようにイエス様は自分の教えを旧約聖書に基づかせているのです。イエス様は、たとえ殺人を犯さなくても心の中で罵ったら同罪であると教えますが、神は本日の使徒書の日課第一テサロニケ24節でも言われるように、人間の心の中までを見通される方です。それなので、行為や言葉のように外に現れるものだけでなく心の中まで見られたら誰も神の前で大丈夫と言える人はいなくなってしまいます。このように旧約聖書に基づくイエス様はとても厳しいのです。要求度が高すぎて人間には無理です。しかし、イエス様は神が完全であるように私たちも完全であるようにと命じます(マタイ548節)。本日の旧約の日課でも神が神聖な方である以上は私たちも神聖なものでなければならないと命じるのと同じことです(レビ192節)。

 

 イエス様は私たち人間に無理難題を押し付けているのでしょうか?イエス様は神聖な神の意思とはこれくらい厳しいものだと教えましたが、同時に人間がそれをその通りに守り実現することは無理であることもわかっていました。神のように完全で神聖な者になれないと、神の前で大丈夫な者にはなれず、この世でも次の世でも神と結びつきを持って生きることはできない。しかし、それは人間には無理である。まさにそれだから、イエス様は十字架にかかったのでした。まさに、神のひとり子の犠牲に免じて人間を赦すという状況を生み出したのでした。このおかげで人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神との結びつきを持てて生きることが出来るようになったのでした。

 

4.新約とは旧約の正しい理解である

 

 一般にイエス様という方は、厳しい戒律的なユダヤ教に比べたら慈愛に満ちた優しい方というイメージが持たれるのではと思います。しかし、そのような対比の仕方は間違っています。これまで見てきたことから明らかなようにイエス様は厳しいくらいに旧約聖書に基づいています。それがあるから十字架と復活の出来事があったと言ってもいいくらいです。ではなぜユダヤ教と違うように見えるのかと言うと、イエス様が違っていたのは実は旧約聖書ではなくて、当時の旧約聖書の理解や解釈と違っていたということです。そうした理解や解釈にしがみついていた人たちと違っていたということで、イエス様自身は神のひとり子で神の意思を体現した方だったのでその彼が旧約聖書を正しく理解していたのです。そういうわけで、キリスト教の観点で言えば、旧約聖書という神の御言葉の集大成はイエス様を通して正しく理解できるのです。その正しい理解が形になって現れたのが新約聖書と言ってもよいと思います。

 

本日の個所の終わりの部分で、メシアは誰の子かという質問がありました。これも同じです。当時の人々の理解では、メシアはダビデの子孫ということになります。その意味することは、ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放してこの地上に神の国を建設し、諸国民は神を畏れ敬ってこぞってエルサレムの神殿に参拝に集まって来るという理解です。つまり、メシアとは民族の解放者の王様という理解です。しかし、イエス様は詩篇110篇の聖句に基づいて、ダビデがメシアのことを自分の主であると言っていて、その方は神の右に座す者である以上、地上の特定民族の王様ではありえないと指摘します。このメシア理解は、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前の段階では誰にとっても理解不可能なものでした。しかし、十字架と復活が起きた後で、メシアとは人間を罪と死の支配から解放する救い主であるということがわかり、イエス様がその方であると明らかになったのでした。

 

5.おわりに

 

 本説教で、私たちは神からどれだけ愛されているかがわかって、神を愛することができ、それに基づいて隣人愛もわかるようになるとお教えしました。それを言い表した聖句ヨハネの第一の手紙」4911節を最後のお読みして本説教の締めとしたく思います。

 

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2020年10月19日月曜日

皇帝のものは皇帝に、神のものは神に - 死生観を巡る戦い (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2020年10月18日 聖霊降臨後第20主日

 

イザヤ書45章1-7節

テサロニケの信徒への第一の手紙1章1-10節

マタイによる福音書22章15-22節

 

説教題 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に - 死生観を巡る戦い」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。このイエス様の言葉は何かとても大きなことを言っていると感じさせます。一方でこの世の権力の頂点に立つ者、他方で万物の創造者である神。両者が並べられて、それらに対して私たちはどう向き合うのかということが言われているからです。それでは、それらに対してどう向き合えばよいのでしょうか?今日の説教は、そのことを明らかにしていこうと思います。

 

2.イエス様の答えの文脈的背景と歴史的背景

 

 まず、この言葉が出る原因となった質問を見てみます。イエス様に反対する者たちが聞きました。「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか」私たちの新共同訳では「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか、適っていないか」ですが、ギリシャ語の原文を見ると「律法に適って」はありません。そういう訳をしたのは、ひょっとしたらその言葉が入っている写本があるのかと思ってチェックしたのですが、どうも見当たりませんでした。それで「律法に適って」は翻訳者が勝手に付け加えたものと言えます。それを付け加えた気持ちはわからないではないですが、私はここは原文通りに付け加えない方が本来の意味のためによかったと思います。つまり、「皇帝に税金を納めることはいいことか、よくないことか」ということで、「律法に鑑みて」ということを超えた広い意味です。このことについては後でまたお話しします。

 

 イエス様と反対者のこのやり取りがどういった流れで出て来たか見てみましょう。流れをみるとやり取りがよりよく理解できます。イエス様が大勢の支持者に囲まれてユダヤ民族の首都エルサレムに乗り込んできました。まずユダヤ教の総本山であるエルサレムの神殿に入って、そこで礼拝用の生贄にする動物を販売する商人たちを荒々しく追い出して、神殿の礼拝制度に挑戦する態度を表明します。イエス様はエルサレムの神殿が時限的なものでやがて新しい神崇拝に取って替わるという考えも表明します。これには宗教エリートたちは仰天してしまいます。彼らはイエス様を取り巻き議論の応酬が始まります。そこでイエス様は3つのたとえを話されました。その一つ一つを先週までの説教で説き明かしました。ここでは振り返りませんので、ホームページで以前の説教をご覧いただければと思います。

 

 3つのたとえの教えで明らかになったのは、将来現れる「神の国」に宗教エリートたちは迎え入れられないということ、そのかわりに今罪びとと目されている人たちやユダヤ民族以外の民族がイエス様を救い主と信じて迎え入れられるということでした。先週の説教でもお話ししましたが、「神の国」について当時の人たちが思い描いていたものとイエス様が教えたものは必ずしも一致していませんでした。当時の人たちにとって「神の国」とは、将来ダビデの子孫が現れてユダヤ民族を異民族支配から解放し、神が直接支配する国を打ち立てる、そして諸国民は神を崇拝するためにエルサレムに集まって来る、そういう自民族中心史観の「神の国」でした。ところがイエス様の教えた「神の国」は、まず神の子が全ての人間を民族に関係なく罪と死の支配から解放する、そして、今の世が終わって新しい天と地が創造される時に神の子は再臨して、罪と死の支配から解放された者たちを「神の国」に迎え入れる、そういう神の人間救済計画のゴールでした。イエス様の教えた「神の国」の方が聖書の正しい理解だったわけですが、それがはっきりするのは彼の十字架と復活の出来事の後になってからです。

 

 当時の宗教エリートたちが、たとえ「神の国」を正確に理解できていなかったとしても、それはユダヤ民族に約束されたものと考えていましたから、お前たちは排除されるというのは受け入れられません。3つのたとえを聞いた後、早くこの男を始末しなければと決めます。そこで、今度は言葉尻を捉えて当局に訴えてやろうと、ヘロデ派の人たちと一緒にイエス様の前にやって来ました。そこで聞いたのがこの皇帝への納税の質問だったのです。

 

ヘロデ派というのは、ヘロデ王朝を支持する人たちです。少し歴史的背景を述べておくと、ユダヤ民族の居住地域は紀元前63年までにローマ帝国の支配下に入ります。ローマ帝国はこの地域を直接支配せず地域の実力者を通して間接支配します。ユダヤ民族の実力者にユダヤ民族出身でないヘロデがのし上がります。彼はローマ帝国に上手く取り入って王の地位を認められ、エルサレムの神殿を大増築してユダヤ民族の支持も獲得します。このヘロデ王はベツレヘムで生まれたばかりのイエス様の命を狙うことになる王です。ヘロデ王の没後、この主権を持たない王国は二人の息子に分割され、一人はガリラヤ地方の領主、もう一人はユダ地方の領主という具合に王から格下げになりました。ヘロデ派というのは、要するに、ローマ帝国のお情けのもとで権力を保持できればいいという人たちだったと言えます。ユダ地方の領主が死んだ後は同地方は帝国から派遣された総督が直接支配するようになります。要所要所に異国の軍隊が駐屯して目を光らせています。帝国には税金も納めなければなりません。「神の国」はユダヤ民族の完全な解放をもって実現すると考えた人たちにとって許しがたい状況でした。

 

 まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場しました。ダビデの子、ユダヤ民族の王がやって来た!と群衆の歓呼に迎え入れられてエルサレムに乗り込んできました。さぁ、大変なことになりました。ユダヤ教社会の指導層には盾をつく、群衆は民族の解放者として担ぎ上げている、あの男をこのままにしたら自分たちの権威が危うくなるだけでなく、ローマ帝国の軍事介入をも招きかねない、なんとかしなければと、そこで出てきたのが、皇帝に税金を納めてもいいのかどうかという質問だったのです。狙いは一目瞭然です。もし、納めてもよいと答えたら、群衆は、なんだこの男もヘロデ並みか、民族の真の解放者だと期待したのに皇帝に頭が上がらない臆病者だと失望を買って支持者は離反していくだろう。もし、納めてはならないと言ったら、その時は待ってましたとばかり、反逆者として当局に差し出してしまえばいい。まことに巧妙な質問でした。反対者も群衆も固唾を飲んでイエス様の答えを待つ緊迫した様子が目に浮かびます。

 

 ここで先ほど、反対者の質問はギリシャ語原文では「律法に鑑みて」という言葉はないと申しました。以上の背景説明からわかるように、質問は極めて政治的な内容のものです。もちろん、律法に鑑みていいことかどうかという問題も含んではいますが、それを超えた意味を持っていることにも注意しなければなりません。それで、原文のように律法と無関係にいいか悪いかと聞いたというのが正解です。

 

さて、イエス様の答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」でした。反対者も群衆もとても驚いた様子が目に浮かびます。税金を納めてもいいことになるのだが、しかし、皇帝に頭が上がらない臆病者には聞こえません。万物の創造主である神が出てきたからです。こちらの方が人間より格が上です。神を出されたことで皇帝も皇帝に納める税もちっぽけなものになってしまう、何か大いなるものの下に置かれたような感じがします。イエス様のこの答えは質問者を黙らせ群衆を驚嘆させましたが、彼らは「感じた」以上のことがわかったでしょうか?私は、イエス様の十字架と復活の出来事の前では「感じた」より先には進めなかったのではと思います。私たちは十字架と復活の出来事の後の時代にいますから、イエス様の答えの内容を詳しく知ることが出来ます。以下にそれを見ていきましょう。

 

3.「神のもの」とは「神の国」にかかわること

 

イエス様の答えに万物の創造主の神が出てきました。「神のものは神に返しなさい」というのはどういう意味でしょうか?「皇帝のものは皇帝に返す」というのは税金のことだから、「神のものは神に返す」は教会に献金を捧げることかなと考える人もいるかもしれません。しかし、そうではありません。まず、「神のもの」と言う言葉について見ると、ギリシャ語の用法では神の持ち物、所有物という意味だけでなく、「神に属するもの」、「神に由来するもの」という具合にもっと広い意味になります。そこでこのやり取りの流れを思い出します。先の3つのたとえは皆、将来現れる「神の国」について述べていました。その延長上に今日のやり取りが来ます。このやり取りでは一方に皇帝というこの世の国の代表者、他方で神という「神の国」の代表者が対比されます。そういうわけで「神のもの」というのは「神の国」に関係するものであると気づかなければなりません。

 

「神のものは神に返す」と言う時の「返す」ですが、これもギリシャ語の動詞αποδιδωμιは「返す」だけでなく、「引き渡す」「譲り渡す」(例としてマタイ2758節)とか「しなければならないことをする」(例としてマタイ533節、第一コリント73節)という意味もあります。「返す」だけにとらわれると、お金の支払いに注意が行ってしまいますが、実は「引き渡す」、「譲り渡す」という意味も入ってるんだと意識して広く考えなければなりません。

 

以上を踏まえると「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というのは、次のような意味になります。この地上の国のことは地上の国に服している。税金もそのようなものとして払ってよい。しかし、「神の国」にかかわることは地上の国には服さない、「神の国」にかかわることは地上の国に引き渡さない、譲り渡さない、地上の国の思い通りにさせてはならない。イエス様の答えは、そういう地上の国の権威を超えるものがあることを予感させたのです。それでは、「神の国」にかかわることで地上の国に譲り渡さない、思い通りにさせてはならないこととはどんなことでしょうか?それは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえればわかります。地上の国に譲り渡さないこととは、将来「神の国」に迎え入れられることであり、今この世で「神の国」に向かう道を歩んでいるということです。これらを地上の国に譲り渡さないということです。もし地上の国がその道を進ませないようにしようとしたら、それに屈しないということです。

 

「神の国」にかかわることとは、「神の国」に向かう道を歩むことである。このことは、イエス様の十字架と復活の出来事を踏まえてみるとわかってきます。これについてもう少し詳しく述べます。

 

 キリスト信仰者というのは、神のひとり子イエス様がゴルゴタの十字架で私の罪を全て私に代わって神に対して償って下さったのだ、だから彼は私の救い主なのだと信じてそう告白する者です。信仰者はまた洗礼を受けたことでこの罪の償いが効力を発揮して神から罪を赦された者と見なされる者です。神から罪を赦されたということは、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになったということです。神との結びつきの中で生きる時、人はこれからは神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。

 

しかしながら、神の意思に沿うように生きようとする志向が生まれても、それに反しようとする性向もまだ残っています。それでキリスト信仰者は二つのものの間に挟まれて生きることになります。まさにローマ67章で見てきた通りのことが起こります。しかし、信仰者が罪の自覚を持たされる度に、洗礼の時に注がれた聖霊がすぐ来て信仰者の心の目をゴルゴタの十字架に向けさせます。そこで神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されている。だからこれからは罪に足をすくわれないように気をつけなさい」と言って下さり、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えて下さいます。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきなどなくなってしまったと感じられる時も出てきますが、その時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは自分から脱ぎ捨てない限り消え去ることはありません。

 

このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架に戻ることを絶えず繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日に「神の国」へ迎え入れられることです。そもそもイエス様の復活というのは、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、その命に至る道を人間に開いたということです。キリスト信仰者はその道に置かれてそれを歩むようになった者です。先週の説教でもお教えしましたように、キリスト信仰者は十字架に立ち返りながら将来の「神の国」を目指し、その間はこの世でしなければならないことをします。仕事があればそれをし、なければ探し、世話をする人がいれば世話をし、戦う病気があれば戦う、それらを十字架に立ち返りながら「神の国」を目指してするのです。その時、しなければならないことの仕方、姿勢も定まってきます。パウロが言うように、高ぶらない、自惚れない、悪を憎み、悪に悪に返さず、全ての人の前で善を行い、喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣き、自分では復讐せず最後の審判の時の神の怒りに任せ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、そういう仕方、姿勢になっていきます。

 

キリスト信仰者が十字架に立ち返りながら「神の国」を目指して進む生き方をする時、日曜日の礼拝はそうした生き方にとって心臓と同じ働きをします。礼拝で神の御言葉に聴き、神を賛美し祈りを捧げ、聖餐に与ると霊的な清い血液が全身に送り出されて、平日の日常の中で各自が置かれた場で十字架への立ち返りと「神の国」を目指す力になります。あたかも疲れて汚れた血が再びきれいにされて心臓から全身に送り出されるように、信仰者も礼拝を通して清められて新しい週に旅立っていくのです。

 

4.死生観を巡る戦い

 

そういうわけで、キリスト信仰者にとって礼拝を中心とした信仰の生き方ができれば皇帝がいても構わないということになります。しかし、民主主義が当たり前の今の時代にローマ皇帝のような専制君主がいても構わないなんて言うのははやりません。イエス様は専制君主を容認したことになるのか?実はそういうことではありません。そのことがわかるために、少し逆説的ですがパウロのローマ13章の教えを見てみます。

 

 ローマ13章はパウロがこの世の権威や権力に従うべしと教えるところです。権力は社会秩序のために処罰を行う、だから権威を敬い、税金をしっかり納めるようになどと勧めています。権力者が聞いたらキリスト教徒はものわかりがいいと微笑むでしょう。しかもパウロは従う理由として、全ての権威は神によって立てられたなどと言います。これをローマの皇帝だけでなく後世のあらゆる支配者が読んだらみんな大喜びでしょう。なんだパウロも専制君主容認か、というふうに見えます。

 

 ところが、この「神によって立てられた」というのは裏があります。支配者が神によって立てられたということは、支配者の上に神があることになり、神が望めば支配者はいつでもその座から滑り落ちることになります。このことは、本日の旧約の日課イザヤ書45章でもはっきり言い表されています。キュロスというのは、ペルシャの国王でバビロン帝国を滅ぼして古代オリエントの覇者になった人です。ユダヤ民族ではありませんが、聖書の神が彼をその地位につかせるというのです。なぜ神はそんなことをするのかと言うと、バビロン帝国を滅ぼすことでイスラエルの民を解放して祖国に帰還させるという昔からの預言を実現するためでした。これは実際その通りになり、バビロンを滅ぼした後キュロスは勅令を出してイスラエルの民の祖国帰還とエルサレムの神殿の再建を許可します。イザヤ書457節で神は「平和をもたらし、災いを創造する者」と言われます。ヘブライ語の原文を直訳するとそうですが、神は権力者の上に立つという趣旨で見たらここは「神は繁栄をもたらし滅亡ももたらす方」と訳した方がいいと思います。

 

このように天地創造の神は、異民族の王を用いてイスラエルの民のために預言を実現させたのです。ただし、日課の個所にもはっきり記されているように、キュロス自身は自分を動かしている神を知らずに、これらのことを行いました。本人はあたかも自分の力で全てのことを成し遂げているつもりだったのでしょうが、実はそうではなかったのです。宗教改革のルターも、国や民族の興亡は全て神の手に握られていて、国が興隆して栄えるのは神が風船に息を吹き込んでふくらますようなものであり、神が手を離したら最後、空気は抜けていくだけで誰もそれをくい止めることはできないと言っています。それ位、権力者というのは最後のところでは神に手綱を握られているというのが聖書の観点で、パウロもイエス様もそれをお見通しなわけです。そうであればあらゆる権力者の上に立つ神がやはり本当の権力者となり従うべき方となります。

 

この世の権力に従うことと神の意思に従うことがぶつからなければ問題ないのですが、歴史はそうならない事例に満ちてしまいました。まず、ペトロとヨハネがユダヤ教社会の指導部の前に連れていかれ、イエスの名を広めたら罰を受けることになると脅されました。それに対して二人は「神に従わないであなたがたに従うことが神の前に正しいかどうか考えよ」と答えます(使徒言行録419節)。これがこの世の権力に従う時の基準になりました。やがて権力者が、信仰を捨てるか命を捨てるかの選択を迫って迫害が起こるようになります。この日本でも起こりました。

 

信仰の自由が基本的人権として保障される現代では、そのような選択を迫られることはないというのが大前提です。しかしながら、最近の民主主義国で起こっていること、特にインターネットやSNSを通してどんな意見や考えが多数派を形成するか危なっかしい時代では、信仰を守るということでも目を覚ましていなければならないと思います。その場合、信仰を守ると言う時に何を守ることが信仰を守ることになるのか今一度考えてみることは大事です。礼拝を妨害を受けずに守れること、これが大事なことは言うまでもありませんが、もっと深いところにも心を留める必要があります。何かと言うと、死生観です。

 

この説教でお教えしてきたことから明らかなように、信仰というのは死生観を持って生きることと言うことが出来ます。キリスト信仰の死生観とは、復活の日に眠りから目覚めさせられて、肉の体と異なる朽ちない復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる、そういうことがあるのでこの世の歩みはそれを目指す歩みになるということです。その歩みをする際、神の意思に沿おうとして絶えず主の十字架に立ち返りながら復活の日を目指すという歩み方になります。これらがキリスト信仰の死生観を形作っています。キリスト信仰者がこのような死生観を持って生きるのは、聖書を繙いて学んでそうなのだと確信したからです。信仰の自由の侵害とはつまるところ、その死生観をやめてこっちのものを持て、ということです。権力者はその生き方死に方が気にくわないのだ、だからやめろ、言うことを聞け、と言って、確信が揺らぐようなことをするのが迫害です。

 

キリスト信仰の死生観を捨てさせようとしたり、確信もしていない別の死生観を持たせようとする動きがないか注意することはいつの時代でも信仰の自由を守る基本であると言えるでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2020年10月12日月曜日

神が差し出すものを受け取れば人生の方向が見えてくる (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2020年10月11日 聖霊降臨後第19主日

 

イザヤ書25章1-9節

フィリピの信徒への手紙4章1-9節

マタイによる福音書22章1-14節

 

説教題 「神が差し出すものを受け取れば人生の方向が見えてくる」

 

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

 

本日の福音書の個所は難しいでしょうか簡単でしょうか?字面を追って行けばこういうことです。王様が王子の結婚式の祝宴を催した。招待した人たちに用意出来ましたのでどうぞと言ったのに彼らは来ないばかりか使いの者に乱暴して殺してしまったりする。怒った王様は軍隊を送って彼らを町ごと焼き討ちにしてしまう。王様は家来に命じて町で見かけた者は誰でもいいから連れて来いと言い、それで祝宴の席は一杯になる、これでめでたしめでたしかと思いきや、来賓席の中に間違った服装の者がいて、その人は手足を縛られて外に放り出されてしまう。以上のようなことです。字面を追えば書いてあることはわかります。本日の旧約の日課イザヤ書25章では「主はこの山ですべての民の顔を覆い包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし」なんてのがあり(7節)、これは字面を追ってもなんのことかわかりません。それに比べたらイエス様の話は具体的でわかりやすいです。

 

それではイエス様はこのたとえで何を教えようとしているのか?偉い人から招待を受けたらちゃんと応じなさい、招待席に着く時はドレスコードをちゃんと守りなさい、さもないととんでもないことになるよ、ということでしょうか?イエス様がたとえを使って「神の国」について教える時、登場する王様とか主人は決まって天地創造の神を意味します。招待をすっぽかした人たちを焼き討ちにしたり、服装を間違えた人を縛って追い出すような神を誰が信じたいと思うでしょうか?

 

しかしながら、イエス様が教えようとしていることは、そういう字面から浮かび上がることでは全くありません。聖書の文章を理解する時は、もちろん字面の理解が大切なことは言うまでもありませんが、その文章がある流れ、文脈、コンテキストを踏まえて問題となっている文章を見ないと、さっきのような神はひどい方という理解に留まります。しかし、文章上のコンテキストだけではまだ足りません。コンテキストのさらなるコンテキスト、つまりマタイ福音書を書き上げた「マタイ」の観点と彼の観点の土台にある使徒たちの観点を踏まえないと文章の理解に到達できません。さらにイエス様自身の観点も考えなければなりません。なぜなら使徒たちの観点はイエス様の観点を土台にしているからです。そして、イエス様の観点を知るためには旧約聖書の観点を知らなければなりません。

 

このように、聖書を理解するというのは途方もないことです。説教者は本当に持てる力を最大限駆使して祈りながら説教を準備します。「父なるみ神よ、イエス様がおっしゃりたいことはこれで宜しかったでしょうか?間違っていたら、わざとやったことではないのでどうか赦して下さい。」説教者はそのように準備しているのですから、礼拝に出席する人は説教者の真摯さ誠実さをくみ取って、それなりの敬意を持って聴くべきだと思います。これは私にそうしろと言っているのではなく、一般的に説教者について言えることです。

 

それから「観点」と申しましたが、これも一筋縄ではいかないものです。ある人は、マタイの観点はこれだ、と言い、別の人は、これだ、と言う。いろんな見解や学説があります。教派によっても違ってきます。私の場合は、ルター派の保守的な立場に立って、いろんな「観点」を捉えていく立場ですので、その点はご了承ください。

 

2.このたとえを反対者の耳で聞かない

 

 それでは、イエス様はこのたとえで何を教えようとしているのでしょうか?いろいろな人物が登場します。結婚式を祝われる王子と、その祝宴を準備する王様がいる。招待客を呼びに行かされる家来たちがいる。もともと招待されていたのに出席を拒否した者たちがいて、招待されていなかったが新たに招かれて出席した人たちがいる。出席した人たちの中で相応しい服装をしていなかったため祝宴から追い出されてしまった人もいました。これらの人たちは一体何をたとえているのでしょうか?

 

 まず、このたとえがどういう流れの中で話されたかを見ます。イエス様は自分の教えや活動に反対する人たち、ユダヤ教社会の宗教エリートたちを前にして話しています。はじめに、父親と二人の息子のたとえを話します。先々週の説教の個所です。一人は父親にブドウ畑に行って仕事するように言われ、最初は行かないと行ったが思い直して行った息子。もう一人は行くと言ったけれども行かなかった息子の話。それをイエス様は自分で解き明かしして、最初の息子は、罪を悔い改めて神の方に方向転換して生きるようになった元罪びとたち、二番目の息子は悔い改めも方向転換もしない宗教エリートたちであると言います。将来「神の国」に迎え入れられるのはお前たちではなく元罪びとたちだと言って、宗教エリートたちを手厳しく批判します。

 

 その次に「ブドウ畑と雇われ農夫」のたとえを話します。先週の説教の個所です。ブドウ畑の所有者が収穫を届けさせようと僕を送ったが農夫たちは応じない。最後には所有者の息子が送られたが、農夫たちは殺害してブドウ畑を自分たちのものにしようとしたという話でした。それを聞いていた宗教エリートたちはそんな農夫たちは処罰されるべきでブドウ畑は相応しい農夫に委ねられるべきだと言い返します。その時イエス様は、それはお前たちのことでその言葉通り「神の国」はお前たちから取り上げられてユダヤ民族以外の民族に与えられると言います。これも宗教エリートたちに対する痛烈な批判でした。

 

 そして今日の「王子の結婚式の祝宴」のたとえが来ます。このたとえには解き明かしはつきません。しかし、宗教エリートたちはこれも自分たちに対する批判と理解しました。それで彼らはイエス様を当局に訴えるための策を話し合ったのです(15節)。最初と二番目のたとえをもとにすれば、「王子の結婚式の祝宴」の王は紛れもなく天地創造の神です。それで王子は神の子です。家来や相応しくない服装をした者が誰を指すかは不明ですが、招待を拒否して滅ぼされてしまう者たちは最初の二つのたとえからすれば、どうも自分たちに向けられているとエリートたちは感じないではいられなかったでしょう。

 

このように、このたとえを字面で読むと王の仕打ちが厳しすぎると感じられるのは、これが宗教エリートに向けられた批判という面があるからです。しかし、それは一つの面でこのたとえには他の面もあります。イエス様は広く一般的な真理を述べていて、反対者には厳しく聞こえるが、そうでない者には違って聞こえるのです。どう聞こえるでしょうか?それは、「万物の創造主である神が全ての人間に対してどうぞ受け取りなさいと差し出しているものがある。それを受け取ると人間はこの世を生きることに目指す方向が明らかになり、生き方や姿勢もそれに倣ったものになる」ということです。このたとえを読んで、そんなふうに全然聞こえないと言われるでしょう。しかし、実はそういうことなのです。そのことを以下に見ていきましょう。

 

3.「神の国」、終末論、新しい創造

 

最初にこの祝宴は何を指すのかを見てみます。それがわかれば、家来や相応しくない服装をした者が誰を指すかもわかります。

 

この祝宴はまさに「神の国」を意味します。「天の国」、「天国」とも呼ばれますが、ここでは「神の国」でいきます。「神の国」については先週の説教でもお教えしました。聖書にはよく知られるように、終末論と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地を創造し直すという観点です。今は目には見えない、手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として現れ、最後の審判をクリアーした者たちが朽ちない復活の体を着せられてそこに迎え入れられるというのです。

 

「神の国」は黙示録19章にあるように「結婚式の祝宴」にたとえられます。花婿は再臨の主キリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた人たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた人たちがこの世での労苦を全て、ああ、そんなこともあったな、としか思えなくなる位に労われるまさに至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」で神は迎え入れた人たちの涙を全て拭われると言います(4節)。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的に完全に決着するということです。最後の審判があるのはそのためです。

 

黙示録を知っている人ならイエス様のたとえで「結婚式の祝宴」なんて聞いたら、すぐ、あっ、神の国の到来と迎え入れられた人たちのことを言っているとわかったでしょう。しかしながら、イエス様がこのたとえを話したのは、まだ彼の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。黙示録をはじめ新約聖書の書物が記されるのはまだ先のことです。当時の人たちにはまだ旧約聖書しかありません。このイエス様のたとえを聞いて、彼らは王子の結婚式の祝宴が「神の国」のことを言っているとわかったでしょうか?

 

 答えは、ひょっとしたらわかったかもしれないし、わからなかったかもしれない、です。分かったかもしれないと言うのは、旧約聖書にも将来到来する「神の国」が何か祝宴に例えられるということがあるからです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章がそうです。6節で祝宴について言われます。8節を見ると、神が祝宴の席につく全ての人たちの涙を拭うことが言われています。キリスト信仰者が見たら、あっ、「神の国」について言っている、とわかります。8節ではまた、神は死を永久に滅ぼすと言っています。ヘブライ語の原文は「死を永久に飲み込む」とも訳せます。使徒パウロは第一コリント1554節で「死は勝利に飲み込まれる」と言っています。彼がイザヤを引用しているのは明らかです。実はこの第一コリント15章というのは、復活の日に着せられる体、この世で着ている肉の体とは異なる朽ちない「復活の体」について教えるところです。パウロがイザヤ25章を念頭に置いているとわかれば、257節の不可解な個所「すべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし」というのは肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味していることがわかります。ここのヘブライ語の原文の趣旨も「全ての人間を覆っている表面部分を一掃する」という意味です。つまり、肉の体の一掃です。

 

 旧約聖書に言われているのならば、新約聖書を持たない当時の人たちでも「神の国」だと理解できたかと言うとやはりこころもとない面もありました。というのは、イザヤ書25章に限らず旧約聖書の預言は聞く人読む人の置かれた時代状況の都合にあわせて理解されてしまうからです。イザヤ書25章の場合、預言者イザヤが活動した紀元前700年代の状況の真っ只中で聞いたら、これはユダ王国がアッシリア帝国の攻撃を撃退して勝利の凱歌を上げることを預言していると受け取られたでしょう。それは実際ヒゼキア王の時にその通りになりました。しかし、ユダ王国はその100年少し後でバビロン帝国の攻撃を受けて滅びてしまいました。捕虜になった人たちからすれば、この預言は祖国帰還と国の復興を預言するものと受け取られたでしょう。それは実際に紀元前500年代の終わりにその通りになりました。

 

 しかしながら、ユダヤ民族の苦難の歴史は祖国帰還後も続きました。それで、この預言は本当はまだ実現していない、本当に実現する時は「死が永遠に滅ぼされる」が単なる修辞文句ではなく、本当に文字通り死が滅ぼされることが起こるのだと信じられるようになります。そう信じたのはユダヤ民族の多くではありませんでしたが、でもこれが神の意思と計画を正確に把握していたことになります。まさにそのような時にイエス様が歴史の舞台に登場して、彼の十字架の死と死からの復活の出来事が起きたのです。復活した主を目撃した人たちは、彼を通して死が永遠に滅ぼされたとわかりました。それで旧約聖書が終末論と新創造の観点で輝きだし、彼らは新約聖書の書物を書き記していったのです。そういうわけで、旧約聖書と新約聖書を結び付けているのは終末論と新創造の観点であると言っても過言ではないでしょう。

 

4.神が人間に差し出して下さっているもの - 福音

 

イエス様のたとえに出てくる王子を神の子、つまりイエス様本人だとすると一つ疑問が起きます。それは、この神の子は何もしないのです。前の「ブドウ畑と雇われ農夫」のたとえでは所有者の息子が殺害されると言って、神の子イエス様が十字架にかけられることを暗示していました。祝宴のたとえでは何もしないでただ嬉しそうにニコニコ座っているだけなのでしょうか?

 

ところが、目をよく見開いて読むと神の子の働きはちゃんとたとえの中にあることがわかります。王は招待客への伝言として「食事の用意が整った。牛や肥えた家畜を屠って、すべて用意ができた」(4節)と言います。最初の招待が頓挫した後、王は家来に「婚宴は用意できているのだが」とこぼします。このように「用意できている」という言葉が繰り返されます。これは、神の人間救済計画が実現したということ、人間の救いは神の側で全て整えられて準備できたということを意味します。イエス様は十字架の上で息を引き取られる直前に「全てのことが成し遂げられた」(ヨハネ1930節)と言われました。成し遂げられた「全てのこと」とは、神の人間救済計画の全部を指します。

 

神がイエス様を用いて人間救済計画を全部実現されたということは本教会の説教でも毎回お教えしている通りです。人間は堕罪の時に神の意思に反する性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで神との結びつきを失った状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。神は人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにと、またこの世を去った後も復活の日に復活の体を着せて永遠に神の国に迎え入れられるようにと、そのためにひとり子のイエス様をこの世に贈られます。そして、人間が本来受けなければならない罪の神罰を彼にゴルゴタの十字架の上で全部受けさせて人間の罪の償いをさせます。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この罪の償いがその通りに起こります。罪を償われた以上は神から罪を赦された者として扱われるので、神との結びつきを持って生きられるようになるのです。それはこの世においてだけでなく、次に来る世においてもそうなるのです。

 

そういうわけで、たとえに出てくる家来たちというのは、イエス様の十字架と復活のおかげで人間の救いが準備できたという知らせ、まさに「福音」を宣べ伝えた使徒たちや伝道者たちを意味します。福音ははじめ旧約聖書を持つユダヤ民族に伝えられました。ある者はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けますが、そうならない者も多く出てしまいました。ユダヤ民族の首都エルサレムは紀元70年にローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいます。たとえの中の町の焼き討ちはその預言だったのです。他方で、福音はユダヤ民族以外の異邦人にも宣べ伝えられていき、こうした異邦人出身のキリスト信仰者がキリスト教会の主流になっていきます。まさに、家来たちが王の命令に従って至るところで見つけ次第人を招いたように、伝道者たちは人種民族に関係なく宣べ伝えたのです。それが天地創造の神の意思だったからです。「わが子イエスの犠牲によってお前は罪を赦された者となり、私と結びついてこの世を生きる者となる。復活の日には私の国に迎え入れられる者になる。お前はこれを信じるか?イエスをお前の救い主として受け入れるか?」そう神は全ての人に言われ、この福音を受け取りなさいと全ての人に差し出されているのです。

 

善人も悪人も皆招待したと言うのは、人をみかけで選り好みせずに招待したということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら最後、悪人は悪人でいられなくなります。善人も善人でいられなくなります。みんな神の尺度で変えられていきます。みんな変えられた者として祝宴の席につくのです。

 

4.心は十字架と「神の国」を向き、体はなすべきことを相応しくなす

 

それでは福音を神から受け取った者はどう変えられるのでしょうか?キリスト信仰者になったとはいっても、この世にいる限りはまだ朽ちる肉の体を纏っています。それで神の意思に反することがいろいろ出てきます。信仰者になれば神の意思というものに敏感になるのでなおさらです。洗礼を受けても自分は完璧な人間になっていないことを思い知らされることが沢山出てきて、洗礼なんか意味はなかったなどと思う人も出ます。しかし、それは大いなる勘違いです。キリスト信仰者が罪の意識を持つ度に信仰者の内に宿る聖霊は心の目をゴルゴタの十字架のイエス様に向けさせます。そこで神は「イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦されている。だからこれからは罪に足をすくわれないように気をつけなさい」と言われ、神と信仰者の結びつきは失われずにしっかりあると教えてくれるのです。罪以外のことでも心が打ち砕かれて神との結びつきがなくなったように感じられる時も同じです。洗礼を通して与えられた神との結びつきは、自分から脱ぎ捨てない限り消えることはありません。結びつきが失われていないということを確認できる地点に導くのが聖霊の仕事です。聖霊は洗礼を通して与えられるのです。

 

このようにキリスト信仰者はゴルゴタの十字架のもとに戻ることを絶えず繰り返しながら前へ進みます。目指しているのは復活の日の神の国への迎え入れです。そのように言うと、キリスト信仰者というのは心は過去の十字架と将来の神の国だけに向けられて、その間にあることには向かないのか?この世にはしなければならないことが沢山あるのに、それはどうでもいいのか?と言われるかもしれません。そういうことではありません。もちろんキリスト信仰者もこの世でしなければならないことをします。仕事があり、世話をする人たちがあり、戦う病気があり、仕事がなければ探すこと等々しなければならないことは沢山あります。キリスト信仰者は世捨て人ではありえません。ただ、しなければならないことをする際の仕方、姿勢が決まっているのです。どんな仕方、姿勢でしなければならないことをするのかと言うと、パウロが一つの例としてローマ12章で教えています。高ぶるな、自分を賢い者とうぬぼれるな、身分の低い人と交われ、悪を憎み、誰に対しても悪に悪を返せず、全ての人の前で善を行え、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け、自分では復讐せず神の怒りに任せよ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ等々です。

 

これらのことは、キリスト信仰者ならこうしなければならない、出来ないと失格というような、神に認められるための条件ではありません。そうではなくて、もう既に神に認められた者なので十字架に絶えず戻りながら神の国に向かって進むことをすると、結果としてそういう生き方、姿勢になっていくということです。だからキリスト信仰者は、心は十字架に戻ること神の国を目指すことで一杯にして、体はこの世でしなければならないことをしていけばいいのです。そうすればパウロが教えるような仕方、姿勢でするようになっていくのです。自分でも気がつかないうちにそうなっていきます。

 

そういうわけで、祝宴の席で相応しくない服装を着ていた者というのは、かつて洗礼を受けていたのに、十字架に戻りながら神の国を目指すことをしなかった者ということになります。洗礼を通して頂いた神からの贈り物を捨ててしまったのです。洗礼を受けたら何が何でも大丈夫ということではないのです。しかし、十字架に戻りながら神の国を目指してさえいれば、何も心配はありません。祝宴の席で全ての涙は拭われて大いなる労いを受けます。それこそ、嬉しそうにニコニコ顔で座っているイエス様と一緒に座れて心は感謝と喜びに満たされるでしょう。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2020年10月5日月曜日

神の国に向かって走れ (吉村博明)

 説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

 

スオミ・キリスト教会

 

主日礼拝説教 2020年10月4日 聖霊降臨後第18主日

 

イザヤ書5章1-7節

フィリピの信徒への手紙3章4b-14節

マタイによる福音書21章33-44節

 

説教題 「神の国に向かって走れ」

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。                                                                            アーメン

 

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.イザヤ書5章の「ブドウ畑」のたとえ

 

本日の福音書の箇所のタイトルは「ブドウ園と農夫のたとえ」です。正確には農夫は自営農ではなく雇われ人ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」です。聖書を読んだことある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、所有者が送った僕たちは神が遣わした預言者たちを指す。これに乱暴を加え殺すことまでしてしまう雇われ農夫たちはユダヤ教社会の指導者たち、そして所有者が最後に送る息子はイエス様、という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 

これがわかれば、たとえの内容もわかります。天地創造の神は世界の数ある民族の中からイスラエルの民を自分の民として選ばれた。彼らは神からモーセの律法を授けられて、それを誇りに思い一生懸命に守ろうとした。ところが民の生き方は次第に神の意思から離れていって、エルサレムの神殿を中心とする崇拝も外面的な儀式の繰り返しに堕してしまった。社会の秩序も乱れ悪と不正がはびこってしまった。

 

そこで神は民が自分のもとに立ち返ることが出来るようにと預言者を立て続けに送った。しかし、誰も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後の最後には愛するひとり子のイエス様をこの世に送ったが、それさえも彼らは十字架にかけて殺してしまった。このように私たちは、イエス様のたとえをなんなく理解できます。でも、それは私たちが、イエス様が十字架にかけられたことを知っているからです。ところが、このたとえを十字架の出来事の前に聞かされたら、どうでしょうか?このたとえは当時のユダヤ教社会の指導者たちに向けて話されました。彼らはこれをどう理解したでしょうか?

 

指導者たちがこのたとえを理解できる手掛かりがひとつありました。それは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書51~7節の聖句です。天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体の者のようにぶどう畑を持っていた、というたとえの教えです。そこで、一生懸命働いて良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱくて、ぶどう酒に向かないぶどうが出来てしまった。そういうことを歌にして歌った後で神は、この恩知らずのぶどう畑はイスラエルの民の情けない現状である、と解き明しを始めます。ここでブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。その神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは一体誰か?キリスト信仰の観点からすればやはり御子イエス様を指すのは間違いないでしょう。

 

さて神は、イスラエルの民というぶどう畑が良い実を実らせるように出来るだけのことをしてあげた。民を奴隷の地エジプトから解放して約束の地カナンに定住させた。その途上で律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってあげた。それなのに民は、神の意思に沿わない生き方に走ってしまった。この神の御言葉を記した預言者イザヤはイエス様の時代から700年以上も前の人です。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、当時の状況をよく言い表していました。当時ユダヤ民族には南北二つの王国があり、北王国はちょうどその頃アッシュリアという大帝国に滅ぼされてしまいました。南王国は100年近く持ちこたえますが、これも最後はバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさにイザヤ書556節で言われるような神に見捨てられたぶどう畑のようになってしまったのです。

 

2.イエス様の「ブドウ園と雇われ農夫たち」のたとえ

 

それから700年以上経った後で、イエス様がブドウ畑と雇われ農夫のたとえを話しました。話す相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ畑の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。ところが、イエス様のたとえにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ます。雇われ農夫がそうですし、所有者が送った僕や息子もそうでした。指導者たちは「この預言者の再来と騒がれているイエスは、イザヤ書の聖句を引き合いに出して何を言おうとしているのだ?」と首を傾げつつ耳を傾けたでしょう。

 

実はイエス様のたとえにはイザヤ書の引用ということの他に、当時の社会と経済の現実が折り重なっているという面もあったのです。どういうことかと言うと、ブドウ畑の所有者は雇われ農夫に全てを任せて旅に出ました。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先かと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ畑を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が自国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことは筋が通ります。普通だったら、そんなことをしたらすぐ逮捕されて自分たちのものなんかになりません。しめしめ、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国だ、邪魔者はいない、ブドウ畑は俺たちのものさ、ということです。

 

そうなると、このたとえはブドウ畑の外国人所有者に対する現地労働者の反逆行為について述べているように聞こえてきます。しかし、イザヤ書の聖句が土台にある。そうすると、所有者に対する反逆は神に対する反逆になる。所有者が送った僕が殺されるというのは、バビロン捕囚の前の時代に神が送った預言者たちが迫害されたことに思い当たります。迫害したのは国の指導者たちだったのです。そうなると神に対する反逆者は指導者たちとはっきり言っていることになります。

 

しかし、所有者の息子とは誰のことなのか?所有者が神を意味するなら息子は神の子ということになる。指導者たちが神の子をも殺してしまうなどと言っている。それはなんのことなのか?そう言えば、このイエスは自分を神の子と自称しているそうではないか。まさか…..

 

まさにその時です、イエス様が指導者たちに質問しました。。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするか?」たとえの本当の意味がまだわかっていない指導者たちは当たり前のことのように答えます。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸すだろう。」指導者たちはまさかこの答えで自分たちの運命を自分で言い表したとは思いもよらなかったでしょう。

 

指導者たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てたはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇1182223節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経てキリスト教会の基になったのです。その石を捨てた、「家を建てる者」とは、イエス様を十字架刑に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた者たちというのは、価値のあるものを理解できない人間であるとわかります。それは、先ほどの雇われ農夫同様に良からぬ者を代表しているとわかります。

 

この男はイザヤ書と詩篇の聖句をもとにして何を言いたいのか?雇われ農夫、家を建てる者とは誰を指すのか?指導者たちはイエス様の口から出て来る次の言葉を固唾を飲んで待ちました。

 

 そこでイエス様は全てを解き明かします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνοςは、たいていはユダヤ民族以外の民族を指す言葉です。日本語で「異邦人」と訳されます。ここにきてイエス様の教えの全容がはっきりしました。ブドウ畑を神の国と言うのなら、その所有者はやっぱり神です!神が送ったのに迫害され殺された僕たちとはやはり旧約聖書に登場する預言者たちでした!つまり、邪悪な雇われ農夫とはユダヤ教社会の指導者たちだったのでした!その指導者たちが神の子を殺してしまうなどと言う。我々が神の子を殺すというのか?この男が神の子だと言うのか?神に対する冒涜だ!しかも、我々ユダヤ民族が受け継ぐことになっている神の国が取り去られて、異邦人が受け継ぐようになるなどと言う!冗談も休み休みにしろ!怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした。

 

3.「神の国」とは?

 

以上見てきたように、イエス様はこのたとえで、イザヤ書のブドウ畑のたとえはユダヤ民族の過去の歴史の話に留まらないということを教えています。神の意思はイザヤの時代も今も変わらない、それなので神に逆らって生きれば、社会の衰退と混乱、国土の荒廃をもたらすだけでなく、神の国を受け継ぐ資格も失ってしまうということを教えています。イエス様の時代の700年以上前に預言されてとっくに実現済みと思われていたことは、実はまだ続いているということを教えているのです。

 

そうすると、イエス様のたとえの中で言われたこと、神のひとり子が指導者たちによって殺されて、ユダヤ民族が神の国を受け継ぐ資格を失い代わりに異邦人が受け継ぐようになるということ、これはゴルゴタの十字架の出来事が起きることでその通りになりました。またイエス様の復活後にキリスト教会が誕生してそこに異邦人がなだれ込んでくることでもその通りになりました。このようにイエス様の言われたことは見事に実現してしまったので、このたとえ自体をもう過去のものとして片付けてしまっていいのでしょうか?

 

そうではないのです。このイエス様のたとえは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えています。イエス様の時代から2000年経った今でもそうです。この一見、現代の私たちの地点から見れば過去のことを言っているにしか見えないたとえですが、今を生きる私たちにどういう生き方を教えているでしょうか?それがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目します。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくて「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の「異邦人」です。ユダヤ民族以外の、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられる、と言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とはなんなのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族は取り上げられると言われて激怒したが、異邦人の我々は与えられて嬉しいものなのか?

 

 「神の国」については、説教で何度もお教えしてきました。ここでもまた繰り返します。これからお聞きになればわかるように、聖書の「神の国」について知るということは、キリスト教の死生観を知ることにもなります。

 

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、愛するひとり子を御許からこの世に贈り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 

 神の国はまた、神聖な神の神聖な意思が貫かれているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間というのは、もともとはそのような神聖な神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神の意思に反する罪を持つようになったために神のもとにいることができなくなり、神との結びつきが失われてしまいました。それで人間は死ぬ存在になってしまったのです。この辺の事情は創世記3章に詳しく記されています。

 

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との結びつきを回復させようと考えました。神との結びつきが回復すれば人間はこの世の人生をその結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。この世から別れることになっても、復活の日まで安らかな眠りにつき、その日が来たら目覚めさせられ、復活の体と命を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。これらのことが可能になるためには、神との結びつきを失わせた罪を人間から除去しなければなりません。人間は罪のない清い存在にならなければならないのです。しかし、神の意思を完全に実現できない人間にそれは不可能です。しかし、神は人間を救いたいのです。

 

 このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に贈りました。そして、人間の罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。神は文字通りイエス様に人間の罪の償いをさせたのでした。話はそこで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されました。そこで私たち人間が、これらのことは全て自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって、感謝と畏れ多い気持ちに満たされて、これからは罪を犯さないようにしよう。罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。

 

 ところが、キリスト信仰者と言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の場合は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせてこう言います。「わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」。そのようにして信仰者が新しいスタートを切れるようにして下さいます。罪を赦すというのは、罪を許可するということではありません。イエスがお前の代わりに償ったので不問にする、だから心配しないで前を向いて行きなさい、ということです。本日の使徒書の日課フィリピ3章でも使徒パウロはこう言っていました。「過去のことは忘れて、前にあるものに身を乗り出すようにして自分はゴール目指してひたすら走るのだ」と。ゴールとは、ずばり神の国への迎え入れという賞が授与されるところです(1314節)。

 

 キリスト信仰者は罪の汚れを残しているけれども、イエス様のおかげで全く清い者と見なしてもらえるようになりました。それで、それに相応しく生きなければと襟を正すのです。以前は創造主の神に背を向けていた、しかし今は方向転換して神の方を向いて神が備えて下さった結びつきを持って前へ前へと進んでいる。それがキリスト信仰者です。行先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を進んでいれば神の国に予約席があります。パウロが同じフィリピの3章で言っている通りです。「私は死からの復活にはまだ達していないし、完璧な者にもなっていない。しかし、自分自身がイエス・キリストのものにされたがゆえに復活に与ることが出来るというのであれば、ただひたすら走るのみである。」(12節)

 

 ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはまた最後の審判が行われる日です。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる日です。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日眠りから目覚めさせられて復活する者たちを一緒にして、神の国に迎え入れられます。

 

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録214節(717節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを言い当てています。

 

4.神の国の実を結ぶ者

 

以上「神の国」がどういう国かについてお話ししました。今度は「神の国」が与えられることになる「異邦人」、すなわち「神の国の実を結ぶ異邦人」とは誰なのかを考えてみましょう。「異邦人」は、先ほども申し上げましたように、ユダヤ民族以外のその他の民族です。日本人も中国人も欧米人もアフリカ人も皆、ユダヤ民族から見たら「異邦人」です。それが「神の国の実を結ぶ」というのは、どういうことか?その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言われています。それだったら、そもそも誰に「神の国」が与えられるかを思い出せばいいのです。それは、前にも述べましたように、イエス様を救い主と信じる者です。こうして神の国を与えられる者が二つ出てきました。一つはイエス様を救い主と信じる者。もう一つは神の国の実を結ぶもの。そういうわけでイエス様を救い主を信じる者と神の国の実を結ぶ者はイコールで結ばれます。イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶことなのです(後注)。

 

 そこで、イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶなどと言われても、実際本当に何か実を結んでいるのか実感がわかない人が多いかもしれません。そもそもキリスト信仰者というのは、神の意思に沿うように清く正しく生きようとし、それに反するものに与しないようにしようとします。反するものが自分の前にやってきたら、その時はゴルゴタの十字架から来る力、つまり罪と死を打ち破って神との結びつきを与える力、これで本当に打ち破る力を持つと言えるのは、キリスト信仰者には罪の赦しと永遠の命が洗礼を通して植えつけられているからです。そしてイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、それらが植えつけられているのは動かせない事実だとわかっています。そのようにしてキリスト信仰者は毎日毎日、罪の赦しと永遠の命に相応しい者へと変えられていきます。これが神の国の実を結ぶことです。

 

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

(後注)ここで注意しなければならないのは、単純にユダヤ民族が失格で異邦人が合格ということではないことです。ユダヤ民族でもイエス様を救い主と信じた人たちがいます。ペトロもパウロもマリアも皆ユダヤ民族出身のキリスト信仰者です。ユダヤ民族は、イエス様の十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じる者と信じない者と真二つに分かれました。異邦人も同じでした。パウロのような伝道者が異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えた結果、欧米人、日本人、中国人、アフリカ人にもイエス様を救い主と信じる人が生まれるに至りました。要は、ここで言われる「異邦人」とは、何民族に属するか関係なくイエス様を救い主と信じる者全てを指すということです。神はイスラエルの民を神の国を受け継ぐものに任じていたが、これを機に民を見限ってそれ以外の民族に神の国を受け継がせることにした。この、ユダヤ民族にかわって新たに神の国を受け継ぐことになったのがキリスト信仰者ということになります。イエス様がここで話していることはユダヤ民族の過去の歴史と近い将来に起こることについての預言でした。