2012年2月29日水曜日

イエス様は荒野での悪魔に対する勝利を私たちに与えて下さる (吉村博明)

 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士) 
  
主日礼拝説教 2012年2月16日 四旬節第一主日 
  
日本福音ルーテル横浜教会にて
   
「創世記」9:8-17、
「ペテロの第一の手紙」3:18-22、
「マルコによる福音書」1:12-13
  
説教題 イエス様は荒野での悪魔に対する勝利を私たちに与えて下さる
   
   
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
   
1.        はじめに - イエス様の受難を覚える四旬節
   
 古いキリスト教会の伝統として紀元後300年頃には、復活祭の前に主日を除いて40日間断食をすることが行われるようになっていました。その40日間を日本語で四旬節と呼びます。今年は、48日が復活祭に定められているので、主日を除いた40日間は222日、この間の水曜日に始まり、教会歴ではこれを「灰の水曜日」と呼びますが、本主日はこの40日の期間の最初の主日にあたるわけです。どうして40日間の断食かというと、本日の福音書の箇所にあるイエス様が40日間荒野で悪魔から試練を受けた出来事が背景にあります。同じ出来事を扱ったマタイ福音書4章とルカ福音書4章には、イエス様が40日間そこで何も食べなかったと記されています。イエス様の生涯とは、そもそも、人間の救いのための十字架でのいけにえの死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して、こうした主の備えの生涯を自分の人生に現実のものとしようとしたのであります。
 
四旬節は、英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉Lenctenに由来するそうですが、フィンランドやスウェーデンでは、ずばり「断食の時期」paastonaikafastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国で、外面的な規則の順守が救いを左右するという考えはとりませんので、「断食」とは名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物を食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師先生にもそのようなことを勧める人もいます。こういうことをしたり、勧めたりするのは、もちろん、それをすることで神に認められるとか、救いが確実になるとか、そんなことは全く関係ないとみんながわかっています。それに、好物を食べなくても、食事はちゃんととるので断食には程遠いものです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常の生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングのようなものと言っていいと思います。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくて注意が向くのなら、しなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、それをすると決めた理由であるイエス様のことにいつも心が向くようになるのであります。
  
 
2.        イエス様が悪魔から受けた試練とそれに対する勝利

 イエス様の荒野での試練について、本日の福音書の箇所があるマルコ福音書ではたった二節の記述ですが、マタイ福音書、ルカ福音書はもっと詳細にわたっています。荒野の試練の時は、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がおらず、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載され、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。要約された形といっても、マルコにはマタイとルカにはないことが含まれているので、まず、それを見てみましょう。
 
 「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日の間、サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒におられ、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合に、いろんな出来事が同時に錯綜しています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形になっているので、そんな訳になってしまったのでしょう。そこで、マタイの記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、サタンの誘惑の後になっています(マタイ411節)。それを踏まえて、マルコの記述をわかりやすくすると、次のようになります。「イエスは荒野で40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」新共同訳にある「野獣と一緒におられた」というのは、野獣と仲よく暮らしたみたいですが、ここはそうではなく、荒野で野獣のただ中という危険な状態におかれた、しかし、天使たちに仕えられ守られたので何も危害は及ばなかったということであります。荒野の野獣というのは、目に見える具体的な危険を意味します。天使というのは、人間と同じように神に創造されたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在であります。つまり、イエス様は悪魔からの誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は何も及ばなかったということであります。私たちも、目に見える危険や困難にさらされた時、目に見えない神からの守りと導きがあることを信じていきましょう。
 
 さて、これでイエス様がヨルダン川で洗礼を受けてから、ガリラヤに乗り出すまでの間にユダの荒野で起こった出来事が少し明らかになってきました。しかし、悪魔からどんな誘惑を受けたか、その具体的な内容は、マルコ福音書の記述からではもうわかりません。マタイ4章やルカ4章の記述に頼るしかありません。
 
 これらの記述によると、イエス様は、40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続けた後で(特にルカ42節)、最後に三つの誘惑を受けました。そのうちの二つ、「お前が神の子なら、この石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」というのと、「お前が神の子なら、このエルサレムの神殿の上からまっさかさまに切り落ちるキルドン谷に身を投げて天使に助けさせてみろ」というのは、一見それほど「誘惑」に見えません。もし、イエス様がパンを石に変えて空腹の難を逃れたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらえれば、それはそれでイエス様が神の子であることを悪魔に示すチャンスになります。しかし、イエス様は、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選びました。どうしてでしょうか?それは、もしそうしていれば確かに神の子としての力と存在を見せつけることができたのでしょうが、その瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意志の下に服することになるからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。一見神の子であることを見せてくれ、と言いつつ、実は自分の言う通りにするように仕向けていくという、巧妙な罠だったのです。イエス様は、あえて空腹と恐怖の方を選びました。
 
 三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というあからさまの誘惑でした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、私たち人間の救いにとって特に重要な意味を持ちました。なぜなら、イエス様は、この荒野の試練の直前、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりで、その時、神から聖霊を受け、かつ神の子であるとの認証を神から受けたのです。もし、その神の子が悪魔にひれ伏していたならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔にひれ伏したのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなってしまいます。しかし、そうはならなかったのであります。それゆえ、たとえ万物が悪魔の下に服する事態が生じようとも、それを超える神が厳然とおられるのであります。私たちは、どのような状況に置かれても、そのような神に結びついていることを忘れないようにしましょう。
  
 
3.        悪魔の誘惑に対するイエス様の武器

 次に、イエス様はいかにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをみていきましょう。結論から申しますと、三つの誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのに、イエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。
 
 まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記83節の言葉をもって誘惑を無力にします。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民は、シナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神の言葉こそが生きる本当の糧であることを身に染みて体験するのであります。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく実体のある真実の言葉であります。悪魔が空腹の満たしのような人間の最も根本的な必要に訴えて人間を自分の言いなりにしようとする時、この申命記の言葉を突き出すことで悪魔に次のように反論することになります。「悪魔よ、私の空腹が満たされることも満たされないことも全ては神次第である。満たされる時も満たされない時も私の命は神の言葉を拠りどころとして立つ。だから、悪魔よ、お前は私の空腹の問題解決には何の関係もないのだ。」
 
次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を用います。それは詩編911112節「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」という箇所です。神の御言葉にそう言われているのだから、その通りになるだろ、だから、飛び降りてみろ、と言うのであります。それに対してイエス様は、申命記616節をもって誘惑を無力にします。それは、こういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは、出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなったとき、指導者モーセに不平を言い始め、神に水をすぐ出すよう要求した出来事です。実にシナイ半島の荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満と至急の解決要求をぶつけました。何度も神の奇跡的な救いの業を自分たちの目で見てきているのに、困難の度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神の権威と力を疑い、言うことを聞いてくれないなら、もう神とは見なさない、エジプトに帰ってやると言わんばかりで、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すことばかりを繰り返しました。申命記の中で、もうすぐシナイ半島の荒野からカナンの地に移動するという時、神は40年の出来事を振り返って、そのように「神を試してはならない」と命じるのです。
 
それでは、人は困難に遭遇したらどうすればよいのか。それは、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じ、その与えられた解決を最上の解決として受け取りなさい、それくらいに神を信頼しなさい、ということです。申命記616節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への絶大な信頼を示すものです。実は、このイエス様の神への絶大な信頼こそは、悪魔が誘惑用に使った詩編91篇全体の趣旨だったのです。同91篇の最初をみると次のように記されています。「主に申し上げよ、「わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方」と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。」(23節)このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要は全くなくなります。悪魔は91篇全体に貫く神への深い信頼を切り離して、篇の真ん中辺だけをちょこっと取り出してイエス様にぶつけたわけです。しかし、そんな文脈から切り離した引用など、何の重みも意味もありません。このように悪魔も、また悪魔に限らずキリスト信仰をあらぬ方向に持っていこうとする輩もみな、聖書の御言葉を全体から切り離してひけらかすのに長けていますので、皆さん、御言葉の広くかつ深い学びを絶やさないようにしましょう。
 
さて、三つ目の誘惑である「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の奴隷になれ」に対して、イエス様は申命記613節の御言葉を突きつけて誘惑を無力にします。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神を天と地と人間を造り給うた創造主として仰ぐことです。そして、目の前で神の力が働くのを目にする時も、また目に見えて働いてはいないように見える時も、神は変わることなく全てに優る力を持つお方だ、天においても地においても神より力ある者は存在しない、と神を敬うことです。神より力ある者は存在しないということは、神に敵対する者からすれば、神は恐怖の的以外の何ものでもなく、そこから逃避しなければなりません。しかし、神に結ばれた者からみれば、神以外には何も恐れるものはなく、神は全ての恐れを抱かせるものから私たちを守って下さるので、私たちは神のもとにいて大きな安心を得ることができます。つまり、神に結ばれた者にとって神は恐怖の的とか、逃避の相手ではなく、安心の源、とどまる場所なのであります。
 
悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持・拡大できたとしても、神と敵対していれば、死んだ後は創造主から永遠に引き裂かれ滅びと災いの世界に投げ込まれます。そこには権力も富も持っていくことはできません。みな丸裸でこの世から次の世に移行するのです。しかし神に結びついた者は、死んだ後は永遠に創造主の神のもとにいることができます。この世にいる時は安心の源から安心を得、次の世ではその源にいることができるのであります。このように神を畏れるということは、神と結びついたまま今の世と次の世をあわせた一つの大きな人生を歩むということなのであります。それに比べたら、悪魔がやると言った権力や富はなんと小さなものでしょうか。そんなもののために神との結びつきを捨ててみろ、などとは、なんと情けないことを聞くのでしょうか。
  
 
4.        イエス様の勝利と私たち

 以上のように、イエス様は聖書の神の御言葉を武器にして、悪魔の誘惑を無力にしました。私たちは、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受け、イエス様に結びつけられているので、イエス様の勝利は私たちにとっても勝利であります。イエス様のもとにとどまる限り、私たちも、悪魔の誘惑を無力にする力に与っているのであります。しかしながら、私たちが洗礼によって神の義を頭から被せられたと言っても、悪魔は、私たちの内側に肉に結びつく古い人が残存していることを知っているので、私たちへの攻撃の手を緩めません。悪魔はなぜ私たちを攻撃するのでしょうか?
 
最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり罪を犯したことが原因で人間は死する存在となり、創造主である神と創造された人間の間に深い断絶が生まれてしまいました。しかし神は、人間が再び永遠の命を持って創造主のもとに戻れるようにするために人間救済計画を立て、ひとり子イエスをこの世に送り、これを用いて救済計画を実現されました。人間の罪と不従順の裁きを全てイエス様に負わせて十字架の上で身代わりとして死なせ、それによって人間を罪の呪いから解放したのです。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命、復活の命への扉を開かれました。人は、こうしたことが自分のためになされたのだとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神が実現された救いを自分のものとすることができ、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めることになるのです。
 
 このように神は、御自身と人間の間に生じた断絶を解消するために御自分のひとり子さえも惜しみませんでした。しかし、悪魔にはそれが我慢ならないのです。せっかく堕罪の時に作るのに成功した断絶を解消させるなんてとんでもない。なんとしてでも断絶させたままにしてやりたい、と思うのです。しかし、神は無敵な存在なので手の出しようがない。それで弱い存在である人間を苦しめてやろうというのです。このこと自体、悪魔が神に負けている存在であることを示すものですが、攻撃を受ける私たちとしてはどうすればよいのか?それは、本説教においてみてきましたように、イエス様が武器に用いた神の御言葉を思い出し、そこで教えられていることをしっかり守っていくことです。つまり、私たちの必要を満たして下さる一番の大元は神であることを忘れず、自分を創造してくれた以上、神は最後まで自分の名誉にかけて守って下さると信頼し、神の力を疑ったりせず、神を試すようなことはしないようにしましょう。そして、神に結びついている限り、今歩んでいる人生の道は今の世と次の世にまたがっていることをいつも覚えていましょう。
  
 このように聖書の神の御言葉には悪魔の誘惑を無力にし、その攻撃を撃退する力があります。イエス様が取り上げた御言葉は旧約聖書からですが、私たちの場合、新約聖書もあるので、私たちの最強の武器庫は一挙に拡大したわけです。ルターも、聖書の御言葉が悪魔の誘惑や攻撃に対する最上の武器であると述べていますので、それを引用して本説教の締めとしたいと思います。
  
「試練や誘惑など信仰を弱めようとするものに遭遇したら、どんな手段をもってそれらに対抗していったらよいのか。そういう時には、自分自身どうしてこんな考えにとらわれてしまうのかと思ってしまうような良からぬ考えを、全力を絞ってかなぐりすてることである。この良からぬ考えをかなぐり捨てることが出来るためには、一生懸命に聖書の神の御言葉に耳を傾けかつ読み進めていかなければならない。ところが、もし君が神の御言葉には目をつむり、人間的な手助けや力に拠り頼んで自己を守ろうとするなら、君は悪魔という強力な霊を相手に無謀な戦いに丸裸で臨むことになろう。それゆえ、良からぬ考えをかなぐり捨てよ。そして、悪魔と議論しないように注意せよ。なぜなら、悪魔は場合によっては、純白の天使を装ったり、キリストの麗しい人格を身に纏って現れるかもしれないからだ。
神聖な聖書に何が書いてあるのか知っている悪魔は、キリストや信仰に反対するために、時としてキリストの美しい言葉を自ら用いるようなこともする。このように悪魔に泣き所を突かれた時、君は直ちに悪魔の攻撃について考えを巡らすことを止めて、悪魔に次のように言うべきである。『私は、父なる神がお与えになり、そして私の罪のために死ぬ苦しみをお受けになったあの方以外にはキリストなる者は知らない。彼は私に怒りを抱かず、私に対して憐れみ深く恵み深いということを、私は知っている。もしそうでなければ、彼は私の身代わりとなって私のために死ぬ苦しみをお受けになることは決してなさらなかったであろう。』
もし、このように言い返して悪魔に対抗することをしなかったり、また聖書を一生懸命読むことをしないならば、我々が失われた者となって絶望に追い込まれるのは火を見るより明らかである。我々が聖書の神の御言葉で自らを強化しない限り、悪魔の思い通りにさせてしまうことになってしまい、我々のか細い信仰の光はすぐかき消されてしまうであろう。」
  
  
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
  

2012年2月20日月曜日

イエス・キリストの神の義を純白の衣のように着せられて生きる (吉村博明)

 
説教者 吉村博明(フィンランドルーテル福音協会(SLEY)宣教師、神学博士)
  
主日礼拝説教 2012年2月19日 変容主日 
日本福音横須賀教会にて
  
列王記下2:1-12a
コリントの信徒への第二の手紙3:12-18、
マルコによる福音書9:2-9
  
説教題 イエス・キリストの神の義を純白の衣のように着せられて生きる
  
  
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
  
 
1.      はじめに - 三人の弟子の選別

 本日は、教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースターへと向かう四旬節が始まる節目にあたります。福音書の箇所には、イエス様が山の上で「変容した(μετεμορφωθη)」(92節)という出来事が定められていることから、変容主日とも呼ばれます。本日は、この主の変容の出来事を通して、神の私たちに対する愛と恵みについて学びを深めていこうと思います。
 
 イエス様は、12弟子のうちからペテロと、ヤコブ・ヨハネの二兄弟を選んで、高い山に登ります。なぜ、この3人なのか、その理由は定かではありません。イエス様は別の時にも、例えば、ユダヤ教の会堂長ヤイロの娘が死んだと宣された直後に娘を起き上がらせますが、その時家の中まで同行を許したのはこの三人だけでした(マルコ537節)。それから、イエス様が十字架に架けられる前夜、エルサレムの町の外側のゲツセマネで祈りを捧げた時、近くまで同行するのを許したのもこの同じ三人でした(1433節)。そもそも、イエス様が12弟子を選んだ目的は、弟子として始終共にいることで(314節)主が語る教え、行う業、そして主に起こる出来事をつぶさに目撃させて記憶にとどめさせ、後に世界に向かって証言させるためでした。そうした直近の目撃者の証言が土台となって福音書や使徒言行録が出来上がっていきます。それにしても、こうした非常に特殊な場面 - 死んだと宣された娘を起き上がらせた時、モーセとエリアが姿を現して神の声が轟いた高い山の頂上、主が苦渋に満ちた祈りを神に捧げた深夜の祈りの場所 - になると、なぜかイエス様は限られた者のみ、それもいつも同じ三人を連れて行ったのであります。どうしてでしょうか?
 
考えられることは、こうした特殊な場所は本来なら、神の子イエスと神の二者だけがいることが許される場所であり、人間がそばにいる筋合いはない場所なのですが、それでも将来証言をしてもらうのに最低限の目撃者が必要だった、ということです。それでは、なぜいつもペトロとヤコブ・ヨハネ二兄弟の三人なのか。他の弟子たちに比べ、彼らが優れた弟子だということで、主は選んだのか。そこで、この三人の弟子としての経歴をみると、どうもそうとも言えない。ヤコブ・ヨハネの二兄弟などは、母親と一緒にイエス様のもとにすり寄って、神の国が来たら王様イエスの左大臣と右大臣にして下さいなどと抜け駆けを試みたりします。しかし、主からは「お前たちは自分で何を願っているのかわかっていない」とお叱りをうけてしまいます(1038節)。ペトロに至っては、自分は死ぬことになろうとも主を見捨てはしない、と誓ったのに、いざイエス様が逮捕され自分にも嫌疑が及びそうになると、あんな男は知らないなどと公言してしまいます。しかし、こうした人間的な弱さを持つ弟子たちが、イエス様の十字架と復活の後で全く別人になったことも事実です。イエスの名を広めたら命はないぞと脅されてもペトロはもう怯まなくなりました。ヤコブはヘロデ・アグリッパ1世の迫害に会い、命を落としました(使徒言行録122節)。主は、彼らが人間的な弱さを持っていたことを十分承知の上で彼らを選んだのであります。それは、主ご自身が後で彼らを強めることになると知っていたので、最初の弱さは主にとって別に問題ではありませんでした。むしろ、弱さを大っぴらにするようなタイプの方が、主としては強くするし甲斐があったのかもしれません。以上をもって、なぜいつもあの三人か、という質問の答えは十分ではないかと思います。願わくば、主が、弱さを持つ私たちをも同じように強めて下さいますように。
  
それから少し余計な補足になりますが、本日の箇所に出てくる「高い山」について、マルコ827節をみると、イエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それから本日の箇所までは地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北にそびえる標高2700メートルのヘルモン山と考えられます。キリスト教の古い伝承ではガリラヤ地方のターボル山というのもあるそうですが、これは丘陵地帯の中の600メートル位の標高ですから、「高い山」には当たらないでしょう。それで、ヘルモン山ということにしますと、この山の頂上は森林限界を超えたところにあり、夏でも雪田を残しているそうです。これを聞くと、登山を趣味にしている人なら、日本アルプスの景色を思い浮かべるでしょう。孤高と言うことであれば、同じ標高を持つ白山のイメージになるかもしれません。こういう高い山の常として、頂上からは雲海を見下ろすことが出来ます。雲海が乱れて雲が頂上を覆うと、頂上は濃い霧のただ中になります。本日の箇所で、神の声が轟いたのは山頂が雲に覆われた時でした(97節)。高い山の山頂が突然雲に覆われて視界が無くなったり、そうかと思うとすぐに晴れ出すというのは、何も特別なことではなく普通に起こることであります。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、このような自然界の通常の雲でそれを神が利用したと考えられます。または、神がこの出来事のために編み出した雲に類する現象だったということも考えられます。どっちだったかはもはや判断できなません。この件は、判断しないままにしても、本日の学びには何の支障もありません。
  
 
2.      イエス様の変容

 山の上でイエス様が変容したというのは、「来ている服が非常に真っ白に輝いた」(93節)ということですが、服が白く輝くことが「変容」というのはどういうことか、ピンとこないかもしれません。実はこれの意味するところは続きの文を見ればよくわかります。お手元の聖書では、「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人たちです。今で言えば、漂白するということでしょう。当時どんな漂白剤があったのか、それとも水で洗っては日光に晒す、の繰り返しだったのかは、ちょっと調べがつかなかったのですが、いずれにしても古代世界においても、衣服・布を純白にする専門家がいたということであります。ここで重要なのは、「この世のどんなさらし職人」も白くできないくらいに白く輝いたということであります。原文に忠実に訳すと「この地上では、さらし職人が白くできないくらい」白く輝いたということで、イエス様が放つ白い輝きは、この世的でない白さ、天上の白さということになります。ここで、イエス様は、罪や不従順の汚れに全く染まっていない神の子としての存在をあらわにしたのであります。
 
 罪や不従順の汚れに全く染まっていないイエス様がどのような白さを持っているかを示されたことで、逆に私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在かが明らかにされます。神の目から見て、人間の真の姿というのは、最初の人間の堕罪以来、神への不従順と罪を代々遺伝的に受け継いでしまう存在でした。もちろん、世界には悪い人だけでなく、良い人も沢山います。しかし、創世記217節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が不従順に陥って罪を犯したことが原因で人間は死する存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々罪と不従順の汚れを受け継いできたのであります。人間が、この汚れから洗い清められ、永遠の命に与れるようになるためには、神の意志を100%満たすことができなければなりません。しかし、それは不可能なことであります。「ローマの信徒への手紙」7章でパウロが明らかにするように、神の意志を表している律法とは、人間が救いを得るために満たしていくものというより、人間が神の意志からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものなのであります。詩編のなかで、ダビデ王は神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(514節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げますが、これからも明らかなように人間の罪と不従順の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なことなのです。
 
 このように人間が自分の力で罪と不従順の汚れを洗い清めることは不可能でありますが、神がかわりにそれをしてあげることは可能でした。神は、罪と不従順を受け継ぐ人間を「赦す」ことで、人間を洗い清めることとしました。それでは、その赦すことが、どのようにして人間の洗い清めになったのでしょうか?神は、ひとり子イエスをこの世に送り、本来人間が背負うべき罪と不従順の裁きを全部彼に負わせて、十字架の上で死なせました。イエス様が身代わりとなることで、人間を罪と不従順の裁きから自由にし、赦しを与えたのであります。さらに、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を私たちに開いて下さいました。これらのことが自分のためになされたとわかり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちは、「ガラテアの信徒への手紙」327節に言われるように、「キリストを被せられて着せられた」者となって、永遠の命、復活の命に至る道を歩み始めるのであります。こうして人間は、神がイエス様を用いて整えられた赦しを受け取ることになったのであります。
 
もちろん、キリストを頭から被せられただけですので、内側にはまだ罪と不従順に結びついた「古い人」が留まっています。しかし、神は、信仰を持って生きる者に被さっているイエス・キリストの白い衣をみて、その人の「新しい人」を見て下さるのであります。この時、私たちは、このような取り計らいをして下さった神に強い信頼感を抱き、絶えることのない感謝の念で満たされます。人生の歩みの中で、何が起きても、決して弱まらず絶えることのない信頼と感謝を持ち続けることができるのです。そのような信頼と感謝を持てるようにして下さった神は永遠に称えられますように。
 
ここで一言注意しておくと、神がイエス様を用いて整えられた赦しは、本当は全人類に提供されています。しかし、この赦しが自分に向けられたものであることがわからず、そのためイエス様を救い主とも信じず、洗礼を受けない場合は、提供された赦しは提供されている状態にとどまるだけです。信じて洗礼を受けた場合にのみ、提供された赦しを受け取ることになり、イエス様の白い衣を着せられることになります。
  
 
3.      ペトロの仮小屋建設の提案と神の声

 以上から、イエス様が変容した時、それは、罪と不従順の汚れがなく、神の意志を満たしているという神の義というものの純白さを表していることが明らかになりました。それにあわせて、私たちがイエス様を救い主と信じて、洗礼を受ける時、この純白な神の義が頭から被せられることがわかりました。しかしながら、本日の箇所はまだ続き、不可解なことが出てきます。
 
 まず最初に、ペテロがイエス様とモーセとエリアの三人それぞれに仮小屋を建てると言ったことは何なのか、ということがあります。記述によれば、弟子たちは恐れおののいて、ペテロは何を言っていいのかわからなかったとあります。ペテロは、恐怖のあまり気が動転して、意味不明なことを口走っただけなのでしょうか?いいえ、そうではありません。ペテロの言ったことにはそれなりの意味があって、ペテロはそれを知っていました。ただ、その言ったことが、神の目から見て完全に筋違い、的外れだったということであります。それでは、ペテロの言ったことにはどんな意味があって、どうしてそれが筋違いなことだったのか、みてみましょう。
 
 ペトロが建てると提案した「仮小屋」というのは、原文のギリシャ語でスケーネーσκηνηと言います。スケーネーは、「ヘブライ人への手紙」の8章や9章に出てくるように、神に礼拝を捧げる場所である「幕屋」を意味します。ペトロが建てると提案したスケーネーというのは、まさにイエス様とモーセとエリアに礼拝を捧げる場所のことなのであります。では、なぜこれが筋違いな的外れなことなのかというと、まず、イエス様をモーセとエリアと同等にみなすことになるからです。確かに、モーセは、神の意志を表す律法を直接神から授かりそれを人間に受け渡した神の人であります。エリアは、預言者の代表格です。しかし、イエス様は神の子であり、また律法の実現を体現された方、預言者たちが預言したことの成就そのものであります。まさに律法や預言の実現・成就そのものであり、それらを受け渡した人、宣べ伝えた人とは同等には扱えない存在なのであります。それに加えて、モーセやエリアにも幕屋を建てるというのは、彼らを神同様に礼拝を捧げる対象にしてしまうことです。こうしたペテロの意味を成すが筋違い的外れな提案は、天の一声に一蹴されてしまいます。「これは私の愛する子。彼に聞き従え。」まさに、「ここにいるのは神の子である。律法の受け渡し人、預言の宣べ伝え人と一緒にするな」ということであります。
  
 
4.イエス様のかん口令

 本日の箇所で、もう一つ不可解なことがあります。それは、イエス様が三人の弟子たちに、山の上で見たことを自分の復活が起きるまでは言いふらすなと命令したことです。なぜなのでしょう?
 
これは、先に見たペトロの筋違いな提案を考えるとわかります。フィリポ・カイサリアでペトロはイエス様のことを「メシア」と呼びました(829節)。それにもかかわらず、山の上ではイエス様をモーセやエリアと同等にみなしました。つまり、イエス様は一種の卓越した預言者の扱いであります。マルコ828節が明らかにするように、一般民衆のイエス理解も、同じように預言者の再来であります。ところで、「メシア」と言っても、イエス様の十字架と復活が起きる前のユダヤ教社会では実にいろんな理解がされていました。ダビデの王国を再興する王を意味する場合もありました。その王国というのも、この世的な国でなく、今の世が終わった後の新しい世に唯一栄える王国を意味する場合もありました。メシアはまた、今の世の終わりに神に選ばれた者だけを集めて新しい世に導いてくれるような救世主だったりする場合もありました。ゼベダイの二人の息子と母親が右大臣と左大臣にして下さいと言ったのは、イエス様が王様になると考えたからですが、これもイエス様をメシアと考えるものです。ペトロがイエス様のことをはっきり「メシア」と呼んでも、その時どんな意味であったかは定かではありません。
 
さらに注意しなければならないことは、十字架と復活の出来事が起こる前は、イエス様を預言者とかメシアとか見なしたりすることはあっても、イエス様が受難を通過して神の人間救済計画を実現するメシアだとは誰一人として思い及ばなかったことです。イエス様が、御自分の受難と復活を予告された時、ペトロは激しく反対し、そのためにイエス様に強く叱責されます(マルコ83133節)。イエス様が同じ予告を繰り返したときは、弟子たちはただ困惑して何も言えません(93032節)。彼らにとって、メシアがそんな惨めな死に方をするなどとは想像を超えたことでした。
 
イエス様についてきわめて表面的なメシア理解が支配的な状況では、山の上で見たことを言い広めたら、逆に表面的な理解をますます強めるだけだったと考えられます。ナザレのイエスはモーセ、エリアと並ぶ偉大な預言者という理解を強めただけだったでしょう。神の「これは愛するわたしの子」という声を聞いたことを言い広めても、それですぐイエス様が神と同質な方であると理解されたかどうか疑わしいと言わねばなりません。十字架の死と死からの復活の出来事が現実に起きない限り、イエス様のメシア性の本当のことはわからないのであります。十字架と復活が起きる前の段階では、イエス様がモーセとエリアと一緒にいたことや神の声の意味内容は、とてもわからないのであります。イエス様としては、十字架と復活の出来事の前に余計な誤解や憶測を増やすことは避け、ただ黙々と神の人間救済計画の実現の道を進むことに集中したのであります。
 
そして、十字架と復活の出来事が起きて、神が定めたメシアの真の姿が明らかになりました。つまり、メシアとは(この世的でない)神の国の王ではあるが、実は自ら身代わりとなって人間を罪と不従順の裁きから救い出し、その方を救い主と信じて洗礼を受ける者を神の国に迎え入れてくれる、そういう救世主であることが明らかになったのであります。その時、あの山の出来事を目撃した者からすれば、罪と不従順の汚れを持つ人間が洗い清められるのは、まさにあの時目撃したあの純白な衣を頭から被せられることに他ならないとわかるのであります。「人は洗礼を受ける時、イエス・キリストを頭から被せられて着せられる」という、先ほど引用したガラテア327節の教えも、変容の出来事を目撃した者がいなかったらでてこなかったでしょう。
  
 
5.おわりに

 以上、本説教において、高い山の上でイエス様が変容した時、それは、罪と不従順の汚れがなく、神の意志を満たしているという神の義というものの純白さを表していることを明らかにしました。それにあわせて、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、この純白な神の義が頭から被せられることがわかりました。それから、ペトロの三つの仮小屋建設の提案は、的外れで筋違いな提案であったことが明らかになりました。最後にイエス様のかん口令について、山の上の出来事はイエス様のメシア性を明らかにするものですが、まだ十字架と復活の出来事が起こる前の誰一人として正しいメシア理解を持っていなかった時に出来事を言い広めると、かえって誤った理解を助長する可能性があったことがわかりました。十字架と復活の後で人々が正しいメシア像を持った時に言い広める方が、効果的だったのです。
 
 最後に、洗礼を通してイエス様の純白の衣を着せられた人間はどのように生きていくことになるかについての、ルターの教えを引用して本説教の締めにしたいと思います。
「(詩編519節で罪の告白をするダビデが神に対して、自分を雪よりも白いものにかえて下さいと嘆願したことについて)どのようにして人間は、雪よりも白くなることができるであろうか?これに対する答えは以下の通りである。まず、人間の中には霊と肉があるが、聖パウロの言葉を借りれば、人間には肉と霊の汚染状態が残り続ける。霊が汚染された状態とは、神の罪の赦しの恵みを疑うこと、信仰が弱いこと、神に対して文句を言うこと、絶え間ない苛立ち、そして神の意志を知ろうともしないし理解しようともしないことがそうである。肉が汚染された状態とは、悪い欲望、殺意、盗み、憎悪、嫉妬、その他これらに類するものがそうである。
 
 もし君がキリスト教徒というものを正しく判定しようとするなら、キリスト教徒が性質上どんな人物であるかを見てはならない。なぜなら、性質上という時、君はキリスト教徒の中に清さが全くないということに気づかされるからだ。そうではなくて、聖霊によって新しく誕生させられた者としてキリスト教徒はどんな人物かを観察しなければならない。この新しい霊的な誕生は、人間は実現することができない。それを実現できるのは、ただ神のみである。
 
この新しく霊的に誕生する時に人は雪よりも白くなり、汚れを伴った最初の肉体的な誕生はもはやその人に害を及ぼす力はない。もちろん、人に罪と不従順の汚れは残り続けるが、主が目に止められるものは、洗礼の時に被せられた純白の服と新しく霊的に誕生する人の信仰、それに父なる神の愛する御子の清く神聖な血である。御子の清く神聖な血というものは、純白な服と同じように、新しく霊的に誕生する人に着せられる装飾品のようなものである。このように、キリスト教徒とは、性質上はまだ汚れが残っている者であるが、洗礼と聖霊がもたらした新しい霊的な誕生を通して、また信仰においてキリストを身に纏っているので、雪よりも白いのである。」、
   
 
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン