2020年4月27日月曜日

キリスト信仰者よ、心は燃えているか (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2020年4月26日 復活後第二主日

使徒言行録2章14a、36~41節
ペトロの第一の手紙1章17~23節
ルカによる福音書24章13-35節

説教題 「キリスト信仰者よ、心は燃えているか」



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.死に支配された世界から死に打ち勝った世界への引越し

 本日の福音書の個所は、イエス様が復活された日の出来事の一つです。その日の朝、イエス様の墓に行った女性たちが墓の前に置かれた大きな石がどかされて中が空っぽなのを目撃しました。さらに天使が現れてイエス様が復活されたことを告げ知らせました。女性たちの報告を聞いたペテロたちが墓を見に行くと本当に空っぽでした。その後で復活されたイエス様が弟子たちの前に姿を現し始めます。本日の個所の出来事は同じ日の夕刻に起きたものです。

 二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かっていました。そこに突然イエス様が合流しました。弟子たちはどういうわけかそれがイエス様と気づかず、一緒に歩き出します。道中イエス様に旧約聖書について教えられて、その晩滞在した家でイエス様だと気づいた時に姿が消えてしまったという話です。これは日本人の多くには怪談話に聞こえるのではないでしょうか?以前の説教でもお話ししましたが、この話はキリスト信仰者には全く怪談話に聞こえません。なぜかと言うと、信仰者はこの出来事を復活という視点を持って聞くからです。復活とは死に対する勝利です。怪談話には、復活の視点もなく死に対する勝利もありません。それは死に負けて死と死者とに支配されている世界の話です。キリスト信仰者というのは、死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししてしまったので、本日の個所をはじめ他の復活に関わる出来事を聞いても全然不気味に感じません。逆に大きな希望を抱かせる出来事に聞こえます。キリスト信仰者でない人でも、もしそのように聞こえてきたら、それは死に打ち勝った世界に引っ越しする見込みが出てきたということです。

 それでは人間はどうしたら死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越しできるのでしょうか?これも以前お教えしたことですが、少しおさらいしておきます。

 復活とは死に対する勝利です。死に対する勝利とはどういうことか?聖書は次のように教えます。たとえこの世から去ることになっても、将来、復活の日というのがあり、その時に復活の体を着せられて永遠の命を持てて、造り主の神のもとに永遠に迎え入れられる。そして、同じように復活させられた人たちと再会するということです。人間がこのように復活の日に復活できるために神はイエス様をこの世に贈って一つの使命を果たさせました。それは、イエス様が十字架にかけられて死を遂げたことで、私たち人間が持っている罪の神罰を全部代わりに受けてくれたということです。イエス様が私たちに代わって罪の償いを全部神に対して果たして下さったのです。そこで人間がこれは本当に自分のために起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人の内になだれ込んできます。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえます。それでその人は神との結びつきを持ってこの世を生きるようになります。その人は復活の日の永遠の命と再会が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んでいきます。

 人間が罪の償いと赦しを受けると、罪は以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たしてくれた償いはそれくらい完璧なものだからです。罪は破綻してしまいました。それでも罪はまだ力があるかのように見せかけて、キリスト信仰者の隙や弱いところを突いてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいます。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせ、罪の赦しは微動だにせずちゃんとあると気づかせて下さいます。その時、私たちは、これからはもう神のひとり子の犠牲を汚さないように生きよう、罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このようにキリスト信仰者の人生は絶えず十字架の下に戻ることを繰り返しながら、洗礼の時に新しく生きることになった新しい命を大事にしていこうとする人生です。そして最後は、復活の日に神の栄光を受けて光り輝きます。

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者に対して罪はこのように破綻しています。罪が破綻している人に対しては死も力を失っています。なにしろ、その人は死を超えた永遠の命に向かう道を神に守られて進んでいるのですから。人間が罪の償いと赦しの中に留っている限り、死はその人に何もなしえません。もう死に支配される世界にいません。死に打ち勝った世界に引っ越したのです!使徒パウロは第一コリント1520節で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。実にキリスト信仰者にとってこの世を去る死とは、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りに変わってしまったのです!イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡を行いました。それは復活ではなく蘇生だったのですが、彼が将来死者を復活させる力があることを前もって具体的に示す奇跡でした。その時彼が死んだ人のことを「眠っている」と言って生き返らせたのは象徴的です。

2.イエス様の霊的な臨在

 次に、復活して天に上げられたイエス様が今どのように臨在されるのかということについて。マタイ2820節でイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのに、天に上げられてしまったらどうなるの?と心配になります。でも心配には及びません。「共にいる」というのは、体を伴った臨在ではなく、体を伴わない霊的な臨在です。イエス様からすれば霊的な臨在は現実にあるものですが、私たちからすればそれが現実にあるものか確かではありません。しかし、「お前がどう感じようが、それは確かな現実なのだ思い知れ」というものがあります。洗礼と聖餐です。これらを受けたら霊的な臨在はお前たちの目には確かでなくても神の目から見て確かなものになるのだ、というものです。洗礼や聖餐というのはそれ位すごいことなのです。だから神聖な儀式なのです。洗礼と聖餐に加えて、聖書の御言葉を読み聞くこともイエス様の霊的な臨在を現実のものにします。ただし、臨在を現実にする読み方聞き方があります。そうでない読み方聞き方もあります。そのことを本日の福音書の個所は教えています。それについて見ていきます。

 イエス様の臨在を現実のものにする聖書の読み方聞き方とは一体どんな読み方聞き方なのか?このことも以前お教えしましたが、振り返ってみます。どうして二人の弟子はイエス様のことをすぐ気がつかなかったのか、それがどのようにして気づくようになったのか、このプロセスを見ていくとわかってきます。

 二人の弟子の前にイエス様が現れた時、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ2416節)とあります。「遮られて」というのはギリシャ語原文では受け身の形です。新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「~によって」という動作の主体がない場合は多くは神が隠れた主体になります。「神によって」が省略されているということです。そうすると神が二人の目を遮ったことになります。これは全く不可解なことです。なぜ神は、ただでさえ復活の体を纏うイエス様は気づきにくいのにわざわざ目を遮ってもっと確認しにくくする必要があるのか?マグダラのマリアの場合、最初気づかなくても、イエス様の「マリア」という呼び掛けで気がつきました。エマオの道では、話声をずっと聞いているのにそれでも気づかない。神はなんでそんな意地悪をするのか?

 神が何らかの目的をもって人間の心を鈍らせて目を曇らせるというのは実は、旧約聖書、新約聖書を貫いてある難しいテーマの一つです。これを取り上げてお話しすると一回や二回の説教では足りないのでここでは立ち入りません。このエマオの道の出来事に焦点をあてて見ていくことにします。

 神はなぜ二人の弟子の目を遮ったのでしょうか?ここで逆に考えてみましょう。もし、神が二人の目を遮らないで、二人はすぐにか、またはマリアのように声をかけられてイエス様とわかったとします。そうしたら、その後で起こったことは起こらなくなります。その後で起こったこととは何でしょうか?それは、弟子たちが旧約聖書を正確に理解していないことが暴露されて、それをイエス様に正されたということです。もしすぐイエス様とわかって再会を喜び合ってめでたしめでたしになってしまったら、弟子たちの旧約理解は訂正されずそのままだったでしょう。

 それでは、弟子たちの旧約理解の何が問題だったのでしょうか?彼らは、イエス様のことを「預言者」だったと言い、「あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と言います。つまり彼らにとって、イエス様というのは、奇跡の業と神の権威を感じさせる教えをした偉大な預言者で、イスラエルを占領者ローマ帝国から解放してくれる民族の英雄だったのです。それが十字架につけられて処刑されてしまったので民族の悲願は水泡に帰してしまったのでした。

 十字架と復活の出来事が起きる前は、このようなイエス理解は一般的でした。弟子たちの間でもそうでした。ところが、旧約聖書にあるメシア預言はそういう一民族の独立・解放についてではなかったのです。天地創造の神の計画は人類全体にかかわるものだったのです。メシアとは民族の英雄ではなく文字通り全ての人間の救世主だったのです。預言がそのように理解されなかったのは、それはユダヤ民族の辿った歴史からすればやむを得ないことでした。イエス様が処刑されてしまい、弟子たちはこれで万事休すと思ってしまいました。ところが、その後で彼らにとって想定外のことが起こりました。処刑されて葬られたあの方の遺体が墓になかったのです。これは一体なんなのか?エマオの道で二人の弟子たちはこのことを話し合っていたのでした。

 合流したイエス様は旧約聖書をもとにメシアの正しい意味を教えていきます。一民族の他民族支配からの解放物語ではない、人類を罪と死から解放する者である、と。それまでの旧約聖書の理解が塗り替えられていきます。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。エルサレムからエマオまで約11㎞、話しながら歩いたら3時間位でしょうか、その間どんな教えが述べられたのかは本日の個所に記されていないのでわかりません。それでも、あのイザヤ書53章の、人間の罪を神に対して償うために自らを死の苦しみに委ねる「主の僕」の預言は間違いなくあったでしょう。ここで少し話がそれますが、フィンランドで7年ほど前に「旧約聖書におけるキリスト」という本が出されました(後注1)。20人近い神学者による共著で500ページ位あります。このように旧約聖書にイエス様を見出すというのは一ヵ所や二か所の聖句では済まないことなのです。かと思えばその本が出る2年前にはラートというフィンランドの世界的に著名な旧約釈義学の教授が「詩篇におけるキリスト」という本を出しています(後注2)。詩篇だけに限定しているのに400ページあります。宗教改革のルターは旧約聖書を読む時はキリストを見出すように読むべしと教えていますが、さすがルター派の国の神学者たちです(正確に言えば、これらの著者たちはルター派の中でも保守的な人たちです)。

 話をもとに戻します。イエス様の説き明かしを聞いているうちに、弟子たちの絶望と失望が消えていきました。旧約聖書の新しい意味と空の墓と「復活された」という天使の言葉が結びつきました。二人の弟子が後で述懐しているように、イエス様の教えを聞いていた二人の心は燃えていました。この「心が燃える」ということについては後で見ていきます。

 面白いことに、この段階でも彼らはまだイエス様と気づきません。神はまだ彼らの目を遮っているのです。どうしてなのでしょうか?イエス様がパンを裂いて渡した時に「二人の目が開け、」イエスだと分かりました(2431節)。日本語訳で「目が開け」と言っているのはギリシャ語原文では「開かれた」と受け身の形です。つまり「神によって」開かれたのです。神はどうしてパンを裂く時になってやっと彼らの目を開いて気づくようにしてあげたのでしょうか?しかも気づいた瞬間イエス様の姿はありませんでした。意地悪をしているのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、聖書の御言葉を正しく聞くことと聖餐式を受けることがあれば体の臨在がなくても霊的な臨在があるということを言っているのです。体の臨在がなくても物足りないということにはならないのです。見て下さい、イエス様の姿が消えた時、弟子たちにはがっかりした様子は全くありませんでした。御言葉と聖餐でイエス様の臨在が現実のものなったのです。

3.キリスト信仰者の心は燃えている

 最後に、二人の弟子が道中、イエス様の旧約聖書の説き明かしを聞いていた時、心が燃えていたというのはどういうことか見てみます。「心が燃える」と聞くと、何か、気分が高揚している状態、元気一杯でやる気に満ちた状態、または感動、感激している状態などが頭に浮かぶでしょう。本説教では、私たちが感じたり経験したことを出発点にして弟子たちの「心の燃え」に迫っていくことはしません。そうではなく、御言葉だけを手掛かりにして弟子たちの心の状態に迫ってみようと思います。私たちが感じたこと経験したことを聖書に注入して聖書が分かったと言うのではなく、聖書の方から私たちに語ってもらうことに徹します。

 「燃える」と言うのはギリシャ語のカイオーκαιωという動詞です。意味は新約聖書の中では「明かりを灯す」という意味(マタイ515節、ルカ1235節、ヨハネ535節)と「燃やす」という意味(ヨハネ156節、第一コリント133節)で使われています。これが「心」と結びつけて言われるのは本日の個所以外には今のところ確認できませんでした。日本語の「心が燃える」に比べたらあまり普通の言い方ではなさそうです。それなので、「明かりを灯す」と「燃やす」の意味を念頭において考えてみることにします(後注3)。その場合、「心が燃える」というのは、心を枯れ枝みたいに燃やしてしまうことではなく、心に明かりが灯った状態を言うのでしょう。それでも「燃える」意味も付随していると考えると、光と一緒に熱さ温かさがあるということでしょう。そうすると「心が燃える」というのは、それまで光が見えない、暗闇の中だったのが光が見える状態になったことと、冷え切って寒々とした状態だったのが熱さ温かさを感じるようになった両方の変化が含まれます。これが弟子たちの心に起きた変化だったということになります。

 彼らはユダヤ民族の他の人たちのようにイエス様が民族をローマ帝国の支配から解放して神の国をこの地上に実現する王と信じて付き従っていました。ところが全ては見事に失敗しました。あれだけ熱狂と期待を持って付き従い、自分たちの人生をかけて付き従ったのに裏切られてしまいました。そればかりか、これからはローマ帝国当局やそれに取り入る支配層の目を逃れていかなければなりません。目の前は真っ暗になってしまいました。全ては無意味だった無駄だったとあざ笑う冷酷な宣告が重くのしかかっています。

 それが、突然現れた男が旧約聖書の預言について、あれは民族の解放について言っているのではない、全ての人間の根本的な解放、罪と死からの解放について言っているのだ、神の送る僕が苦しんで死ぬことが言われていたのは、それが行われたのだ、しかも僕の死で全てが終わらないことも言われていたではないか、僕が死の中で朽ち果てることはないと言われていたではないか、だから墓は空だったのだ、まだわからないのか?

 このようにして、弟子たちがイエス様と共にいた日々に見聞きしたこと全てが動かぬ証拠となって旧約聖書の理解が次々と塗り替えられていったのです。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。失敗だったと思っていたものは失敗でも何でもなかった、期待外れと思っていたのもそもそも的外れな期待を抱いていただけなので期待外れなどない、無意味、無駄ということも、的外れなことに意味を求めていただけで、今となっては無意味、無駄ということは何もないということが分かってきました。全てが覆されて、暗闇しか見えなかったのが光を目の前にしています。「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告は氷が融けるように消えました。これが弟子たちの「心が燃えた」ことです。目の前に光があり、冷酷な宣告から解放されたのです。

主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じように「心を燃え」させることができます。暗闇の中にいず光を見、「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告を焼き尽くすことができるのです。なぜならキリスト信仰者は、およそ神の意思に沿うようにしようとして行ったものは、たとえ結果が思うようなものにならなくても、神の目から見たら無駄でも無意味でもなんでもないということを知っているからです。どうして知っているかと言うと、それが聖書の観点だからです。聖書の中で神は、復活の日に御許に迎え入れられた者たちの目から涙を全て拭われると約束しています。黙示録717節と214節です。旧約の預言書イザヤ書248節とエレミア書3116節でも言われています。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全部含まれています。

弟子たちは、イエス様が救世主とわかって光を見、無意味・無駄だったことは何もないとわかりました。心が燃えました。そのイエス様を救い主と信じる私たちは、彼のおかげで神との結びつきを持てて今、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって進んでいます。この世で神の意思に沿おうと正しく立ち振る舞おうとしたら涙をこぼすことになるのは承知の上です。しかし、この道を行く以上は、それを全て拭ってもらえる日が来ることも知っています。だから、私たちは暗闇の中にいず光を見ています。無意味、無駄なことは何もないとわかっています。心が燃えているのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

(後注1)”Kristus Vanhassa Testamentissa”, eds., Vesa Ollilainen & Matti Väisänen.
(後注2)”Kristus Psalmeissa”, Antti Laato.
(後注3)テクスト・クリティシズム(日本語では「本文研究」と言うのですか?)の問題になりますが、この「燃える」は異なる写本では、心に「覆いが被せられていた」κεκαλυμμενηというのもあります。つまり、道中イエス様が旧約聖書の説き明かしをしていた時にまだ心に覆いが被せられていたので彼と気づくことが出来なかった、という意味です。これは筋が通る、合理的な読み方です。しかしながら、テクスト・クリティシズムの基準の一つに照らし合わせれば、合理的な読み方というのは難解だったから後でそのように直したということになるので、問題の写本はルカのオリジナルを反映していない、「心が燃えている」と言っている写本が信頼できると判断されます。そうなると、「心が燃える」というのは古代のギリシャ語圏の人たちにとってもわかりにくい表現だったということになります。
これを理解しようとすると、例えば古代のギリシャ文学を片っ端から調べてκαιωが「心」と結びつけて使われる例を見つけて、そこから理解しようとすることが考えられます。ただ、この場合、ルカのテキストの背景にあるアラム語の会話があることを無視してしまいます。
会話のアラム語はどうだったかはもう知りようがありません。近いヘブライ語から接近してみようとすると(アラム語とヘブライ語が「近い」と言うのは乱暴な言い方ですが)、בערが考えられます。「燃やす」、「火をつける」が中心的な意味です。中には「怒りが燃える」もあります。辞書の中には「心」と結びつけた使い方はありませんでした。



2020年4月20日月曜日

見ないのに、なぜ信じられるのか? 見ないで信じるとどうなるのか? (吉村博明)

説教者 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会宣教師、神学博士)

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2020年4月19日 復活節第一主日

使徒言行録2章14a、22-32節
ペトロの第一の手紙1章3-9節
ヨハネによる福音書20章19-31節

説教題 「見ないのに、なぜ信じられるのか?
見ないで信じるとどうなるのか?」



 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.どうすれば復活の主を見なくても信じられるか?

本日の福音書の個所は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張っていたのが、目の前に現れて信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました。私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである。

私たちは誰でも目で見たら、その時はもう、信じるもなにもその通りだと言うでしょう。ところが、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。

イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。信じるも何もそうとしか言いようがなく、後に迫害が始まった時にも見たものを見なかったことにする改ざんは出来ませんでした。ところで、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。そのため、その後は目撃者の証言を信じるか信じないかということになります。彼らの証言を聞いて信じるのは、どうしてできたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも後に目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ109節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と述べます。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取ることです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。そして、イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、もう次に投稿される凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。

パウロの言葉は、イエス様の復活というものは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可なのだが、心は受け取り可と言っている、ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことなのか?本日の使徒言行録の個所がそれを教えてくれます。そして、使徒書の日課第一ペトロの個所が、イエス様の復活を心で受け取った者はどのような心になるかについて教えてくれています。以下、それらについて見ていきましょう。

2.神の絶対的な意思と自由の前に立たされた時

本日の使徒言行録の個所は、ペトロが群衆を前にして大々的な説教をしたところです。この説教はイエス様が天に上げられた10日後に天から聖霊が弟子たちに下ったという聖霊降臨が起きた時になされました。ペトロの大説教を聞いて3,000人近くの人が洗礼を受けました。聖霊降臨日がキリスト教会の誕生日とされる所以です。

聖霊降臨日というのは、あまり気づかれていないかもしれませんが、実はまさに復活したイエス様を目撃しなくても目撃者の証言を聞いて信じることができたことを示す出来事です。3,000人の人たちは、ペトロも言っているように、イエス様のことを何らかの形で知っていました。しかし、ペトロが彼らに対して自分たちは主の復活を証言できるのだと言うのをみると(32節)、聞き手の群衆は目撃していなかったのでしょう。(第一コリント15章でパウロは弟子たちの他にも500人以上の目撃者がいるといっていますが(6節)、そういう人たちは使徒言行録115節、2222節からうかがえるように既に聖霊降臨の前に弟子たちに合流していたと考えられます。)

さて、3,000人の復活したイエス様を見ていない人たちが信じました。ペトロの説教の何が影響したのでしょうか?それを見ていきましょう。

ペトロの大説教の内容は全体的に見て、イエス様の出来事は旧約聖書の預言の実現だった、死からの復活もそうである、という旧約聖書とイエス様の関係を明らかにするものです。そして、イエス様の出来事を通して預言が実現したことが私たち人間に大きな意味があることを明らかにします。この、旧約聖書とイエス様の関係、その関係が私たちに意味があること、この二つのことがあって、見なくても信じる、頭では受け取ることが出来なくても心で受け取ることが起きたと考えられます。

まず、旧約聖書とイエス様の関係。イエス様の十字架の死と死からの復活によって旧約聖書の謎めいた個所が次々と明らかになりました。スオミ教会での説教でも何度も取り上げましたが、イザヤ書53章の「神の僕」とはイエス様のことを指すとわかるようになりました。天地創造の神の意思に反しようとする人間の罪を自ら背負って神に対して人間に代わって神罰を受けて死ぬ「神の僕」です。人間は彼が身代わりとなって果たしてくれた罪の償いを自分のものとすることで神と平和な関係を持てるようになる。イエス様の十字架の死とはまさにそのための犠牲であったことがわかるようになりました。この他にも旧約聖書にはイエス様の誕生から始まって地上での活動の一つ一つに当てはまる文言が無数にあることが明らかになりました。それらについてお話しすると何時間あっても足りませんので割愛しますが、死から3日後に復活することに関係するものとして「ヨナのしるし」に触れておきます。イエス様は預言者ヨナが3日間大魚の腹の中に閉じ込められて一巻の終わりになる寸前に脱出できたことは自分のことを言っていると言っていました(マタイ123940節)。死からの復活でその通りになりました。(また、ホセア62節では神は打ち砕いても3日後に立たせてくれるということが言われていますが、これもイエス様の復活を指していたとわかるようになりました。)

ペトロの説教の本日の個所を見ると、詩篇16篇がイエス様の死からの復活を預言しているとして引用しています。特に10節を次のように引用しています。「あなたは、わたしの魂を陰府にすてておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(使徒言行録227節、後注1)。イエス様は一度死なれたが陰府に捨て去られなかった、朽ち果てるままにされなかった、そのことが彼の復活で文字通り起こったというのです。なぜ神はイエス様を復活させたかというと、彼が死の囚われ者になるのはそもそも不可能なのだ、とペトロは言います(24節)。これはイエス様が神のひとり子であることを意味します。神のひとり子だから死の囚われ者になるのは不可能なのです。だから神が復活させたのは当然のことだったのです。

ここで23節に驚くべきことが言われていることに注目します。それは、「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることの下で」イエス様が引き渡されたと言っていることです。新共同訳には「あなたがたに」引き渡されたと言いますが、ギリシャ語原文には誰にとはありません。私はこれは、イエス様がイザヤ書53章や詩篇で預言された受難に引き渡されたことと考えます(後注2)。

さて、「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることの下で」受難に引き渡されたイエス様、これを「君たちは律法を知らない、つまり旧約聖書を持たない異邦人つまりローマ帝国の官憲の手を借りて十字架につけて殺してしまったのだ」とペトロは言います。神のひとり子は旧約の預言通りに受難に入る準備ができている。あとはそれが具体的にどう実現するかです。それをユダヤ教社会の指導層がいかさまな裁判をして、死刑の権限を持つローマ帝国当局に刑の執行を委ねたことで実現しました。

当の指導層の人たちは、やった、これで我々の権威を脅かしたあの男を始末したぞ、あのままほおっておいたら群衆がユダヤ民族の王に担ぎ上げてローマ帝国の軍事介入を招いてしまうところだった、やれやれ、と思ったことでしょう。指導者たちとしては、自分たちは自分たちの意思に基づいて行動し、それを見事に成し遂げたという気分だったでしょう。ところがそうではなかったのです。全てのことは「神が前もって決めていた計画と神が全てを見通していることの下で」行われたのです。指導者たちはそんな神の計画とお見通しという枠の中で結局はゲームのコマのように動いていたなどとは思いもよりません。神の意思の前で人間の自由などちっぽけなものにすぎないことを思い知らされる出来事です。しかも、死刑にしたはずのイエス様が死から復活してしまったら、全てがご破算になってしまったことになります。人間の意思や自由ではびくともしない神の厳然とした聳え立つような意思と自由を思い知らされます。

ペトロは集まった群衆に対して「君たちが十字架に架けて殺してしまったのだ」と言いました。実際にそれを行ったのは宗教指導層でした。ただ、群衆の中にはひょっとしたら、イエス様の裁判の時に指導者たちに扇動されて、死刑にしろと叫んでしまった人がいたかもしれません。または、十字架にかけられたイエス様を通りすがりか人だかりの中で見て一緒に罵った人がいたかもしれません。その意味で指導者たちの殺すことに加担したと言えます。ただ、この他にも、もっと遠巻きにいて事情がわからないず特に叫んだり罵ったりしなかった人もいたかもしれません。また、イエス様が何を教え何を行ったか噂を聞いていただけの人もいたかもしれません。この最後のグループは現代にいる私たちに共通するものがあります。私たちも、世界史の授業などでナザレのイエスが何を教え何を行ったかを聞いたり読んだりするからです。

ペトロがそれらの人を全部ひっくるめて「君たちが十字架にかけて殺してしまったのだ」などと宗教指導層と同罪だというのは少し乱暴すぎではないかと思われるかもしれません。しかし、イエス様を死刑に追い込んだ指導者たちと私たちには共通するものがあります。それは、自分たちの持つ意思や自由が絶対と思い込んでいることです。イエス様の十字架と復活の出来事は全て「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることのもとで」起きました。人間はそのような大きな流れの中にいることに気づかず、自由だと思ってやったことは実は神の大いなる自由の制約の中でのことだったのです。特にイエス様が死から復活させられたことは神の自由が有無を言わせない絶対なもので人間の自由ははかないものであることを示しました。神の自由は死を超えているのに、人間のはそうではないからです。このことに気づかない人は宗教指導層と同じです。「君たちが十字架にかけて殺したのだ」とペトロが言ったのは、群衆も神の自由の絶対さがわからなければ同罪だということだったのです。

ペトロの説教を聞いた群衆は神が旧約聖書でその意思を示し、それをイエス様を通してことごとく自由に妨げなく成し遂げたことがわかりました。神の大いなる意思と自由を思い知りました。人間の意思と自由のちっぽけさも。そのような絶対的な意志と自由を持つ方の前で人間は何もなしえないと茫然となるでしょう。しかも、人間は自分の自由を過信すると神のひとり子さえも殺そうとするくらい、絶対的な自由を持つ神に立ち向かおうとする。

恐れおののいた群衆はペトロに尋ねました。本日の個所のあとになりますが、37節です。「私たちはどうすればよいのですか?」ペトロの答えはこうでした。「神に立ち返りなさい。」普通は「悔い改めなさい」と訳されるギリシャ語のメタノエオーという動詞ですが、その意味は何か自責の念に駆られて後悔と反省にあけくれることではありません。「神に背を向けていた生き方をやめて神の方を向いて生きなさい」という心の方向転換を意味します。その方向転換の具体的な仕方としてペトロは勧めました。「イエス・キリストの名に拠って洗礼を受けなさい、それは罪の赦しをもたらします」と。確かに洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いが内に入り込み、神から罪を赦された者とされます。罪を赦されたから神との結びつきを持って生き始めます。それまでになかった新しい命の誕生です。

神がイエス様を死から復活させたことで人間は神の意思や自由が絶対的なものであることを思い知らされます。また自分が神聖な神に反しようとする罪深い者であることも思い知らされます。そして一瞬ぼう然と立ちすくみます。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた瞬間、絶対的な意志と自由を持つ神が一緒になります。自分の前に厳然と立ちはだかっていません。自分の脇にいて支えて下さるのです。この時イエス様の復活はもう何か思い知らさせてぼう然とさせるものではなくなります。どんなものになっているでしょうか?本日の使徒書の日課第一ペトロ1章は、イエス様の復活が「生ける希望」を与えてくれることを教えます。

3.復活がもたらす生ける希望

第一ペトロ13節でペトロは、キリスト信仰者というのは神がイエス様を復活させることで新たに生まれることになって「生ける希望」を持つようになった者と言います。新共同訳では「生き生きとした希望」となっていて希望が元気溌剌な感じですがそうではなく、「生ける希望」とは死なない希望、朽ちない絶えることのない希望です。復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということは4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節をみると、キリスト信仰者がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまることで神にしっかり守られて、イエス様の再臨の日に現れる救いに与ると言います。「再臨の日に現れる救い」とは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受けるということです。6節では、このような「生ける希望」があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びもしっかりあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められていき、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用があるのだと言います。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「生ける希望」をちゃんと持てているかどうかによります。「生ける希望」を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け取っているかどうかによります。イエス様の復活を心で受け取っているかどうかは、神の前では自分はちっぽけな存在にすぎないことを思い知っているかどうかによります。

そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなふうにしていられるのか?それは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。イエス様を救い主と信じる信仰によって神との結びつきを持って生きられるようになりました。イエス様を救い主と信じる信仰の目標は「魂の救い」であると言います。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。そうなることが「信仰の目標」です。ペトロがキリスト信仰者を「信仰の目標」に到達する者と呼んでいるのは、信仰者が復活の体と永遠の命を今もう見えない形で手にしているからです。それで主の再臨の日、復活の日に見える形で手にすることになるという確かな希望があるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注1)聖書をよく読まれる方は、ペトロが引用した詩篇1610節と旧約聖書のそれとは違っていることに気づくでしょう。このことをどう考えたらよいかということは、ヘブライ語の旧約聖書とそのギリシャ語訳とギリシャ語の新約聖書の三つの関係を考えることをしなければなりません。詩篇1610節とペトロの引用については、45日の枝の主日の「聖句と教え」の原稿の後注に私の解決策を記しておきましたので関心のある方はご覧下さい。原稿はスオミ教会のホームページのニューズブログの45日のところにあります。

後注2
τουτον τη ωρισμενη βουλη και προγνωσει του θεου εκδοτον
-「神が定めた計画と神が全てを見通しであることのために/によって引き渡された? 
-「神が定めた計画と神が全てを見通しであること引き渡された?
どっちでしょう?




(後注)
このペトロが引用した詩篇1610節は、ヘブライ語のテキストと少し違います。 
כי לא-תעזב נפשי לשאול לא-תתן חסידך לראות שחת 
この訳は「あなたは私の魂を陰府に打ち捨てず、あなたに忠実な者が墓を見ないようにして下さる」になります。新共同訳もこれと同じです。
そうすると、イエス様は墓に葬られたので、この聖句は彼の復活を言い当てたとは言えなくなってしまいます。ペトロはこの聖句を「あなたはわたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」であると言います(使徒言行録227節)。この訳なら、イエス様の復活を言い当てたと言えます。しかし、ヘブライ語の文章の「墓を見ないようにして下さる」を「聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」と言うのは離れすぎています。ペトロはイエス様の復活が預言の実現であると言いたいためにこじつけの訳をしたということなのでしょうか?
実はそうではないのです。まず、ヘブライ語のשחתは「墓」の他に、「死者の安置場所」ということで「陰府」の意味もあります。つまり、שאולの繰り返しを別の単語で言っていることになります。「墓を見ないようにして下さる」は「陰府を見ないようにして下さる」になります。そうは言っても、使徒信条で言われるようにイエス様は「陰府に下」ったのだから、やはりこの聖句は当てはまらないと言われるかもしれません。
しかし、話はここで終わりません。詩篇1610節の後半部分は前半部分と同じ内容のことを別の言葉で言い換えているのだと考えると、後半部分の「陰府を見ないようにして下さる」は実は前半部分の「陰府に打ち捨てず」と同じ意味内容のことを言っていることになります。
どうして、後半部分が前半部分と同じ意味内容を別の言葉で言い換えているなどと言えるのか?それは、旧約聖書のギリシャ語訳を見ればわかります。旧約聖書のギリシャ語訳は「70人訳」とも「セプトゥアギンタ」とも呼ばれますが、紀元前200年代くらいに出ました。ちょうどギリシャ文明のアレクサンダー帝国が地中海東岸地方を席巻してギリシャ語が地域の公用語になった時です。ギリシャ語版の旧約聖書の需要が高まったのです。
詩篇1610節のギリシャ語訳は、
ὅτι οὐκ ἐνκαταλείψεις τὴν ψυχήν μου εἰς ᾅδηνοὐδὲ δώσεις τὸν ὅσιόν σου ἰδεῖν διαφθοράν. 
「あなたは私の魂を陰府に打ち捨てず、あなたの聖なる者が朽ち果てに遭遇しないようにして下さる。」
どうでしょう。ギリシャ語に訳した人たちは、ヘブライ語の後半部分「陰府を見ないようにして下さる」を文字通りに受け取らず、前半部分「陰府に打ち捨てず」と同じ内容を別の言葉で言い換えていると考えたことが、この訳からわかります(注意、上記のギリシャ語訳はネットのBible Hubから拾いました。オックスフォード版でもゲッテインゲン版でもないのですが、詩篇1610節に関しては問題ないと思います。)
使徒言行録のペトロの大説教に戻りますと、ペトロが引用した詩篇1610節は上記のギリシャ語訳旧約聖書と同じです(227節)。ただし、ペトロは大説教の時に何語で話していたのか、ギリシャ語だったのか、アラム語だったか?いろんな国から来た人たちを前に話したからギリシャ語だった可能性が高いです。さらにペトロは31節で聖句の引用ではなく、聖句を自分の言葉で言い表します。
οτι ουτε εγκατελειφθη εις αδην ουτε η σαρξ αυτου ειδεν διαφθοραν 
「なぜなら彼イエス・キリストは陰府に打ち捨てられず、彼の体は朽ち果てに遭遇しなかったからだ。」
ペトロが旧約聖書のギリシャ語訳に依拠していたことは明らかです。そしてギリシャ語訳は前述したようにヘブライ語の文章の意味を照準を絞った訳です。それなので、ペトロは預言が実現したと言いたいためにこじつけの訳をしたのではなく、旧約聖書の伝統の上に立って起きた出来事や目撃した出来事を判断したのです。
旧約聖書で書かれたことが照準を絞って理解され、それがユダヤ教社会の中で伝統化されて新約聖書に反映されるというのは無数にあります。有名な例はイザヤ書714節のインマヌエル預言です。男の子を身ごもるのは「処女」か「若い女性」か、アルマ―という単語は両方の意味があります。それがギリシャ語訳の時に「処女」パルテノスと絞られました。
旧約聖書も新約聖書も本当に途轍もない書物だと思います。それを説教で解き明かしをするというのは大変なことです。それでも、いつも信仰を確かめるような発見があり祝福があります。